二十四章
二泉軍は俊敏だった。二泉とて、もともと四泉ほどではないが
であるからして、二泉主と羽林軍を筆頭とした
国境を守備していた四泉葉州軍は及び腰でまるで枯れ草のようにいとも簡単に排除することができた。降伏し命乞いする叫び声は
早々に蓮宿を占拠し、先へは進まずに順に到着してくる州軍を待つ。不能渡が不調のうちはこちらからは撃って出ない。瓉明軍はいまだその砂塵さえも見えず。おそらくは一旦穫司を出てくる
公主さまは、と口々に叫ぶ住民が縄をかけられて連行されてゆく。二泉は公主の味方ではないのか、蓮宿は公主をお支えする、だから敵ではない、と人々が哀願する。彼らは撫羊の後ろ盾として二泉がやってきたのだと考えていたからまさか捕らえられるとは思わなかったのだろう。狼狽する声は聞き流されて壁の中にいる者たちは一人残らず引き立てられていく。女は臣下に与え、男は
その声は
「とうはく、誰かが泣いているよ」
小さな肩を抱いていたほうは眉を下げて彼を
「大丈夫でございますよ。なにも心配は要りません」
「お外を見てはだめ?」
騰伯は黙って首を振った。
…………目にする必要など、ないというのに。
斉穹は撫羊を合流させる気がなかった。無駄に軍を大きくすればそれだけ的として大きくなってしまう。それよりも二軍に分かれて瓉明軍と相対したほうが能率が良い。そう
「碇也。来い」
誘われて不安げに父と騰伯を見比べた。おずおずと出口に近づいた彼を逞しい腕が力強く引き寄せ、そのまま抱きかかえる。騰伯も慌てて下車する。
幼い息子を肩に乗せた王はいまだ
「父上、なんだかくさいです」
なにかが燃えていて胸の悪くなるようなにおいがした。地面も黒ずんでいて汚い。碇也が怯えて縋りつくまま、なにも答えず蓮宿城の中に入った。
斉穹は
「ここは蓮宿という。この地をお前にやろうと思っている」
碇也は正庁をぐるりと見回し、問う目で見返した。
「今はこのように荒れているがいずれ整備がなされ、泉も戻る。お前の好きなようにすればいい」
「でも、このように遠いところでは母上とお会いできません」
「なにもここにいろと言っているのではないぞ。馬が好きなら馬を飼えばいいし、気に入った女ができたらここに住まわせてもいいのだ」
馬と聞いて碇也は目を輝かせた。
「ほんとうですか。
しかし一転首を傾げる。
「……でも、ここは四泉でしょう?四泉の人が怒らないかしら」
心配ない、と父は機嫌良く白い歯を見せた。それに騰伯は動悸を速める。
扉が開いた。縛られた二、三の人影は兵に連れられて斉穹の前に引き倒される。なんとか起き上がった顔は初老の男で、憎々しげに壇上を見上げた。本来ならば、碇也の座す椅子にいるはずの父老たちだった。
「私どもは
これに対して二泉主は鼻でその言を
「撫羊の
そして剣を抜いた。碇也、と、引き
「よく見ておけ。土地を手に入れるためにはな、その土地の人間を全て消し去ればいいだけの話なのだ」
お待ちください、と騰伯が叫んだ。
「なにも攻め入らずとも州軍を蹴散らすだけで蓮宿の民は門を開いたでしょう。なぜここまでなさるのです。それに、碇也さまにこのような非道を見せて何になります。いたずらにお心を傷つけるだけです」
斉穹は呆れたように剣先を下げて首を振った。それで
「――とうはく」
「碇也、力は正義だ。強い者がこの世を
男たちはもう抵抗しなかった。恨めしげに斉穹を見上げると、ただひとつ気がかりなことを問う。
「公主殿下は本当に王であらせられますか。私どもはただそれだけ、あの方が正当な泉主にお成りあそばすことだけを願っていたのです。二泉主は撫羊さまの願いを叶えて下さいますか」
斉穹は再び
「……そんなこと、我が知るわけがなかろう」
鈍い音を立てて転げたものは赤い血潮の水溜まりをつくってなおもこちらを睨んだ。
一拍置き、状況を飲み込み響いた金切り声に斉穹は眉間に皺を寄せ、露を払って剣を収める。つかつかと壇上に歩み寄り、さらに悲鳴をやめられず抵抗する碇也の腕を掴んだ。
「おやめください、斉穹さま!もう充分でございます!」
騰伯を無視し、母を呼んで泣く息子の頬に手を上げた。軽く叩かれ、呆然と父親を見上げる。氷のように温度の無い瞳が自分を見据えて動かない。
「我はお前と同じ歳に初めて人を殺めた」
言いながら
「お前は土地が貰えると知って喜んだな?自分の好むものを集めたいと願ったな?それは至極当然のことだ、碇也。泉宮は広いが窮屈だろう?ここなら馬を飼い花を愛で、清らかな泉で心ゆくまで水浴びが出来る。いつ外で遊んでも良い。そう望んだろう?」
碇也は震えながら
「しかし、手に入れるためには犠牲を惜しまないことも覚えておけ。ただで手に入るものなどない。
よいか、と見つめられて頷くより他に出来ることはなかった。必死に声を抑えて泣きじゃくる様が痛々しすぎて、
「泉主……‼あなたという御方は!」
太子を抱きしめながら思わず叫んだのにも冷たい視線を投げられる。
「碇也には強くなってもらわねばならん。これしきのことで心を乱すようでは二泉主は務まらぬ」
「これしきのこと、と
王は虎賁郎のひとりから矛を取り上げた。磨きあげられた
「我が二泉の国章は
示された黒赤と黄の軍旗、騰伯はそれを唇を噛んで見る。
「騰伯、お前は今回碇也の
