二十一章
霧と
「どうかしたかい?」
後ろから続いてきた男は持っている木の棒でとんとんと湿った地面をつついた。少女は男の手を取る。
「……そうか、あと少しだね。休まなくて平気かい?」
少女は手を繋いだまま足を踏み出す。連れ立って歩いていると、後ろから荷馬車がやってくる音が聞こえた。
親切な
少女が男を引っ張るのを見ていた老齢の女が乗るのを手伝ってくれる。
「あんたたちも逃げてきたのかい?大変だったねぇ」
四泉の最南西の郷、
埋州は鉱山で名を馳せる地、鉄だけでなく金銀玉鉱、かつて
「食べるかい?」
向かいの老婆が干し芋を前にかざした。正面を見つめた男は不思議そうに首を
「ああ。どうも、ありがとうございます」
「……驚いた。あんた、目が見えないのかい」
様子に気がつき、感心する。男の所作があまりにも自然だったからだ。現に、今も難なく老婆の手から干し芋を受け取った。男は微笑したままそれを割き、大きなほうを少女に渡す。
老婆は少女が芋に
「やっぱりあんたたちも泉が涸れるのが心配で?行くあてはあるの?」
「ええ、まあ。二泉に知己がいるので、そこを訪ねようかと」
そう、と老婆は頷き、憂鬱げに馬車の走ってきた道を振り返った。
「戦だなんてねえ。この歳になって経験するとは思わなかった。しかも四泉で、なんて」
「あなたはどうなさるのですか」
憂い顔のまま老婆も微笑んだ。
「息子の家族がこっちで働いてるの。二泉にも家があるから、そこにお邪魔するのだけどね。でも、隣には牙族がいるでしょう?四泉と同盟したって聞いたから、二泉に攻めて来るんじゃないかと気が気じゃなくて」
そうそう、と老婆の隣の鉱夫が寒そうに首を竦めた。
「
四泉と二泉はいまこの話で持ちきりだった。
「牙族は
「狼みたいに牙が生えているそうよ」
「四泉に来た牙族の軍はみな虎のような顔だったそうだ」
「牙族の王って、男?女?」
「なにも分からない。なにせ領地に忍び込んで無事に帰ってきた奴はいないって話だ」
「恐ろしいねえ。四泉主は
それより、と奥の男が首を傾げた。
「本当なのかい、実は公主さまが正当な泉主だってのは。王様ってふつうは男がなるもんだろ」
「二泉主は認めているらしいぞ」
「だが、まだお若い公主の言うことを真に受けるべきなのかねえ。
しっ、と女が指を立てた。
「滅多なことをお言いでないよ。雲の上のことなんて、あたしらに分かるわけないじゃないか。穫司の水が涸れたそうだ。どのみち泉南は終わりだよ。これからもっと良くないことが起きるんだろうさ」
荷馬車の中は重苦しい空気で満たされる。誰もがみな、不安に息をひそめていた。
鹿射泉の周囲には
二人は
「今日は風が強いなあ」
男は目線を下に向けながら答えた。
「おそらく西の山風でしょう」
主人は二人分の粥の椀を目の前に置いた。男は呟く。
「―――見つけたかい?」
少女が粥の中に入っていた石を口に含んだ。男の手を握る――というよりも、丸まった
「そうか。よし」
男は杖を取る。粥を一口も食べずに立ち上がった。
旅舎は
「なんとある?
