十四章
人の口に戸は立てられない。沙爽が城下に行幸するという話は城内にあっという間に広がった。牙族は箝口令を敷かれない限りは噂好きだ。閉塞した山中にあって目新しい話に飢えている。それで、歓慧と二人で東門に向かう頃にはそこかしこで城の者が一目四泉主を見ようと軒や壁の陰から様々な意匠の面を覗かせた。ひっそりとした城にこれだけの人がいたのかと沙爽は目を丸くした。
道を抜け、広大な門に到着した。門前はたいして広くもない砂利の閑地、
見上げる。甕城と同じく鉄の
歓慧が門卒に挨拶して虎符を合わせ、掖門を通してもらう。潜った先はまた壁、族領はここでも壁がぐるりと二重に巡らされた堅牢な城塞都市だ。破るのは至難の業だと思われた。
内壁も越えるとすぐ眼前には真っ直ぐな道と様々な雑貨を売っている
街の中は喧騒に包まれていた。街人は面を着けておらず、服装は違えど泉民と変わらない顔に見える。たまに、沙爽と同じように不思議な髪色の者、異様に彫りの深い顔立ちの者が目を引いた。玩具を持った子供らが駆け回り、簡素な牛車が荷と人を載せてのんびりと通る。穀倉からは許された分だけの作物や穀物が運び出され、家々からは煮炊きの煙が上がっていた。
「こっちです」
歓慧に
しばらく歩き、道沿いのこぢんまりとした
「あら、
主人が姿に声をかけると
一緒に入ってきたのは
「四泉主でございますね。このような粗末なところに」
「気にしないでください」
沙爽は手を振り、物珍しげに店内を観察する。
「すごいご馳走だな」
「そりゃあお祝いですからね。どうぞ、お好きなだけ」
呟きに笑って主人は銀の箸を差し出す。良いのか、と沙爽は歓慧を見た。
「もちろんです。朝からお疲れになったでしょう。お腹いっぱい食べてください」
「では、歓慧どのも一緒に食べよう」
言われて少し逡巡したのに、主人が微笑む。
「こう言ってくだすってるのだから、ご
歓慧は申し訳なさそうに向かい側に腰を下ろし、沙爽は再び料理を見回す。
「珍しい。肉がある」
「民は泉国と同じようになんでも食べます」
大きな肉の塊を歓慧が切り分けながら言う。平静にしていたが声が弾んでいた。
主人は二人のやり取りになおも笑み、噂を聞きつけ外に集まった野次馬を散らしにかかる。沙爽は早速つやつやと光る肉の煮物に口をつけた。
「
「今日はとくべつです」
「――ああ、すまない。つい妹にするようにしてしまった」
「…………」
真っ赤になってこちらを凝視している。
「……?歓慧どの。大丈夫か?喉に詰まった?」
ただ首を振った。主人がやって来て新たな皿を勧める。
「さあ、まだまだありますからね。どんどん召し上がってください」
「
懐から代価を取り出そうとするも、とどめられる。
「言ったでしょう。今日はお祝いなんです。泉国と同盟するなんて当主はほんに思い切りがいい。あたしらには逆立ちしたって出来やしません」
「族民は同盟に賛成なのか」
「みんながみんな、ではないですけどね。世代を重ねるごとに
「それは四泉でも有名だ。
ほぼ伝説に近い話だが、沙爽の高祖父が百三十余であることを考えるとあながち嘘ではないのかもしれなかった。
「あたしには子がいないけど、四泉の薬泉を飲めば今から産んでも
「四泉の水が劇的に寿命を延ばすわけではないと思います。たとえそうでも、数世代はかかる」
歓慧が静かに言う。そうよねぇ、と主人はほんの少し寂しげに笑った。沙爽は箸を置く。
「私は
「隣の国が長生きして幸せそうなのを聞くとね。やはり比べてしまうものなのかも。私も若い頃は五十行かずに死んでいく親戚を何人も看取って、それが当たり前なんだと思ってた。早く一人前になって、嫁いで
「そうか……」
「それに……当主もいろいろあったから」
沙爽は首を傾けて、もう一度そうか、とだけ言った。今回の同盟には、族主自身もなにか思うことがあったのだろう。歓慧が密かに表情を曇らせた。
「主人は牙公の顔を見たことがあるのか?」
訊くと懐かしむようにあらぬほうを見た。
「お小さい頃はよくいらしてた。当主におなりになってからはついぞ街で見ることは無くなったけど、一度だけ内緒で来てくだすったことがありました」
