衍章〈二〉
とって返した西門に近づくにつれて街は活気をもうほとんど取り戻していた。市場が広がり、露店が並び、人の往来も盛ん。いまだ弔意を示す白い
店の前には既に家人が待っていて馬を受け取る。店は層を織りなす方形、案内について正面の建物を抜けると、広い内庭に出た。
梅の巨木の下に傘が立て掛けられており、待ち人が頭を下げる。
「お呼び立てが遅くなり申し訳ございませんでした。西門を過ぎる前にお誘い出来たら良かったのですが、なるたけ耆宿院には見られたくなかったのでございます」
「お前が私を呼び出すのは珍しいな、
珥懿が脱いだ外套を受け取りながら姚綾はやんわりと微笑んだ。
「こんなことをしている場合ではないと拒まれるかと思っておりましたよ」
「
茶化すように言った珥懿に、女はふと寂しげな表情をした。湯を注ぎながらぽつりと言う。
「良いお召し物でございますね」
「だろう」
「当主にこのように惜しまれて蘭家も誇らしいでしょう」
湯気立つ小さな
「領外にいる蘭家の者には」
「まだ文を受け取っていない者もいるはずだ。見送りに間に合わさせず申し訳ないことをしたが、葬儀は遠征前に済ませておきたかったからな。蘭逸の息子の容態は聞いたか」
「命に別条はないようでございますよ」
そうか、と珥懿は碗の蓋をずらした。柔らかな良い香りが鼻腔をくすぐる。
「蘭家には出来うる限りの援助をする。古から続く一家だ、
「かつて始祖を支えた姓家で唯一存続する大名家ですからね。ほんに、惜しすぎる者を失いました」
珥懿はほんの少し睫毛を震わせた。
「……あのとき、行かせるべきではなかった」
俯いた顔はなんの情感も湧いていない。しかし碗を握った手は力なく、目は
「蘭逸どのに後悔は無いでしょう。なにより自らの手で息子を助け出したのですから。蘭家は絶えません」
聞いて自嘲気味に
「絶えるとすれば
「なんということを仰います」
「身から出た錆だ」
姚綾は悲しげに椅子に腰掛けた。よく手入れされた爪が陽光に反射し、それを撫でながら何かを考えて黙り込んでいるのを珥懿はただ待った。内庭は風が遮られて寒くない。しかし時おり
珥懿は頬杖をついて煙を
沈痛な面持ちでやっと重い口が動いた。
「……年々、姚家には男が生まれません。生まれても体が弱く到底城でお仕え出来るような者がおりません」
「そのぶん娘たちが頑張っているだろう」
姚綾には四人の
「当主、初めてあなたさまが四泉との同盟を合議にかけた時に、私が受けた言葉を覚えておいでですか」
「姚綾は四泉びいきだというあれか?」
左様です、と姚綾はあたりに目を配った。内庭の真中に陣取った二人の他に人影はない。表向きは茶に招いただけだが、聞き耳を立てられないように
「あながち間違いではなく、的を得た言葉だと思います。姚家の者にとって、四泉で任を果たすのは水が合っているようなのです……しかし」
より一層声を落とした。
「四泉の薬泉を飲み続けると、身体が丈夫になり
珥懿は目線だけを向けた。「確かか」
「経験上は、としか申し上げられませんが。姚家の
「それは姚家に限ったことか」
首を振る。「他家はどうなのか分かりません。任地が四泉の家はおもに私の家、加えて分家筋の小家がいくつかと
珥懿は静かに息を吐いた。それを溜息だと捉えたのか、深々と頭を下げられた。
「黙っていて申し訳ありませんでした。なにぶん確証なく、曖昧な情報で皆を惑わせることはないと思ったのです」
頷き、舞い降りてきた花弁を指先で摘んでためつすがめつした。
「それは正解だ。確かなことが分からない以上、無駄に不安を煽るべきではない。同盟を果たした後も我々の間諜としての
「当主は…それをお望みですか」
「さあ、どうなのだろう。我々が農耕と商いだけではたして生き残っていけるのか」
