衍章〈二〉



 とって返した西門に近づくにつれて街は活気をもうほとんど取り戻していた。市場が広がり、露店が並び、人の往来も盛ん。いまだ弔意を示す白い帛旗はたがあちこちに吊るされているものの、ひとまずの戦勝の喜びで人々の顔は明るい。目的地が近くなり、珥懿は馬を下りて様子を見てまわりながら向かう。外套や囲巾えりまきで目立たないようにしていても城の者だと分かるのだろう、果子かしを売っていた店の主人が品定めしている珥懿を見て、礼に従いふかしていた煙管きせるをしまい込んだ。


 赤勒館せきろくかんはもとは他泉への出稼ぎを生業とする者が帰領した際に利用する客寓やどだった。それを姚家の親族が買い取って貴人の利用する喫茶館にしており、ここで有事の際の会合が設けられることもあった。

 店の前には既に家人が待っていて馬を受け取る。店は層を織りなす方形、案内について正面の建物を抜けると、広い内庭に出た。


 梅の巨木の下に傘が立て掛けられており、待ち人が頭を下げる。

「お呼び立てが遅くなり申し訳ございませんでした。西門を過ぎる前にお誘い出来たら良かったのですが、なるたけ耆宿院には見られたくなかったのでございます」

「お前が私を呼び出すのは珍しいな、姚綾ちょうりょう

 珥懿が脱いだ外套を受け取りながら姚綾はやんわりと微笑んだ。花梨かりんの椅子に座らせ茶請けと煙管を勧めた。

「こんなことをしている場合ではないと拒まれるかと思っておりましたよ」

五翕ごきゅうの一である姚家大人たいじんの誘いを断れるか」

 茶化すように言った珥懿に、女はふと寂しげな表情をした。湯を注ぎながらぽつりと言う。

「良いお召し物でございますね」

「だろう」

「当主にこのように惜しまれて蘭家も誇らしいでしょう」

 湯気立つ小さな蓋碗がいわんを差し出した。受け取り、珥懿は谷のあるほうに目を向けた。姚綾は問う。

「領外にいる蘭家の者には」

「まだ文を受け取っていない者もいるはずだ。見送りに間に合わさせず申し訳ないことをしたが、葬儀は遠征前に済ませておきたかったからな。蘭逸の息子の容態は聞いたか」

「命に別条はないようでございますよ」

 そうか、と珥懿は碗の蓋をずらした。柔らかな良い香りが鼻腔をくすぐる。

「蘭家には出来うる限りの援助をする。古から続く一家だ、おろそかには出来ない」

「かつて始祖を支えた姓家で唯一存続する大名家ですからね。ほんに、惜しすぎる者を失いました」

 珥懿はほんの少し睫毛を震わせた。

「……あのとき、行かせるべきではなかった」

 俯いた顔はなんの情感も湧いていない。しかし碗を握った手は力なく、目はくらかった。姚綾は首を振る。

「蘭逸どのに後悔は無いでしょう。なにより自らの手で息子を助け出したのですから。蘭家は絶えません」

 聞いて自嘲気味にわらう。

「絶えるとすれば家のほうが先だろうな」

「なんということを仰います」

「身から出た錆だ」

 姚綾は悲しげに椅子に腰掛けた。よく手入れされた爪が陽光に反射し、それを撫でながら何かを考えて黙り込んでいるのを珥懿はただ待った。内庭は風が遮られて寒くない。しかし時おり走廊ろうかから流れてきたものに枝が揺らされて、咲ききった白色の花弁がわずかに散る。舞散ったそれが小卓の上に落ちてきて彩りを添えたが、その春の寿ことほぎは今は場違いに空嘯そらうそぶきのように思えた。


 珥懿は頬杖をついて煙をいつつ、目の前の人物を眺めた。顔には年相応に皺が入っていたが頬も唇も張りがあって若かりし頃の面影をとどめている。いつも毅然としているのが、今日はどうしたことか覇気はなく頼りなげだった。

 沈痛な面持ちでやっと重い口が動いた。

「……年々、姚家には男が生まれません。生まれても体が弱く到底城でお仕え出来るような者がおりません」

「そのぶん娘たちが頑張っているだろう」

 姚綾には四人のつまと六人の娘がいる。しかし今現在直系男子は姚綾の異父弟のみで、十二人の孫も尽く女なのである。

「当主、初めてあなたさまが四泉との同盟を合議にかけた時に、私が受けた言葉を覚えておいでですか」

「姚綾は四泉びいきだというあれか?」

 左様です、と姚綾はあたりに目を配った。内庭の真中に陣取った二人の他に人影はない。表向きは茶に招いただけだが、聞き耳を立てられないように野点のだてにしたのだと珥懿もはじめから分かっていた。姚綾は目を伏せる。

「あながち間違いではなく、的を得た言葉だと思います。姚家の者にとって、四泉で任を果たすのは水が合っているようなのです……しかし」

 より一層声を落とした。



「四泉の薬泉を飲み続けると、身体が丈夫になりやまいを遠ざける代わりに、聞得キコエの能は鈍くなっていくように思えます」



 珥懿は目線だけを向けた。「確かか」

「経験上は、としか申し上げられませんが。姚家の郷間きょうかんは年々聞得としての耳も鼻も弱くなっていく者がいます。そのうち由歩でなくなることを恐れて引退を願い出る者がいるのです。霧を渡れなくなる前に帰領したいと」

