衍章〈一〉



 南の街区は追い風を受けた炎によって舐め尽くされ、木造の家屋は焦げて崩れ落ち、あぶられた石はすすを浴び黒ずんでいた。早急に避難していた者が多かったので人的被害は焼失した家屋に比例するほどはなかったものの、それでも取り残されて焼け死んだ者はいたし、家を失った者たちはこれからしばらくは不自由な生活を強いられる。

 夜には見事な数の赤提灯が灯っていた南の一角は、家屋の多くが崩れ落ち濁った水路の流れもいまだ悪く終始粉っぽい風が鼻を不快にさせて、寥々りょうりょうたる有様に変貌していた。

 とはいえ大通りの高楼が盾となって裏通りでは焼け残った建物は多く、あちらこちらの露店で炊き出しが行われていた。ここらの焼け出された住人は妓楼の者が多いから、必然女が多い。行くあても親類もいない彼女たちは先祖に砂人の血を引く者が半数を占める。薄い色の髪に真珠色や銅色の肌をした女たちが協力して大鍋を掻き混ぜていた。女たちは元来明るい性分で住処か失くなっても生きていればなんとかなる、と笑いながらそこかしこにたむろし崩れた木材で暖を取っていた。


 珥懿は火災を免れたうちのひとつに入る。扉の前に疲れたさまで椅子に座っていた主人が姿をみとめて困ったようにまなじりを下げた。

「今日は――」

「構わない。しばらく借りるぞ」

 主人の手にかんざしを押しつけると、中に入り階を登る。いつもの室内の隔扇とびらを開けると足を止めた。


 屏風へいふうは倒れて砕けた玻璃が水晶のように散らばっていた。光を遮った簾で室内は暗い。衣服や装身具かざりは床に乱れ、千々に破かれた書き付けがそこかしこに落ちている。そして広い牀榻しょうとう、隅に小さな塊が丸まっていた。珥懿は迷わず近づくとくるまったそれをそのまま抱き寄せた。


「……無事だったか」


 息を吐いた。塊は応えない。ただ硬く身を強ばらせたのみ。それでもあやすようにさすった。

 おもむろに布をまくり、顔のある位置を探し当てる。

雪貂せっちょう

「珥懿さまなんてきらい」

 少しひび割れた声で雪貂は幼子のように拒絶する。薄闇に涙が光った。肌も荒れていた。くしいていないごわついた髪を避けてやりながら、珥懿はわずかに眉を下げる。もう一度自らの胸に抱えてやると、徐々にしゃくりあげる嗚咽おえつが大きくなって細い肩が震えた。

 雪貂はしばらく泣き止まない。皺のできるほど珥懿の衣を固く握った。こうなると慰めの口づけもおためこがしにしか捉えられないから、黙って背を撫でてやるしかない。


 雪貂は朗らかで気立てが良いが、その実ひどく繊細な女だった。急な物事の変化について行けないさがで、もとの楼主のところからこちらに引き取られて来る際も今までの勝手と違うものに怯えて慣れるのにかなりの時間を要した。さらに、昔受けた折檻のせいで火を怖がった。花瓶の水が凍るほどの真冬であっても独りでいる時はかんけようとしない。だからたとえ火炎が迫っても己の居所と定めた室内から出ることさえ躊躇ためらう。当然、耆宿院きしゅくいんに保護を求めるなどしないと予想が出来た。しかし珥懿の立場上、雪貂だけを優先して守ることは不可能なのは彼女自身も分かっていた。分かっていて、会いに来てくれない珥懿と、それを気に病む自分に苛立つのだった。


 やっと泣き止み腫れた顔で見上げてくるのを珥懿は覗き込む。

「怖い思いをさせた」

 頬に当てられた右手を雪貂は両手で掴む。はなを啜り、その手が細かく痙攣しているのを不審に思って見返した。

「久しぶりにずっと得物を振っていたからだ」

 なまったものだな、と愛人こいびとは薄く笑みを浮かべた。

「……どうして来たんです。戦が終わって早々に当主が妓楼に赴くなんて、配下が知れば顰蹙ひんしゅくものですわ」

 言いながら、駄々を捏ねたくせに、嬉しいくせに、と内心自嘲して俯いたが、上げさせられる。不快そうな渋面をつくられた。

「誰しも焼け出されれば身内を心配して安否を確認するものではないのか。それとも、お前は私が本当に遊び半分で逢いに来ていると?」

「立場をおわきまえくださいませ、と言っているのです」

「常であればそうしよう。だが、今は違う」

 珥懿は両のてのひらで白い顔を挟む。

「戦って勝っても大事な者が失われればなんの意味もない。私にとっては。二泉の泉賤どれいになることだけはあってはならないし、なによりも守るべき民が死んでは、兵など、王など何の意味がある……」

