十二章



 なんてことだと胸中で呟く暇もない速さで周りの景色が飛ぶように過ぎていく。


 跨った獣の背から肩越しに振り返った。小高いみねに大きな獣。その上に乗った黒ずくめの人影。その者はこちらを目で追いかけ甲高い呼子を鳴らした。


「四泉主‼前を向いて!」


 併走する猋に乗るのは同じ歳頃の娘、疾走しながら後ろに向かって革囊かわぶくろの栓を抜いていた。その口からは細かな砂が粉塵となって流れ落ちてゆく。

「それは⁉」

 砂熙は答えずただ唇に指を押し当てた。互いを隔てる風鳴りで声が届きにくいから、問答をするのに叫ばなければならない。敵影が見えた今、大声など上げたら命取りになる。


 しかし、顔周りに流れる風は緩やかで速度に比例していない。これは風殻ふうかくと言うのだと砂熙は言った。猋が風の抵抗を最小限に抑えて疾駆できる所以ゆえんだった。


 焦燥と絶望がい交ぜになって、沙爽はただ手綱を握って猋に伏せ、固く目をつむる。

 砂熙は顔だけを上向けた。前方、鋭利に尖った峰の上にも黒い影が現れたので素早く左右に目を走らす。

雨帰うき!」

 自らの乗る猋が右手に折れた。小崖を高く跳ぶ。敵の乗騎は蜚牛ひぎゅうだ。猋ほどの跳躍力はない。

 やっと少し敵を引き離し、迂回して南へと方向修正したところで砂熙は親指を噛んだ。滲んだそれをふところ灌鳥かんちょうの白い頭に付け、片手で抱き上げて離す。

 鳥は素晴らしい速さで霧濃い空へと舞い上がる。もう淡雲が飛ばしたかもしれなかったが、あの状況では彼ももう無理かもしれない。

 と、灌鳥目がけて矢が飛んでくる。また待ち伏せされていたようだった。砂熙にはもう鳥が落ちないよう祈るしか出来ない。


 におい消しの砂煙を巻きながら――それは巻かれた途端光に反射してきらめきながら、空気中に散って見えなくなる――砂熙はもう一度大きく猋を跳ばした。峻険な峰が開け、なだらかな丘が広がる地帯に出た。一面の雪原に所々に繁茂した林の陰から新手が躍り出てくる。思わず舌打ちし、低姿勢のまま腰に提げた剣を抜いた。存外距離が近かったのだ。


 飛んできた矢を避け、砂熙は雨帰を真っ向から突進させる。

可弟かと!行け!」

 反応した沙爽の猋が雨帰を追わずに左進した。

 それを横目に捉えつつ正面の敵に急進する。敵の蜚牛が顔の中心にある大きな一つ目の焦点を合わせたのが分かった。だが遅い。蜚牛は目が良くないのだ。騎手も剣を抜いた。見たところ男。

 すれ違いざま敵の斬撃を低姿勢でかわし、通り過ぎる直前で剣を持ち替えて脇腹をいだ。切っ先が届く感触が確かにして、敵のくぐもった悲鳴が聞こえた。

 そのまま構わずに駆け抜け、坂を登ったところで沙爽を見つける。丘を過ぎてまた続く峰々に入ろうとしていた。谷間にはわずかに狭い街道が見える。牙領へと続く道へ戻ってきたのだ。が、その手前で蜚牛が三騎、左の森から躍り出るのが見えた。沙爽からはちょうど大きな岩が死角になっていて見えない。

 まずい、と砂熙は駆け出す。沙爽を挟んで後ろからも二騎。どれだけ伏兵がいるのか定かでない。離れるべきではなかったかも。





 焦燥の中でそう考えた刹那、林の中に何かの影を見つけて目を見開いた。瞬く間に流れる景色の中に紛れて消えていったが、その刹那でまなこに焼きついたのは巨大な猋――もとい、狻猊。


 牙族のものより二回りほども大きいそれが座っていた、ように見えた。そして、その傍らに何者かが立っているのを。

 頭部まで覆った暗色の外套は風景と霧に紛れるような灰味の黒。分かったのはただそれだけだった。





 誰だ、という疑問の思考は眼前に迫る敵を前にして掻き消された。沙爽を挟撃しようとしていた後ろの二騎が砂熙に気がついて反転する。

 雨帰のほうが二騎の乗る蜚牛よりも素早い。蜚牛の鱗で覆われた蛇のような尾の先には毒がある。距離を取って急旋回し、こちらに振り向くのが間に合わなかった一頭めの尾を叩き落とした。牛が唸り声を上げ暴れ出す。上の人影は振り落とされないようこらえていたものの、砂熙は無防備になった背を横跳びざま袈裟懸けに斬り裂いた。流れでもう一騎に暗器を投げる。前肢に刺さったが、浅い。騎上の敵が振り下ろした一撃をあえて受け止める。