「それは姚家に限ったことか」

 首を振る。「他家はどうなのか分かりません。任地が四泉の家はおもに私の家、加えて分家筋の小家がいくつかと家の者が少しばかり」

 珥懿は静かに息を吐いた。それを溜息だと捉えたのか、深々と頭を下げられた。

「黙っていて申し訳ありませんでした。なにぶん確証なく、曖昧な情報で皆を惑わせることはないと思ったのです」

 頷き、舞い降りてきた花弁を指先で摘んでためつすがめつした。

「それは正解だ。確かなことが分からない以上、無駄に不安を煽るべきではない。同盟を果たした後も我々の間諜としての生業なりわいは続くのだろうが、しかし今聞いたのが事実だとするとそれも自然と消えてなくなる日が来るのかもしれないな」

「当主は…それをお望みですか」

「さあ、どうなのだろう。我々が農耕と商いだけではたして生き残っていけるのか」

「しかし、同盟にははじめから意欲的に見えました」

 うんざりなんだ、と珥懿は蓋碗を爪弾つまはじいた。

「今日のようにくだらない事で一族が揉めるのは。なにか、新しいものが必要だと思った」

「新しいもの、ですか」

「一族の根底を覆すような大きな波があれば、乗らない手はなかった。それは先代の時代にはついぞ来ることはなく、そもそも父も母もその波を見つけることも、呼ぶこともできなかった。ただ母は、なにかの前兆まえぶれを感じているようではあったが」

「そしてついにその波が来た、と?」

 問い返せば、主は梅の木を見上げた。珥懿にしては自信のない、年相応の若者のかおをしていた。

「やっと波が来たと思って避けずに乗ったものの、ひどい大波で舟が転覆しそうな勢いだがな。この波を乗りこなさねば、我々はついえる。ようやく捕まえた波が最初で最後になるとは思いもしなかった」

「まだ最後と決まったわけでは」

「いや、最後だ」


 良きにしろ悪きにしろ、この同盟で牙族の形態かたちそのものが変わる。以前には戻れない。大波にさらわれた小舟が元の場所に戻ることがないのと同じように。


「私は私の自己満足で一族すべてを巻き込んだ。民を死なせた。耆宿院に言われずとも、その責は負うつもりだった」

「当主ひとりが責めを感じることではございません。同盟は一族の総意です。……責任と仰るのなら、あなたさまにはまだまだ果たすべきことがあるのですよ」

 珥懿が見ると彼女は真面目な表情をがらりと変えていたずらめいた笑みを浮かべた。

「もういい加減、伴侶をお迎えになったらどうです?」

「その話は聞き飽きた」

 しらけて茶を啜る。姚綾は嘆息して扇を傾けた。

「いつまでもはぐらかしてはいられないでしょう。まさか本当に紅家の血筋を絶やすおつもりではありませんね?」


 成人した城仕えなら一度は必ず珥懿の素顔を拝す機会を設けられる。美貌の当主の面立ちは一度見たらそうそう忘れられない。男でさえも見れるのだから異性ならなおさら騒いで当然、懸想している者は多いだろう。姚綾の娘らも上二人は城仕えで領外に出ていない。当主を茶館に招いたと知ったら押しかけてくること必至なので今回の茶会は極秘にした。それほどには当主の配偶あいてに立候補する者は潤沢なのだが、いかんせん諭しても叱ってもどこ吹く風、本人が全く乗り気でない。


「いまはそれどころではないだろう」

「しかしもしも遠征で御身になにかあれば大事でございますよ。体裁だけでも整えてはどうです」

 珥懿は不快に眉をひそめた。

「私にむやみやたらに子胤こだねいておけと言っているのか。馬鹿馬鹿しい」

初妻しょさいが妓女ではいささか外聞が悪うございます」

 臆さずに言った姚綾に珥懿はしばし詰まった。やがて、反駁はんばくを諦めて額に手を当てる。

「……お前にはかなわん」

 姚綾はさらに嘆息して肩を竦めた。「妓楼遊びを覚える前に奶婚はやめにしたほうがよろしかったかもしれませんね」

「おぞましいことを言うな。年増は嫌いだ」

 あらまあ、と口許を緩ませ笑った。笑い事か、と珥懿はそっぽを向く。なおも声を抑えられないまま姚綾は頷いた。

「お辛いこともございましょうが、血を繋ぐのは我らのつとめ。特に、当主家ともなれば継嗣あとつぎには否応なく『選定』が待っております。子が多いのに越したことはございません」

 若い主は辟易して内庭を眺めていたが、ほんの少しだけ憐憫れんびんにじませた眼差しで見返した。

「お前こそ、女の身で家督は辛いだろう」

「まあお優しくお育ちになって。ますます娘たちが目を離しませんね。私は己が登虎とうこを受け、姚家大人となると決めた時からすでに腹を括っております。大人とは一家の未来を引き継ぎ繋げる、一族の柱。ほまれを拝され、尊ばれるだけのことはしてきたつもりです」