仄夏は見上げ、掌を指でなぞって文の内容を伝えた。
「おやおや、人使いの荒いことだ」
「……」
仄夏が口に手を当ててきた。暗くてなんと言ったのか見えなかったのだろう。
「疲れると言ったんだよ」
「……ぐ、ん」
つっかえるように音を出した。続けて何かを訴える。冷えた手をあやすように握ってやった。
「壁が薄いからね。あまり大声を出してはいけないよ」
今度は不満そうに
「なに?おや、全部食べていなかったのかい?」
「そうだね。粥は飽きたね……やはりか。……そう、呼びかけは風が強い、だったよ。少し演技臭かった」
明日からもう行くの、と訊いてきたのに寿玄は頷いた。
「寄り道だが、しようがないね。ご命令だから。
「……」
うつらうつらと瞼を閉じてゆく仄夏に
急遽予定を変更し、寿玄と仄夏は鹿射から東の街道を通って緩やかに北上した。さらに数日をかけて目的地である埋州の隣の
こぢんまりとした風体の
「見つけられるかなあ、仄夏」
寿玄は安背泉の
泉の外淵はそれほど高くない隔壁が巡らされている。青い
「お前、何してる」
安背泉の形状は特殊だ。北辺が由霧にかかってそのまま霧界の谷にまで泉が広がっている。ゆえに郷の壁は北辺の無い
「うろうろとなんだ。親は」
仄夏はじっと兵士の顔を見上げる。
「親はどうしたと言ってる。なんだ、口が利けないのか」
すると遠くから男が杖をつきながら足早に歩いてくる。
「申し訳ありません。どうかお許しください。なにぶん、耳が聞こえませんので」
「お前の
言って兵士は男をためつすがめつした。
「見ない顔だが、どこの者だ?」
「私共は西から親類を訪ねて来ました」
「ほう。儂は生まれも育ちも安背だ。その親類とやらも知っているかもしれん。なんというのだ?」
寿玄は頭を下げた。「これはご丁寧にどうもありがとうございます。お申し出はたいへんありがたいのですが、家を知っておりますので大事ありません」
「不自由しているようだが」
なおも言い募る兵卒の老婆心に内心辟易し、どうしたものかと思ったとき、突然澄んだ声が響いた。
「おじうえ!ここにおられたのですか!」
小さな少年だった。腕には大きな
「探しましたよ、もう!ほら、早く行きましょう。兵隊さん、お勤めご苦労様です」
兵卒に笑いかけてぺこりと頭を下げると、ぐいぐいと引っ張って歩き出した。仄夏が慌てて寿玄の手に追い縋る。
泉から離れて大途まで戻ると、少年はくるりと向き直った。
「
「……さて、人違いでは?」
微笑んで首を傾げられ、少年は、あ、と声を出すと次いで、ええと、と宙を見る。
「――鳥が飛ぶ。白い翼に白い足。もとは
仄夏が目を輝かせた。彼女も知っている、牙族の詩歌。
「呼び交わす声は人と
「……その鳥、名はあるのだろうか」
寿玄が問うと、少年はほっとして嬉しそうに笑った。
「水に
仄夏が声を出すのを我慢して自分の手を口に当てた。彼女はこの詩が好きで、音程が分からないなりによくひとりで口ずさむ。寿玄は少年に笑いかけた。
「ご主人にお会いしに参りました。
少年は
「お迎えに上がりました。
幼い声で先導して歩き出す。仄夏が手を引きながら安背ではないのかと訊いてきたので、寿玄は小さな案内人に話しかけた。
「ご主人は、ここにはいないので?」
それが、と困った声色で答えた。
「急用が出来てしまい、州都にいます」
粛州州都というと、
壁沿いに質素だが高価な二頭立ての馬車が停まっていた。中は外からは目隠しされていて広く、火鉢まである。興味津々に見回す仄夏に少年が包袱を開いてみせる。
「ここまで歩いてきたのでしょう?おなかが減ったのでは?」
馭者が鞭を打って軒車が動き出した。仄夏は取り出された饅頭と寿玄を見比べた。
「……ん?ああ。すまない。いつも私が半分にしてからなんだ」
少年から饅頭をひとつ貰うと、半分に割って少し齧った。「うん。美味しいよ」
仄夏は嬉しそうに湯気を立てている半分を貰う。やり取りに自分まで嬉しくなった少年が問うた。
「名を聞いても?」
「こちらは仄夏です」
「お幾つですか。ぼくは今年十になりました」
「おや、では同い歳ですね。仄夏、ご挨拶。こら、恥ずかしがりは直さなければならないよ」
注意を向けられて饅頭を持ったまま隠れる。
