二十二章



 二泉西伐軍は牙領南の甕城はもはや崩せないと知り、北門の攻略を主力とする作戦に転じたようだった。その間ありとあらゆる方法で牙族の意気をくじくことに執心し、捕らえた俘虜とりこをいたぶり、しかばねはずかしめた。しかしこれは逆に二泉への憎しみを増長させ、牙兵の士気は衰えるどころか燃え上がった。とはいえ、少なくとも冷静な判断力を失わせるには功を奏したといえるだろう。互いに兵を失いつつ、開戦から半月と少し、族軍は二泉軍を一掃する為に北門から出撃することになった。いつまでも鬣狗はいえなのように眈々たんたんと隙を窺う二泉に籠城を余儀なくされている一族は苛立つ万騎はんきと十三翼の主張を受け入れたのだ。



 今までで最も血で血を洗う熾烈しれつな争いになった。隘路あいろ、雪の融けた道に血が流れて泥濘ぬかるみに足を取られる。霧のなか相互の姿は模糊もことして見えづらく、野牛に乗っていては狭くて身動きもままならない。向かってくる敵はもはや本当に敵であるのかよく確認することもなく斬り捨てた。


「当主!螻羊ろうようは全部始末し終えたのでしょうか!本当に道から来る奴らだけでございますよね⁉」


 耳に響く声は活雷かつらいで、身軽に次々と敵の喉元を斬り裂きながら珥懿の為に道を空けた。問われて主は霧の崖上を見上げる。

「そのはずだ。でなければ今頃矢が飛んできているはずだからな」

 活雷は雄叫おたけびを上げ双剣を掲げて鮮やかに舞う。若いな、と珥懿の横で侈犧が呟いた。

老耄おいぼれにはきついぜ、これは」

「莫迦を言うな。弱音は聞かない。さっさと万騎で囲め」

 敵の一陣が敗を決したのを悟って狭道の先へ退きはじめた。それを追って万騎は前へ出る。

 迷路は曲がりくねって自分がどの方角へ進んでいるのか分からなくなる。安易に枝道を入れば先で合流できるのかどうかさえ定かでない。

「どうする?先回りできる道があればそちらにも兵を割くが」

「……」

 普段なら、風の通り道、抜ける通路が珥懿には分かるが今の鼻ではせいぜい敵の通った跡が分かるくらい、抜け道など当てずっぽうもいいところだ。歯噛みしたところにふいに後ろから声が掛かった。


「当主!俺が案内します」


 駆けてきた影は皮甲よろいも着けず動きやすそうだが見るからに寒い姿の小柄な少年。

「淡雲!おまえ……」

 侈犧が驚く。由川に落ちてからずっと目覚めなかった彼は白い顔を道の先に向けた。

「分かるのか」

 北の迷路は由霧も溜まりやすく、今は少し離れた人影も見えないほどに濃い霧が発生している。目印になるようなものもない断崖と草木の連続、風景の似た通り道は同じところを巡っているような錯覚におちいる。

「俺の脚が覚えています。何歩進んで、どこで折れ曲がり退さがったのか」

「よし、残りの万騎は淡雲と敵兵の先へ回り込め。挟撃する。十三翼はこのまま敵の後を追え!」

「当主は」

「私はお前と共に行く。あちらも待ち伏せしている可能性もある。十三翼が追いつく前に叩く」


 淡雲を筆頭に細道を疾走する。無尽に伸びる多叉路を迷いもなく走る。

「……大したものだ」

 珥懿の呟きに自嘲するように口角を上げてみせた。

はん家が滅んで十三年。これまで、ずっと北路を巡っていましたから」

「……不満があったか」

 問うた当主に、否、と返した。

「家人がいないにもかかわらず用いてくださっただけで。お陰でこうして役に立ちました」

「四泉主の随伴も苦労をかけた。……お前、登狼とうろうを受けないのか」

 淡雲は少し迷う素振りを見せた。

「……そうですね。受けてみるのも、いいかもしれません」

「おい、お二人さんよ」

 突如会話を遮り侈犧が剣呑な顔をした。


「なにか、音がしねぇか」


 道の先、霧のしこる分岐の奥から響くのはさざなみのようなざわめき。珥懿は足を速めた。後を追って続く者たちにも、徐々にそれが悲鳴であることが分かった。仲間の叫び声だ。