「お前には先代も頭が上がらなかったようだしな。――綾微りょうび、これからもよろしく頼むぞ」

 牙姚綾微はふっくりと笑った。

「妻女のことは私にお任せ下さいませ。決して悪いようには致しません」

「そんなことは今はまだいいから、一族と四泉のことを考えてくれ」

 言えばもちろんですとも、と頷き返したが、やはり笑みを浮かべたままだった。



 赤勒館を出た珥懿は囲巾を巻きながら心の内でもう一度嘆息した。婚姻は、当主として行わなければなけないものだとは当然頭では理解している。継嗣を育て自らの技能を受け継がせるのは重要な責務だ。しかし、この手の話は不得手だった。上手く言えないのだ、子をさなければならないという考えは当たり前だとは思うが、自分にはひどく重く感じる。そこにはただ義務としての仕事が横たわっているだけで己の意思がどこにも無い。それが咀嚼をひどく妨げる。脳裡には、いつも彩影かげがちらつく。当主が産み殖やせとはやし立てられる背後で、彼らは当主が死ぬまで自由な婚姻を許されない。彼らは当主自身であり、『いないもの』だからだ。


 四泉と同盟すればそういうかたちも変えられるだろうかと珥懿は感傷に浸る。こんな気分を持つことがあるなど、城の誰にも信じてはもらえないだろう。それほど自分には似つかわしくないのだとは分かっているが、今は伴も付けずただ独り。こうしていると街の喧騒のなかに取り残されている気分になった。


 侈犧しぎなどは見目好い女がいればすぐに口説きにかかるが、その気持ちはよく分からない。外見だけで女を慕ったことはないし、好きでもないのに共寝したいと思ったこともなかった。少なくとも自分はそうだ。ただひとり愛しているといえる女は籠の鳥、当主でさえ、否、当主だからこそあの檻から出してやることが出来ない。今すぐ飛んで行って存在を確かめたくなったが踏みとどまる。彼女のことを考えるとき、無性に全てを投げ出したい衝動に駆られる。当主という地位も、紅家総代の身分も、牙族であることも棄てて今すぐ彼女を連れて逃げ出したい、と。


 ふと自分を俯瞰ふかんすれば、妹への慈愛を別としてこれがひとに情愛を抱くということなのだろうという自覚が持てているだけでも驚きで、ややもすればその愛人こいびとのことで手一杯で、今でこそ世継ぎについて考えるだけでこんなにも億劫なのにこの上ただ木偶にんぎょうのように他の女たちとつがいになり子を育てるなどという器用な営みが自分に遂行できるのかはなはだ疑問だった。女たちはそれで満足なのだろうか。子はそれで幸せなのだろうか。では、幸せとはなんぞやという壮大な議題が立ち上がったので珥懿は考えるのをやめた。


 自分はもしも子がのこせなかったらという悲観も、とりあえずさいめとればなんとかなるだろうという楽観もしない。妻の能力を重んじ、より聞得の能の高い子孫を生み出す、ただそれだけを重視した関係を否定したいわけでもない。合理的なことは効率が良く好ましいし、むしろ割り切って考えられるのならそのほうが楽だとは思った。しかし結婚という行為は本来、そういう損得勘定の物差しで測るものではないのだろう。配偶者は器物ものじゃない。血が通って、呼吸する、自分と同じ人なのだ。


(だからこそ、厄介だ)


 今日は朝から生気が失くなるくらい溜息を吐いていた。蒸れて湿り気を帯び、一瞬の後には最初より冷えた心地のする布を顔に巻き直す。

 伴侶は今の自分にはまだ必要だと思えない。義務から逃げているだけなのだと分かっている。しかし自分一人の問題ではないから二の足を踏む。





 大緯道おおどおりの向こうから馬が来た。知らせを受けた丞必が迎えに来たのだ。


 主を見て首を傾げた。

「落ち込んでいらっしゃいますね。姚綾さまに何か言われましたか」

 いいや、と珥懿は首を振り、ふと見返した。

「お前は誰かと一緒にならないのか?」

 しばし目を瞬かせたが、意を得たようで苦笑した。

「私は紅家の役を任されて忙しくしていましたし、縁談の話にも乗り気にならなくて。先代も他人のそういうことには頓着なさらない方でしたから、すっかり婚期を逃してしまったのです」

鈴榴りんりゅうももう所帯を持つつもりはないという感じだな」

「あの方は奔放な方ですから。それに、父の弟妹がすでに一家を担っています。鈴家は聞得の逸材も多くはないので、私が一線を退くと惜しんでくれるのです」


 丞必は軍兵の輩出を主としていた鈴家にとってとびから孔雀くじゃくが生まれたようなものだった。過去、鈴家が城の中枢、重臣である僚班、そのうち寵臣である伴當に昇格した例はほとんどなかった。しかも丞必は伴當から選出される十三翼を束ねる十牙じゅうが、その筆頭である左賢さけんに史上最年少で抜擢されている。当主を除いて牙一族の最高権威の位だ。彼女の働きは早くに家督を亡くした鈴家に安定をもたらした。そういうわけで鈴家は丞必に頭が上がらない。


 丞必は蒙面布ふくめんの上の目を細めた。

「気にするな、とは申せません。当主に意見してへこませられる相手など数が知れておりますし」

 隣で溜息が聞こえた。それにさらに含み笑うと顔を前に戻す。

「しかし今はそれどころではありませんね。十三翼の再編成もせねばなりませんし、四泉においての布陣も詰めなければ」

「そうだな。高竺こうとくから灌鳥しらせは来たか」

瓉明さんめいどのは話の分かる御方のようです。ようやく穫司かくしを捨てた撫羊ふよう軍を二泉と合流する前に叩くことに合意して頂いたと。もう作戦は始まっているようですね」

