十九章



 沙爽がしもべ二人を伴って門楼に駆け込んだとき、既に階上には人だかりが出来ていた。彼をみとめて自然に割れる。

 人垣の中心には重臣が集まっている。その一人、丞必もこちらに気がつき、目を伏せた。

 近づいて沙爽は頭を殴られたかのような衝撃にその場に根が生えたように棒立ちになった。大男がまわりをはばからずに滂沱の涙を流している。すぐ横に面を着けた族主、俯き加減で仰向けに寝かせられている男を見つめていた。


 陽に灼けた褐色の肌は生気を失って白み、体格は良くないが鍛えられた腕や脚には生傷がにじんでいる。黒く染まった皮甲よろいと衣、あちこち刃こぼれしたひと振りの剣がその体の上に置かれていた。

 沙爽自身はあまり言葉を交わした記憶はないが、闊達に発言する姿は覚えている。


「……蘭逸、どの」

「さきほど逝った」


 珥懿は淡々としていた。沙爽は傍らに膝をついて呆然と瞼の閉じられた故人を凝視する。清められていない、血と泥と塵にまみれた、ほんの少し前まで魂のあった亡骸。初めて目にする光景に理解が追いつかなかった。まるで眠っているだけのよう、呼びかければ飛び起きて、また喧々けんけんと喋り出しそうなのに。


 蘭家の手によって遺骸がひっそりと運ばれてゆくのを見送り、なおも座り込み号泣している斬毅につられて零れそうな涙を必死にこらえた。瞬きしたら、きっと落ちてしまう。


 父や義兄たちが死んだ時と全く違った。胸を深くえぐられたような痛みが消えない。周囲の人々が仲間の死を心からいたんでいることが感じられて、それで一層痛みが増して、もう我慢ならずに固く目をつむってしまった。


「……生きて戻ると誓ったのに」


 聞こえた声に顔を上げれば、珥懿がどこか遠くを見ながら呟いたのだと分かった。

「莫迦者が」

 口の端から延びた返り血が乾いて青白い肌に張り付いていた。鉄の半面にも点々と散った戦闘の跡、殺戮を終え麾下きかを失っても決して心を乱してはいないような語調だったが、沙爽は短い言葉の中に珥懿の深い喪失をわずかながら感じた。直後には周囲を見渡して声を上げる。

「戦は終わっていない。失われたものたちへの哀悼は勝利を手にしたあとだ。悲しみに泣き疲れたとて夜警の怠慢は許さない。気を引き締めろ」

 次いでいまだ涙が止められない男を見下ろした。

「斬毅。蘭家の統率指揮は臨時でお前に一任する。もう家と共に城と南の城牆を守らせろ」

「………拝命、致しました………‼」

 斬毅は深く、深く腰を折った。絞り出した声に歯の間から抑えきれない嗚咽が漏れでる。それを機に人々はすすり泣きの残響を震わせながらそれぞれの持ち場に戻っていった。



 茅巻が伝鳩を受け取ったのは翌日だった。南門の敵は数こそ減ったものの閑地まで戻ってきている。とはいえ今のところ攻め込んで来る様子はない。扉が破損した北門の前には城牆の内壁が削りだされて運ばれ完全に封じられようとしていた。見守っていると仮面の者に布で包まれた鳩を渡された。薔薇閣に人がいなかったので枯木に止まって待ちぼうけしているのを牙族の配下が見つけてくれたのだった。


 文を見て慌てて小房に駆け込んだ茅巻は沙爽の前に膝をつく。文に主もまた目を見開き、弾かれるように立ち上がった。隔扇とびらの前の見張りに話しかける。

「牙公はどこに」

「当主は郭壁におられます。しかし四泉主を城からお出ししてはならぬとのめいにございます」

「いますぐ話したいのだが」

「お伝え致します」

「いや、直接話したい。伴當はんとうも集めてもらえないか?」

 見張りは仲間と顔を見合わせると是と答え、中で待つよう促した。それからうろうろと落ち着かなげにしてしばらく、ようやく呼び出しがかかる。控えていた小房にほど近い房間ひろまに人が既に集まっており、沙爽らが入ると一斉に顔を向けた。頬杖をついた族主も朱面を向ける。