 敵を追って先駆けた万騎兵の怒声を聞いて皆血相を変えた。

 曲がり角を抜けた地面には落盤かと見紛う巨大な穴が空いており、深い穴底には竹槍が天を向いて待ち構えていた。穴の中の土と濃い血のにおいは人だけでなく獣のものも混じっている。腐血と糞尿の臭気のなか、哀れにも串刺しにされた兵がもがきながら絶命していく。


「ええい、油断したか!鼻が利かねえ!」

 侈犧が忌々しく穴の向こう側を睨んだ。この半月で聞得キコエの牙兵はすでに戦場の血と死臭で能力をいちじるしく削がれている。それは珥懿とて例外ではなかった。むしろ、普段利き過ぎるくらい繊細で鋭敏な六感は油膜を張られたように鈍くなっているのが己でも分かっていた。


 十三翼と合流し仲間を穴から引っ張りあげ、道を繋いでさらに先へ進むと、幅に盾を並べて敵の本陣が待ち構えていた。前哨ぜんしょうの姿がこちらから見えた途端、一斉に矢を射掛けてくる。黒い鉄盾の間隙からわずかに見えた馬上の敵将、その姿を捉えて珥懿は駆けた。

「当主!なりません!」

 丞必が声を上げたのを無視してさきがけの風を吹かせ突っ込む。矢をかわして跳躍し、鉄の壁を支えた敵兵が自分を見上げた顔を踏み台にして斬り込んだ。


「当主が中に入ったぞ!援護、援護!」


 族軍が一気になだれ込む。盾の上から槍を差し込む。波のように押し寄せる敵軍の攻勢を、馬上の騫在けんざいは少し離れた位置で見守りながら爪を噛んでいた。傀儡かいらいが壊れてきてもう戦力はない。多少なりと北路に牙兵をおびき出し、兵力を削っておかなければならなかった。王はすでに泉畿を発ち四泉へ向かっている。早々に牙族主の身柄を献上しに行かなければ、あの気まぐれの主のことだ、待たせるとどんな罰が待っているか分かったものではなかった。


 横で劉施りゅうしが声をあげた。騫在をおそるおそる見上げる。

「首魁が」

「来たか」

 騫在は剣を抜いて目をすがめた。黒い塊の中にただひとつ真っ白な姿をみとめて歪んだ笑みをつくる。徐々に近づいてきた人影は金の仮面を着け、冗談はりぼてのような大きさの鎌を振り回している。

「狙え、劉施。お前の兄をった奴だ。お前の恨みをその一矢にかけるのだ」

 頷いた少年は弓弦を鳴らした。蟀谷こめかみから汗がつたう。しかし、狙いが定まらない。獲物は一時として動きを休めない。移動する標的を追って矢先を揺らすのに騫在はれったさを感じて内心舌打ちした。

「いいか、我が合図したら射ろ」

 はい、と劉施は生唾を飲み込む。顔が分かるくらい近づいてきた白い影が頭をこちらに向けた。背筋が冷えた。こっちは岩陰になっていて見えないはずなのに。


「放て!」


 理解が追いつかず、ほぼ反射で離した矢、それは目標に届く前にあろうことか矢面にされた味方の喉に突き立った。射手は小さく悲鳴を上げて弓を取り落とす。敵は盾にした兵を塵芥ごみのごとく振りて、迷いなく真っ直ぐ向かってくる。

「気づかれたか」

 騫在は岩棚の上に姿を現した。

「我は二泉禁軍、西伐将軍のそん騫在。牙族主と見受けた。二泉主におかれては族領を明け渡さば族民を二泉民として迎え入れる所存である。降伏せよ。さすればこれ以上の攻撃はせぬ」

 族主は何もこたえず、聞こえないとでもいうように足を止めず近づいてくる。岩の前に自兵が壁をつくったがそれを容易く薙ぎ払うさまに唖然とした。族主は騫在から見れば細腕でおよそ頭を二つも三つもね飛ばせるような力があるようには見えない。しかも連続の斬撃で確実に仕留めるなど不可能だ。しかし、実際にその一部始終を眼前で見せつけられて初めて焦った。信じられない思いで一瞬後には馬首を反転させる。会話の成立しない以上、牙族の降伏はありえない。それに、あんなものと一騎打ちして勝てるとも思えない。