「おふたりは、ご家族なのですか?」
「いや、違いますよ。正確には、私はこの子の
「そうなのですね。なんだか、本当に
少年は笑っているようだった。そうですか、と寿玄も微笑んだ。どうやら、会おうとしている
掌にくすぐったい感触がして目覚めた。小さな指は目的地にもうすぐ到着することを伝える。
「台月さま、お目覚めですか?もうすぐ
少年の声も降ってきて、昼下がりの匂いを感じ取りおおよその時刻を把握した。膝に寝そべっている仄夏をやんわりとどけ、いちおう乱れた衣服を整える。
「申し訳ないが、仄夏の髪は荒れていないだろうか。なにぶんお転婆ゆえすぐに髪紐がほどけてしまう」
少年は考えるふうにした。
「主公さまはそんなことは気にしませんけども。仄夏さまがぼくに結わせてくださるでしょうか」
本人は寿玄の袖を握って逡巡のにおいをさせる。
「私は括ってやるしかできませんから。お願い致します」
わかりました、と少年が了承して、仄夏は渋々離れた。彼女は寿玄に反抗したことがない。父と呼んだことはないが、いつも親に対するように従順だった。
そうこうしているうちに、軒車は門をくぐって邸の敷地に入った。広い邸宅、
「それは渋柿だからそのままでは食べられませんよ」
ふいに声が掛かり、仄夏が警戒するのが寿玄には分かった。少年が主公さま、と呼んで膝をつき、衣擦れの音をさせて新たな者が戸口に立つ。
「申し訳ない。私も安背の様子を直接確かめたかったのだが、野暮用が出来てしまって。あなたが、台月どの?」
「左様でございます」
「
「それは、もう。おいしい饅頭も頂きました」
阿透が誇らしげに胸を張った。それに微笑んだ主公は二人にどうぞ、と邸の中を示した。
一般的にはひとつの庭を四方で囲む造りの家が多いが、この邸宅は
中庭には郷を巡る
庭を臨む一室、板張りの
「主公さま!またこんなに散らかして!」
「ああ、そうだった。すっかり忘れていた」
主人は間の抜けた声で言うと客に謝る。
「お恥ずかしい。私はどうも夢中になると周りのことに気がつけなくて」
「お構いなく。こんな
「すぐ片付けますから!」
阿透が言って、では、と微笑んだ。
「片付けてもらっている間、仄夏に池を見せてやっても?」
もちろんです、と主人が柔和に笑った。話は聞いている。
「ぼくも同じことを言ってしまいました」
呟きを聞かれたようで、阿透が
「台月さまは本当に見えていないのですか。まったくそんな感じがしないのですが」
「そうだろうね」
人と話す時、彼は自然に相手の顔を見ている。音の出処が分かるからだろう。しかし、目が合うわけではない。
「牙族の方にお会いしたのは初めてですけど、二泉の人と違いが分かりませんね」
「見た目はね。
分かっています、と阿透は頷いた。
「ぼく、お茶を
「ありがとう」
阿透が出て行って、あらかた片付けたところで二人を呼ぶ。
「さて。ご挨拶がまだでしたね」
「粛州
こちらも頭を下げた。「
匯仲は微笑した。
「ご謙遜を。かように遠大な距離を
「実は、別件で桂州に向かっていたのですが、安背の様子を見て来いと
なるほど、と匯仲は頷いた。「やはり泉人である私には信がないのでしょうね」
「そんなことはないと思いますが。なにせ、温刺史さまは長年こうして
「しかし実際に牙族の方と面と向かってお会いするのは長い任務のなかで初めてのこと、よほど安背泉の件は牙族にとって重要事のようですね」
寿玄も頷き返した。
「それで……状況はどんな感じでしょう。先ほどの安背の様子からすれば、いまだ混乱なども起きていないようだったので泉は無事なのですよね」
問うたところで、阿透が茶器を揃えて帰ってきた。丁寧に茶を注ぐと、盆を持って立ち上がる。
「ぼくは
「阿透どの、差し支えなければ仄夏と遊んでやってくれないだろうか。ここにいては飽きてしまうから」
不満げな唸り声がした。いる、と書いた手を握って、寿玄は少年にもう一度頼む。
「分かりました。中庭で遊んでまいります」
仄夏はなおも嫌がるようにぐずっていたが、阿透に連れられてふてくされて出て行った。足音が遠ざかるのを確認して向き直る。匯仲は優しげに笑った。
「年端も行かぬ彼らには聞かせたくありませんか」