「ほとんど顔を見せない主について行くのは不安ではないか?」
「あら、泉主だって顔を見せたことのある人が民にどれほどいますか」
主人は目を細める。「つまるところ下々の者は主が自分たちを苦しめるようなことはしない、守ってくれると信じているから顔が見えなくても尊敬できる。泉国はちょっと事情が違うかもしれませんけど。それに、当主ともなると他国の伏兵に襲われる可能性もある。街の中にそんな奴らが混じっていないとは限らない。だから街に下りてこられると逆に心配になるの。
飯店を出て、歓慧と沙爽はさらに歩を進める。途中、牛車に乗せてもらった。図体の大きな、黒い長毛の二本角の牛は鞭打てば意外にも速足だった。臨戦体勢のせいか鳴らされていない、道を跨ぐ巨大な鐘楼を
広場の中央には石組みの大きな溜池。そこから南北にも大道が延びる。溜池を挟んで先も道はまだ真っ直ぐに続いていた。
その十字路は街の中心だと歓慧が言った。四角い池は
階を登りきった所には
「これはやはり、あの山を
階の下で
「なぜ?」
「それはこれからご説明します」
歓慧は微笑むと、廟を回り込んでさらに西へと歩き出した。
こちら側の大緯道は反対に緩い上り坂。荷車に乗せてもらったりしつつ、二人がついに西門に辿り着いたのは昼過ぎだった。
西門は東門よりさらに横幅が大きく、細長く分断された黒鉄の落とし戸はぴったりと閉ざされている。門と言うより巨大な柵だった。高さは予想外にもどの門よりも低く、郭壁の上に横に長い箭楼がへばりつくように構えられていた。
「普段もこの扉は開けずに、掖門を使うんです。砂が入ってきますから」
そして歓慧について出た西門の向こうは、沙爽が今まで見たことのない景色だった。
白い丘が霞むまで続く砂丘、壁の周囲には葉の細い低木が群生しており、その林を抜けるとあとにはもう何も建ってはいなかった。由霧も一片も無い。ただ砂の丘の向こう、
「牙族の地下水脈はあの山の雪融け水が地下に溜まって流れてきているものなのだそうです。それで、私たちは日々山に敬意を捧げます」
「そうだったのか……」
「山に積もっている雪は融けることがありません。一年中あのように白いのです。山には一年に十二回、宝石の実が
「行ったことが?近いのか?」
歓慧は苦笑した。「そういう
雪を被った山峰の模様は見て取れるほどだからそこまで離れていない距離に感じたが、確かに山裾は空に掻き消えるように稜線が途切れていた。
「優美な眺めだ……あそこには神鳥や仙ばかりで人は住んでいないのだろうか」
「でも、砂丘の向こうには実際には何も無いというのが定説です」
歓慧の言葉に、ふと内心、少しばかり腑に落ちないものを感じつつ、しばらく二人でその光景を眺めていた。緩く風が吹き、歓慧が振り返る。
「ここにいては砂だらけになってしまいますね。鼎添さま、もうひとつお連れしたいところがあるのですが」
次に連れていかれたのは、西門の城壁沿いに歩いた山麓だった。少し息を切らしながら登っていくと、勾配のきつい斜面に棚田と果樹園、それから見たことのない円形の建物が不規則に並んでいた。
「……これは?」
「
「これが住居?」
「ひとつの土楼に各家一族が住んでいます。一家から独立した分家や親族も数が少なければ一緒に住みます」
すごい、と眼前を見上げる。円柱を平べったくしたような建物は
歓慧はそのひとつ、ひときわ立派なつくりの土楼に入る。
中は驚いたことに吹き抜けで、
それから沙爽にはよく分からない
「あれは?」
歓慧が首を傾げた。「
「水井?」
「ああ、四泉にはないものでしたね。あそこから地下水を汲み上げるのです」
覗き込んでも穴の中は暗くて見えない。
「どうして地面の下に水があるのに家が沈んでしまわないんだろう」
「上手く言えませんが、固い地面のずっと下に溜まっているので大丈夫なのだと思います」
ふうん、とさらに物珍しげに見回す沙爽に歓慧が説明した。
「一階から四階まで縦向きにひとつの
一階の単元の入口はそれぞれ
無人なのか薄暗い。登った三階、ふたつある房のひとつに入ると
「……
目を閉じた少女はぴくりとも動かない。