「やはり挟撃すべきか」

「それも含め軍議にはかりましょう」

 二騎は軽快な足取りで城への道を進む。茜色に染まる空は寒々しさが和らいではいたが、昼の陽気に暖められて火照ほてった体が心地よく冷えてゆくのには十分だった。


 郭壁を出て城牆を渡る途上で、またしても人が待っていた。今度は二つ。

「当主。いい加減街に入ってもいいよな?皆けっこう溜まってるんだ」

 煙管で肩を叩きながら言ったのは侈犧、隣で徼火きょうかが笑んでいる。

「珥懿さま、私も早くお城に入りたいです」

 帰領したものの長らく壁外に締め出されていた万騎はんきは狭い客閣に辛抱ならなくなったらしい。

「まだ戦は終わっていません。どこに二泉の間者がいるか分かったものではない以上、万騎を街に入れるわけにはいきません」

 きっぱりと言った丞必に二人は不満げな声をあげた。

「左賢、今回私たちがどれだけ働いたと思ってるの。二泉の馬鹿共の矢面で必死に戦ったのに、家族に会わせてもらえない兵たちが可哀想だと思わないの」

 侈犧も頷く。「それに万騎の中にまとまった数の裏切り者がいれば戦闘中に寝返ってたんじゃねぇのか。糞溜めで死んだ仲間に酒杯を上げることも出来ねぇのは辛いぜ。まだまだ働かせる気ならここいらで一度息抜きさせてやらないとたんぞ」

 三人が回答を求める。珥懿は頷いた。

「良いだろう。羽目を外さない程度に街区での休息を許す。だが城へは万騎長と千長しか許さない。申し伝えろ」

「さすが珥懿さま。お優しい」

 徼火が歓声を上げた。よろしいのですか、と丞必は無邪気に喜ぶのを困って見やりながら問う。

「間者がひとりふたりならもう問題ないだろう。侈犧、各人の動向には目を配れ」

「言われるまでもねぇよ」

崇條すうじょうにも伝えておけ」

「すっかりろう州軍と意気投合してよ、まあ、俺の部隊にそんな奴はいないと思うが疑うならあいつらだな。七泉しちせんからの帰途で二泉ともよろしくやったかもしれんぞ」

「なんにせよ、用心はすべきです」

 丞必は周囲を見回した。いまだ剣戟の残痕がそこかしこに広がる。北門の箭楼やぐらは瓦礫と柱が撤去されている。焦げた煤が黒々とこびりついたままの上歩道を渡った。眼下で門扉を修復していた兵たちが夜を迎えて撤収しているのが見えた。共に眺めていた珥懿は侈犧と徼火に向き直る。

「万騎には改めて褒美をつかわす。甕城おうじょうと北門をよく守った」

 二人は顔を見合わせた。侈犧がにやつく。

「それは嬉しいけどな当主。少なくとも俺とこいつは珥懿おまえの為にやった事だからな」

「そうですよ。珥懿さまの為なら万里の彼方からでも駆けつけますから」

 言葉に憮然として馬上で顔を逸らした。

「……れ」

「何だって?」

 囲巾をたくしあげた。


「…………これからも私を守れ」


 二人は見上げてさらに笑みを浮かべた。これが主の精一杯の感謝の仕方である。

うけたまわった」

「死んでもお守りいたします!」

 徼火が脚に縋りつく。

「近い」

 邪険にされつつもじゃれつく徼火、その横で顎を撫でる侈犧に、丞必はふと笑んだ。気難しい珥懿に頼れる者がいて本当に良かったと思う。


 以前、丞必は二人を十三翼に入らないかと誘った。しかし了承されなかった。立場として当主の下には参じるが、の下についているつもりではないと言い張る。あくまで彼らにとって珥懿は守ってやりたい相手なのだ。何より所々制限のある十三翼と違い、万騎は融通が利く点も性に合っているのだろう。


 丞必にしても珥懿のことは幼い頃から面倒をみてきたから思い入れはある。物心つく前からおとなしく冷静、ついぞ泣き喚いたこともなかった。鍛錬も欠かさない上に暇さえあれば書物を読みふけっていた。ただ、当時から聞得の能が高すぎたために音と臭気にはかなり悩まされ、世話するこちらもたいそう骨が折れたのは忘れたくても忘れられない。耳鼻の調節が上手くゆかず、起きているときでさえ護耳みみあてを着けている時が常、悪いものを嗅げば必ず吐いていた。えずき癖がついてしまい、物が食べられなかった時期もある。それでも、よく笑う子だった。悪戯いたずらを仕掛けたり、黙って城から抜け出して街で遊ぶ奔放な面もあった。



 ――――それが、仲間による裏切りと『選定』によって一変した。



 珥懿は丞必にさえ心の内を読ませなくなり、人に対してかたくなになった。そんな珥懿を周囲は父親そっくりだと言って敬遠する者もいたなかで、数える程度ではあるが気安く触れ合える相手がいたのは救いだった。侈犧と徼火は昔から変わらず接する。当主になったからといって遠慮の欠片もないそれが、珥懿にとって良いたすけになるだろうと丞必は思っている。たとえ本人がそう認めずとも、現にこの他愛ない言い合いややり取りは珥懿が気を落ち着かせるのに役に立っていた。

 丞必はあくまで珥懿の臣下だ。手足となり忠義を尽くす。もちろん傅役だったから他の者よりは気安く近く接しはするが、親しい友人という立場ではない。なおさら、日々城で数多あまたの商談を行い、駆け引きに奔走する孤独な当主にとって気のおけない相手は絶対に必要だった。


