二十三章



 四泉防衛の綿密な軍議が始まった。すでに二泉本軍は国境の霧界のなか、四泉朝廷からは早急に出陣するよう急かされたがどのみち今から先行軍を派兵しても焼け石に水、それならば確実に準備を整えて迎え撃ったほうが損失が少ない。そういうわけで牙族軍は総力を挙げての遠征、かつ確実に有利な地を押さえる為に二軍に割いての行軍となる。四泉側からろう州と穫司かくしを経由して最終的に高竺こうとく瓉明さんめいと合流する軍と、二泉と四泉の間の霧界を通り、流入する敵兵を阻止する軍で侵攻した二泉軍を挟撃する流れとなった。


 二泉泉畿せんきと四泉を繋ぐ大街道の両端地域は二泉側の郷里まち栽豊さいほう、四泉側は蓮宿れんしゅく。そもそも四泉と二泉の国家を主導しての交流は近年ではほぼ無く、両泉国間の街道は少ない。栽豊から二泉泉畿はそう遠くない距離で強硬派は牙族の力をもってすれば二泉泉畿陥落も夢ではないと説いたが、本来の目的は四泉防御と闖入ちんにゅうした二泉軍の排斥であり侵略ではない。泉畿包囲は掟と盟約に触れ、なおかつ寡兵かへいでそうまでして無茶をする必要はないことであるとみなされ退しりぞけられた。



 沙爽は瀧州からの進軍へ、珥懿は霧界への行軍を率いる。改めて十三翼じゅうさんよくの再編成が行われた。

 古来より当主直轄軍は第二翼である。第一翼は精鋭を集めた強襲部隊、指揮は左右賢さうけんが務めた。二手に分かれる上でこの第一翼を細分することになった。


「瀧州まわりの軍兵は統帥とうすいを姚綾とするが進軍指揮は娘の姚玉ちょうぎょくゆだねる。構成も姚家を主軸とし、第二翼からも増兵しよう」

 姚家にとって四泉は庭のようなもの、どの道を辿れば最短で高竺らと合流出来るのかが分かる。

「沙爽側の第一翼は叡礼えいらい、お前が率いろ。私のほうは霧界に慣れた鈴榴りんりゅうに委任する」

 丞必が顔を上げた。「お待ちください。どういうことでしょうか。第一翼は私の軍です」

「丞必には領地に残ってもらう」

 ざわめきに包まれた。

「左賢を後方へ?」

 珥懿は頷く。「丞必と烏曚うもう、それに芭覇ばは、お前たちはもしも軍の留守を狙って二泉が領地をつついて来た時の為に置いてゆく」

 丞必が承服しかねます、と顔をしかめた。珥懿は続ける。

「私のほうの一翼のさらに半分も城に残すゆえ、こちらにも指揮に立つ者がいなくては心許ない」

驟到峰しゅうとうほうはどうする」

 鈴榴が胡座あぐらの上で頬杖をついた。「領地を危惧するならばまず驟到峰に目の利いて采配出来るやつがいないと。私を引き抜いて行くならなおさら」

窊梨わりと烏家の者をまわす」

 しばし考え、納得したのか鈴榴は息を吐いていいだろう、と了承した。横で斂文れんもんが腕を組んだ。

「……芭覇は謹慎中でございますよ」

 指された本人は俯く。彼はめいに背き郭壁を開いた罪を問われていた。主は無表情に見据える。

「芭覇。さきの戦で少しでも悔いたことがあるだろう。今度こそ郭壁を守ってみせろ。民の損失は一人たりとも許さない。これが最後だぞ」

「寛容に過ぎます。また郭壁を守らせるのですか」

「斂文、北門を破られたこと、私はお前を譴責けんせきすることも出来る。そうしないのはなぜかは言わずとも分かるはずだ」


 斂文は眉間に皺を寄せ何も言えずに黙る。彼は北門を破られはしたがこちらから開門したわけではなく、敵の排除において最善の策を採り、指揮も的確だった。がしかし、警邏兵の数を見誤った過失は否めない。それを自身でも反省しないような男ではないから、珥懿はそれ以上の叱責はしない。