「しかし、同盟にははじめから意欲的に見えました」
うんざりなんだ、と珥懿は蓋碗を
「今日のようにくだらない事で一族が揉めるのは。なにか、新しいものが必要だと思った」
「新しいもの、ですか」
「一族の根底を覆すような大きな波があれば、乗らない手はなかった。それは先代の時代にはついぞ来ることはなく、そもそも父も母もその波を見つけることも、呼ぶこともできなかった。ただ母は、なにかの
「そしてついにその波が来た、と?」
問い返せば、主は梅の木を見上げた。珥懿にしては自信のない、年相応の若者の
「やっと波が来たと思って避けずに乗ったものの、ひどい大波で舟が転覆しそうな勢いだがな。この波を乗りこなさねば、我々は
「まだ最後と決まったわけでは」
「いや、最後だ」
良きにしろ悪きにしろ、この同盟で牙族の
「私は私の自己満足で一族すべてを巻き込んだ。民を死なせた。耆宿院に言われずとも、その責は負うつもりだった」
「当主ひとりが責めを感じることではございません。同盟は一族の総意です。……責任と仰るのなら、あなたさまにはまだまだ果たすべきことがあるのですよ」
珥懿が見ると彼女は真面目な表情をがらりと変えていたずらめいた笑みを浮かべた。
「もういい加減、伴侶をお迎えになったらどうです?」
「その話は聞き飽きた」
しらけて茶を啜る。姚綾は嘆息して扇を傾けた。
「いつまでもはぐらかしてはいられないでしょう。まさか本当に紅家の血筋を絶やすおつもりではありませんね?」
成人した城仕えなら一度は必ず珥懿の素顔を拝す機会を設けられる。美貌の当主の面立ちは一度見たらそうそう忘れられない。男でさえも見
「いまはそれどころではないだろう」
「しかしもしも遠征で御身になにかあれば大事でございますよ。体裁だけでも整えてはどうです」
珥懿は不快に眉を
「私にむやみやたらに
「
臆さずに言った姚綾に珥懿はしばし詰まった。やがて、
「……お前には
姚綾はさらに嘆息して肩を竦めた。「妓楼遊びを覚える前に
「おぞましいことを言うな。年増は嫌いだ」
あらまあ、と口許を緩ませ笑った。笑い事か、と珥懿はそっぽを向く。なおも声を抑えられないまま姚綾は頷いた。
「お辛いこともございましょうが、血を繋ぐのは我らのつとめ。特に、当主家ともなれば
若い主は辟易して内庭を眺めていたが、ほんの少しだけ
「お前こそ、女の身で家督は辛いだろう」
「まあお優しくお育ちになって。ますます娘たちが目を離しませんね。私は己が
「お前には先代も頭が上がらなかったようだしな。――
牙姚綾微はふっくりと笑った。
「妻女のことは私にお任せ下さいませ。決して悪いようには致しません」
「そんなことは今はまだいいから、一族と四泉のことを考えてくれ」
言えばもちろんですとも、と頷き返したが、やはり笑みを浮かべたままだった。
赤勒館を出た珥懿は囲巾を巻きながら心の内でもう一度嘆息した。婚姻は、当主として行わなければなけないものだとは当然頭では理解している。継嗣を育て自らの技能を受け継がせるのは重要な責務だ。しかし、この手の話は不得手だった。上手く言えないのだ、子を
四泉と同盟すればそういうかたちも変えられるだろうかと珥懿は感傷に浸る。こんな気分を持つことがあるなど、城の誰にも信じてはもらえないだろう。それほど自分には似つかわしくないのだとは分かっているが、今は伴も付けずただ独り。こうしていると街の喧騒のなかに取り残されている気分になった。
ふと自分を
自分はもしも子が
(だからこそ、厄介だ)
今日は朝から生気が失くなるくらい溜息を吐いていた。蒸れて湿り気を帯び、一瞬の後には最初より冷えた心地のする布を顔に巻き直す。