「二泉の手の者か!」


 叫べば、目だけしか見えない敵のそれが細められた。笑ったように見えた。

 敵は豪腕でひとつひとつの斬撃が重い。両腕を使ってもしびれる感じがして、油断すれば剣を撥ねられそうだ。構っている暇がない。沙爽がもう岩陰を通り過ぎる。


 一瞬の隙を突き、砂熙は沙爽のほうへ駆けでる。背に衝撃が走ったが、ぐっとこらえ、猋を走らせる。雨帰が後肢で追い縋る蜚牛を蹴飛ばしたのが分かった。

「雨帰。ありがとう」

 呟くとただ耳が少し動いた。それに一瞬笑むと体勢を低めたまま叫ぶ。


「四泉主!止まって!」


 沙爽は背後から砂熙の呼ぶ声が聞こえたので猋を走らせたままで振り返った。砂熙の目には、振り返った彼の前方の敵影が既に見えた。光る白刃も。


 ―――間に合わない。


 口を悲鳴のかたちに開いたまま、無意識に腕を振った。

 刹那、敵に当たるか当たらないかで、突如敵が消失した。可弟が勢いよく跳び残っていた一騎を襲う。こちらは、前爪が敵の顔面に食い込んだのがしかと見えた。


 砂熙が沙爽に追いつき庇って前に出たが、既に敵は地に倒れ伏し、興奮した蜚牛のみが丘を逃げていった。

「一体なにが……」

 沙爽が呟いたが訊きたいのはこちらだ。敵三人のうち二人はくびを精確に射抜かれていた。


 あたりを見回す。歓声があり、前方の山間から地鳴りが聞こえた。やってきた集団に二人は警戒したが、彼らの駆る獣が猋であるのを見て取って砂熙は虚を突かれる。


「ほんとに当たっちゃった。あたしってすごい」


 武装した軍団の中、浮かれた嬌声が響き、どっと笑いが起こる。近づいてきた先頭の顔に砂熙は驚きの声を上げた。


万騎はんき!」


 牙族の有する傭兵部隊。先頭の男がにやりと笑う。

「やはり牙族なかまだったか。俺たち以外で狻猊に乗る者などいなかろうと思ってな」

 無精髭の大柄の男は気安そうに二人を見た。

「なぜここに」

「ちょうど七泉しちせんから帰ってきたところだ。こいつらに襲われてたのか?」

 背後を見た。「ひとり逃したな」

 討ち損じたひとりはいつの間にか消えていた。砂熙は傭兵らに向き直る。

「助かりました。ほんとうに」

 良かった、と進み出たのは先ほど笑いをとった男で、弓矢を掲げて喜色を浮かべた。

「でもあなたの投げたのもちゃあんと当たってたわよ」

 死体を見れば確かに眉間に突き立つ飛刀たんとうをみとめ、砂熙は一気に安堵する。同時に背が焼けつくように熱いのに気がついた。

「叡砂どの……!」

 沙爽が狼狽し、砂熙は燃える痛みに身体からだを屈める。

 無精髭の男が少々乱暴に背を向けさせ、眉間に皺を寄せた。

「蜚牛の尾を当てられたのか。まずいな、既にただれてきてる」

 あの衝撃はそれだったのか、と砂熙は脂汗を拭いながら猋の上でうずくまる。

「敵はいないようだし、休もう」

「だめです、今日中に領地に帰らなければ」

 叫べば傭兵たちは怪訝な顔をした。

「急ぎか?だが北門まではあと半日はかかるぞ」

めいで今日中に戻らねばならないのです。なんとしても」

 さらに問おうとしたが隣の少年が口を挟んだ。

「いいえ、叡砂どのの手当てをして頂きたい。どのみち私と叡砂どの、蕃どの三人が生きて今日中に戻らねば盟約は反故になります。すでに蕃どのはどうなったか行方が知れず叡砂どのもこのような大怪我をしている。無理をして帰ったところで牙公は情状を酌量しては下さらないでしょう」

 砂熙が苦しげに、でも、と見返した。傭兵の男は頭を掻く。

「よく状況が掴めてないが、お前は牙族のもんじゃないな?」

「この方は四泉国主さまです」

 傭兵たちがざわめいた。

「当主と盟約予定です。今日中に戻らねば牙族が破滅の道を辿ることになりま……す」

 砂熙は玉の汗を散らして雨帰の上で突っ伏した。沙爽がたまらず可弟から下りて抱え降ろし、傭兵たちを見回す。

「お願いします。どうか手当てを」

「ま、そらそうだな」

 男の指示で簡易の天幕が張られ、火が焚かれた。兵のなかにふたり女がいて、天幕の中に焼いた鉄の小刀と水桶を持って入っていく。沙爽はやきもきとただ見ていることしか出来なかった。


