十三章
沙爽は重だるい瞼を開いた。疲労で全身が痛い。猋の上でずっと揺られていて、眠っている間にも移動していたから安眠など出来るわけがなく、この四日ろくに寝ていなかった。珥懿は猋に鞍は必要ないと言ったが、やはり擦れた
「鼎添さま」
思いがけず声がして飛び起きようとした。しかし痛みで肘をつく。
「ご無理なさらないでください」
覗き込んでいたのは歓慧で、半月どころではなく、なんだかひどく久しく会っていないようなそんな気がした。
「歓慧どの……」
はい、と彼女は微笑む。「無事にお戻り下さって本当にようございました」
言って、床に額をつける。
「そして二人と猋を帰してくださり、本当に、本当にありがとうございました。特に砂熙は私の乳姉妹、かけがえのない者です」
「歓慧どの、頭を上げてくれ。礼を言うのは私のほうだ。叡砂どのと蕃どのは私を守って満身創痍になった。私は守ってもらうばかりでなにも出来なかった」
いいえ、と歓慧は首を振る。広幅の髪紐がひらひらと揺れた。
「鼎添さまは当主の信頼を得ました。これで牙族も助かります。今日は史書に列記されるべき日になります」
「今、
弾けるほどの笑顔を見せた。
「もうそろそろ
沙爽の逗留場所は前回と同じ薔薇閣で、暎景も茅巻も半月のあいだずっとここに人質として軟禁されていた。二人は主が目覚めてしばらく離れようとせず、歓慧が
以前は
外気と反対に少し熱いくらいの薬湯で沙爽はほう、と息を吐いた。立ち昇った
頭を軽く
「以前も思いましたが、きれいな
歓慧が髪を
「ええ。不思議な色です」
「
銀灰の髪は沙家に何代かに一度生まれる。沙爽の髪は毛先のみが青みを帯びて黒かったが、それより上は
「
ん、と目線だけを向けた。
「牙族の
「ああ、叡砂どのたちが飛ばしていた小鳥か。ちゃんと見たことがない。良かったら今度見せてくれないか?」
はい、と歓慧は頷いて、水を含んでさらに輝く銀髪を丹念に洗っていく。
共に身支度を終えた
辿り着いたのは以前と同じ
香の替わりに、
「服はそれで許せよ。上等のもので
口角がわずかに上がるのを見て、沙爽も微笑んだ。
「そんなこと、全く問題ありません」
泉国で最も高貴な色は紫だ。これは黎泉の色とされ、またそれを治める
珥懿の着ているものは沙爽の着る中衣と長袍の色が
座についた沙爽は脇に控える茅巻に促す。
「――証書を」
黒塗りの
四泉朝廷、
珥懿も竹簡を広げた。上下に紋様、中に文字の羅列が見える。それらは全て書かれた後に浮き彫りにされていた。署名らしきところには縦書きで名のようだが読めない文字、それに
「その
てっきり珥懿だけの署名があると思っていた沙爽は覗き込む。
「泉国のように明確に細分されてはいないが、我らにも序列はある。これは
詳しく知りたいと思ったが、訊く前に硯と筆が持ってこられたので意識を紙面に集中させた。
進行役か、面を着けた牙族の者が儀礼に
竹簡を受け取った沙爽は改めてまじまじとそれを見た。予想するに古代文字で書かれた当主の名、それから卒倒しそうなほど流麗な花押が完璧な位置で収まっていた。
やはり書文ひとつとっても、まったく形式が異なる。しみじみとそれを実感した。牙族は同じ言葉を話すものの、文化も生活様式も全く異なる民族で、そんな彼らが同盟に応じてくれたことが急に非現実的に感じた。
「どうした。
珥懿が挑発するように言った。いえ、と苦笑し、竹簡に筆先を置く。
牙族には印璽の風習はない。それで、花押の横に
ところが、これが一苦労だった。王統は必要以上に血を見せることを忌避する。沙爽は己の指を傷つけたことすら無かった。白い
沙爽が心を決める前に撫でるように切っ先が指に当てられ、一拍後、鮮血が
「まったく、世話の焼ける」
呆れて言われ恥入りながら、玉璽を少しばかり浸し、やっとの事で捺印する。牙族の礼に従い血判も隣に押した。
「……正直、不安です。血璽の色がちゃんと変わってくれるのか」
「不安になる要素があるのか?」
真っ向から問われて慌てて首を振る。
「あえて言うならば黎泉の神勅がまだ
「神勅を待っていては降る前にお前が死ぬかもしれない。こればかりはどうすることも出来ない。……それに」
珥懿は
「血璽の色が変わらずとも慌てることはない。お前以外の泉根が失くなれば、黎泉は自ずとお前を王にする。そうするしかないのだからな」
「笑えません」
沙爽は肩を落とす。必定、そういうことだ。否定はできないが賛成もしたくない。