「騫在さま⁉」


 劉施が慌てて呼びかけたのを無視し迷路を奥へと逃げる。少数の兵がそれに付き従った。


 劉施は呆然とそれを見送り、それから敵が鋒先きっさきを届かせるまでに近づいてきたのを振り返り震える手で剣を抜き放った。憎悪よりも恐怖で歯の根が合わずかちかちと鳴る。どっと嫌な汗が全身から噴き出た。正面の敵はそんな劉施をなんの感慨もなく金面の奥の温度のない瞳で見据えている。


 ―――家族を殺した敵。矢で貫き、首を落とした仇。


 殺さなければ。そう思って精一杯睨みつけるが、膝が笑って立っているのがやっとだ。握った柄が水気で滑る。相対した族主は釣竿のごとくふいと白銀に光る大釤たいさんを振りかぶった。鋭利な刃先に狙われている。自分の荒い息遣いしか耳に響かず、目を閉じることも避けることも出来ない。

 鎌がまさに己めがけて降ろされようとしたその時、矢羽が空を切る音がして敵は反転した。背後から射られたものを流れるような動きで叩き落とす。劉施は思わず力が抜けてしまい、中腰で剣先を地に着けてその光景を眺め、はっと我に返って慌てて馬に飛び乗った。



 馬尻に鞭打ち汗を散らしてようやく抜けた丘陵で騫在は首を巡らせ霞む黒煙を遠くに見、やれやれと肩を落とした。大多数は残してきたがあの分であれば半数は戻ってくるだろうと目算を立てた。それにしても、と額を拭う。あらためて先ほどの族主の様子に人知れず身震いした。性別以前に、本当に人間か、あれは。族主の様子からはどんな感情も感じられなかった。ただ淡々と首をぐ、あれのほうがよほど生ける殺戮人形と呼べよう。佇まいは身の毛のよだつほど美しく、気は雲のようにおぼろでおよそ人のにおいがしなかった。

 息を吐いた。ともかくも、これだけ尽力し、兵の数も被害は甚大だ。この有様を見れば泉主も無慈悲に罰を下しはしまい。とにかく自分は四泉で合流し状況を伝えなければ。しかし、どの時機で兵を退かせるか。悩んでいたところで遅れて劉施が合流してくるのをみとめ、ぐるりとあたりを見回す。なんとか方向はまだ分かっている。

 息を整え、さてでは先んじて退路へ進もうとしたところで、配下が騫在を狼狽した声で呼んだ。疲れとおののきで震える指で凹凸の激しい丘の向こうを指差した。


「……?なんだあれは」


 少しばかり霧の晴れた彼方に見え隠れする黒い点は徐々に広がり大きくなる。近づいてきているのだ。


「――敵兵です!」


 劉施が悲鳴をあげた。ばかな、と騫在はその影を凝視する。「なぜあんな方角から――」


 言いかけた言葉は口中で失われた。旗が見えた。青と白の軍旗。風になびく赤い縁取り。はためきに描かれているのは蛟龍みずち犬狼おおかみ


「四泉軍‼」


 なぜ。四泉に由歩は少ない。しかも通過困難な北から山越えしてきたというのか。

「騫在さま!牙族の兵もいます!」

 土埃を上げて疾走してくる塊にどういうことだ、と後退あとじさった。前面にいる兵は馬に跨っているのではない。あの荒々しい巨大な牛が突進してくる。

「……逃げるぞ!」

 騫在は手綱たづなを取った。いま頭にあることは絶滅を避けなければというその思いただ一つだった。





 珥懿は敵の指揮が混乱しているのを見て取って不審に眉をひそめる。まさかあの将軍、この状況で指令も出さず兵を捨てて逃げたのではあるまいか。

 敵兵はさらに北へと潰走する。それを追った族軍は行く先で激しい剣戟の音と今度は敵兵の悲鳴を聞いた。

 狭い道を抜けて躍り出た先、泡丘ほうきゅうの入口は血の海、入り乱れる敵味方、しかし敵はすでにほとんどが打ち倒されて地面にたおれているか、または降伏して頭を抱えている。


 異彩を放つ大旗は四泉のもので小旗には州名が見える。


「当主!」


 呼びかけた者は剣の露を払い収めると牛に乗ったまま近づいてきた。

「乗り遅れましたかな。これでも急いで駆け戻って来たのですが、やはりふた月はかかりました」

 上背のある男は豪快に笑った。七泉しちせんから呼び戻していた侈犧隊の残りが到着したのだ。

「州軍をどうやって連れてきた」

 ああ、と男はろう州軍の旗を見る。「帰領の途上で四泉と同盟したと聞き及び、もしかすれば霧界を遠回りせず国内を横断させてもらえるのではないかと物は試しで訊いてみたら快く了承してくれた。しかも瀧州を抜ける際に州牧から軍も貸して頂いた。由歩を引き抜いて二十人、矢面くらいにはなるだろうと」