「……侈犧、徼火。左賢からも褒賞を与えます。あとで万騎長を集めなさい」

 二人が珍しげに丞必を窺った。

「褒賞って、私財からか?」

「私のせめてもの感謝の印です。帰領してすぐに休息もままならぬまま、当主をお守りしてよく戦いました」

鈴丞りんしょうさま、太っ腹」

 徼火が音頭をとった。珥懿が振り返る。

「丞必、それは大人たいじんの権だぞ」

「榴さまなら分かって下さいますよ」

「左賢もいい加減家督を継いだらどうだ?本来はあんたの席の筈だろう?」

 問うた侈犧に微笑む。

「そうですね。この戦いが終わったあとで考えるとします」

言質げんちは取ったぞ。忘れるなよ」

 珥懿にも言われて、はい、となおも笑み返し、手綱たづなを振った。まだまだ自分は若い気でいるが珥懿も歓慧もすでに育ち、その分老いた。いい節目かもしれない、と夜陰の遠くを見る。これからは先代たちから託されたものを自ら導くのではなく、一歩退いて助言を授ける役回りとなる。



 ――――頼んだぞ、丞必。私たちの麒麟きりんを。



 頭の中で懐かしい声がよみがえる。分かっています、とひとり頷き主の背を見つめた。自分が死んでも守ると誓った当人は視線を受けて振り返った。母親と瓜二つの目のかたち、かいこの触角のような長い睫毛を二、三度瞬かせた。取り込まれそうなほど深く黒い双眸が今は穏やかに光に反射して優しげに思える。どうした、と問う声までもが柔らかに耳膜に響く。


 隣に馬を寄せ、丞必には稀なことに断りもなく珥懿の手に触れた。袖の中から探し当てた甲は骨ばって硬く、すでに自分の手よりも大きい。幼い時分にそうしたように包んだ。

 拒まなかった珥懿はなおも不思議そうに彼女を見た。

「……丞必はいつまでも珥懿さまのお側におります。あなたがたとえ、何万もの人を殺しても、私だけはあなたの味方です。それを忘れないでください」

 言うと、布から顔を出した。無邪気に声を上げて握り返してきた手は力強く温かい。冷徹非情とうたわれる当主の子どものような声を聴けるのはこれからさき一生ないかもしれない。

「もしも妻を迎えるなら丞必は特別だな。お前にそうまで言われて無下にできる者がいたとしたら生きている価値もない」

「……まあ、昔から候補として私の名を挙げる者もおります」

「お前が真に望むなら考えよう。だが、私は曲がりなりにもお前が懸想していた男のせがれなんだが」

 これには丞必は本気で慌てた。

「懸想などと。ただ本心で敬愛申し上げていただけです」

 そうか、とそれ以上は言わず前に向き直った。

「そこまで言われた以上味方でいて良かったと思わせてやらなければな」

「圧力をかけるつもりでは」

「いい、分かっている。むしろそうこなくてはやり甲斐もない」

 当主ならば期待されて当然、それ以上のものを返して初めて評価されるものだから。しかしその重責をもてあますどころかたのしんでいる風であるのはやはり稀代の名君になるべき者、珥懿の統治中にこのような騒動になったのは天の試練かはたまた祝福か。

 そんな答えも分からないことを思いながら、丞必は主の後を追って馬を走らせた。







 漏花彫すかしぼりを施した目立たない衝立ついたての裏、飯店しょくどうの狭い飯台つくえを囲んで三人は箸を動かしていた。


「しかしまあ、ひとまずは事なきを得たな」

 軽い調子で茶を啜ったのはえん。その横で黙々と口を動かしているたんに同意を求めた。

「北門を越えられてどうなることかと思ったが……」

「敗北はありえなかった。紅珥くじさまが許しはしない」

 向かいできっぱりと言ったせんは伏し目がちに皿の上の肉を細かく割いている。

「俺たちは今回も役なしだな」

「それは良い事だぞ、炎。我らが表に出ねばならない時はそれほど事態が逼迫しているということなのだから」

 生真面目に言った丹に炎はつまらなさそうな視線を投げた。と、衝立の向こうに人の気配がする。

「お客さんたち、お茶を追加で持ってきたんだけど」

 飯店の主人が顔を出して三人は無言で頭を下げた。


 七曜しちようによく来る三人だった。男二人は素顔だが女は蒙面布ふくめんを外しているのを見たことはない。器用に箸で細かく割いた肉を、目下から垂らした布の下へ持っていくさまをあまり見ないように気をつけながら主人は微笑んだ。髪を長く伸ばして良い衣を着ているからきっと城仕えの者たちだろう。三者三様、歳も顔も体つきも全く似てないのに仕草動作がよく似ていて、そしてそれはなぜか記憶の中の当主を彷彿とさせた。きっと側近くで仕えているのかもしれないが、気になっても自分は問い質すような身分でもない。

 湯呑みに茶を注ぎ、衝立の外に出る。三人でよく小声で話しているが、他の者が気安く話しかけてはいけない雰囲気を醸し出す。食事のあとは大抵隣の喫茶房で煙をっていた。


「ああ、ごめんなさいね。そのたばこ、いま切らしてるんだよ」

 男二人とは違い、女はいつも同じものを買う。しかし言うと黙り込んだ。それに困って箱を出し入れした。

「最近当主が新葉に変えたって聞いてね。出来もいいから今はそればかりで」

 当主のよく喫う莨葉を仕入れているのは時おり歓慧が城の遣いで来るからだ。

 再度謝ろうとした主人は、動作の止まった女を見て首を傾げる。細い指が伸びて瞬時にそれを指差した。

「これでかまわない?」

 二つ、という意味か、指をもう一本伸ばす。主人は彼女らが自分が思っているより城の中枢にはべっているのではないかと考え直した。それで女のてのひらに三包乗せる。不思議そうに首を傾げたのに笑いかけた。