 珥懿にしては饒舌な物言いは焦燥していた表れだろう。爛々らんらんと光る眼に射竦められて、雪貂はそれ以上の反駁はんばくを諦めた。

「……温かいですわ」

 目を閉じて擦り寄った手は肉刺まめがつぶれて硬くなっていた。

「あなたのことだから、どうせ興奮してたのしくなっていたのでしょう」

「人聞きが悪い。敵を排除するのに躊躇しないだけだ。それに、仲間を殺されて平気な主がどこにいる」

 珥懿は胡座の上に雪貂を抱えた。ただひたすらに頭を撫でられて逆に申し訳なくなる。ならばなおさら、主は本来ならこんなところにいる場合ではないはずなのだ。

「珥懿さま、人が出払っていてお湯を用意出来ませんし、やっぱり今日のところはお戻りになったら?」

「問題ない。明日は葬儀だ」

「おひとりで来たの?」

「みな後片付けをしてくれているからな」

 珍しく甘えるようにすり寄られる。余った手が腰に沿った。

「まだたかぶりを抑えられなくて?」

 問えば、しばし思案顔で見つめ、それから目を伏せて首を振った。

「顔を見に来ただけだ」

 雪貂は胸に手を当てて物言いたげにする。しかし珥懿はふっと短い息を吐き、ただ彼女の赤くなった目尻を指の腹で撫でた。


 疲れているのだろう、自分を抱えたまま横になると微睡まどろみだしたので雪貂は温もりを逃すまじと被衾かけぶとんで頭まで覆った。

 寂しかった、という言葉は飲み込んだ。こうして心配して逢いに来てくれるだけでおそれ多いのだ。この上高望みはしてはならない。

 珥懿に護耳みみあてを着け、紐を顎下で結んだ。首から続く筋の先、ずれ落ちた衣から覗く肩口には鎖骨の線の上に黒く並んだ傷が塞がったものがある。皮膚は引きれ、そこだけ弾力が失われていた。連日の戦で負ったものではないその古傷痕は一見して花のようにもみえた。寒々しい襟元を整えてやると、すっかり緊張の解けた顔にうっすらと浮かんでいるくまに触れる。

「せめて今だけでも、ゆっくりしてください」

 囁きが聞こえたのか、わずかに力の籠った手を雪貂はそっと握り返した。







 葬儀の為に用意された衰衣もふくは糸を染めずにそのまま織ったもので、毛皮を貼っていなければ房飾りもない。調印式のときにはあれほどぶら下げた玉や石も用意されなかった。頭も白い沙爽は全身が同系色でよく目立つ。全ての者がそうではなくて、褂子はおりだけ白を着ている者、身体の一部分に生成きなりの布を巻いただけの者もいた。とにかく弔意を示すためのものらしい。

 同じく白い衣服を纏った歓慧に連れられ城の裏門を出た。門前には多くの人々が一様に俯き加減に静寂を保っていた。



 まだ夜が明けきらないうちに城から弔儀の列が出発した。先頭を行く者が長いさおを掲げ、族旗と同じ青、白、赤、緑、黄の五色の帛布ぬのが短冊状に取り付けられて揺れていた。棹頭にあるのは頭蓋。なにかの獣の骨で、黒いうろの左右の眼窩がんかの間からは角が突き出ていた。

 その列に次々と人が加わり、長い葬列が城裏の迷路を進んでゆく。見回せば遠く城牆の上で長揖ちょうゆうしている白い兵が見えた。葬儀だからといって城をもぬけの殻にするわけにはいかないから、彼らは見送りには参加しない。


 東の門前は砂利の血汚れがいまだ黒くぼかされ生々しいまま、鋼鉄の門は完全に開け放たれ、その向こうに広がる街とうっすらと光を受けて陰影を滲ませる、空にそびえる巨大な雪山が見えた。


 葬列は大緯道おおどおりをゆく。列に加わる住民もいれば、通り沿いで見送る者もいた。しんとして誰も一言も喋らない。ただ氂牛うしや山羊の声、首輪の鳴る音、悲痛そうに泣く赤子の声だけが微かなざわめきとなって沙爽の耳をくすぐった。背後から陽が昇ったところで弔鐘が打たれはじめて長く響く。


 東西と南北の大道の交わるあの吹き抜けの祠廟しびょうの前には、相変わらず鈴なりの蕾をしならせた古木が払暁に白く、礼をとって廟を抜けていく人々の立てる微風に揺れていた。

「……いつ咲くのだろうか」

 ぽつりと呟いた沙爽に歓慧は振り向く。

「あの白い花」

 ああ、と控えめに微笑む。

霊瑞華れいずいげが咲いたのを見たものは誰もいません。伝説によると、無花果いちじくのような花だそうですが」

「……どういうことだ?」

「三千年に一度咲く幻の花なのだそうです。この花が咲けば吉祥の前兆だとか。水晶山ではこれが一年を通して咲き乱れているそうです。だからあの雪のように見えているのは、本当は霊瑞華の花なのだと言う人もいます」

 そうか、と沙爽は神妙な面持ちでたわわに実った蕾を改めて見た。つまんで、無理に花弁を開いたらどうなるのだろう。そう思った心の内を読み取ったのか、歓慧は声をひそめた。

「枝を折れても、蕾を人の手で開くことは出来ません。あのように弱々しく風で揺れていますが、花びらをちぎるどころか傷一つつけられません。それに、それは一族の中ではとても不敬なことだとされています」

 なんとも不思議なものだ、と沙爽はぼんやりと思った。泉地だけでなく泉外地までも人智を越えた何がしかの力はあるということだった。



 葬列は長い時間をかけて西門に辿り着いた。こちらは大門の半分が開けられており、茫漠たる白い砂丘が顔を覗かせている。壁外の林と郭壁の間、壁づたいに白い小路を南に進み、土楼どろうのある険しい丘陵地を横目にさらに登る。途中息の切れた沙爽は手近な小岩に腰を降ろした。土楼群を過ぎてかなり高い所まで来たように思う。空気が薄く、草木も徐々に少なくなって転げ落ちれば命はなさそうな急な斜面を人々は粛々と進んで行く。