伴侶は今の自分にはまだ必要だと思えない。義務から逃げているだけなのだと分かっている。しかし自分一人の問題ではないから二の足を踏む。
主を見て首を傾げた。
「落ち込んでいらっしゃいますね。姚綾さまに何か言われましたか」
いいや、と珥懿は首を振り、ふと見返した。
「お前は誰かと一緒にならないのか?」
しばし目を瞬かせたが、意を得たようで苦笑した。
「私は紅家の
「
「あの方は奔放な方ですから。それに、父の弟妹がすでに一家を担っています。鈴家は聞得の逸材も多くはないので、私が一線を退くと惜しんでくれるのです」
丞必は軍兵の輩出を主としていた鈴家にとって
丞必は
「気にするな、とは申せません。当主に意見して
隣で溜息が聞こえた。それにさらに含み笑うと顔を前に戻す。
「しかし今はそれどころではありませんね。十三翼の再編成もせねばなりませんし、四泉においての布陣も詰めなければ」
「そうだな。
「
「やはり挟撃すべきか」
「それも含め軍議に
二騎は軽快な足取りで城への道を進む。茜色に染まる空は寒々しさが和らいではいたが、昼の陽気に暖められて
郭壁を出て城牆を渡る途上で、またしても人が待っていた。今度は二つ。
「当主。いい加減街に入ってもいいよな?皆けっこう溜まってるんだ」
煙管で肩を叩きながら言ったのは侈犧、隣で
「珥懿さま、私も早くお城に入りたいです」
帰領したものの長らく壁外に締め出されていた
「まだ戦は終わっていません。どこに二泉の間者がいるか分かったものではない以上、万騎を街に入れるわけにはいきません」
きっぱりと言った丞必に二人は不満げな声をあげた。
「左賢、今回私たちがどれだけ働いたと思ってるの。二泉の馬鹿共の矢面で必死に戦ったのに、家族に会わせてもらえない兵たちが可哀想だと思わないの」
侈犧も頷く。「それに万騎の中にまとまった数の裏切り者がいれば戦闘中に寝返ってたんじゃねぇのか。糞溜めで死んだ仲間に酒杯を上げることも出来ねぇのは辛いぜ。まだまだ働かせる気ならここいらで一度息抜きさせてやらないと
三人が回答を求める。珥懿は頷いた。
「良いだろう。羽目を外さない程度に街区での休息を許す。だが城へは万騎長と千長しか許さない。申し伝えろ」
「さすが珥懿さま。お優しい」
徼火が歓声を上げた。よろしいのですか、と丞必は無邪気に喜ぶのを困って見やりながら問う。
「間者がひとりふたりならもう問題ないだろう。侈犧、各人の動向には目を配れ」
「言われるまでもねぇよ」
「
「すっかり
「なんにせよ、用心はすべきです」
丞必は周囲を見回した。いまだ剣戟の残痕がそこかしこに広がる。北門の
「万騎には改めて褒美をつかわす。
二人は顔を見合わせた。侈犧がにやつく。
「それは嬉しいけどな当主。少なくとも俺とこいつは
「そうですよ。珥懿さまの為なら万里の彼方からでも駆けつけますから」
言葉に憮然として馬上で顔を逸らした。
「……れ」
「何だって?」
囲巾をたくしあげた。
「…………これからも私を守れ」
二人は見上げてさらに笑みを浮かべた。これが主の精一杯の感謝の仕方である。
「
「死んでもお守りいたします!」
徼火が脚に縋りつく。
「近い」
邪険にされつつもじゃれつく徼火、その横で顎を撫でる侈犧に、丞必はふと笑んだ。気難しい珥懿に頼れる者がいて本当に良かったと思う。
以前、丞必は二人を十三翼に入らないかと誘った。しかし了承されなかった。立場として当主の下には参じるが、珥懿の下についているつもりではないと言い張る。あくまで彼らにとって珥懿は守ってやりたい相手なのだ。何より所々制限のある十三翼と違い、万騎は融通が利く点も性に合っているのだろう。
丞必にしても珥懿のことは幼い頃から面倒をみてきたから思い入れはある。物心つく前からおとなしく冷静、ついぞ泣き喚いたこともなかった。鍛錬も欠かさない上に暇さえあれば書物を読み