「あまり時間は取れないぞ」

「もちろんです」

 沙爽は伝鳩の書簡を卓に置いた。


穫司かくし泉を涸らしました」


 牙族の人々は呆気にとられて沙爽と書簡を見比べた。ただひとり、珥懿だけがほう、と呟く。

「言っていた策とやらはそれか」

「その通りです。どうやら成功したようです」

安背あんはいを涸らすことに戸惑っていたお前の策とは思えないが」

 沙爽は珥懿を見据えた。

「牙公は以前、泉を涸らす、ということが文字通り枯渇させることだけではないとおっしゃった。それを参考に考えた策です。完全に水の流れを堰き止めた訳ではありません。穫司に入る甜江てんこうの流れを狭め、国府都水台から金州都水台へ符牒ふちょうの伝書を送りました」

「よく密書が通ったものですな。水虎ですか」

 沙爽は頷いた。「水虎であればいかに二泉兵や撫羊とて捕獲することが出来ない。そんなことをすれば民の支持が離れる。同時に、いま穫司の中である程度の自由を与えられている味方は都水台だけでしょう。泉の管理を行う彼らは直截ちょくさいに生活に関わりますから、民にとっても特別です。その役人が泉を涸らすなど本来はありえない」

「しかし、符牒の文ならば敵に見られれば企図が露見するのでは」

「一見して穫司泉の貯水と濾過に関する指示に見えるよう、都水令とすいれいあつらえてもらいました。水虎は入れるとしても必ず検閲があるでしょうから」

「なるほど……考えましたな。しかし穫司を涸らせば以南の泉にも影響は大きいですよ」

 灘達に言われ沙爽は硬い表情で頷き返す。

「撫羊は穫司の貯水槽を上限まで溜めていて、泉の水位は下がっている。穫司内の民と以南の民の被害を最小限に抑える為にはこの時機に流れを小さくするのが最善でした」

 泉の底が見え始めれば貯水を使うしかない。水が少なくなれば不満が広がって民は門を開けたがる。

「二泉の本軍が来る前に撫羊を穫司から引きずり出すにはこれしか思いつかなかったのです」

「以南の堰き止めは」

「すでに完了です。開城を求めつつ以北の甜江を徐々に狭めていきます」

 斂文が首を捻る。

「そんな悠長なことをせず、北もすぐに堰き止めて穫司を孤立させたほうが良いのでは」

「瓉明に水涸らしの汚名を着せたくはありませんから完全に断水させはしません」

 これには険しい顔をした者がちらほら。

ぬるい。それなら穫司は水流が溜まるのを待てば良いだけだ。なんの解決にもなりません」

「加えて、都水台によって穫司泉に毒が混ざり始めたという話を捏造させました。話によれば色や味を害なく徐々に変えるすべがあるようです」

 沙爽は再度珥懿を見た。そちらは鼻を鳴らす。

「お前にしては考えたが、皆の言うように穫司泉を汚濁おじょくさせたほうが早い。確実に開城させることが出来る」

「本当に毒を混ぜれば浄化まで膨大な時間がかかりますし、無駄に民の生命を損ないたくはありません。肝要なのは泉が汚れた原因を撫羊の大逆のせいにすることです。それができれば民の信奉は一気に崩れる」

 珥懿は姚綾に問う。「穫司の間諜は」

郷間きょうかんによればかなり混乱しています。異父弟おとうととはいまだ連絡が取れず。州兵は依然として俘虜のようです」


 房間の外から声が掛かる。入ってきた人影は蘭家の者。蘭逸の異母弟で蘭檗らんびゃくの父である蘭柊らんしゅうである。


「来たか。沙琴の側付きの内間ないかんからしらせはあるか」

「水が変色し始めており民に不安が広がっていると。二泉軍が水を俘虜に飲ませて致死の有無を確かめると言い出しているそうです。いまは公主が反対していますが無害と分かるのも時間の問題でしょう。しかし、泉主の思惑通り民の間に公主に対する不信感をあおることには成功したように思います」

「今朝、高竺こうとく驤之じょうし軍が曾侭そじんの瓉明軍と合流したと報も入ってきた。行きがけに穫司の外に布陣していた二泉軍と少しばかり小競り合いしたと。そのせいで二泉軍も混乱しているようだな」