 瀧州軍の将帥しょうすいと思しき兵が下乗して礼をとった。侈犧が男に近づく。

「お前なぁ、それならそうと灌鳥とりを寄越せ」

「当主が四泉の手は借りぬと突っぱねたら、彼らの出鼻を挫くことになるだろう。実際連れてきて功を立てさせれば良いと思ってな」

「まったく、勝手をして……。ともかくもよく戻った。これで二泉は壊滅した。残りの兵も東へ退却を始めてる」

「追いましょう、当主。禍根なく滅するべきです」

 珥懿は息を吐いた。

「……いや、もう陽が沈む。暗闇のなか北路追撃は無謀だろう。それにいまは仲間の救援のほうが先だ。投降した者は捕縛しておけ。……戻るぞ」

 労りや感謝の言葉は帰ってから。そう言外に示した主に、侈犧と男は顔を見合わせて苦笑いする。

「なかなかに苦戦したようだな」

「やれやれ、やっと一息つけるぜ」

 隘路から後援の野牛が束になって駆けつける。徼火が上から手を伸べた。

「珥懿さま。お嫌でなければ、私と」

「……死に損ない。お前が後ろに乗れ」

「えっ!いいんですか!」

 差し出された手を無視して飛び乗られ、徼火は嬉々とする。構わず首を巡らせた。累々と転がる死体、泥と血にまみれ、四肢を飛ばし傷だらけのむくろ。あまりの悲惨さに顔を覆いたくなるほどだ。しかしそれら全てを目に焼きつけると、珥懿は帰還を呼びかけた。







 戦果は敵兵三万九千。厄介だった螻羊はその全てを討ち尽くした。鹵獲ろかくした馬が一万頭、鉄冑てつよろいの武具に青銅と黒鉄くろがねの武器の山ができた。しかし味方の損害も予想以上に大きく、六万の十三翼と四千の万騎のうち四翼一万八千、万騎三百が戦場で散った。甕城開城において救助した人質は七人中三人、伴當はんとうで死んだのは蘭逸、僚班りょうはんでは五人。そして、街区の民は火災に巻き込まれた者を含めて七百余が犠牲となった。



 敵のしるしは数え終わってからあなを掘って埋め、同胞の遺体は集められる。沙爽も参加しようとしたが、四泉のしもべたちはけがれを負うと言ってあまり手伝わせてくれなかった。


 城で手持ち無沙汰に書案つくえに向かっていると外から呼び掛けが聞こえた。開かれた隔扇とびらの向こうからちらりと見えた影をみとめて、沙爽は戸板を大きく開いた。

「もう具合は良いのか。歓慧どの」

 茶器を持って佇む小さな少女は穏やかに笑う。まだ病みあがりで青白い肌をしているが元気そうだ。

「ご心配をおかけして申し訳ありません。肝心な時にお支え出来ず」

 伏した姿に沙爽は首を振り、両手を持って立たせた。そのまま椅子に座らせる。

「随分長いこと寝込んでいたので心配した」

 覗き込んだ瞳は気まずげに逸らされた。

「本当にもう大事ないのか?」

「はい。ありがとうございます、鼎添ていてんさま。お茶を淹れますね」

 なんとなく、倒れる前の笑顔よりぎこちない。少し痩せたろうか、細木のような白い腕が折れそうで心配になる。沙爽は話題を変えた。

「そういえば、朝から牙公の姿が見当たらないのだが……」

「明日の朝には戻っていらっしゃいますよ。すぐ葬儀がありますから」

 そうだな、と沙爽はぼんやりする。

「ひとまず、終わったんだな。牙族領ここでの戦いは」

「まだ油断は出来ませんが、二泉軍もほぼ壊滅しましたから。今のところ援軍のしらせもございませんし、四泉攻略に重きを置いたのかもしれませんね」

「……たくさん、死んでしまった」

 歓慧が顔を上げると、沙爽は格心まどから見える空を眺めていた。表情は沈んではいたものの悲嘆に暮れてはおらず、いまだ目にした光景に実感が持てないかのように呆然としていた。