「芭覇、私はお前たちもう家の団結力を買っている。任せたぞ」

 それ以上は有無を言わせず、沙爽に顔を向けた。

しもべ二人と水司空も随行を許す。ここに置いて行っても邪魔なだけだからな。穫司の二泉軍は混乱して反抗する民を弾圧していると聞く。まずは穫司の解放を最優先にして南への泉川を開く」

 沙爽は頷いた。すでに泉川末端地域の流れは完全に涸れた。貯水もあといくらもたない。

「……と、まあ族軍の割り振りはこんなものだ。総じて六翼三万七千、さらにそれぞれ万騎はんき三千七百を二分し先駆けと殿軍しんがりに置く。万騎は領地には残さない」


 十三翼というのはあくまで全体数の総称であり、常に十三の軍に分かれているわけではない。時代を通して増減はあるものの一翼は約一万で構成された部隊が領地を守ってきたが、珥懿の当主就任までに一翼五千弱、ここにきて三千二百あまりまで減った。ために進軍に際し六翼編成、一軍六千で三翼ずつ分かつ。


ヒョウはどうします」

「泉地には連れて行けない。四泉軍を混乱させることは本意ではない。それに、すでに六十をきっている。これ以上減らすのは避けたい。城の守護に控えさせる」

 ということは猋の直接投入が出来ない以上、火急の事態には対応しにくい。そして行軍はすべて馬と野牛のみで行うということだ。日数はかかるが多軍で攻めなければ二泉の守りは崩せないだろう。


「四泉からはいかほどの増軍となる?」

 烏曚が問うて、沙爽は顎に手を当てた。

「水の供給が止まった地域からの徴発は期待できません。いま出兵の為にさらに水を使えば民が渇く。しかし余八州のうち、金州以南の州は三つで、少なくとも国境の防備は厚くしなくてはならない。泉畿と各州の守りを残して曾侭そじんと国境に充てる……現在すでに駐留している国軍に加え各州軍から割いて全部でおよそ、十八万」


 平和を謳歌してきた四泉の穴は領地の広さに比例して頭数はいるもののそのほとんどが実戦を経験していないことだった。二泉軍よりも多いが決して安心出来るとは言えない数だ。

「しかし、二拠点に今から集めていては時間がかかりすぎる。州軍はともかくも少しでも練に長けた精鋭を優先して集めたほうが良いだろう」

「すでに金州に隣接する瀧州としゅ州からは曾侭と穫司へ、そしてよう州軍は国境へ移動してきています」


 珥懿は隅に座った耆宿院きしゅくいんの薬師を見た。

「沙爽の為の醸菫水じょうきんすいの準備は」

「万事つつが無くご用意致しております」

塞水玉そくすいぎょくは」

「数は心許ありませんが、無くなった時のために麦飯石ばくはんせきも手配しました」

 沙爽が首を傾ける。「塞水玉というのは?」

「水をじ込めたあめのようなものでございます。水囊すいとうを持ち運ぶよりも軽く暑さ寒さに強く便利です。四泉の南地域の貯水を牙族が奪うわけにはまいりませぬゆえ、喉の渇きはこれで癒します」