――――それが、仲間による裏切りと『選定』によって一変した。
珥懿は丞必にさえ心の内を読ませなくなり、人に対して
丞必はあくまで珥懿の臣下だ。手足となり忠義を尽くす。もちろん傅役だったから他の者よりは気安く近く接しはするが、親しい友人という立場ではない。なおさら、日々城で
「……侈犧、徼火。左賢からも褒賞を与えます。あとで万騎長を集めなさい」
二人が珍しげに丞必を窺った。
「褒賞って、私財からか?」
「私のせめてもの感謝の印です。帰領してすぐに休息もままならぬまま、当主をお守りしてよく戦いました」
「
徼火が音頭をとった。珥懿が振り返る。
「丞必、それは
「榴さまなら分かって下さいますよ」
「左賢もいい加減家督を継いだらどうだ?本来はあんたの席の筈だろう?」
問うた侈犧に微笑む。
「そうですね。この戦いが終わったあとで考えるとします」
「
珥懿にも言われて、はい、となおも笑み返し、
――――頼んだぞ、丞必。私たちの
頭の中で懐かしい声が
隣に馬を寄せ、丞必には稀なことに断りもなく珥懿の手に触れた。袖の中から探し当てた甲は骨ばって硬く、すでに自分の手よりも大きい。幼い時分にそうしたように包んだ。
拒まなかった珥懿はなおも不思議そうに彼女を見た。
「……丞必はいつまでも珥懿さまのお側におります。あなたがたとえ、何万もの人を殺しても、私だけはあなたの味方です。それを忘れないでください」
言うと、布から顔を出した。無邪気に声を上げて握り返してきた手は力強く温かい。冷徹非情と
「もしも妻を迎えるなら丞必は特別だな。お前にそうまで言われて無下にできる者がいたとしたら生きている価値もない」
「……まあ、昔から候補として私の名を挙げる者もおります」
「お前が真に望むなら考えよう。だが、私は曲がりなりにもお前が懸想していた男の
これには丞必は本気で慌てた。
「懸想などと。ただ本心で敬愛申し上げていただけです」
そうか、とそれ以上は言わず前に向き直った。
「そこまで言われた以上味方でいて良かったと思わせてやらなければな」
「圧力をかけるつもりでは」
「いい、分かっている。むしろそうこなくてはやり甲斐もない」
当主ならば期待されて当然、それ以上のものを返して初めて評価されるものだから。しかしその重責をもてあますどころか
そんな答えも分からないことを思いながら、丞必は主の後を追って馬を走らせた。
「しかしまあ、ひとまずは事なきを得たな」
軽い調子で茶を啜ったのは
「北門を越えられてどうなることかと思ったが……」
「敗北はありえなかった。
向かいできっぱりと言った
「俺たちは今回も役なしだな」
「それは良い事だぞ、炎。我らが表に出ねばならない時はそれほど事態が逼迫しているということなのだから」
生真面目に言った丹に炎はつまらなさそうな視線を投げた。と、衝立の向こうに人の気配がする。
「お客さんたち、お茶を追加で持ってきたんだけど」
飯店の主人が顔を出して三人は無言で頭を下げた。
湯呑みに茶を注ぎ、衝立の外に出る。三人でよく小声で話しているが、他の者が気安く話しかけてはいけない雰囲気を醸し出す。食事のあとは大抵隣の喫茶房で煙を
「ああ、ごめんなさいね。その
男二人とは違い、女はいつも同じものを買う。しかし言うと黙り込んだ。それに困って箱を出し入れした。
「最近当主が新葉に変えたって聞いてね。出来もいいから今はそればかりで」
当主のよく喫う莨葉を仕入れているのは時おり歓慧が城の遣いで来るからだ。
再度謝ろうとした主人は、動作の止まった女を見て首を傾げる。細い指が伸びて瞬時にそれを指差した。
「これでかまわない?」