 烏曚が呆れたように首を振った。

「驤之のやつ、はりきりすぎだ。当主、高竺は万騎はんきにも受けがいいが、驤之軍が真に暴れたら手綱たづなを握れますかな」

 主は可笑おかしげにした。

「穫司の真横を突っ切ったか。もちろん高竺には軍を上手くまとめてもらわねば困るが、驤之とて加減はわきまえている。数だけが取り柄の四泉とは違うという良い表明になった」

 ともかくも、と目を地図に戻す。

「我々は領地の敵を蹴散らさねばならない。沙爽、それまで四泉には二泉の親征をどうにか耐えてもらうぞ」

 頷いた。「二泉軍は十一万、二泉泉畿せんきから霧界を抜けるまで早くて半月。やはり国境と大街道を接する崖都がいと瀑洛ばくらく、そして蓮宿れんしゅくにはさらに兵を集めなければなりませんね」

 暎景が口を挟んだ。

「しかし、穫司以南の泉川の流れは穫司から沙琴さまを出さねば開くことが出来ない。それこそ国軍が堰をつくる前も穫司内で水の流れを縮小されている。以南の貯水槽の数と規模を考えても、最長三月みつきが限度です。各郷、貯水が完了している場合のおおよそですが」

「春でよかった。少なからずまだ雪があるから、最悪の状況は避けられそうだ」

 蘭柊が珥懿に問う。

「二泉の州軍はまだ集結しきれていないはず。当主、やはりこの間にこちらも策を弄しておくのはいかがか」

 珥懿はそうだな、と腕を組んだ。

「当初の予定どおり安背泉を涸らす。これで四泉の穫司、二泉の安背両泉に変調となればどうしたって黎泉の懲罰にみえる。思考停止の二泉州軍の集結を止められないとしても、士気は確実に下げられる。上手くすれば召集に逆らう州が出てもおかしくない」

 沙爽はまなじりを下げた。

「やはり…由毒で?」

「敵に同情する暇があるなら一人でも味方を救うことを考えろ。前々から準備は整っている。二泉はすでに仇敵だ。情けはかけない」

 四泉の面々は苦悶の顔で目を伏せた。泉を故意に涸らすのは禁忌だ。それを刷り込まれているからどうしたって快く同意はできない。





 軍議は終わり、陽は傾いた。夜半に一度、南を少人数でつつかれたものの大したことはなく、城は重苦しい緊張のなか沈黙を保っている。


 薔薇閣に戻り、疲れているのに眠れない沙爽は寝るのを諦めて走廊ろうかへ出たところで人影を見つけた。白い月光に半身を照らされて燕麦が佇んでいた。光に同化するような睡衣ねまきはいかにも寒そうで、褂子はおりも着ておらずなにかを憂えるようにじっと荊棘いばらの木立を見つめている。