「そんなものが」

「しかし作るのに手間なのです。まあ由歩であれば最悪多少は由川の水も飲めないことはありません」

 それからいくつかの確認事項を考慮し騎馬、武具兵站の装備数を調整した。

 軍議が進み他に意見は、と周囲を見渡した当主に各々恭順の意を示した。伴當はんとうのひとりが問う。

「それで、出兵はいつ?」

 鉄扇を鳴らした。

「明後日」



 沙爽が軍議を終え広房ひろまから出ると、いつものように待っていた暎景えいけい茅巻ぼうけん、加えて侈犧しぎが立っていた。

 よう、と気安げに手を挙げた男はいつものようににやりと笑う。

「どうしたのだ」

「いやなに、出兵の前に仕上げの稽古をしてやろうと思ってな」

「本当か」

 沙爽は嬉しげに僕を見上げる。

「良いだろうか、二人とも」

 これには暎景は少し声を詰まらせた。代わりに茅巻が答える。

「怪我をされては困りますが」

 うん、と大きく頷き、連れ立って城裏に向かう。


 階下へと石の螺旋階段を降りながら沙爽はふう、と息を吐いた。聞き咎めて侈犧が背後から声を掛ける。

「どうした?」

「いや、これからが正念場だと思って武者震いしただけだ」

 そうか、とまた笑んだ気配がした。

「ま、どっしり構えてりゃいい。実際に動くのは俺たちだからな。大将が死んだら元も子もねぇし」

「だが私とて少しは戦えるようになっておかなければ」

 言いながら最後の一段を降りた。外への出口からは光が射していて、眩しさに目を細めながらさらに一歩踏み出す。

「これ以上足を引っ張ってしまうような事態になったら困る」

「……ああ、それは大丈夫だ」

 背後で言った声に光を背にして振り返った。外光を見たあとの目は暗闇に順応しきれずに一瞬視界が消失する。

 陰に目を馴らそうとした突如、――――ふいに一撃を受けた。



 衝撃が鳩尾みぞおちから脳天に突き抜け頭が真っ白になる。何が起きたか分からず吐き出した息が奇妙な音をさせた。じん、と耳が蓋を閉じたかのように音が消える。何を思う間もなく目が霞み、焼けつく痛みと痺れが全身を駆け巡る。朦朧とする意識、状況を掴めないまま、どこからか声が響いた。