「これは驚きました」

 同じく苦しそうに息を弾ませた燕麦えんばくが額の汗を拭った。

「このような光景を見ることがあろうとは」

「どうかしたのか?」

 燕麦は問うた沙爽を怪訝に見た。

「泉主はお驚きにならないのですか。天衝壁てんしょうへきの外殻ですよ、ここは」

「……なんというか、大きすぎてなんとも実感が湧かないんだ」

 苦笑したのに返さず、燕麦はなおも首を真上に捻らせた。それは空の色に霞むように降りる灰色の紗幕のようだった。天頂は彼方に消えて見えない。ただうっすらと滲む傾斜のない垂直な石壁、左右を見ても端はなく、それが近いのか遠いのかさえ分からないほど巨大だった。

 燕麦は眉をひそめた。

「……おかしい。非常に混乱します」

 沙爽は歓慧から受け取った水囊すいとうから口を離した。燕麦は困惑して見返す。

「私たちははじめ東を背に移動して、西門を出てからは反対に陽に向かってきたはずなのです。いまはちょうどひるを過ぎた頃でしょうか。それなのに、ここはどうして天衝壁の影で隠れてしまわないのでしょうか。本来ならこのように壁に近ければこの場所が照らされるのは夕暮れです。それが、まるで壁を透かしたように陽が当たっている」

 たしかに、と沙爽は周囲を見渡し、頭上を見上げる。空はかさを被って陽の位置は朧であったが、天衝壁によってその光が遮られてはいなかった。本来なら天空こそ見えない位置なのではなかろうか。足許に影は落ちているけれども、真下にできるばかりで何処から陽光が注いでいるのか分からない。

「歓慧どの、どうしてだろう?」

「私たちは、水晶山の照り返しだと教わっております」

 歓慧も自信がないのか、少し困ったように首を傾げた。

「照り返し、か。こちら側ではそう説明はつくけれど、裂け目より南にずれた城でも天衝壁に遮られることはなく西陽が差していたのは何故なのかそれも不思議ではある。不思議なことばかりだ」



 葬列は急坂を越え、ついにひらけた丘に到着した。乾いた砂地、削り取った岩棚におびただしい数の骸が白い布を掛けて並べられていた。そのまわりに同じく白い緞帳どんちょうが巡り、今は開けられている。牙族の塋域えいいきは存外質素なもので、緞帳の前に簡易で作られた祭壇があるだけ、あとはただ広いだけの荒地だった。


 祭壇と緞帳の間には木を積み上げた狼煙台のようなものがもうもうと煙を立ち昇らせている。

「お前も来たのか」

 ほのかに白檀びゃくだんの香りがして沙爽が振り向くと白い衰衣を陽に眩しく揺らし、頭から蓋頭おおいを垂らした珥懿が腕を組んで立っていた。

「なにかまずかったでしょうか?彼らをきちんと見送りたい」

 珥懿は周囲を見渡した。「勝手にすればいいが、あとで文句は聞かないからな」

 どういう意味だ、と訊きかけて、はっとあたりを見回した。滑空してきた黒い影が羽音を響かせ砂地に次々と降りてくる。

「泉主、」

 青ざめた燕麦が首を振った。沙爽はわけが分からず呆然とする。緞帳からほど近いところに群れをなして飛んできたのは小童ほども背丈のある巨大な鳥だった。大きな鉤爪かぎづめは掴まれれば今にも連れ去られそうなほど。鋭いくちばしから覗く赤い舌は血色、飢えた眼が今にも襲いかかってきそうに獰猛に光った。


禿鷲はげわし……」


 燕麦が眉間に皺を寄せた。歓慧を見る。

牙暁がぎょうどの、なぜ言ってくれなかったのですか。知っていれば泉主をこのような所にお連れしませんでした」

「燕麦、どういうことだ」

 彼は苛立ったように肩をいからせた。

「これは我が国では大罪人に懲罰として施すものです。しかばねを鳥に食わせるのです」

「私たちはそのような考えで彼らを弔っているのではありません」

 歓慧が顔を上げ、隣で珥懿も追い払う仕草で手を振った。

「お前たちの考えなど知らない。来たからには黙って見ていろ」

 そして祭壇へ下っていく。沙爽は高鳴る動悸を抑えて帳の奥を見据えた。葬儀の仕方まで違うとは、思いもよらなかった。それもそのはずだ。彼らは衣服も違えば食べるものも違う。同じといえば言葉と顔かたちだけだ。

「泉主、このような死者を辱めるけがれたものをご覧になるべきではありません。あまりに道義にもとります」

 燕麦が止めたが首を振った。

「いいや。悪いものとは思わない。これは彼らなりの弔いだ。私は見届ける。たしかに、私たちにはむごいものだと感じるだろう。しかし私は牙族のことをもっと知りたい」


 遠くで珥懿が祭壇の前に立った。はじめに耆宿院の者が何事か誄詞のりとを述べ、香を焚いた。それに続いて剣を抜き、恭しく礼拝する。戦士をたたえる言葉、朋友への労いを朗々とうたい、銅鑼が鳴らされ、それからおもむろに緞帳が閉じた。


 幕が降ろされたのを合図に鳴き声を上げて大鳥の群れが視界の阻まれた向こうに群がる。何百もの羽音、羽根を散らして白い帳の内側が見えそうなほど激しく揺れるのを沙爽は震える体をそのままに凝視していた。燕麦が口を押さえたのが目の端に映った。