「燕麦。どうした」

 声をかけられてやっと沙爽に気がついたのか、腰を折ろうとする。それを止めて居室いまに誘った。

「それでは寒くはないか。そなたも眠れないのなら一緒に一服しよう」

「……泉主。私は、」

 燕麦は視線を地に落とす。怒っているというより、なにか落ち込んでいるような様子に首を傾げた。

 促されて腰を下ろした青年は火鉢を前にしても硬い表情を崩さない。

「茶でも淹れよう」

「そんな。泉主がなさる必要などありません。それぐらいならば私が」

 いいんだ、と沙爽はこなれた手つきで茶器を揃えた。

「私だって茶くらい自分で淹れられる。……ようになったんだ。それで、なにか気に病むことでもあるのか」

 逡巡のかおはしばらく沈黙すると、意を決したのかまっすぐ沙爽を見据える。

「正直に申し上げてもようございましょうか」

「構わない。私もそのほうがいい」

「私は、……泉主に少しばかり失望してしまいました」

 沙爽は目をみはったあとで苦笑した。

「すまない。至らない泉主なことは自分がよく分かっているんだ」

「いいえ。泉主の為人ひととなりについて申し上げているのではありません。私が失望したのは――泉に関して、都水台を使って民に虚偽を吹聴させたことです」

 燕麦は言いにくそうにこぶしを握った。

「都水台は国の要です。泉の全ての管理を任せられております。もちろん、泉そのものの質は泉主にかかっており、我々がいくら努力しようと変えられるものではございません。しかし、私どもは日々民に充分な飲水があるか、貯水の量が充分か、氾濫しそうな川はないか、常に目を配り奏上しております。特にろう州は国境があり、堤防が決壊すれば霧界の由川ゆうせんが逆流して汚穢してしまう危険を孕んでおります。その為に風で岸が崩れればこれを直ちに修復し、由霧が吹き込めば濁ってもすぐに使えるように濾過装置の純度を高めております。国のため、民のためにこれほどやり甲斐のある務めはありません。水衡すいこうに属する者は皆、泉が澄明であることを誇りに思っております」

 燕麦は胸のつかえをなだめるように手を当てた。

「その泉の清澄の源頭たる泉主ご自身が、害はないとはいえ泉をけがすよう都水台に命じたと。まるで……私どもの日々の研鑽があっけなく崩されたように感じてしまい……」


 その地の泉の透徹さは都水台の誇りだ。競っているほどの節もある。国から頼られ、民から慕われるのは素直に嬉しい。だからいとも容易く損なわれれば、都水台の矜恃を踏みにじられたかのように感じてしまう。しかも、自分たちの手でそれを壊せと命じられるなど、まるで大切に育てた子を殺してしまうようだ。


「……すまなかった」

 燕麦ははっと顔を上げた。卓子を挟んだ向かい側で、主が重ねた手の甲で顔を覆っていた。

「燕麦の言うことはもっともだ。本当にすまない」

 慌てて冷や汗を散らしながら立ち上がり、床に額をつけた。

「申し訳ありません。つらつらと出過ぎたことを申し上げました。今はことに戦のさなか、泉主も苦渋の決断であられたのは心中察するに余りあります。どうか、私が申しあげたことはお忘れください」

「いいや、正しいのは燕麦のほうだ。謝らなくていい。私は実際に都水台の仕事を見たことがなくて、そなたたちの働きをあまりに軽んじ過ぎていたのかもしれない」

 沙爽は立ち上がり、沸いて音を立てる土瓶を灰炉いろりから取り上げた。

「……その点、牙族のほうが恵まれているのかもしれないな。燕麦は、水井いどというものを知っているだろうか」

「ええ…はい。貯水槽から水を汲み上げるのに使う所もございます」

 そうなのか、と沙爽は呟いて湯呑みを差し出す。

「座ってくれ。……そうか、四泉にもあるのか。やはり私は世間知らずだ。でも、これでも泉を大切にする気持ちは民と変わりないつもりだ。泉の質は王にかかっている。悪政をけば濁るし、死ねば腐っていく」

 湯呑みを手でくるんだ。

「しかし牙族は族主が死んでも水には影響がない。それを初めて聞いた時、正直、なんて理不尽なんだと思ったんだ」

 羨望する調子で言った沙爽を燕麦は見返す。彼は微かに笑った。


「私は容易く死ぬことも許されないのかと」


 なんと返していいのか分からず、燕麦は淹れてもらった茶に視線を落とす。泉主ひとりにかかる重圧は並大抵ではないだろう。だから王族は多くの世継ぎ候補をつくる。泉根を絶やせば国が滅ぶ危険に怯えるからだ。継嗣けいしは生まれた時から自分の為に生きるのではなく、国によって生かされ、血を繋ぐことを半ば強要される。そこに当事者の意思は介在しない。――――これではまるで、


「私は四泉のにえなんだ……」


 燕麦の心中を読んだように、同じことを本人が呟いた。

「そう思い至った時、正直うらめしかった。なぜ私なのだと思った。だから私より優れている撫羊に神勅がくだればいいと、この立場を自ら欲している彼女に与えられればいいと、私はまだ心のどこかで望んでいる。実際、もしや本当に撫羊に神勅が降ったのではとも」

「それは有り得ないでしょう。降勅こうちょくすればそれに伴って瑞祥ずいしょうが現れます。公主さまにすでに降っておられるなら、天がもっと円滑に公主さまを王へと推し上げる。いまだそれらは見えず、かといって、泉はそれほど濁っていない。ということは黎泉はすでに次王の存在を決定し、その者がいるのです。そしてそれは泉主、あなたさまです」