 空をつんざく絶叫が響く。無精髭の男が立ち竦む沙爽の隣で煙管きせるをふかした。裏に毛氈けがわを貼った長袍きものを肌の上に直に着ている。寒くないのか、さらに片腕を抜き、長い筒袖は腰の低い位置で結んだ帯に挟んでいた。下は動きやすいはかま、丈の長い靴は砂塵で汚れている。髪は結っておらずざんばらで荒々しく、泉国で見たら浮浪者のような出で立ちだった。


「蜚牛を見たのは初めてかい?孩子ぼうず

「ああ…奇妙な獣だった。頭だけ白い牛のような」

「尻尾の先にかぎが付いてたろう。あれの先に毒がある。早く傷を焼いて体に回るのを抑えねぇといけない。でなきゃ死ぬ」

「そんな。叡砂どのは」

「悲鳴をあげられるくらい元気なら大丈夫だろ。普通は蜚牛なんて飼い馴らすようなもんじゃない。霧界を歩いていても滅多に出くわさんがなぁ」

「そう…なのか」

 沙爽は天幕を見やる。自分が怪我をさせたも同然だった。ただ必死に猋にしがみついて、戦うことも出来なかったのだから。なんの不満が言えよう。


 雲に遮られた弱々しい陽が中天を過ぎていくのを絶望的な気分で見上げた。

 天幕に様子を見に行っていた男がまた沙爽のもとへ戻ってきた。

「まったく化けもんだぜ。砂熙のやつ、まだ意識がありやがる」

 呆れたように頭を振った。「事情はだいたい分かった。このまま休んでても砂熙がひとりで行っちまいそうだし、なるべく急いで戻るとしよう。淡雲はどこでどうなったんだ?」

「昨日の明け方に敵の急襲を受けて、蕃どのが囮になり、そこで別れてしまったのです」

 なるほどな、と男は遠くを見た。「いずれにしても俺たちも一度帰領しなきゃならん。淡雲のことはそのあとだ」

「今頃どこかで怪我を負い、助けを待っているやも」

「孩子。牙族として生きるにはなぁ、運も必要だぜ。ここで死ぬならそれがあいつの天命だったのよ」

 そんな、と見上げた。「見捨てるのですか」

 お前な、と男は頭を掻いた。

「今日中に帰りたいのか、どうしたいのかはっきりしろよ。淡雲を探してちゃ間に合わん。まあどのみち三人で帰んなきゃ意味ねえのかもしれんが、二人だけでも刻限どおりに間に合わせるべきじゃねぇか?」

 沙爽は俯いた。ああ、自分のこういうところが駄目なのだろうな、と泣きたくなる気持ちを抑え込んでぐっと唇を噛んだ。

 いきなり、ぐしゃりと粗く頭を撫でられ、驚いて再び顔を上げる。男は頓着なくなおも髪を乱れさせる。

「そんな落ち込むなって。今は無理だがなにも探さねえって言ってる訳じゃない。何を今一番優先すべきことなのかそれを見失っちゃいけねえってことだ」

乱れさせた終いに軽く二度叩かれてさらに瞬く。

「……そなたは、牙族ではないみたいだ」

「そうか?万騎はみんなこんなもんだ。体を動かしてりゃ金が入るしな。気楽なもんさ」

「そういう、ものなのか」

 そもそも顔を晒していること自体沙爽には物珍しい。男は破顔してそうさ、と笑った。

「それじゃあまぁ、陽が落ちる前になんとか帰り着こう。おい誰か、砂熙を乗せてやれ」

 呼ばわり、猋の群れは一路南へ向かって疾走しはじめた。





 頭に赤黒い染みをつけた灌鳥が北の領門に着いたのは日没より数刻ほど前のことだった。門卒はすぐさま僚班に報告する。灌鳥が文をたずさえずに頭に血を付けて帰ってきた。敵襲があった印である。