「仄夏はまだ一族のことがよく分かっていないのです。内容が内容ですから、混乱させたくなくて」
「まあ、私も文を頂いた時は驚きました。まさか、泉を涸らせと言われるとは思いもよりませんでした。職掌の範囲外ですし」
刺史とは、割り当てられた州の視察、監察を主な業務とし、州の長官である
「安背都水台からは手出し無用と怒られました」
匯仲は眉尻を下げた。「なにせ、急に刺史が口を出してきたのですからね。よもやなにか叱責を受けるのではないかと警戒しておりましたよ」
「安背は岸が
「北辺は特に由霧で徐々に腐蝕してまいりますから。定期的に水工に手を加えねばならないのです」
寿玄はそれで、と湯呑みに手を伸ばした。
「護岸工事が終わるまで待っているというわけですね」
妙齢の男は笑んだ気配を絶やさず頷いた。
「といっても、今回は特に崩れてきている箇所の修復という名目ですよ。ひと月程度で終えられるものといえばそのくらいしかありませんから」
汚穢させた水がなるべく流出しないよう、
「それに、終えてからじゃないと人が多すぎますからね。どこで誰が見ているか分からない。工事はあと二日もすれば完了です。すでに霧界には工作兵が来ているのでしょう?」
「詳しいことは聞かされておりません」
「私もですよ。与えられた任は安背の北辺の護岸工事を行うよう指示することだけでしたから」
寿玄は首を傾げた。
「伺ってもよろしいでしょうか」
「なんでしょう」
「温刺史さまは、なぜそこまで我々に協力を?」
匯仲は族民でもなければ泉外人でもない。生まれも育ちも泉国だ。地位名誉もこの上ないのに、なぜこんな危険を冒してまで忠義を尽くすのか、寿玄にはよく分からない。
彼はそうだろう、というふうに頷いた。
「私が牙族の侠客として立ち回ろうと決めたのは命を救われたことがあるからです。聞いたことはありませんか、昔領地の境界に泉人の
「ひょっとして、青い
それです、と苦笑した。「今ではそんな呼ばれかたになってしまったようで」
「子供らには好かれる昔話ですよ。話はかなり改変されていると思いますが。まさか、ご本人とは」
「当時、私はとにかく親の示す道に反抗したくて。そんな折に
「というと?」
「二泉で地位を高めて内間として働けと。最初は簡単な偽装やら吹聴やらをしておりましたよ。油断して危険な目に遭うことも沢山ありました」
「それはさぞ大変だったでしょう」
「最初のうちは。しかし、私がいいように使われているのではと疑って牙族を裏切ったり失望しなかったのは、万騎を信頼していたのはもちろんですが、二泉での活動に具体的な年数を設けて下さったからです。私が間諜を続けて四十になれば牙族の一として迎えるという盟約を」
そして、と匯仲は期待を込めて宙を見据えた。
「今年がその年です」
寿玄は匯仲の純真さに少し驚いた。
「失礼ですが、盟約というのはその…、口約束ではなく?」
「口約束でしたよ。しかも出来るわけがないと侮蔑されながらのね。でも与える試練に私が器用に
「今の地位を棄てて?」
「私はこの二十数年、その為に働いてきたのです」
泉地に下りることはあれど、泉外人が牙領に迎えられた例などない。
「もし、牙族が期待を裏切ればどうします」
匯仲は寂しげに微笑んだ。
「むしろそちらのほうが確率は高いでしょうね。しかし、私は牙族の為に働きすぎた。罪を公にしても
「その方は温刺史さまのことは?」
「さあ……伝え聞いているかは分かりません。ですから、これは私の一方的な願いなのです」
「よろしければ、その者の名をお訊きしても?私なぞが知っても詮無いかとは思いますが」
そう誠実に言った寿玄だったが、匯仲の困惑したようなにおいを嗅ぎとった。
「実は、恥ずかしながら
「しかし二十数年前に万騎にいたのならある程度は絞れるかと思います。万騎は入れ替わりが激しいですから、今もいるかは分かりませんが」
これには驚いて呆気にとられた。
「寿玄どの、まさか探してくださるのですか」
「桂州での任を終えればいちど帰領しようと思っていたのです。霧界を越えたらすぐですから。その時にでも近しい者に尋ねてみるくらいしか出来ませんが」
匯仲は顔を覆った。目の前の人物に自身の姿は映らないのは分かっていたが、動揺して