西の吹き抜けの壁の前、翡翠の玉台にふたつの同盟書が広げて置かれる。面を外した珥懿はその前で
同盟書はそのまましばらく安置される。その前で向かい合わせに
「
珥懿が立ち上がって大広房を見渡した。
「以後四泉とは血盟関係に入る。沙爽鼎添を
「すでに我らは二泉と交戦中であり、盟約の饗宴を開いている場合ではない。しかし、本日
歓声の雄叫びが上がった。仕方のないことだったが、ここひと月ほど
珥懿は沙爽に向き直る。「お前も何か言ってやれ」
沙爽は慌てて周囲を見渡した。
「ええと…まさか本当にこんなことができるとは未だ信じられないが……牙族には感謝申し上げる。よ、よろしく」
しんと静まり返った房内で、誰かが噴き出した。それを皮切りにどっと笑いが起こる。
「礼を言うのは早い」
くつくつと珥懿にも笑われて沙爽は赤面した。
「礼は二泉を倒したあかつきに十二分に尽くしてもらう。その辺のことももっと固めてからが理想ではあったが、今は時間が惜しい」
「……そう、ですね」
「お前は本当に
沙爽は眉尻を下げた。
「私には牙公がなぜそんな風にできるのか不思議ですが」
「族主になるのは泉国のように家系に
だから皆が認め、信を置いてくれる。
「泉主というのは不憫だな。生まれながらに自由がない」
「不憫、ですか」
「私が死んでも民には影響がないが、泉主がいなくては泉が腐る。お前はそのことを重荷に感じているだろう」
確かに、沙爽は今この時も重圧に押しつぶされそうだ。四泉を上手く治める自信など欠片もない。先日朝廷に戻って糾弾を直に受け、改めて思った。自分には王としての才気などなにひとつ足りているものがない。それでもやっとのことで自分が正統な王であると啖呵を切って、勅命を押し通した。今思えば
「しかしお前がいくら出来ないと駄々を捏ねたところで無駄なのだ。妹を退けることに腹を括ったのなら、泉主として立つことにも本心から自分を肯定しろ。してなくてもそう振る舞え。そうしなければ周りが不安に思ってついて来ない」
「……難しいことをおっしゃる」
珥懿は首を竦めた。「まあ権に溺れるような愚か者よりはましだがな」
すでに広房は開け放たれ、西壁の帷帳は閉じられている。出たところで少女が顔を見せた。
「歓慧どの」
「お疲れ様でございます。無事に終えられましたか?」
「なんとか」
歓慧は安堵して頷くと傍らの当主を見上げた。
「泉主を少しお貸し願えませんか?」
「昨日の話か。門外には出るなよ」
「西門からも?」
問えばしばしの無言、やがて軽く息を吐いた。
「……好きにしろ」
諦めてくるりと背を向けて去って行く珥懿と歓慧を見比べて沙爽は首を傾げた。
「牙公と歓慧どのは仲が良いのか?」
え、と見返す。
「いや、気安げだったので」
「……そう見えました?」
うん、と沙爽は自信なさげに頷く。歓慧は少し呆気に取られ、それから微笑んだ。
「鼎添さま。良かったらわたくしに城下を案内させて下さいまし」
「しかし、良いのか?街は
「猶主である鼎添さまが入れないいわれはありません。
なに、と聞いていた暎景が眉をしかめた。
「泉主ひとりを連れて行くつもりか。たとえ同盟が成ったとしても反対勢力とておるかもしれんのだぞ」
「街にも密かに城の者が見張りを置いておりますし大事ございません」
「しかし」
まあ、暎景、と茅巻が
「だが心配だ。牙暁、日が暮れる前に必ず泉主を薔薇閣にお戻ししろよ。戻ってこなかったら騒いでやるからな」
茅巻が呆れて首を振り、沙爽も苦笑した。
「そなたたちの分も見てくる。留守居ばかりで申し訳ないが」
「そんなことは良いのです。刺客に充分お気をつけ下さい」
暎景はたまりかねて沙爽の前に膝をつき、恭しく手を握った。
「失礼を。泉主の思う通りに事が運んだのはようございました。しかし、俺はいまも牙族を疑っています。爽さまは四泉にとってかけがえのない方だ。失われてはならない」
彼の手首には依然として
「暎景にそう言ってもらえると勇気が出る。大丈夫だ。牙族は一度結んだ約束は破らない」
なおも不安そうにしながら手を離す。次いで沙爽は隣を見た。
「茅巻。母上に文を書いてくれて助かった」
もう一人の
「戦いはこれからです。牙暁どの、何卒泉主を」
歓慧が大きく頷いた。それで沙爽は微笑む。
「行こう」
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