「心配ない。お前さんはおとなしくお留守番だ」


 焦点の合わない人影を見た気がする。それはゆっくりと輪郭を曖昧にし暗闇に消えていった。



 侈犧の逞しい腕の中には今しがた己が昏倒させた少年がいた。傭兵のもう一方の手には小さな毬香炉まりこうろが握られており、眠気を誘う香煙が彼の鼻腔に入り込む。

 がっくりと力を失くした主の体を暎景が奪い取るようにして抱え上げた。

「まさかここまでやるとは思わなかったぞ」

 非難すれば下手人は平然と頭を掻き、空の煙管きせるを咥える。

「おいおい、人に汚れ仕事を押しつけといてそれはねぇぞ」

「もっと穏便なやり方があったろうが。泉主に何かあったらどうする」

 入口の外から徼火きょうかが顔を覗かせた。手には棍棒を持っている。横には燕麦えんばくが険しい顔で口を押さえていた。

「侈犧がやらなかったらあたしがなんとかしてたわよ」

「お前は殺しかねん」

「そもそも僕の二人が嫌がるからじゃない」

 二人は黙る。申し訳なく沙爽を見つめた。

「せめて眠っておられる間にでもできれば」

「そんな悠長な時間はねぇ。明後日には出発だ。俺たちもこれから準備で付き合いきれん。あとは当主に訊けよ」


 侈犧は手を振って徼火を伴い去って行った。燕麦が気を失っている沙爽の口に手を当て、ともかくも生きていることを確認する。

「なんと無体な」

「しかし、話して納得してもらえるとも思えなかった。どのみちこんな方法しかなかったやも」

 三人は沙爽を抱えたままもと来た階段を登りはじめる。しばらく歩いて、指示されていた小房、中の長靠椅ながいすに主を横たえた。

「……すみません、爽さま」

 呟いて乱れた髪を顔から払う。

「終わったか」

 降って湧いたかのような声に振り向けば仮面を着けた珥懿、横には歓慧かんけいが控えていた。

「まったく、私の兵に手を上げさせて要らぬ誤解を生んだらどうするつもりだ」

 暎景は睨んだ。

「泉主にこのような乱暴をするなぞ、それだけで死罪に値する。我々にそれをやれというのか」

「賛同している時点で同じだろうに」

 珥懿は腕を組んだまま沙爽を見下ろした。ついと後ろを振り返れば猋が一頭、こちらも音なく入って来る。

 珥懿は四泉の三人を見る。

「提案どおり泉主にはまだしばらくご逗留いただく。どのみち最終的には出てきてもらわねばならんがな。暎景と水司空は瀧州方面の翼軍へ、茅巻は私と来てもらう」

 四泉の者がいなければ万一泉軍が牙族を信用しないとも限らないから、沙爽の僕は全員同行させる。


「それで…私に泉主のふりをせよ、と?」

 燕麦が困惑して言うと上から下まで眺められた。

「背格好も似ているし遠目からならどうにか誤魔化せるだろう。髪は隠さねばならんが」

 青年は、はあ、と息をついて額に手を当てた。族軍の中に泉主がいたほうが四泉軍も納得はするだろうが、まさか自分が替身みがわりくじを引くとは思っていなかった。

「どうせ戦いでは役に立たないのだ。それくらいはやってもらう」

「私はあくまで牙領での泉主の補佐で、最前線に行くような責任ある立場ではないのですが」

 渋面をつくると今度は族主は懐に手を入れた。「それだがな」


 取り出した懐紙は几帳面に折られた跡がついている。金粉を撒いた白紙をみとめて燕麦は口を開けた。

「それは……」

 呆然としながら受け取り、典麗な手蹟しゅせきつづられた文を読むなりよろめいた。

「な……」

「なんとあったんだ」

 暎景が紙をひったくって目をすがめ、愕然として彼とそれとを見比べた。



開府儀同三司かいふぎどうさんし……⁉水司空が⁉」



 隣で茅巻も目を丸くする。さらに放って寄越されたものを見て燕麦は声の出ない口を動かした。

金印紫綬きんいんしじゅ……」

 やっと呟いてへたり込み、青紫と白の色紐が結びつけられたきらめく印章を途方に暮れて見つめる。


 開府儀同三司。儀は三司に同じくす。つまり三公に準ずる行使権限を許された者である。開府とは儀同三司の名において一時的に官府を設け、人員を配置できるという意だ。泉畿から遠い戦場で泉主に次ぐ地位であり、武の最高権力である大将軍と対等、たとえ名だたる歴戦の勇士であっても開府儀同三司の下命には従わなければならない。


「しかも丞相からの直筆書文」

 断ろうものなら二度と故郷の地を踏めないだろう。

「し、しかし泉主の御璽ぎょじはありません。であればこれは無効」

「泉主は三公に火急の場合の勅令執行権を限定的に委任している。龍印りゅういんが証だろう。ということは、これは勅書と同等だ」

 燕麦は瞳を揺らして意識のない主を見つめた。「そんな……私にそんなことは」

 できない、と呟いたのを珥懿は見下ろした。

「話には聞いた。十五で選挙されたにもかかわらず中央の要職を蹴って故郷いなかに出戻り、州牧の故吏げかんになった器用貧乏の天才官吏。賢良方正、直言ちょくげん極諫きょくかんを体現したかのような為人ひととなり、仁に厚く労役の徒刑囚ざいにんにも分け隔てなく接するゆえに人望もある。瀧州の堤は他州がひと月かかるところが十日で出来上がる、とな」

 燕麦は珥懿を睨んだ。「調べたのですか」

「当たり前だろう。どこのやからともしれない泉人を易々と族領に入れるわけはない。能吏であればこそ朝廷もお前を儀同三司に任じた。しかし、そんな神童も西戎ばんぞくにかける情けは無いようだが」

狻猊さんげいを使役するような者たちが泉民と同じわけがない。国が荒れれば国端の瀧州には狻猊の群れが出る。それらの獣の襲撃を、実のところ牙族が裏で画策しているのではありませんか」