言いおいて正庁を去る主を騰伯は覚えるかぎりで初めて恨みを込めて睨んだ。斉穹の心が分からない。いや、言っていることは分かるけれども、こんな仕方で碇也に殺生を教えるのは
いまだ泣き止まない幼子を撫でているとその背に上着を掛ける者がいる。顔を上げると親征に
「そなたは泉主の行いになにも思わないのか。ただ従うだけが近衛の役目ではないぞ」
青年は何も答えず死体を片付けにかかり、血糊にまみれた首を拾った。
「なぜお
言うとただ首を振ってみせた。三公の一である大司馬が止めても聞かないのだから意味が無いと思っているのかもしれない。
泣き疲れて眠ってしまった碇也を抱え、輅車へと歩を進めた。ひどく疲れていた。同じ言葉を話しているはずなのになにも伝わっていないこの感じがひどく
焼かれた家々、荒れ果てた泉、地面には染みがそこかしこに。二泉は遂に侵掠してしまった。もう後戻りは出来ない。それを痛ましく見つめ、宵の近づく空を見上げた。先ほどの斉穹とのやり取りを反芻する。
斉穹が幼少のころから内乱は頻繁に起こった。見知り得たのは彼が十五の時だったが、その頃にはすでに武勲を立てるほどの剣の腕だった。そう思い至り、ふと
先代王は斉穹を次王にするのを嫌がっていた。しかし王太子である斉穹は定例どおりに神勅を受け、玉座におさまった。文武に優れた息子をなぜ先代があれほど跡継ぎにしたがらなかったのか、いつからそれを言い始めたのか――それを考えて顎に手を当てた。
(いや、そういえばあったな)
先代治世中、まだ
『もともと媚びはしない奴だったが、先日久しぶりに会ったらさらに可愛げがなくなっていた』
この頃、斉穹は珍しく体調を崩してそれが長引き、桂州の離宮で療養していた。遠征ついでに見舞いに行ってきたのだろう。
『殿下ももう七つでございますから。明朗快活なご性格は泉主と似ておられると聞き及びますし、よりご自分のお立場を自覚して逞しくなられたのでしょう』
離宮に移る前の太子の姿をたびたび見かけたことはあったが、実際に言葉を交わしたことはなかった。しかしそういうのではない、と先代は頬杖をついた。
『なにかが違うのだ。以前と比べて変によそよそしい』
『きっと久方ぶりにお会いになってお恥ずかしいのでは』
実際、父王と
そんなものか、と憂えていた先代はしかし年を重ねるごとに斉穹を毛嫌いしていった。病で息を引き取る間際までうわ言のように王太子を廃せと言っていた。あれは違う、泉を腐らせてはならぬ、と。
どういう意味だったのかは分からない。ただ、泉は腐るまではいかないにしても先代存命中のその時点ですでに真に澄明であるとは言い難い状態で、斉穹が即位してからも良くはなっていない。これまで都水台が長年腐心しているが何度濾過してもどうしても濁る。それが慢性化している。
先代はこれを予見していたのか、今となってはなぜそう言っていたのかも謎のままだ。先代は何を伝えたかったのか。斉穹が王太子であることは紛れもない事実で、そうでなければそもそも神勅は
斉穹の
神勅を
この降勅を請願する神事を総じて
自他共に、いちばん降勅が明らかに判明するのは
落血の儀を行うということは自分が泉主であるという正当な理由と確信がなければ出来ないことだ。なぜなら、泉主の資格なく儀を執り行えばただちに泉が腐り果て、当人は神雷によって撃たれると言われているからである。前例として、大泉地最南の泉国・
そう、斉穹は紛れもなく泉主なのだ。しかし、いくら四泉の血統を受け継ぐからといってこんなことが許されるのか。それも、真実は事が成ってみなければ分からない。
もし斉穹が今回のことに失敗――つまり
涙で腫れた碇也の顔を撫でながら深い溜息を吐いた。己に出来るのはこの小さな次王を命に代えても守ること。それ以外は全く乗り気ではない。軍を指揮するのも、無闇に隣国の民を
主は力こそ正義だと言った。勝者が歴史をつくる。それは間違いではない。しかし自分が見ているのは『今』のことについてだ。現状、二泉は大義のない侵掠者。
「斉穹さま……あなたは越えてしまった」
もう声は届かない。自国での暴虐に飽き足らず他国の公主を
碇也の叫び声が耳から離れない。腹の底から熱いものがぐらぐらと煮立ち、体を包んで――――弾けた。それから急に訪れた虚脱感に呆けて天を仰いだ。
…………尽かしてしまった。
これまで、ときに叱責しときに哀願して斉穹の暴政をなんとか抑えようとしてきた。斉穹も先代から仕える自分を
しかし精神は消耗する。流されてしまえと周囲と内なる弱い自分に
その成れの果て、――――とうとう主に対する愛着を手放した。斉穹への、二泉主である彼への忠誠と崇拝の念は音を立てて瓦解した。二泉には碇也がいる。次代を担う希望の光が。
碇也がいさえすればいい。彼は父親と違って優しく思慮深い。戦に明け暮れるような気性には絶対にならないだろう。
ぷつりと糸が切れ、心が離れた。王のすることなすことに対して急速に関心が失われてゆくのを、皺だらけの瞼を閉じて感じていた。力不足は否めないが、やるだけのことはしたという諦めがさらに体の力を抜けさせた。
騰伯にとって、斉穹はもはや王ではなくなった。
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