「四泉でも、二泉でも、これからもっと死ぬんだな……」

「戦とはそういうものだと存じます」

 湯気の立つ器を差し出され受け取り、深い息を吐く。

「私にできるのは、せめて忘れないでいることだけだ」

「鼎添さまはそれだけではなく、牙族の死が無駄ではなかったことを証ししなければなりません」

 沙爽は頷いた。真摯な瞳を向けた歓慧はしかし、飲み口の縁を撫でていた手を抱え込んだ。

「……申し訳ありません」

「なぜ謝る?」

「偉そうに出過ぎたことを申し上げました。わたくしとて、戦をするとはどういうことか、本当には分かっていなかったんです。人知れず死んでいってしまった同胞たちには家族がいて、日々の暮らしがあったでしょう。わたくしが明日は糸をつむごう、畑に種をこうというように、彼らにも来るはずの明日があったはずなのです。誰も自分が今日死ぬことを前提として過ごしたりしません。二泉の人もです。きっと、故郷には親がいて、子供がいて、想い人が待っていたはずなのに……」

「…うん」

「戦士を辱める二泉の戦い方は嫌悪すべきものです。でも、なによりいちばん汚いのは私なんです」

 俯いた歓慧の言を理解しかねて、沙爽は首を傾げた。

「命を奪う覚悟をしたならその生を自分の一生ぶん背負う心づもりでいなければ。そうでなければ、命を賭けて向かってきた相手への侮辱になります。私は自らの手も汚さず、加勢もせずのうのうと他人事のように寝ていただけだったのです。卑怯で浅ましくて、こんな私に戦とはなんたるかなんて、語る資格もなければそもそも鼎添さまにお説教できる身分でもありませんでした。お許しください」

 自嘲して寂しげに微笑んだ。自分が牙族として役立たずなことは分かっている。だから精一杯のことはしようと決めた。それなのに、すぐにこうして自分が生きていることが全て無駄なような気がして揺らぐ。


 沙爽は驚いた。歓慧が自身のことを消極的に言うのは初めてだったからだ。そんなことはない、と即座に否定しようとして、けれども少し間を置いた。

「……私だってそうだ。泉根という立場に胡座あぐらをかいて高みの見物をしていただけだった。私には他人の命がかかってるのだと、だから不用意に危険には近づいてはいけないのだと。ただの言い訳だ、こんなの。仲間を守れない者に民が守れるなど誰が信じるだろう。私も同じなんだ、歓慧どの。我欲ばかりの卑しく醜い人間だ。とんだ鼻つまみ者なんだ」

 だから、と続けた。

「卑しい人間なりに、どうしたら少しでもなくなるか、ずっと考える。考えていく。それを死んだ者たちへの償いにする」

 歓慧は苦笑した。「私たち、似てはいけないところで似てしまいましたね」

「全くだ」

「私の償いは……」

 呟き、口を閉ざす。沙爽に顔を向けた。もういつもの笑顔だった。

「少しでも皆の役に立ちたいです」

「充分よくやってくれていると思う」

「まだまだです。寝込んでいたぶん、挽回しなくてはですね」

 歓慧を見るとほっとした。久しぶりに接する邪気のない柔らかな空気にここしばらく動いてなかった頬筋がゆるんだ。

「明日の葬儀は私も臨席しても良いのだろうか」

「もちろんです。鼎添さまはすでに我らの兄弟、同胞はらからでございますもの」

「きちんと見送りたい」

 目を背けることは許されない。沙爽は彼らの血によって玉座をあがなう。それはいわば呪われた道、いちど足を踏み込めば死ぬまでゆるされない孤独の道。すでに沙爽の体は彼らの魂を背負ったのだ。それを忘れてはならない。





 ひとまずは敵襲の危険はないとなって、沙爽ら四泉一行は再び逗留先を城内から薔薇閣しょうびかくに移した。泉主に目通り叶った瀧州軍は直々に言葉をたまわってむせび泣く者が出るほど感極まり、士気も盛んに随行を希望した。


 すでに四泉北部、東西各州からは州軍が曾侭そじんへと集められている。他方、撫羊ふよう軍は穫司かくし泉の腐敗を信じた民から反発を受け、開城を要求されるもこれを弾圧した。混乱のさなか金州府に囚われていた瓉明さんめい軍と穫司軍の一部が解き放たれ、民の援助を受けて脱出に成功する。脱走者は約五百、しかし多くは門を出てすぐに外で守りを固めていた二泉軍に討たれた。城内の残りの捕囚も処刑され、追っ手を逃れたごく少数の兵だけが八方に離散した。




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