二つ、という意味か、指をもう一本伸ばす。主人は彼女らが自分が思っているより城の中枢に
「ひとつは当主に差し上げて頂戴。街を守ってくだすってありがとうございましたと」
虚を突かれたように女は棒立ちになったが、ようよう頷いて
「たしかに」
喫茶房から出た炎は手を挙げた。
「じゃあな、茜。気をつけて帰るんだぞ」
妓楼へ行くのだと分かって茜はあからさまに
「当主の影が、毎度毎度恥を知りなさい」
「まあまあ、こいつにはこうして息抜きさせてやらないとすぐぐうたらするだろう」
「とか言ってお前も満更でもないくせに。それになあ、茜。俺たちを責めるなら紅珥にも言ってやれよ」
なおも、きっ、と二人を睨んだ。
「丹、炎に羽目を外させないで。夜には戻って」
「了解した。軍議も控えておるからな。無茶はさせんよ」
馬で遠ざかっていく二人を見送り、茜も手綱を
――――もう慣れた。
息苦しい城の生活も自分にとっては苦ではなくむしろもっと続けばいいと思っているくらいだ。何より当主の分身であることは誇りで嬉しかった。
ただこうして時おり街に降りると、人々が至極まっとうに、田畑を耕し
彩影は仕える当主が死ねば任を解かれる。染みつけた癖はそうすぐには消えないから、新たな当主の替わりにはなれない。
例えば、珥懿が煙管を使うときは頭を左に傾げる癖がある。持つ手は大抵右手で、頭指を伸ばして
そんな些細な仕草も彩影としては見逃せない。客の前に出る時は決して正体を暴かれるような真似は許されないからだ。だから珥懿の一挙一投足、茜たちは日々研究して無意識に出来るようにする。そういうわけで頭がすげ替わったら続投するのが困難なのだった。
歴代当主の中で彩影が三人は多い。
…………紅珥さまが、あたしに居場所を与えてくれた。
街の生活に未練はない。ないけれどもほんの少しだけ懐かしくなる時もある。同じ輪に入って子を育てる自分を寸暇思い浮かべて、首を振った。このほんの少し心の中でざらついた寂寥感はこの先たぶん死ぬまで続く。それでいいのだ。もう慣れた。
東門に近づき、人混みを抜けた茜は馬に乗ろうと鞍に手を掛ける。と、その背に声が降った。
「……おい、あんた」
振り返れば、ひょろりとした男が信じられないものを見るかのような目でこちらを凝視していた。
茜の時が止まる。その男に見覚えがあったゆえに。
「どうして……」
男は驚愕して一歩踏み出す。茜はその場で根が生えたように動けない。足先から震えがつたって嫌な汗が噴き出した。
「死んだはずじゃ……生きて、いたのか」
男は笑みを作ろうと必死に口角を上げようとしているようだったが、それは失敗に終わる。
――――過去が、襲ってくる。
捨てたはずの過去が自分を捕まえにやってくる。
後ろによろめいてぶつかり、馬が不満そうに
あと少しで男に触れられそうになった時、ふいに影が消失した。同時に別の声が聞こえた。
「
おそるおそる目を開いた正面、男の肩を後ろから掴んだ者が暢気な調子でそう問い掛けた。
笠を被った、
「……あんたの?」
男は困惑して笠の男と茜を見比べた。
「左様、遣いに出しておったのだが寄り道していたのか帰りが遅いので迎えに来たのだ。なにか粗相でも致しましたか」
男はいえ、と言って
「なにぶん恥ずかしがり屋なのでな。冷やかしならそこらへんにしておいてもらえるだろうか」
院服の男はそう言うと茜の馬の手綱を取った。
「さあ、行こう。早くしないと
言われるまま連れ立って足早に歩を進めた。
東門を抜けた門前まで来て、耆宿院の男はやっと足を止める。安全を確認すると手綱を放した。
「もしかして、お邪魔であったかな?」
若いようでもあり年老いているようでもある男は白い布の下で笑った。茜は自分の胸に手を当てて首を巡らす。
「心配はない。跡を
「…………」