「私は誤解していたかもしれません。牙族はみなこちら側には踏み込んで来ない。もともと泉人を信用しない。間諜として用いられていても、牙族の内情やひとりひとりの
「私は仲間からは甘すぎる、優しすぎると呆れられ、今は四泉で細々と暮らしている役立たずの郷間にすぎません。もとより戦力外、いまさら有能さを知らしめようなどとは毛ほども思わない。しかし呆れられることが分かっていても、流れに取り零されたものについ情が移ってしまう
寿玄は照れたように笑う。匯仲は思い返して目を細めた。
「……あの方も、あなたのようにとても優しかった……。間諜になってから初めてお会いした牙族があなたで良かった、寿玄どの。しかしあなたはやはり用いられるべくしてここに遣わされた。戦力外などでは決してありません。あなたと話して、より一層務めに対して気持ちを新たに出来ました」
居住まいを正し背筋を伸ばす。
「二泉主の暴虐を止めましょう。いまや二泉の水は濁りきっています。このことが明るみになり水涸らしと
寿玄も頷いた。今になって、やはり匯仲も泉を穢すことには多少なりと
「……実は、安背泉を涸らすという案は当主直々のお考えとか。長年の働きによって匯仲どのが覚えられている証拠でしょう」
「なんと。それは恐悦至極です。寿玄どのは、当主にお会いしたことが?」
「現当主がまだ子どものころに、一度だけ。今お会いしても分からないかもしれませんね。
それはこちらの言うことです、と匯仲は笑む。寿玄は仄夏大事だ、と思うと同時に、自分とて阿透を溺愛していることに思い至った。
「我らはもしかすると、似た者どうしなのやもしれません」
不思議そうに小首を傾げた寿玄にさらに笑った。微かに、中庭で遊ぶ子供らの声がする。無邪気で、無垢なその声がいつまでも絶えないように、匯仲は手を
「安背が無事に潰れるまで、こちらに滞在なさいますよね。是非ここに逗留なさってください」
「良いのですか?」
「私は所帯をもっていないし、家人も信用できる者しかおりません。気安いが物寂しくて。阿透も遊び相手ができて良いと思うのですが」
「それならば、お言葉に甘えて」
寿玄は素直に従った。本当のところは、間諜どうしが親密になるのはあまり良くないが、ここのところ仄夏には無理をさせていたからゆっくり休ませてやりたかった。桂州は川下だから亜糺から舟に乗れば問題ない日数で着くので、焦る必要もない。
「そうそう、大事な探し人の名をお伝えし忘れていました」
匯仲が呼んだ名は寿玄には聞いたことがなかったが、彼が覚えている限りのその万騎兵はなかなかに情の
二泉は現泉主の登極以前からも内乱の絶えない国だった。泉畿よりも恵まれない地方州は鬱憤が蓄積されやすく、戦場になることも多かった。首都州より寡兵のいち州が兵力を補うために独断で牙族に万騎を借り、傭兵部隊として使った例はごまんとある。話を聞けば、匯仲もそうした混乱のさなか危ないところを助けてもらったらしい。
寿玄にしては珍しく、この匯仲という男と話すのは苦ではなかったのでつい長々と話し込んでしまい、日の暮れかけた頃にさすがに遊び疲れた仄夏を伴って阿透が遠慮がちに母室を覗くまで時を忘れていたほどだった。
眠そうに目を擦る仄夏を膝に抱えた寿玄に匯仲は穏やかに笑う。彼はついぞ笑みを絶やさない。しかし、たった一度の恩を忘れず、国を裏切るまでに牙族へ焦がれる秘めた情熱は、きっとその柔和な笑顔の中にはどこにも感じ取ることは出来ないのだろうと寿玄は思った。
五日後、安背泉は突如として黒く濁った毒水に変じた。瞬く間に溶け入り環泉にも流出したそれは安背の郷を蛇の
粛州刺史はすぐに安背の水門を閉じさせ、下流に流れる川に濾過装置を動員するよう命じた。一度腐った泉は安背上流からの流れでも毒のほうが強くて洗い流せない。州牧は泉畿に差遣せずに残しておいたなけなしの州軍を投入し安背の人々を救助させたが、到着した時点ではすでに安背郷内は肌を青紫色にさせた者がそこかしこに蹲り、血溜まりに身を横たえていた。さらに、その症状は伝染するという流言が飛び交い、心無い兵の一部が郷を封鎖しようとして民と衝突、安背は酸鼻を
安背の
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