「人は空を飛べません。だから命を天に返すには鳥の力を借りなければならないのです」


 歓慧が静かに語った。「天からくだったものは必ず返さなければならない。私たちは沢山のものを日々享受します。陽、雨、雪、風、大地の実り。それら全ては私たちになくてはならないもの、それを取り込んだ私たち自身をやがては天に返す。そうすればまた恵みが地を潤してくれる」

「……やはり牙族の天とは、私たちの天とは異なるようですね」

 燕麦が腐臭に耐えかねて険しい顔をした。泉地において天とは黎泉、雨も実りも根源は大地に根ざす泉の恩恵、死ねば泉の一部となる為に故人は土にかえされる。

「訊いてもいいだろうか?遺体がその…食べ残されることは?」

「禿鷲も生き物ですから、それはあります。満足していなくなったあとで、残りは崖に落とされます」


 沙爽は言われて初めて、岩棚の向こうに見える突兀とっこつの壁との間に距離があることに気がついた。天衝壁が間近に迫りすぎて、ここは壁から続いて張り出した高台なのだと思っていたが、よく見れば緞帳の先は不自然に空間があるようだった。丞必しょうひつが前に言っていた谷とは壁の内外にはしるこの崖のことだったのだ。

「崖にはほかの鳥もいて、巣があります。残りも彼らのかてにされます」

「そうか……」

 それ以上は何も言えなかった。安易に惨たらしいと言うことは簡単だけれども、これも彼らが代々行ってきた儀式であり文化、それを頭から否定することは彼ら自体を拒絶することだ。同盟を組んだ以上それはしたくなかったし、沙爽は黎泉にとらわれていない自由な彼らが好きだ。理解は難しいが受け入れようと努力は出来る。



 食べ残された遺骸はいぶされてから砕かれ、崖に流される。この頃になると弔いで残った者はごく少数で多くの人々は夕餉ゆうげの支度や雑務の為に丘を下ってしまっていた。

 弔いが全て済むまで、珥懿は祭壇の前に立ち尽くしたままだった。沙爽はその背が今は頼りなげに小さく見えた。あちらもまた死んだ者達によってその命を繋いだ者の筆頭であり、彼らの死を背負っている。逃げられない運命さだめ、少なくともその一端を負わせたのは自分だ。


 わずかな残照の宵闇の中、ようやく葬儀を終えて壇から下りてきた。夜目にも白い布の下で口を開く。

「沙爽、すぐにでも四泉に兵を送りたいところだが少々厄介なことになった。それに皆には一旦休息を与えたい。派兵はいましばし待て」

「しかし、二泉の本軍が」

 燕麦が横から口を挟んで、睨みをきかされて黙る。

「十日待て。その間に完璧に野牛に乗れるようにしておけ」

 そう言うと遠のいていく珥懿を見送り、沙爽らも来た道を戻り始める。

「鼎添さま、わたくしは少し土楼に用がありますので、今日はこれにて失礼致します。客寓やどの手配をこの者たちが致しますので、今晩は街に泊まってください」

 歓慧が頭を下げながら仮面の二人組を示した。分かった、と返事をして、もう一度緞帳も祭壇もすでに撤去され焦げた跡を残すばかりの岩棚の天葬台を見た。


 人の幸せの基準とは必ずしも一定でないものだ。同じ泉地に住む者でさえ、それを少したがえただけで争いが起こる。分かり合うのが難しいときがある。それが泉外民ならなおのこと、死の弔い方も部外者が口を出すべきではないのだ。なにが当人にとっていのか、真に理解してあげられる者が送るべきなのだ。

 燕麦はこれを正しくないと糾弾したが、では泉民のやり方が正しいと誰が決めた。黎泉か、代々そうしてきたからか、それが大多数の意見だからか。葬儀に限らず常識として執り行われる一切のこと、それは本当に自分たちの益となるからやっていることなのか。

 結局のところ、人は善悪の線引きをただ自分たちの幸せと仁徳とされる事柄に繋がる振り幅の大きい方をよすがとして判断しているにすぎないのだと、そしてそれは生まれ住む環境で大きく異なるだけなのだと、そう思った。