「ひとつは当主に差し上げて頂戴。街を守ってくだすってありがとうございましたと」

 虚を突かれたように女は棒立ちになったが、ようよう頷いてきびすを返す。背越しにつぶれた声が呟いた。

「たしかに」


 喫茶房から出た炎は手を挙げた。

「じゃあな、茜。気をつけて帰るんだぞ」

 妓楼へ行くのだと分かって茜はあからさまに睥睨へいげいした。

「当主の影が、毎度毎度恥を知りなさい」

「まあまあ、こいつにはこうして息抜きさせてやらないとすぐぐうたらするだろう」

 なだめた丹に炎が嗤う。

「とか言ってお前も満更でもないくせに。それになあ、茜。俺たちを責めるなら紅珥にも言ってやれよ」

 なおも、きっ、と二人を睨んだ。

「丹、炎に羽目を外させないで。夜には戻って」

「了解した。軍議も控えておるからな。無茶はさせんよ」

 馬で遠ざかっていく二人を見送り、茜も手綱をいて歩き出す。無意識に溜息を吐いた。


 ――――もう慣れた。


 息苦しい城の生活も自分にとっては苦ではなくむしろもっと続けばいいと思っているくらいだ。何より当主の分身であることは誇りで嬉しかった。

 ただこうして時おり街に降りると、人々が至極まっとうに、田畑を耕し氂牛うしを飼い、子をもうけて育てているのをじかに見てはどうしようもなく得体の知れない焦燥感と申し訳なさに駆られる。人並みの営みを選ばなかったのは自分自身だったが、もしも自分が天寿を全うする前にその中に戻らなければならないとしたら、きちんと戻れるだろうかと不安に思わない時はない。


 彩影は仕える当主が死ねば任を解かれる。染みつけた癖はそうすぐには消えないから、新たな当主の替わりにはなれない。


 例えば、珥懿が煙管を使うときは頭を左に傾げる癖がある。持つ手は大抵右手で、頭指を伸ばして羅宇くだを支える。妓女のような持ち方なのは喫煙を妓楼で覚えたからであり、また、指甲套つけづめをしたままで喫えるようにと自然とそのかたちになったからだ。

 そんな些細な仕草も彩影としては見逃せない。客の前に出る時は決して正体を暴かれるような真似は許されないからだ。だから珥懿の一挙一投足、茜たちは日々研究して無意識に出来るようにする。そういうわけで頭がすげ替わったら続投するのが困難なのだった。


 歴代当主の中で彩影が三人は多い。おおむね適当な者がひとり見つかれば充分だといわれている。茜はもともと彩影として育てられたわけではなく、これも珍しい。当主家の継嗣には幼い頃から同じ年頃の彩影が付き、それこそ双子のように育てられるものだからだ。しかしどうしたことか、その者はというとあのとおり出来が悪いから、珥懿は心許ないと思ったのかもしれない。


 …………紅珥さまが、あたしに居場所を与えてくれた。


 街の生活に未練はない。ないけれどもほんの少しだけ懐かしくなる時もある。同じ輪に入って子を育てる自分を寸暇思い浮かべて、首を振った。このほんの少し心の中でざらついた寂寥感はこの先たぶん死ぬまで続く。それでいいのだ。もう慣れた。



 東門に近づき、人混みを抜けた茜は馬に乗ろうと鞍に手を掛ける。と、その背に声が降った。

「……おい、あんた」

 振り返れば、ひょろりとした男が信じられないものを見るかのような目でこちらを凝視していた。

 茜の時が止まる。その男に見覚えがあったゆえに。

「どうして……」

 男は驚愕して一歩踏み出す。茜はその場で根が生えたように動けない。足先から震えがつたって嫌な汗が噴き出した。

「死んだはずじゃ……生きて、いたのか」

 男は笑みを作ろうと必死に口角を上げようとしているようだったが、それは失敗に終わる。


 ――――過去が、襲ってくる。


 捨てたはずの過去が自分を捕まえにやってくる。

 後ろによろめいてぶつかり、馬が不満そうにいなないた。さらに男が手を伸ばす。嫌だ、という思いに反射して瞼が落ちた。これ以上もうどうすることも出来ない。胸が早鐘のように響いて痛い。耳から街の喧騒が遠ざかる。聞こえるのはただ自分の血流が凄まじい勢いで流れる音のみ。