「まだ起きないままか」
歓慧が頷いた。「
良かった、とほっとして白い顔を見つめた。「叡砂どのは命の恩人だ。目覚めたら改めて礼がしたい」
「
静かな午後だった。聞こえるのは火鉢の炭が時折ぱちぱちと弾ける音、立てつけの悪い戸が風で微かに鳴る音のみ。
「早く目覚めてくれるといいのだが。歓慧どのと叡砂どのは乳姉妹だとか。仲がいいのだな」
しばらく見守っていてそう言うと、歓慧は砂熙の額の布を取り替えて頷く。
「ええ。わたくしは砂熙の母に乳をもらいました。この子とは実の姉妹のように育ったのです」
「すまない。叡砂どのは私を守ろうと必死に戦ってくれた。そのせいで傷を負ってしまった」
歓慧は微笑んで首を振った。
「城に仕える由歩とはそういうものです。なかでも
実際には伴當、
「……それは間諜や斥候を生業としているから危険が多いのだろう?私たちは
歓慧は俯く。
「たとえ四泉と盟約しても、泉が無いのは変わらない。私たちには本当の居場所がない。本来、四泉は四泉の民のための国ですから、こちらとしても引け目や矜恃がある。私たちはあらゆる所に入り込んで
話題を変えようと顔を上げた。
「
「蕃どのもここに?」
「蕃淡にはまだ土楼はないのです。いつもは門外の使っていない客閣に寝泊まりしていますが、看病するのにこちらのほうが便利ですから」
階上では
「どちらかというと蕃淡のほうが重症です。霧界の水を飲んでしまっていて」
「蕃どのは由歩だろう?」
「由歩でも山中の由毒に冒された水や木の実を多量に取り込むと危険なのです」
答えたのは白い
「
沙爽は驚いて見返した。
「そなたがあの水を作ったのか」
「左様」
薬師は目皺を寄せて笑う。歳の頃は
「よく効くもなにも、道中まったく吐き気や頭痛に見舞われなかった。礼を言う」
「なんと、泉主ともあろう方がこのような
布を巻いた
「噂に
「
「失敬。泉主という方に初めて
人を食ったような態度に、沙爽はどう接すれば良いか分からずにただ頷いた。
「蕃淡の様子は」
「どうですかな。ここ三日が勝負どころでしょう」
火箸で鉢の炭を調整しながら横目で見やった。「しかし、気を失っても
「生き残り……?」
「蕃家はこの
なぜ、と沙爽は問い、炮眇が続きを話そうと口を開いた。しかし歓慧の咎める視線に出会って一拍、笑って首を振った。
「昔の話です。陛下のお耳を汚すこともありますまい。忘れてください」
「炮眇さんは
歓慧は話を変えた。
「耆宿院とは?」
「泉国で言うなら泉帝を補佐する
「
「そうです。耆宿院では
「四泉のものとはかなり違ったように思えたが」
「なにせ牙族秘伝の
「そのような希少なものをくださったのか。改めて感謝する」
なんの、と炮眇は目を細めた。
「牙族にとっても四泉と同調するのは良縁に思ったのでね。それに四泉民の不能渡にもきちんと効くのか試しておきたくて」
おそらく後半が本音だろう。沙爽は苦笑した。
「良い結果は得られただろうか」
「経過観察中です」
食えない男だとさらに笑った。
沙爽は日没までには薔薇閣へ戻らねばならない。土楼を早々に辞し、二人は壁内へ戻り帰路についた。
「いざとなれば猋に送ってもらいましょう」
歓慧はそう言ったが、よもや街中に呼び出すわけにもいくまい。そう思い、行きと同じく荷車でもないかとあたりを見回す。陽の傾いた街路は大勢の人で混雑していて、振り返ったところで人にぶつかってしまった。
「すまない」
慌てて見上げると、ぶつかった相手は不愉快そうに見下ろしたが、沙爽を見て呟いた。
「……?もしや、四泉主……?」
白と黒の衣装を纏った男は驚いたように眺め回す。どうした、と連れのもう一人が声を掛けた。
「泉帝がこのような所でなにを」
「四泉主はすでに
素早く前に進み出た歓慧が背で沙爽を庇うようにした。途端、男は仲間と不機嫌に吐き捨てる。
「猶主などと。当主は勝手ばかりして、我らのことなど何も考えてくださらぬ」
「そんなことはありません。現に耆宿院を重んじて院への配当を増やしてくださったと聞きました」
「金をやるから黙っていろということであろう。そもそも、特定の泉国と垣根を越えて仲良くするなど牙族の恥ではないか。我らは泉国の調和を重んじつつ、中立を貫く