「自国の泉をないがしろにするような者が、真の泉主だろうか」

「仕方なくなされたのは承知しております」

 沙爽は目を伏せ、口を湿らすように少しばかり茶を啜った。

「燕麦、聞いてもらえるか。私が牙族と同盟したいと言ったのは、二泉に太刀打ち出来ないからだけではないんだ」

「暎景どのや茅巻どのから聞きましたが、民に由歩を増やしたいと仰ったとか。加えて、牙族は短命ですから、四泉の薬泉を享受できれば一族として大きくなることができ、互いに利益がある」

「それは本当だ。四泉の民には由歩が少なく、他国の情勢に疎く平和だ。生命を脅かす刺激もなく貧しい地域もそれほど悲愴な生活と言えず安穏として、とはいえ技術的進歩も無い。享楽に溺れて楽観的で、それでいて民は長い生に飽和している。そう、感じている」

 燕麦は少しばかり驚いた。このいかにも軟弱な少年王がそんなことを考えているとは思いもよらなかった。

「あまりに芯がない。だから穫司が二泉に落とされて、朝廷でさえ震駭しんがいした。民は霹靂へきれきに恐慌している。同盟は良い機会だと思った。……だが、それはあくまで表向きだ」

 しもべは首を傾げる。

「これは、暎景や茅巻や、母上にも話したことはないんだ。呆れられるか、怒って否定されてしまうから」

 沙爽は照れるように口端を上げたが、目はくらいまま笑っていなかった。


「牙族を王統へ迎えられれば、泉根に新しい血が入る。泉人ではない血だ。そうすれば、いずれ――といっても、私の子の孫の、何代先になるかも未知数だが――四泉は、黎泉のくびきから逃れることが出来るのではないか、と」


 聞いた側は言葉を反芻出来ないままぽかんと口を開いた。あまりに突拍子もないことに頭が追いつかない。


「泉外民は黎泉の神意の干渉を受けないし、その逆も出来ない。なら、王統へ泉外民を入れればどうなるか。泉の維持は王統にかかっている。では、泉人の血の薄まった王統ならば?私たちが死んだ後のこと、全ては予想でしかない。しかし、そうして徐々に金枝玉葉を民草と融和させるなら、いずれ黎泉の手の範囲に及ばなくなり、真に自分たちの泉として四泉を治めることが出来るのでは?そうすれば、黎泉の天譴ばつは下りようもなく、私のように人一人を黎泉の贄として捧げることもしなくて良くなるのでは?」

「少し、お待ちください。昨日の軍議でその話はあったではありませんか。泉外人が泉地において王統譜を継げるのかは分からないと」

「牙族には郷間がいる。泉地に定住し、泉人と婚姻をして代々牙族に仕える者たち。その者たちはなにも問題なく子をしている。それを考えるとやはり泉外民には黎泉の支配を逃れる何らかがあると考えるべきだ」

「只人と王統は全く異なります。それに、泉主は黎泉のことをまるで悪のように仰いますが、黎泉は神聖なる大泉地の神泉、神々のおわす庭でありいわば天帝てんていそのものなのですよ?泉地の九泉きゅうせんは全て黎泉から繋がっており、我々はその泉の恩賚おんらいを受け、守っていく使命を受け継いでいるのです。泉主のお言葉はあたかも謀叛を企むかのごとくで、あまりに不遜に過ぎるのでは…………」

 燕麦は尻すぼみに黙った。自分で言っておいてなにか違和感を覚えた。同時にそれを感じた自分に驚いて固まる。ただ黙って窺っていた沙爽はほのかにしたり顔で目を細めた。

「それほど大切な泉の存亡を、なぜ人間ひとりの命運に左右されるようにしたのだろうか。なぜこの世界はたったひとりにその他多くの人間の生命を預けなければならないような脆弱極まりない寰宇かんうなのだろう。それならば、泉主を人ではなく何もあやまたず、死ぬことのない完全な神にすれば良かったのでは、と、疑問は尽きない。そうではないか?」