 あと少しで男に触れられそうになった時、ふいに影が消失した。同時に別の声が聞こえた。


それがしの家の者になにか用ですかな?」


 おそるおそる目を開いた正面、男の肩を後ろから掴んだ者が暢気な調子でそう問い掛けた。

 笠を被った、ふちには房飾りと鈴が付いていて顔は見えない男。白と黒の院服が陽射しにちかちかとして目に痛い。

「……あんたの?」

 男は困惑して笠の男と茜を見比べた。

「左様、遣いに出しておったのだが寄り道していたのか帰りが遅いので迎えに来たのだ。なにか粗相でも致しましたか」

 男はいえ、と言っていぶかる視線を茜に投げたが、すでにこちらは背を向けて顔を隠していた。

「なにぶん恥ずかしがり屋なのでな。冷やかしならそこらへんにしておいてもらえるだろうか」

 院服の男はそう言うと茜の馬の手綱を取った。

「さあ、行こう。早くしないと主公だんなさまに怒られてしまう」

 言われるまま連れ立って足早に歩を進めた。

 東門を抜けた門前まで来て、耆宿院の男はやっと足を止める。安全を確認すると手綱を放した。

「もしかして、お邪魔であったかな?」

 若いようでもあり年老いているようでもある男は白い布の下で笑った。茜は自分の胸に手を当てて首を巡らす。

「心配はない。跡をけられてはいないようですよ」

「…………」

 ほっとして深々と礼をする。ちり、と男の笠の鈴が触れ合って鳴った。氂牛うしの毛房の色は緑。薬院の院士のようだった。

不躾ぶしつけに失礼しました。お知り合いのようでしたが、なにか困っていたようだったので」

 茜は目を逸らす。何度か聞いたことのある声だ。城に出入りしたことのある者だ。たしか、と記憶を巡る。直接会ったことはない。彩影になって以来、自分は病にかかっていないから薬師に世話になったことがない。


(…………たしか、炮眇ほうびょう


 不吉な名は覚えやすい。薬師にその人ありとうたわれる賢人、醸菫水じょうきんすいの醸造の第一人者だが、変わり者だという噂の当人だった。

「失礼ついでに城仕えの御方とお見受け致す。良ければ城までご一緒しませんか。某も夜の軍議に出なければならんのです」

 助けてもらった恩があり無下には出来ない。茜は渋々頷くと馬に乗り、男はそれを曳きながら城裏の迷路に入った。

 迷路といっても通い慣れた者には只の曲がりくねった道でしかない。石垣を抜けるあいだ、茜は馬上から黙って炮眇を見下ろした。

「……ときに、お嬢さん。お嬢さんは当主にお会いしたことが?」

 横目で見上げられて頷く。そうですか、と炮眇はじっと見透かすように目を細めた。

「現当主の代になって、牙族はさらに豊かになりました。そう思いませんか?某はそう思うのです。同時に、城では泉民の出入りが増えた。あの人数の商談を当主がひとりで担っているのかと信じられない気持ちでしたが、なるほど、それも可能というわけですな」

 茜は素知らぬ顔をした。薬師はさらに静かに言を重ねる。

「彩影というのは憐れなものですな。当主の為に生き、生みの親にさえ会えず生死を知らせることなく消えてゆく。主が死ななければ自らの伴侶も持てず子を持てず。おまけに不言ふげんちぎりですか。お可哀想に」

 明らかな挑発だった。彼はしゃべらせようとしている。勘づいているのだ。茜が彩影であることに。

 そう分かってはいるが、神経を逆撫でする物言いに茜は睨む。視線を容易く受け流して炮眇は笑った。「そう怖い顔をなさらずとも、吹聴して回ったりなどしませぬよ。何より当主の不興を買うことは本意ではありませんからな。それよりさっきの男、大商家張家ちょうけの長男坊では?なにかよしみが?」

 黙殺する。人の事情にずけずけと踏み入る奴は嫌いだった。

「そういえばあの男、昔同じ商家のあん家の娘を娶ったが子宝に恵まれずたいそう苦労したとか。結局、後妻との間になんとか子が生まれ、安家の妻はあの大火災の後に亡くなって」

 言い終わらないうちに首にひやりと冷たい感触がして炮眇は立ち止まる。笠の房飾りがぱらりと散った。どこに隠し持っていたのか、馬上の女が小ぶりの剣を抜いていた。

「ほう。それで某をお斬りになるか」

「……よく回る口だ。ここに針と糸があれば縫いつけてやったものを」

 凄まれてわずかに目を見開いた。それは使い潰したような声にではなく、調子、高さ、発声の仕方が当主そのものだったことに少なからず自分の耳を疑ったのだ。

「……これは驚いた」

弄舌ろうぜつは愚者のあらわれだろう。首と胴が離れたくなければ余計な詮索はしないことだ」

 ふ、と炮眇は笠を被り直して笑んだ。剣を向けられてこの余裕ぶり、耆宿院の者にしては肝が座っている。痛い目を見ないと分からないのだろうか。

 茜がそう思った矢先、後方から声が掛かった。


「……どうされた?」


 振り返れば監老の二人がやってきたところだった。馬上の老茹、そして手綱を取る夭享。

 二人は彩影の茜を見て眉をひそめる。他者と関わらないはずの彼女がなぜか剣を抜いているのだから当然だった。監老は彩影の存在を知っている。そもそも老茹はもと彩影だからこの状況が異状であることはすぐに分かった。