 狭くて明り取りのない階を登り、歓慧はたてつけの悪い隔扇とびらを開けた。すぐ傍で薬師の炮眇ほうびょうが薬草を磨り潰しており、歓慧が来たのをみとめると立ち上がった。

「そのままで構いませんよ」

「いえいえ、お嬢様がたのお邪魔にはなれません」

 くつくつと笑い小房を辞す男を見送って、歓慧は奥に目を向ける。自分の名を呼んだ相手は牀褥ねどこに仰向いたまま読んでいたものを閉じた。

砂熙さき、体はどう?」

「もう大分いいよ」

 砂熙が片肘をつきながら起き上がった。歓慧は眉尻を下げる。

「無茶ばかりして。姉上に怒られたそうじゃない」

「皆が戦っている時に私だけ寝ていられない」

「おかげで背中の傷が開いたんじゃ世話ないでしょ」

 呆れて言うと睡衣を脱がせ、炮眇が用意していた膏薬を砂熙の背に塗る。

蜚牛ひぎゅうの毒は抜けたみたいだし、もうほとんど大丈夫なの。四泉への行軍には間に合う」

 乳姉妹は意気盛んに言った。歓慧はそれを後ろで聞きながら憂鬱に目を伏せる。華奢な背にばっくりと裂かれた痛々しい傷は見るに耐えない。

「また襲われるかもしれない」

「望むところよ。今度は逃がしたりしない」

 砂熙は拳を握ってひとり頷いた。「登虎とうこに比べれば、あんなもの大したことはなかったわ。次は絶対に狩る」

「でも、二泉は強い。蘭逸さんがやられるほどに」

 静かに言った歓慧を砂熙は肩越しに見返した。

「蘭逸さまは我らの誇りだわ。あの人は自分の代わりに人質を救った。さすがは五翕家ごきゅうけの蘭家大人たいじんなだけの御方だった」

 故に、とてつもなく貴重な人材を失った。戦況はまだ前哨戦と言ってもいい時期に早々に功臣を失うとは誰も予想だにしなかった。

「まさか、二泉に北路まで攻略されるなんて」

「……そのことなのだけど」

 砂熙が顎に手を当てる。「少し気になることがあって。四泉主と私、それに蕃淡を襲ったあの蜚牛の奴ら、なんとなく二泉の者ではないような気がしたの」

 歓慧は訝しげに眉を寄せる。

「なにか違うにおいがした?」

「ううん、なんとなくね。あと私、あいつらから逃げている時に変なものを見た気がする。幻かもしれないけど」

「変な…もの?」

 砂熙は衣を着直しながら思い出すように視線を彷徨さまよわせた。


「とても大きなヒョウが茂みの中に座っていて、その隣に人が立っていた……。そしてこちらを見てた。でも、よく考えるとそんなはずないのよね。野生でもあんな大きなのは見たことがないし、そもそも猋を従えられるのは古今東西、牙族の当主だけだもの」


 言って砂熙は照れたように笑う。

「きっと気が動転して岩か何かと勘違いしたのかも。ごめんね、変なこと言って」

 歓慧は曖昧に微笑み返したが、顔は徐々に色を失った。

「……歓慧?どうかした?」

 寝転んだ砂熙が不思議そうにする。それに何でもない、と手を振り、立ち上がって小房を出た。


 荒くなる息を抑えながら階を降りる。光庭にわに差しかかったところで声を掛けられ、咄嗟に体を縮めた。

「歓慧さま?どうかされましたか」

 穏やかな面差しが心配そうに目を細める。

礼鶴とうさま……」

「まだ調子が良くないのでは?もう夜だし、今晩は泊まっていくでしょう?」

 言えば力の抜けたようにその場に座り込んだのに慌てる。

「大丈夫ですか?」

「礼鶴さま……、私、どうしたら」

「砂熙と喧嘩でも?」

 問いかけにただかぶりを振るのに状況が掴めずに困惑した。思い当たることを尋ねてもなんでもないと言うばかり。

「困りましたね。こんな時、乳母めのとならどうしたでしょうか」

乳母かあさま……?」

 礼鶴は微笑んだ。「あの人なら、歓慧さまの今のお気持ちを理解してあげられるのですが。あいにくと私では役不足のようです。砂熙も近頃素っ気なくて、少し寂しいものです」

「砂熙は伴當になったから礼鶴さまにはもう甘えられないと思っているんです。それに、私たちは十六になりました。もう子どもではありません。困らせてごめんなさい、少し疲れただけなの」

 短褐のらぎ姿の礼鶴はさらに問いたげな視線を寄越したがそれ以上は何も言わず、軒下に置いていた籠を持ち上げた。土の付いたままの蔬菜やさいを見せながら笑む。

夕餉ゆうげの支度を手伝って頂けますか」

「私がやります。礼鶴さまは休んでいて」

 籠を受け取り、ふと見上げた。

「……礼鶴さま。礼鶴さまは城の地下に行ったことがある?」

幽庵ゆうあんのことですか?いや、入口は知っていますが入ったことはありませんよ。当主と彩影さいえい以外に入れるのは歓慧さまくらいなものです」

「……そう」

 望んだ答えではなかったのか、歓慧はそれだけ言うと背を向け厨房くりやへ行ってしまった。後ろ姿を途方に暮れて見送り、泥の詰まった指で頬を掻いた。


「年頃の娘は難しいね、菊佳きっか


 思わず亡き妻へ愚痴をこぼしてしまい、ふっと笑う。この名を呼ぶのは懐かしく温かいが、やはり寂しい。それはともかく、砂熙も歓慧も立派になったものだとしみじみとして星の瞬く夜空を見上げた。自分には許されたほんの少しのあいだ、彼女らを見守ることしか出来ない。

 そうは言うものの、今でさえ十分に恵まれている。少なくとも天寿を全うするなら、彼女たちが今の倍の齢を重ねるまで傍にいてあげられるから。


 礼鶴は植えてある寒咲きの小菊に指の腹を添えた。

「……あなたの分も、あの子たちをもっと支えてやれればいいんだが……」

 まあ、砂熙は伴當になれたし、歓慧には当主がいる。自分の出る幕はないだろうけれど。それでも少しでもなにかあれば頼って欲しいと思うのは親心ゆえだ。当主などは男親が子にそれほど愛着が湧くものかと懐疑的だが、とんでもない。男である自分には子をせない。だからこそ自分の血を受け継ぐ子を持てることは奇跡のわざであり賜物たまものなのだ。それが愛した女との子ならなおさらだ。

 そんなことを思いながら、ただじっと深くなる夜の中に佇んでいた。浅春の宵に吐く息はもう白く現れず、小さな花弁に浮かぶ露をすくった指だけが濡れて外気に冷やされていた。







