二十章
絢爛豪奢の玉座、正面の
「忌々しいことだ。あのように小さき部族、五万でも苦戦するとは。
「畏れながら泉主。
「山城攻めには最悪の時節であることは分かっておったわ。しかし、四泉主が牙領にいる以上、宮に
「同盟とはな。馬鹿め。泉民の誇りまで捨てたとは四泉主はかなりおめでたい頭をしておる。早く叩き割ってやりたい」
騰伯は内心嘆息した。二泉と牙族の国境、その霧界はおよそ人智を越えた峻峰、由歩ならともかく不能渡が安易に山越え出来るような環境ではない。それでも攻めるというから、最も由歩兵の多い、大司馬大将軍である自分の直轄軍のうちから優先して掻き集め、
「
「主力はあくまで四泉だからな。それに、
「仕方がございません。謀叛を起こされても鎮圧の容易いように他州の軍を縮小したのは他ならぬ泉主でございます」
騰伯、と斉穹は声を荒らげて下僕を一喝した。ものの、こちらは毅然と見上げる。
「私は何度も申し上げました。牙領攻めは無謀にございますと。このままではいたずらに兵を失うだけ、それに、四泉と牙族が同盟したのであれば、牙族は四泉のために加勢をしに泉地へ出てくるということです。二泉と四泉との国境ならば馬で十日前後で街道もあります。不能渡の兵をそれほど消耗させずに四泉へ送ることが可能です。牙族との一騎打ちは泉地でなさればよろしいでしょう」
「ふん、そんなこと分かっておるわ。だが牙族の兵力と練度がどの程度のものなのか測るのに牙領攻めは必須だった。無駄にはしない。撫羊から穫司が涸れたと報があった。おそらく四泉の虚言だが用心に越したことはない。各都水台に問い合わせて異状がないか奏上させろ」
「では、牙領からは撤退を?」
「騫在によればまだ余力がある。引き続き仕掛ける予定だ。終わったら一軍はそのまま四泉へ合流させる。……ああ、そうだ、
騰伯は眉を下げた。
「やはり、本当に王太子殿下をお連れになるのですか。あまりに危険です」
「それは聞き飽きたぞ、騰伯」
「なれど、
捨て置け、と主はどこまでも非情だった。
「碇也ひとりしか子を
それならば、側妾を置けばよかったではないか、という言を騰伯は飲み込んだ。斉穹は即位以来自分に逆らうあらゆる勢力を排除してきた。特に外戚が勢力を増すのを防ぐために、概ね五人から十人はいていいはずの妃は正妃つまり湶后ただひとりしか
即位から三十年あまり、二泉は斉穹の思いのままだ。浪費家で戦好きの彼がそれでも泉主としてやってこれたのはその狡猾さに
二泉の民は五泉ほどではないにしろ血の気の多い気質で、斉穹の統治に不満を持つ者が今も多数いる。しかしいざ叛乱が起きたとなると、斉穹はその拠点より下流の泉川を封鎖してしまう。乱が平定されるまではこのままにすると布告を出す。そうすると水の流れの止まった都市の民は叛乱民を責める。そうして同じ民を反目させ合い、隙に乗じて
そういうわけで斉穹の
また、不思議なことに彼は
結局のところ斉穹は、自分が死ねば泉も腐り果て、民が困窮すること、だからもしも内部で叛乱が起ころうと決して自分が
「騰伯、お前には親征へ同行してもらうぞ」
「泉宮の守りが薄くなるのではと危惧致します。それに、拙は碇也さまをくれぐれもお守りするようにと湶后陛下に命ぜられております」
斉穹は溜息をついた。空の盃を
「案ずるな。城には充分の数を残す。お前には望み通り碇也の護衛を任せてやる。二泉の唯一の泉根だ、
騰伯は腰を折り、斉穹は周りを見回す。彼は度重なる遠征にしばしば
「誰ぞ四泉に随行したい者はいるか。望む者は名乗り出よ」
これには全員が声を上げた。よく
斉穹は満足気に笑んだが、腕を組んだ。
「しかし、全員連れて行くわけにもいかぬ。――よし」
何事か手を打ち鳴らした。
「久方ぶりに良い機会だ。この場で手合わせしてみよ。勝った五人は羽林と共に我の親征に随伴を許す」
全員が
「お待ちを。いたずらに虎賁で遊ぶのはおやめ下さい」
「騰伯公。何を言っておられる。泉主の前で己の剣技をご覧じ頂けるのはまたとない光栄である」
言ったのは若い郎で、
「酒と
早速、虎賁郎が互いに礼をして打ち合いが始まった。騰伯は困惑して斉穹の座す壇上に登る。
「いつもこんなことをしておいでなのですか。どうりで虎賁の入れ替わりが激しいと思っておりました。兵は無尽蔵ではございません。仲間同士で、しかも真剣試合なぞ」
斉穹は剣戟のゆくえを目で追いながら僕の叱責を聞き流す。そうしているうちに酒肴と妓女がやって来て、斉穹は隣に座った女の肩を抱いた。
「おまえ、誰に勝ってほしい?」
問われた妓女は妖艶に口許を袖で覆って笑い、あの方、と無邪気に郎の一人を指した。斉穹は示された者を見て頷いた。
「あれは強いぞ。負けなしだ。おまえ、見る目があるな。あれが勝ったら
「まあ、はしたないこと」
くすくすと妓女がなおも笑う。そのまさに
「泉主、見るに耐えませぬ。どうかこのようなことはおやめ下さい。虎賁は泉主の守護を任せられる有能な者たち、しかも由歩です。貴重な人材をみすみす失わせないで下さいませ」
「お前はいつまで経っても堅いな。こんなもので死ぬなら親征に伴っても意味がないではないか。奴らとて望んでやっていることだ。なぜ止める必要がある」
剣の触れ合う甲高い音はとめどなく響き、騰伯は倒れてゆく若者たちをやるせなく見つめることしか出来なかった。
そうこうしているうちに虎賁
後には、研磨されて光る石床に散った血痕のなか勝ち残った者のみが立ち尽くす。放心していた騰伯は斉穹の拍手の音にはっと我に返った。
「素晴らしかったぞ。我の信足る
「お前は今回も生き残ったか。弱々しそうな
「
それだけ言って黙した男は先ほどまでの剣技が嘘だったかのように陰気で、これといって印象に残る顔ではなかった。斉穹は濡れ髪の張りついた男に笑い含むと手を離した。
「五人には約束通り随伴を許す。中郎将、あとで褒美を取り分けてやれ」
是、と中郎将が
(知らぬ間に、なんと悪趣味なことを)
騰伯は胸の悪くなる思いで辞した。泉を見渡せる開廊まで出て、緩やかな風にほっと息をつく。
自分でも情けないとは思う。泉主の暴虐を止められず、
近頃の斉穹はまるで
騰伯は思う。どこかに勢いよく転がり落ちていっている。だが誰も意識していないし、しても気に止めていない。本当に、何故こんなことに。
自分がせめても出来うることは泉根である碇也を無事に泉宮に連れ帰ることだけ、せめてそれだけは果たさねばならなかった。二泉五百万の民と泉の為に、なんとしても。
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