ほっとして深々と礼をする。ちり、と男の笠の鈴が触れ合って鳴った。
「
茜は目を逸らす。何度か聞いたことのある声だ。城に出入りしたことのある者だ。たしか、と記憶を巡る。直接会ったことはない。彩影になって以来、自分は病に
(…………たしか、
不吉な名は覚えやすい。薬師にその人ありと
「失礼ついでに城仕えの御方とお見受け致す。良ければ城までご一緒しませんか。某も夜の軍議に出なければならんのです」
助けてもらった恩があり無下には出来ない。茜は渋々頷くと馬に乗り、男はそれを曳きながら城裏の迷路に入った。
迷路といっても通い慣れた者には只の曲がりくねった道でしかない。石垣を抜けるあいだ、茜は馬上から黙って炮眇を見下ろした。
「……ときに、お嬢さん。お嬢さんは当主にお会いしたことが?」
横目で見上げられて頷く。そうですか、と炮眇はじっと見透かすように目を細めた。
「現当主の代になって、牙族はさらに豊かになりました。そう思いませんか?某はそう思うのです。同時に、城では泉民の出入りが増えた。あの人数の商談を当主がひとりで担っているのかと信じられない気持ちでしたが、なるほど、当主が何人もいればそれも可能というわけですな」
茜は素知らぬ顔をした。薬師はさらに静かに言を重ねる。
「彩影というのは憐れなものですな。当主の為に生き、生みの親にさえ会えず生死を知らせることなく消えてゆく。主が死ななければ自らの伴侶も持てず子を持てず。おまけに
明らかな挑発だった。彼は
そう分かってはいるが、神経を逆撫でする物言いに茜は睨む。視線を容易く受け流して炮眇は笑った。「そう怖い顔をなさらずとも、吹聴して回ったりなどしませぬよ。何より当主の不興を買うことは本意ではありませんからな。それよりさっきの男、大商家
黙殺する。人の事情にずけずけと踏み入る奴は嫌いだった。
「そういえばあの男、昔同じ商家の
言い終わらないうちに首にひやりと冷たい感触がして炮眇は立ち止まる。笠の房飾りがぱらりと散った。どこに隠し持っていたのか、馬上の女が小ぶりの剣を抜いていた。
「ほう。それで某をお斬りになるか」
「……よく回る口だ。ここに針と糸があれば縫いつけてやったものを」
凄まれてわずかに目を見開いた。それは使い潰したような声にではなく、調子、高さ、発声の仕方が当主そのものだったことに少なからず自分の耳を疑ったのだ。
「……これは驚いた」
「
ふ、と炮眇は笠を被り直して笑んだ。剣を向けられてこの余裕ぶり、耆宿院の者にしては肝が座っている。痛い目を見ないと分からないのだろうか。
茜がそう思った矢先、後方から声が掛かった。
「……どうされた?」
振り返れば監老の二人がやってきたところだった。馬上の老茹、そして手綱を取る夭享。
二人は彩影の茜を見て眉を
「これはこれは、監老の御二方」
炮眇はごく平静に挨拶する。老茹は馬を下り、後手を回した。
「夭享どの。炮眇どのと先にお行きなさい。儂はゆっくり参るから」
「しかし、よろしいのですか」
頷かれて夭享は逡巡したが、茜も下馬したのを見て炮眇を促す。
茜の馬を借り受けた炮眇は飄々と辞儀をした。
「それでは城でまた」
遠ざかる騎影をいまだ剣を提げたまま睨んでいるその手を老茹は軽く叩いてみせた。
「彩影たるもの、血気に
俯いてようよう剣を収めた。彼はもと先代の彩影、茜が選ばれた時もその後も親身になって世話を焼いてくれた面倒見の良い男でついぞ怒ったところを見たことがない。
「……あの男に
「炮眇どのは鋭いですからな。まあ言いふらして回るような御方ではございませぬから、大丈夫じゃ。当主の怒りを買うことはしないでしょう」
老茹に誘われて進みながら、茜は溜息を吐いた。
「……昔の
「というと、張家の」