 溜息が出たが、それは湯が心地良いからではなかった。浴槽の縁に肘をついた珥懿は濡れた髪を掻き上げる。浮かんだ薬草が肌に触れるのが不快でったそれを隅に追いやった。

「姉上?何か?」

 外で妹が声を掛けてきて、問題ない、と返して湯殿を出た。



 雪灰色の衣には手描かれた墨の蕙花らん、銀の髪紐は先に黒真珠が連なっている。広い袖裾は雪豹のまだら模様が一周した。衰衣ではないにしろ、城仕えならこれが蘭家への哀悼を示すものだと分かろうものだ。

「歓慧に身を繕ってもらうのは久しいな」

 大きな鏡台の前で微笑む。それに笑い返して、歓慧は出来ました、と言って離れた。

「姉上ったら、私がちゃんとしないと適当なものばかり着るんですもの。おまけにえり元は緩んでいるし。丞必も何も言わないし」

「あれは私と同じで出で立ちに頓着しないからな」

「だめです。姉上は当主なんですから」

 叱り口調で言った歓慧だったが、いぶかる眼差しを向けられ慌てて目を逸らした。体調は戻ったがやはりいつもの潑溂はつらつさには及ばないのを早々に見破っているようだ。

「歓慧、憂えることはない。蘭逸は使命を全うし息子を助けた。悔いはないだろう」

 妹の元気が無いのは戦いの為と思ったのか、珥懿は自らの着た衣を撫でた。もちろん、葬儀が終わった直後で傷心なのは皆同じだ。歓慧も多くの知人や仲のいい家童こしょうを失った。平気なわけがない。

「良い見立てだ」

「ありがとうございます」

 頭に手を置くと嬉しげにする。可愛いことには変わりない。また笑み返した珥懿はしかし一転、息を吐いた。

「さて、全く気乗りはしないが行ってくる」

「お気をつけていってらっしゃい」

 もう一度溜息をつくと身をひるがえして城を出る。外では影が二つ、主を待っており、姿をみとめて軍礼れいをした。


十牙じゅうが、伴當はすでに集まっております」

 言ったのは斂文れんもん、あれだけの怪我をしていたのに所作にはそれを窺わせる風もない。横に並び立つは斬毅ざんき。彼の表情に珥懿は呆れ、腰に手を当てた。

「その情けない顔をどうにかしろ」

「しかし、二泉を撃退してすぐに審問とは。耆宿院は一体何を考えているのか」

「どうせ今日一日騒ぎ立てて終わるだろう。行くぞ」


 馬に乗り城牆をつたって郭壁へ出る。懸門を抜けてそのまま続けて壁の上を北回りで走る。外周を回ることになるから街の中を突っ切るよりも距離はあるが、障害物がないので馬で駆ければ午前のうちに西門へ到着できた。


 西門から外へ出て、壁沿いに北西の斜面を登る。兵舎と広大な訓練場を横目に通り過ぎ、道をさらに進むと石を積み重ねた山門が現れた。

 山門の前では夭享ようきょうが賓客を待ちわびていた。これには斂文と斬毅はむっとする。そもそも、筆頭監老かんろうの彼が騒ぎ立てなければこんなことにはならなかったのだ。

「平然と我らを迎えるとは、厚顔無恥とはこのこと」

「全く。恩を仇で返すような真似を」

 夭享は三人に頭を下げた。「わざわざのお越し、痛み入ります」

「夭享どの。いささか間の悪い時に当主を招請したものだな。今は一族の一大事、本来ならばこんなことをしている暇はないのですよ」

「こんな時だからこそでございます。本格的に泉国に出兵する前に当主には今回のことをきちんと反省してもらわねば困ります」

「反省だと?当主は自ら前線に身を投じて指揮を執ったのだぞ。讃えられることはあっても非難される所以ゆえんなどない」

 斬毅が憤懣やるかたないというふうに鼻息荒くめつける。それには冷ややかな視線を返して夭享は背を向けた。


 吹き抜けの走廊ろうかを抜けた先、両開きのひなびた門扉は開け放たれ両側には見張りが立っていた。毅然と入口に立った三人に扉の向こうで道をつくるようにして座っていた人々が一斉に頭を下げる。黒と白の院服の先、壇上には耆宿院の長である老婆が同色の褂裴うわがけを掻き合わせ、杖に縋って立っていた。院において、長である大耆たいきのみが身に装飾を許される。連玉かざりを揺らした額が地に向いた。

「当主におかれては御足労頂きかたじけのう存ずる」

 しわがれた声の大耆は珥懿を隣の座に迎えて恭しく手を合わせたが、光石の奥に見え隠れする窪んだ眼はひたと見据えてきた。


 議場は大広房おおひろま、左右と入口の上には狭い簀子すのこの二階廊があり、丹を塗っていない木目の高欄がぐるりと巡らされている。階上には謁見を許された耆宿の院士が並んだ。大天蓋からは巨大な幢幡はたかざりが垂れる。質素倹約を旨とする院のそれは金ではなく透けるほど薄い白紙を優美な形に切り抜いて連ねたもの。しかしこれでもかなり高価な代物だった。いくつかには院の歴代名主の名があらわされている。