 燕麦は舌を巻いた。彼の中で、沙爽と初めて会った時の凡庸で世事に通じてなさげな印象は完全に消え失せていた。

「泉主は……よもや、天に挑もうとしておられるのですか」

 声を潜めた燕麦に、沙爽は笑う。昏いものは消え去り、いつものような優しげで弱々しいかおに戻っていた。

「そんな大それた考えのつもりはないよ。ただ、そんなことを思う時があるだけだ。……燕麦、ありがとう聞いてくれて。心が軽くなった」

 いえ、と燕麦は少しばかり頬を引きらせた。泉宮では言えないはずだ。沙爽の考えはあまりに常識から逸脱していて、なおかつ不敬すぎる。


 茶器を片付けて辞そうとしている主に、燕麦は改めて膝をついた。

「泉主…いえ、沙爽さま。なぜ、せつにそのような心の内を明かして下さったのですか」

 問われて困ったように頬を掻く。

「そなたは思っていることがすぐに顔に出るから、忌憚きたんのない意見が聴けるかと思って。それに、正直だろう?牙公を前にしても礼をわきまえずに率直だったし、しかも主である私の前で。あの場合恥をかくのは私だった。それをあまり気にしていないようだったから、逆に外聞を憚り私に気を遣ったふうなことは言わないと思った」

 燕麦は恥じ入った。「お詫びのしようもございません。その……礼節はよく仕込まれたのですが、駆け引きや体面などを気にする主公じょうしに仕えておらず、つい長年の振る舞いが伝染うつってしまっていたようです」

「私も気にはしていない。むしろ、良い主公だ。朝廷には顔色ばかり窺う官が多くて疑心暗鬼になっていけないから、燕麦のような裏表のない者がもっといればと思うのだけど」

「……以後、厳に気をつけます」

 沙爽はおやすみなさい、とにこりと微笑んで去って行った。頭を上げた燕麦はふう、と長い息を吐く。無意識に首に手を当ててみれば、ざらりと肌が粟立っていた。


 見くびっていた、と思う。生まれた時から湖王こおうとして珠のように尊ばれ慈しまれてきた弱冠十七の少年で、いま彼の肩には四泉国民六百三十万の生命がっているものの、そんなことには責任を感じないほど無自覚に無垢に育てられたのだろうと侮っていた。こんな砂上の楼閣のような同盟を考え無しにしてしまうくらいに、と。


(でも違った)


 むしろ逆だ。沙爽は泉主の何たるかを熟考し、黙想し、そして突き抜けた。しかし、本人が言うようにそれは全ては未知、仮説に過ぎない。しかし燕麦の心に一石を投ずるくらいには的を得ていて現実味を帯びていた。実際に泉地の存亡をかけた戦いが始まっている。前代未聞の泉外人との同盟のもとで。


 燕麦は一度肩を震わせ、油火皿を持ち上げる。沙爽が振舞ってくれた茶のお陰で腹の内はじんわりと温かいのに、指先はすぐに冷えた。


(どうなることだろうか)


 今は先のことをあれこれ夢想していても仕方がないとは分かっている。それに、自分はしがない一地方の水司空であり、この戦いが終われば二度と沙爽に会うこともない小役人だ。せいぜい生きて百二十年、たとえ彼の言っていた新しい世界が来るとしても目にすることはなく日々を終えて死ぬ。


 贄だと言った沙爽の顔は辛そうで、これからさき命を終えるまで続くその立場に燕麦は生まれて初めて咀嚼しがたい不条理を感じた。王など雲の上の存在、燕麦ら民には恵みの神にも等しいのに、話を聞いた今では神そのものというより人々のための神に捧げる供物、犠牲でしかない。

 納得しかけ、燕麦は自身のあまりの冒涜的な考えに口を押さえた。なんとなく後ろめたくあたりを見回し、臥房ねまに入って隔扇とびらを閉めて、玻璃窓から差し込む月明かりをぼんやり見つめた。世界のことわりはともかく――そんなものには本心で興味を持ったことはなかったが――今は傍で沙爽を支えてあげたい。そう心から思う。彼が失われてはならないのは事実、二泉に勝たなければならないのも現実だ。

 自分の取るに足らない誇りなどよりも、それはずっと重要だ。だが、そんなはした矜恃でさえ傷ついたところをすくって聞いてくれた沙爽はやはり泉主だから、ではなく沙爽だからだ。そんな彼に仕えたい。燕麦にとって、少なくともそれだけは嘘偽りのない真実だった。




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