頷いて深く俯く。頭の中が思い出したくない記憶に囚われる。
「張家の妻はとうに死にました。今は貴女は茜でしょう」
有無を言わさない口調で言う。
「紅珥さまを
「もちろん、誇りでございます。……でも、怖いのです」
「怖い?」
拳を握る。「私はこのままゆけばどう足掻いても、紅珥さまより早く死ぬことは出来ないのです。そうなったらお役を解かれてしまう。そうしたら、下城しなくてはいけません。街に出戻ったところで居場所などありません。それが不安なのです」
彩影は
「いっそ、紅珥さまに
聞き手は黙って首を振った。
「もし此度の戦で紅珥さまにもしもの事があれば、新たな当主が立つまでに主のつとめは彩影にこなしてもらわねばならぬのです。間違ってもそんなことは言ってはなりませぬ」
顔を上げて見た先達の表情は窺い知れない。
「老茹さまは、先代の生粋の彩影……
彼は彩影になるべくして育てられた。これを特に白生という。問えば歩を進めながら前を向いた。
「思いましたとも。まして、あのようにお役を解かれるとは微塵も予想していなかった。しかし儂は彩影といえども仮にも当主の代行…むしろ当主そのものでありました。当主がいなくなったとして、それで只人に戻って良いものか考えた。お役目を終えても儂にまだ何か出来ることがあるのではないかと。だから院に入ることを願い出たのです。あの頃は城の反発が凄まじくて監老は東門さえ越えられない有様でしたから」
茜も当時のことはよく
「……老茹さまは、お辛くはありませんでしたか。私たちは三人おりますから替えがききますが」
「そりゃあ、先代は気難しい御方でしたし、お体も崩しがちでしたから。儂が商談に出ずっぱりなぞ日常茶飯事でしたよ。しかし先代は儂を心から信用してくださっていた。おおよそ成立させた取引において文句を言われた覚えがありませぬ」
「そうですか……」
老茹は微笑みを浮かべた。
「まあ、先のことはいまはお考えめさるな。貴女は貴女のお役目をしっかり果たすのみ。当主の彩影の中で商談においていちばん紅珥さまの意を汲んだ取引が出来るのは貴女なのですから」
「……はい」
茜は頭を下げた。老茹の言う通りだ。珥懿が死んだ後など想像するだけでおぞましい。しかも、自分のことばかり考えていたことに思い至って今更恥ずかしくなった。
何よりもっとも辛いのは珥懿なのだ。しかもその生い立ちは継嗣の頃からなにかと波乱に満ちたものだった。替わりが三人くらいいなくては身が
珥懿は、しらず予見していたのだろうか。自分が領地を離れなければならなくなること、それも二度と帰れないかもしれないことを。だから彩影を増やしたのか、それともただ単に保身のために多いほうがいいと考えたのか。いずれにせよ万一当主が失われても泉国を
かたちは違えど、彩影とて当主を守ることに変わりはない。
「老茹さま。私は、私の使命を果たします。紅珥さまの替わりが出来るのは彩影だけですもの」
自分を勇気づけるように言った茜に老茹は頷き返した。ただほんの少しだけ、悲しそうな瞳をしていた。もしかすると炮眇のように彩影の境遇を憐れんだのかもしれなかったが、茜にとってはこの任は特権だ。なにより珥懿を愛している。それは恋い慕っているというよりももっと複雑で繊細な感情だ。姉弟のように感じはたまた親子のよう、ときには朋友のようで、だからその珥懿が自分を己の分身として用いてくれていることは
茜は眼前に迫った巨大な城を見上げた。珥懿がこの十有余年、当主として築いてきたもの、それは皆で守るべきものだ。心の中でもう一度誓った。自分は当主代行であり、その権は誰にも
すべては珥懿と一族の為に。
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