「不平不満はそのへんにしてください。当主とて皆の意見を充分吟味した上でお決めになったのです。監老はそこまで頭ごなしに拒絶されなかったと聞きます」
歓慧がさらに懸命に言ったが、男はなおも不服そうに黒い
「周りは由歩ばかりの城で、そんなものいくらでも歪曲出来る。ときにお前、聞いた聞いたと言っておるが、城の者か」
「そうですけど」
「泉帝の伴をこのような娘ひとりにさせるとは。当主は泉国をあまりにも軽んじすぎる。要らぬ衝突を招く」
「否定はしませんが私一人のほうが泉主も気安かろうと思ったのです」
男は目を剥いた。
「お前の独断で泉主を連れ出したのか。軽々にも程があるぞ。来い、城の者に突き出してやる」
言って歓慧を捕まえようとした腕は空を切った。素早く沙爽の手を引いて
「当主の許可は得ました」
「どうせ
騒ぎに気がついた人が徐々に集まってくる。店舗との間に壁ができてしまい逃げられない。
男がとうとう歓慧の腕を捕らえた。
「離してください」
引き立てようとするのに沙爽が出る。
「ちょっと待て。何か誤解している。無理やり連れ出されたわけではないぞ」
が、それを無視して男は細腕を引き揚げる。
「どこの家の者だ。言え」
「…………」
口を
「名を言えぬのはやはりやましい事があるからではないか。城仕えというのも嘘か」
「よしてくれ」
沙爽が連れて行かせまいと抱き留める。と、男に声が掛かった。
「まあ、落ち着け」
そう言って
「いたいけな子供に乱暴だな。少しは話を聞いてやったらどうだ」
「
酒瓶を担ぎ、にっと笑う。
「それに、その嬢ちゃんに手を出したらただじゃすまねぇぞ。おまえ」
小声の忠告に、そうそう、と彼の後ろから現れたのは
「もうすぐお祝いが終わるんだから大人しくお家に帰んなさいよ」
「
徼火がいたずらめいた目で笑った。まあまあ、と侈犧がさらにいなして、男の肩に手を回す。
「……暁さまに手ぇ出したことは黙っててやるよ。その代わり俺たちが街にいたこと、当主に知れればお前が吹聴したとみなすからな」
耳許の囁きに男が脂汗を噴き出した。荒々しく手を振り払うと、仲間を連れて人の輪を掻き分ける。すれ違いざま、憎々しげにぼそりと呟いたのを、沙爽は確かに聞いた。
「―――イミコめ」
そうして人垣に散るように命令すると去っていった。
歓慧が二人に駆け寄る。
「侈犧。徼火。ありがとう」
「まったく、最近の院士は
「無事に帰ったとは聞いてたけど、会えて良かった」
「歓慧ちゃん。相変わらずお可愛らしいわぁ」
徼火が飛びつこうとして、華麗に避けられた。
「あらぁ、また振られちゃった」
「ところで二人共、なぜここに」
すると徼火はいじけたようにだってぇ、と身をくねらせた。
「お祝いなのにご馳走を食べれないなんてそんなの我慢できないもの」
「城でもそれなりのものを作っているはずだけど」
侈犧が笑った。「あんな味気のないもんが食えるかい。祝いにはやはり酒と肉だろ。他の
瓶を掲げる侈犧に、歓慧も、もう、と笑った。
「当主の耳に入る前に帰って下さいね」
そして沙爽に向き直る。
「大変失礼しました、鼎添さま。大事ございませんか?」
「それはこちらの言うことだ」
腕を抱える。掴まれたところが赤くなっていた。
「冷やさなくて平気か?」
大丈夫です、と歓慧は彼の手からさりげなく逃げた。
「ありがとうございます。私は平気ですから。それより、急がないと日が暮れてしまいます」
侈犧と徼火が首を傾げる。
「なんだ?もう帰るのか?」
「日暮れまでに帰らないと私の
沙爽が首を竦め、侈犧が破顔する。「泉主というのも窮屈だねぇ。どら、東門まで馬に乗せてやるよ」
「良いのか?」
「どのみち今から街を抜けると城に着くまでに夜になっちまう。そのかわり俺たちのことは絶対に当主に言うなよ。ネチネチうるせぇから」
二人は近くの水場に馬を繋いでいた。侈犧の馬には歓慧が、徼火とは沙爽が乗る。
「やだぁ、泉主を乗せるなんて恥ずかしい」
徼火がけらけら笑いながら馬を疾走させる。大緯道は人が多いから、その裏の脇道を使った。