 高欄に囲まれた階下には高位の院士と僚班、伴當たちが座し、一様に大耆と当主を見上げた。


「今回お越しいただいたのは先日までの戦についての件にござります」


 大耆が口火を切って、夭享が言を継いだ。

「約半月あまりの攻防の末に失った十三翼と万騎、そして民を合わせて二万ほど。当初の目測では損害はその半分ほどであろうという話でございました」

 斂文が静かに口を開いた。

「泉国との初めての戦、予想は予想にすぎぬ。それよりも耆宿には二泉軍をほぼ壊滅させたという快挙をもっと評価して欲しいものだが」

「もちろんそれは喜ばしいことです。しかし、総勢六万の兵力を考えれば二万の損失は大きい。遠征においてはこちらに地の利はもはや無く、平地での白兵戦になることは必定、当主には今回よりも更に兵力の低下に注意を払ってもらわねば困ります」

「まるで当主が無駄に兵を使い潰したと言わんばかりだ」

 灘達なんたつが非難したがそれにも夭享は臆さない。

「我らが言いたいのはそれです。轒轀車ふんおんしゃが甕城に攻め入った際、当主は監老を除外し伴當のみで甕城を開城して人質を助けるとお決めになってしまわれた。結果として敵に限らず味方も多く命を落としました」

 院の者から声が上がった。

「由歩が独断で戦況を動かしたなど、当主は一体なんのための監老だと思っているのか」

「監老が一人でも合議に臨席していたなら、もっと冷静な判断が出来たのでは?」

 斬毅が床を拳で叩いた。

「確かに当主の招集がかかったのは我ら伴當のみだった。しかしあの場に監老がいても判断は変わらなかっただろう」

「どうだか。僚班も伴當も当主の言に盲目に従うきらいがあるではないか。しかも、甕城の中に毒煙を撒いたと。中にいた味方でさえ殺したのとおなじでございます。監老が事前にそれを聞いていれば絶対にらなかった策です。しかも、人質を救うために開城したというのに、七人中三人しか救えなかった。おまけに蘭家大人たいじんまで」

 蘭逸の名を出されて伴當らが眉間に皺を寄せた。夭享は息を吐く。

「状況が切迫して混乱していたのは認めます。しかし、院としては我らを締め出しての軍議が行われたことは大変遺憾でございます。これではますます院と城側の溝は深まるばかり。もし遠征中にこれが火種となってまた要らぬいさかいが起きては目も当てられません。――当主、黙っていないでなにかおっしゃってくださいませ」

 珥懿は無表情に見返した。

「……命を賭して戦ったのは我ら由歩だ。一兵たりとも出していないお前たちに文句を言われる筋合いはない」

 当主、と誰かが困ったようにいさめる声を出した。そう言ってしまえばそうなのだが、耆宿院は正当な権利を無視されたと怒っている。これでは火に油だ。

 案の定院士たちが憤慨して広房が騒がしくなった。

「やはり当主は我々と協調関係を築く気さえないのですか。不能渡わたれずは足手まといだと決めつけ、造反を警戒して兵を持たせないのはそちらではありませんか」

「だから舵取りの平衡を保つために監老がいるというのに、当主は先代と同じく院を蔑ろにしすぎです」

「そんなことでは四泉との同盟さえ成功するのか不安極まりない。そもそも、取引を完遂してからのことがなにひとつ具体的ではない。このまま兵をすり減らして、はたして損失に見合ったものを得られるのかどうか」

 今更なにを、と伴當たちは顔を見合わせて呆れた。珥懿が大耆を見据える。

「同盟の是非はすでに決された。監老とて決議の折には私に従った。何度も蒸し返さずとも、全ての責を負うのはこの私だ。お前たちは今まで通り街を守ることに専念してくれればそれで良い」

 大耆も珥懿を見返した。

「……耆宿院は街の要。民を導き、栄えさせる為の組織。しかし、外敵を排除するのは城の役目。それはわかっておいででしょうや?」

 主はぴくりと眉を動かした。「……たしかに、郭壁の掖門えきもんを開けたのは十三翼の、ひいては私の過失だ。火矢を防げず無辜むこの民を失わせたことは詫びのしようもない」

 隅で申し訳なさげに芭覇ばはが縮こまった。

「この戦いが終わればそれ相応に立場を定める」

「どのように?」

「二泉に勝つか、我々が散華さんげするかは全てが終わらねば分からない。もし私が死なずに生き残れば、院も納得するかたちで身の処し方を決めよう」

 お待ちください、と今度は僚班がいきり立った。

「我々は身命を懸けて民を守って戦っているのです。なぜ安全圏で高みの見物しかしない院の言いなりにならねばならんのです」

「大して役にも立たぬくせ、口だけは一人前にまつりごとに参画し、当主を無意味にさいなめる。図々しいにもほどがある。あまつさえ全ての責を負わせるというのか。以前の愚行を忘れたとは言わせぬぞ。お前たちがその無駄な矜恃をこじらせなければ先代は死ななかった!」

「当時も二泉と通じた馬鹿者のせいで被害が拡大したのだ。耆宿院に全幅の信頼などできようはずがない」

 賛同の声が大きく上がり、険悪な空気が漂う。夭享は嘆息した。一体何年、平行線を辿らなければならないのか。歩み寄ろうとすればすぐに衝突し、確執が生まれる。


「――――確かに、僚班の意見はもっともです」

「……老茹ろうじょさま……」

 沈黙を破った声は続けて落ち着いた口調で言う。

「そも由歩の信頼を最初に裏切ったのは院のほう、僚班は内輪だけで事を進めたいと思うのは当然のことです。しかし、院はなにより民の代弁者として当主にお仕えする身、民の意見なくして国は立ちゆきませぬ。反対に、良き指導者がおらねば一族はたちどころに秩序を失い離散する。……とはいえ、我々よりも民のほうが由歩と不能渡の関係は良好であることに、いい加減学ぶべきでしょう。それぞれの弱きところを支え合うのが本来の姿、民は何よりそれを分かっている。なのに首脳陣である我らが権利を主張しいがみ合っておる場合ではない」