「これはこれは、監老の御二方」

 炮眇はごく平静に挨拶する。老茹は馬を下り、後手を回した。

「夭享どの。炮眇どのと先にお行きなさい。儂はゆっくり参るから」

「しかし、よろしいのですか」

 頷かれて夭享は逡巡したが、茜も下馬したのを見て炮眇を促す。

 茜の馬を借り受けた炮眇は飄々と辞儀をした。

「それでは城でまた」

 遠ざかる騎影をいまだ剣を提げたまま睨んでいるその手を老茹は軽く叩いてみせた。

「彩影たるもの、血気にはやってはなりませぬぞ。何がありました。いつも冷静な貴女が珍しく気を乱して」

 俯いてようよう剣を収めた。彼はもと先代の彩影、茜が選ばれた時もその後も親身になって世話を焼いてくれた面倒見の良い男でついぞ怒ったところを見たことがない。

「……あの男に彩影かげであることを見抜かれました」

「炮眇どのは鋭いですからな。まあ言いふらして回るような御方ではございませぬから、大丈夫じゃ。当主の怒りを買うことはしないでしょう」

 老茹に誘われて進みながら、茜は溜息を吐いた。

「……昔の伴侶つれあいに会ってしまったのです」

「というと、張家の」

 頷いて深く俯く。頭の中が思い出したくない記憶に囚われる。

「張家の妻はとうに死にました。今は貴女は茜でしょう」

 有無を言わさない口調で言う。

「紅珥さまをたすけ、お守りする影の当主。誰にでも務まる役ではありませぬ。紅珥さまは貴女だからこそ替身みがわりに選んだ。それは誇って良いことです」

「もちろん、誇りでございます。……でも、怖いのです」

「怖い?」

 拳を握る。「私はこのままゆけばどう足掻いても、紅珥さまより早く死ぬことは出来ないのです。そうなったらお役を解かれてしまう。そうしたら、下城しなくてはいけません。街に出戻ったところで居場所などありません。それが不安なのです」

 彩影は不能渡わたれずから選ばれる。それは当主より先に死んでは困るからだし、役から逃れ場のないよう繋ぎ止める為でもある。

「いっそ、紅珥さまにじゅんじたいくらいなのです」

 聞き手は黙って首を振った。

「もし此度の戦で紅珥さまにもしもの事があれば、新たな当主が立つまでに主のつとめは彩影にこなしてもらわねばならぬのです。間違ってもそんなことは言ってはなりませぬ」

 顔を上げて見た先達の表情は窺い知れない。

「老茹さまは、先代の生粋の彩影……白生はくせいでございましょう?主に先立たれてその先の身の処し方を不安には思われなかったのですか」

 彼は彩影になるべくして育てられた。これを特に白生という。問えば歩を進めながら前を向いた。

「思いましたとも。まして、あのようにお役を解かれるとは微塵も予想していなかった。しかし儂は彩影といえども仮にも当主の代行…むしろ当主そのものでありました。当主がいなくなったとして、それで只人に戻って良いものか考えた。お役目を終えても儂にまだ何か出来ることがあるのではないかと。だから院に入ることを願い出たのです。あの頃は城の反発が凄まじくて監老は東門さえ越えられない有様でしたから」


 茜も当時のことはよくおぼえている。かつての耆宿院と城の争いには民も巻き込まれた。当時の茜の住処も火災に遭い、門前には焼け出された人々が溢れていた。


「……老茹さまは、お辛くはありませんでしたか。私たちは三人おりますから替えがききますが」

「そりゃあ、先代は気難しい御方でしたし、お体も崩しがちでしたから。儂が商談に出ずっぱりなぞ日常茶飯事でしたよ。しかし先代は儂を心から信用してくださっていた。おおよそ成立させた取引において文句を言われた覚えがありませぬ」

「そうですか……」

 老茹は微笑みを浮かべた。

「まあ、先のことはいまはお考えめさるな。貴女は貴女のお役目をしっかり果たすのみ。当主の彩影の中で商談においていちばん紅珥さまの意を汲んだ取引が出来るのは貴女なのですから」

「……はい」

 茜は頭を下げた。老茹の言う通りだ。珥懿が死んだ後など想像するだけでおぞましい。しかも、自分のことばかり考えていたことに思い至って今更恥ずかしくなった。

 何よりもっとも辛いのは珥懿なのだ。しかもその生い立ちは継嗣の頃からなにかと波乱に満ちたものだった。替わりが三人くらいいなくては身がたないだろう。


 珥懿は、しらず予見していたのだろうか。自分が領地を離れなければならなくなること、それも二度と帰れないかもしれないことを。だから彩影を増やしたのか、それともただ単に保身のために多いほうがいいと考えたのか。いずれにせよ万一当主が失われても泉国をあざむける体制がすでに整っていることは牙族にとって大きい。どの国も首長を損失は大きく隙が生まれる。特に牙族はそこにつけ入らせないように用心しなければならない。ほころびを放置していれば内から穴が開きかねない。不安定な状態は避けなければならなかった。

 かたちは違えど、彩影とて当主を守ることに変わりはない。


「老茹さま。私は、私の使命を果たします。紅珥さまの替わりが出来るのは彩影だけですもの」


 自分を勇気づけるように言った茜に老茹は頷き返した。ただほんの少しだけ、悲しそうな瞳をしていた。もしかすると炮眇のように彩影の境遇を憐れんだのかもしれなかったが、茜にとってはこの任は特権だ。なにより珥懿を愛している。それは恋い慕っているというよりももっと複雑で繊細な感情だ。姉弟のように感じはたまた親子のよう、ときには朋友のようで、だからその珥懿が自分を己の分身として用いてくれていることはたまらなく嬉しい。歓慧の看病を任せてもらえるほどに信頼されているのも誇りだった。主は分かっているのだろうか、自分がどれほど大事に思われ、離れた時に心淋しく胸を焦がす者がいるのかということを。名を呼ぶだけで温かく、切なく、失うのが恐ろしいとどれほど案じられているかということを。


 茜は眼前に迫った巨大な城を見上げた。珥懿がこの十有余年、当主として築いてきたもの、それは皆で守るべきものだ。心の中でもう一度誓った。自分は当主代行であり、その権は誰にもおかされてはならないもの、行使すべき時には全力で行使する。


 すべては珥懿と一族の為に。




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