牙族の着る長袍は筒袖が腕よりも長いつくりになっている。徼火は袖ごと手綱を握っていた。沙爽にはまるで小童が丈の合わないお下がりを着ているように見えた。牙領は泉地よりも標高があり一年を通して涼しいから、防寒の為なのかもしれない。
そう思いつつ、疾走して風で声を飛ばされながら背に呼びかける。
「き、徼火どの」
「あら、なんですかぁ?」
「そなたの髪は、牙族の中でも珍しいのか?」
牙族には四泉と同じく多勢が黒髪だ。しかし街ではたまに徼火のように明るい髪色の者を見た。彼の髪は赤みを帯びた栗色で、夕陽に反射してさらに
「……ん、そうね。あんまりいないかも」
珍しく歯切れの悪い徼火に、さらに疑問をぶつける。
「顔もあまり見た事がない。目がとても奥まっているし、鼻は高くて山のようだし、肌も白い」
「やだ、褒め言葉?」
沙爽は大きく頷いた。「とても美しいと思う。四泉には、そういった容貌の者はいないから」
徼火は少しだけ歩調を緩め、肩越しに振り返った。
「泉主だって、綺麗な髪よ」
「四泉の王家には
徼火はしばらく悩むように首を傾げた。
「……なにか、訊いてはいけなかったか?」
「んー。まあ、泉主を街に出していいって言ったのは珥懿さまだし……」
ぶつぶつと独りごちて、声をひそめた。
「皆にはあたしが教えたって内緒ですよ?」
「分かった」
「……あたしは
「砂人?」
「正確には、あたしの先祖ね。それでもそんなに古くはないわ。二十代くらい前かしら。ある日突然、砂の丘の向こうから現れた。意味の通じない言葉を話したそうよ。どこから来たのか、いままで何をしていたのか本人さえ分からず、結局ここで暮らして死んだ。あなたの家と同じく、たまあに見た目の違う、砂人の血が濃い子孫が生まれるの。あたしみたいな」
「しかし、砂の丘の向こうには何も無いという話ではなかったか」
「そうよ。
なんとも不可思議な話だ。しかし、徼火の容姿を見ると実際にそうなのだ、となんとなく沙爽は納得してしまったし、歓慧との会話で感じた違和感はこれだったのかと合点した。
「砂人は何十年、何百年かに一度やってくる。砂丘の麓に埋もれるように流れて来る。ほとんどは死んでるそうよ」
「生きて辿り着いた者はどうなるんだ?」
「大概はあたしの先祖のようにここで暮らす。砂人は不能渡なの。あたしは血が交じって聞得として生まれたけどね。でも心無い人には
「牙公は族主になってどれくらいだ?」
徼火は宙を見た。「さあ、十年かそこいらかしら。あたしは珥懿さまが当主になってすぐに万騎に入った。万騎はみんな気安いし、あたしの顔が変でも気にするような奴らじゃない。あたしにはそれが嬉しいの」
「さぞ辛いこともあったのだろうな。失礼なことを言った。すまない」
沙爽もこの髪色のために言われたことは必ずしも肯定的なものだけではなかった。それに、想像しか出来なかったけれども、いきなりあの砂の中から人が現れてはそれはやはり気味が悪いだろう。
「謝ることはないわ。そうね、古い
「それは……なんというか、素晴らしい忠誠だな」
でしょ、と徼火は前を見たまま笑った。
「珥懿さまは昔から物事をこうと決めてかからずに常に可能性を見出してた。今回のことも、四泉との盟約に活路を見出したからお決めになった。その為に死ねと言われるなら文句は無いわ。四泉主。あなたには、自分の命より大切なものがある?」
「命より大切なものか……。私の命は四泉そのものの命だから、他に大切なものが思いつかない」
言えば、そう、と微笑んだ。
「それを見つけた時にあなたはきっと、もっと強くなれる」
「どういうことだ?」
「そのままの意味。さあ、着いたわ」
門前で侈犧の馬に乗っていた歓慧も鞍から下りた。小声で尋ねられる。
「なんで
「私は一介の城仕えとして鼎添さまにお仕えしたいの。ばらさないでくれる?」
「よく分からんが、歓慧の後ろが怖いからな。余計なことは言わないでおく」
ふふ、と笑って手を振り、沙爽へ向かって歩いていく。群青の空には星が見え始めていた。
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