 老茹は水を打ったように静まり返った議場を見渡し、視線の終わりに大耆をとらえた。

枯残こざんさま。せつは本来、城と院の仲を取り持つ為にこちらに入ったのでございます。先代の近くでお仕えしましたから僚班の考えることも分かりますし、不能渡として由歩に軽んじられる気持ちも大変理解できます。しかし当主が大変な決断に至るまで監老として口を出すことはしませんでした。何より、我々が四泉と成そうとしていることはどうさいの目が出るのか予想も難しいのです。絶対にこうなるということが言えない。それでも当主は四泉帝の提案にお乗りになった。見い出した希望の可能性、拙はそれに賭けることにしたのです。その点は夭享どのも同じです」

 夭享は詰まったが、渋々認める。

「当主は決して耆宿院を軽んじたいと思っているのではございません。何より優先すべきを優先しているだけなのです。我々がそこからあぶれがちというだけで。それに、目まぐるしく戦況が変わるなか城は外敵からの防御で手一杯、街のことは院を信じて任せて下さっているではありませんか。たった一度招集をかけられなかっただけで大事にするのは今はご寛恕かんじょ願えれば、と思うのですが、いかがですか」

 夭享は困って口の中で言を濁した。微かなざわめきのなか、丞必が慎ましやかに口を開く。

「我々僚班伴當とて、監老を侮っているつもりはございませんでしたが、つい事後報告となりがちなのは事実、老茹さまの仰るとおり一族として垣根を越えてこの山を乗り越えなければ勝機はありません。以後気を引き締めて改めます」

 当主を見れば無表情に微かに頷く。大耆はようやく大きく息を吐いた。

「……同盟については私も院も監老の意見を重んじた。文句は言うべきではないし、できる限りお支え致す所存だ。我々が願っていることは、ただひとつなのです。由歩が守護で命を賭す裏でそなたたちの食べるもの、着るもの、輜重しちょうや薬に至るまで、そのほとんどは民が、ひいては不能渡が日々労苦してこちらも命を削って備えているということをゆめゆめお忘れくださいますな。監老の扱いが粗雑になることが常となるのは許しませぬ。よいですな、当主」

「……肝に命じる」

 頷いて大耆は沈黙し、目を閉じた。それから申し訳程度にこれからの戦略を共有し合い、閉会の合図に彼女が杖を立てたのを皮切りに珥懿も腰を上げた。





 議場を後にし丘を下って西門に至る道すがら、珥懿は一言も発さず、従った丞必に口をきいたのはもうすぐ東門が見えようかという頃合いで、やっと呟いた。

糞婆くそばばが」

 くすりと丞必は笑った。

「しかし老茹さまが我々を弁護して下さったのは意外でした。あのように長舌な様子は初めて見たので驚きました」

「ありがたみは湧かないな。奴とて院の手先。あの中には確実に内通者がいる」

 丞必は馬を並べ声をひそめる。

「目星はありますか」

「いいや。今まで不審な点がない以上、ひとりふたりではなく大人数で秘匿しているのかもしれない」

「……それは大耆も含めて?」

「無論だ。むしろあの糞婆がいちばん怪しいだろう。夭享の不満などいつも聞いているだろうに、今回にかぎって呼び出した。しかも内々にではなく何人も証人を立ててこれ以上監老が合議から省かれないよう圧力をかけてきた。監老が裏切り者でないとしても、話す全ては筒抜けだ」

「厄介ですね」

 そうでもない、と珥懿は不敵に笑った。

「もはや城での軍議はほぼしない。遠征に監老はついて来られないからな」

「誰を残します」

烏曚うもうには残ってもらう。いくら耳が良いとはいえ負担が大きい。あとは、」

 珥懿は前方を見て言を切った。東門の箭楼やぐらの前に人影が佇んでいる。まだ伸びきっていない背は小さい。木彫りの荒削りの面には赤い線が入っている。二人が気づいたのを知るとたどたどしく礼をした。

ちょう家の者か」

 馬上から丞必が声を掛けると、小童は面を頭上にずらし素顔を見せた。その場にひざまずく。

大人たいじんが当主をぜひに野点のだてにと。このような時にお呼び立てしてご足労おかけしたいへん恐縮でございます、喪後ではありますがどうか寸暇、お時間を割いて頂けないかと申しておりました」

 丞必は珥懿を振り返った。「私もご一緒出来ますが」

「いや、一人で大丈夫だ」

 使者を立ててわざわざの招きだ、珥懿個人になにか話があるのだろう。

「行こう。土楼か?」

「いいえ。赤勒館せきろくかんの内庭にてお待ち申し上げております」

 赤勒館とは街の西南にある姚家の親族が経営している茶館だ。

「分かった」

「先走りおいでを知らせてまいります」

 少女は頭を下げると壁から飛び降り、焼け焦げたはりをつたってあっという間に姿を消した。

「くれぐれもお気をつけて」

 丞必と別れ鞭打つ。壁を下り、焦土の門前を抜けて道に踏み出した。




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