 忌み嫌うように嘉唱かしょうから距離をとる。当の獣は興味なさげに背伸びをしてみせた。

 族主は呆れたように首を振りそれ以上燕麦と会話するのをやめた。

「我々について来る以上、勝手な行動は慎め。特に行軍中妙な動きをすれば容赦はしないぞ」

 じとりと睨まれた暎景は、言っておくが、と苦々しく吐き捨てた。

「お前たちに下ったわけでは断じてないからな。俺はあくまで四泉と泉主の為に動く。それを履き違えるなよ」

 ふん、と珥懿もわらう。

「素人が。あとで吠え面をかくなよ」

 当主、と歓慧が困ったように袖を引いたのを受けてさて、と沙爽を見た。

「泉主にはこの城でいちばん安全な場所へ移動して頂く。申し訳ないが秘匿の場所だ。お前たちにはここでお引き取り願おう」

 暎景が歯噛みするのを茅巻がなだめてやはり心配になり問う。

「本当に、安全なのだな?」

「少なくとも『敵』の目からは欺けるだろう」

 二泉との内通者がいる。牙族も一枚岩ではないということか。

「泉主をよろしく頼んだ。このことは兵らには一切他言無用。寧緯ねいいどのは明後日までなるべく人との接触を避けてもらいたい」

 燕麦はいまだ複雑そうにしつつもと頷いた。それぞれが沙爽を見つめる。もしかすればもう二度と会うことはないかもしれない。


「爽さま……どうか、ご無事で」


 暎景はひざまずいて主の手を取った。今は四泉よりも牙領ここのほうがいくらかは安全だ。戦の途中で失うことは絶対にあってはならない。しかし、受けた仕打ちに本気で怒るかもしれない。彼が真実望めば暎景も茅巻も泉主を害した罪で処刑することが出来るのだ。

 それでいい、と握った手を額に当てた。許されなくてもいい。たとえ本人が望まずとも、暎景は沙爽の生命を最優先に守るのが使命だ。


 歓慧に促されながら後ろ髪引かれる思いで四泉の三人は悄然と退室していった。見送り、珥懿は改めて少年を見下ろす。きっと目覚めたら恨み言を言うだろう。面紐を解きながら「正義感だけは一丁前だからな」と歓慧が抱えて嘉唱の背へ運ぶのに手を貸す。それを聞いた妹は辛そうに眉を下げて弱々しく微笑んだ。

鼎添ていてんさまは自分を責めるでしょう」

「不甲斐ないことには間違いないが、死なれては困る」

「……はい」

 歓慧が労るように白い頭を撫でるのを不服そうな顔で見つめ、珥懿は嘉唱に行け、と促した。







 宣言通りの期日、大庭に十三翼と万騎が儼乎げんこたるさまで列をなした。野牛に跨った当主が姿を現す。金のかぶと大釤たいさんを担いだ姿は凛々しく美しく、勇ましい雄鹿を思わせた。後ろに十牙じゅうがが続く。領地を守る丞必や烏曚の他、耆宿院の大耆たいきらも姿を見せた。


 本来、牙族に血祭けっさいの習わしはない。しかしこれは一族の存亡を懸けた戦い、士気を高揚させると同時に殺された仲間にむくいるため、捕縛していた二泉兵を捧げた。


 生き血は人の本性をたかぶらせる。そのあかい水のほとばしるさまに、内から無性にむくむくと湧く興奮は獣である狻猊と何ら変わることがない、と珥懿は冷静な頭で思う。


 呼び掛けに応える兵の鯨波げいはは今にも隣にいる者を害してしまいそうなほどに熱を帯びて精気に溢れた。はやる体が震えて、それは野牛や馬にも伝わっていななきを大きくする。


 進軍の合図に堰を切ったように二方に分かれる軍を見送りつつ、珥懿は後ろを振り返った。

領地くには任せたぞ」

 言って目線を投げると、左賢は硬く頷いた。それに頷き返し、どこかで見送っているだろう妹に見えるように大釤を掲げた。



 大軍は遠目から見れば黒雲が流れるように移動してゆく。兵強馬壮、勇む足取りはかつえて獲物を求める獣のそれである。



 我々は間違いなく牙獣。生ける槃瓠ばんこすえ。肉をほふり血を啜らなければ正気を保っていられない。だからこその鋭敏な耳目、この能力はえさを素早く察知し一瞬で仕留める為の、父祖伝来に血に刻まれてきた武具なのだ。まさにこの時のために受け継がれてきた恩賚みたまのふゆ、今使わずしてなにを成し遂げるというのか。


「狩れ」


 敵を。


「喰らえ。我らに仇なす忌敵いみがたきを」


 むさぼり食って、跡形もなく。




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