 すぐに緊急の合議が持たれた。僚班たちは籠に入れられた鳥を見て次々に顔色を失った。

「やはり二泉の襲撃が。しかし、北の監視は敵を見つけることは出来なかったようだが」

「見落とすと?そんなことがありうるか」

「我々の道を使わず分け入るならそれも可能だ」

「あの崖だらけの北路を?ばかな。我々とて通れる道を造るのに父祖たちがどれだけ苦労したことか」

 それよりも、と話が戻る。

「やはりあの三人が生きて戻るのは絶望的ということであろうか」

 広房に重苦しい空気が流れた。

「……やはり、泉国と同盟など最初から絵空事だったのでは。朝廷の承諾が得られたとは思えませぬ。その灌鳥も、たばかりでは?」

 言ったのは芭覇ばはだ。

「我々は四泉の奸計にまんまと騙され、四泉主をみすみす国に帰す手助けをしただけではないのですか。そもそも、我らが二泉に攻められているのは四泉主がここにいると二泉に知られたから。巻き込まれただけです。今からでも我々が中立であることを示すべきなのでは」

「なんと。今更そのようなことを言って二泉が黙って兵を退くわけがあるまい」

「しかしまだ争いが本格化せぬうちに」

「四泉と同盟する前提で動くと決められたのは当主だ。我々も支持した。それをよくもまあ次々と翻意ほんいが思い浮かぶものだ」

 蘭逸らんいつに非難されて、更に声を大にする。

「現に四泉主が無事に戻ってくるかどうかさえ分からぬではないか!いや、戻ってくるつもりなどはなからなかったのだ。いまごろ王宮の奥にお隠れになっているのだ。叡砂も蕃淡も捕らえられ処刑されていたとしたら、我々はいい笑いものではないか。監視からの報告もなく、北路には敵影さえない。戻ってくるならとうの昔にしらせがあって良い!」

「合議を乱すのはそのへんにしておけ、芭覇」

 至極平静な声が聞こえ、僚班は一斉に振り向く。主が足音もなく壇上へ向かった。

「当主。当主はまだ信じておいでなのですか。四泉主が本当に戻ってくると?」

「無論」

 珥懿は椅子の上で頬杖をつく。「こちらには人質と玉璽があるからな」

「その御璽、贋物にせものである可能性は」

「ないとは言えない。だが、猋三頭がそう易々と捕まるはずもない。猋も戻ってこない以上、いまも蕃淡か叡砂が主導していると考えて良い」

 芭覇はこれには反駁はんばくできずに唸った。珥懿は灘達を見た。

「万騎隊ももうすぐ帰ってくるそうだな」

「はい。夜半には戻るでしょう」

「二泉本軍が来る前に間に合ったか」


 少し安堵する空気が流れたそのとき、号令が響いた。合議の間、開扉されるのは火急の場合のみに限られる。開いた門扉から鳥の面をした少年が入ってきて膝をついた。

「ご報告致します。万騎隊三十、及び四泉主の騎影を確認」

 驚きに包まれる。ひる泡丘ほうきゅう通過の灌鳥が着いたばかりだというのに。珥懿が立ち上がった。

「叡砂と蕃淡は」

「確認できておりません」

「北門にて迎える。皆は持ち場に戻れ」



 北門は城門の中でもいちばん小さく、懸門けんもんも無い。両開きの木製の門扉がひとつとさらに小さい掖門えきもん、階上に小ぶりの箭楼やぐらを備えるのみ。北は断崖の続く悪路、見回りと緊急の時以外は使用しないのが常だった。


 ほぼ夕闇に包まれた冬空、残照は西の空に儚く夜に霞んで消えようとしている。北門の箭楼の中は既に明かりがなければ暗い。松明たいまつを焚いた光に照らされながら、珥懿は立ったまま闇を見据える。嘉唱がいらかに駆け上った振動でおきがはぜた。


 見渡す谷間にぽつりと小さく明かりが見え、側に控えていた丞必と高竺が少し身を乗り出した。

 灯は瞬く間に大きくなり陰影が判別できる。猋三十余がとてつもない勢いで近づいてきた。


 嘉唱、と珥懿が言うと、屋根の上の頭目が遠吠えする。万騎隊は峡谷を驀進ばくしんする速度を緩め、やがて北門の真正面で停止した。砂埃と猋の荒い吐息が夜目に白く浮かび上がる。



 猋から降り立った沙爽はそそけ立った表情で箭楼を見上げた。力なく膝を折る。無言で見下ろした族主はつと箭楼から姿を消し、沙爽は項垂うなだれた。刻限までに帰ってきたからと言って、同盟は果たせない。約束を破った。せめて、自分が敵を追い散らせれば。しかし猋に掴まっているのが精一杯で、あの状況で手を離そうものなら大波のような揺れに振り落とされていただろう。


 門から珥懿が出てくるのを見て場違いな黄色い声が上がる。

「珥懿さまぁ。相変わらずきれいな御髪おぐし。お会いするのを心待ちにしておりました」

 言いながら抱きつこうとしたのをさらりと避け、朱面の主はじろりと一瞥した。無精髭の男が笑って手を振る。

「やめとけ、徼火きょうか。ほんと空気を読まねぇなぁお前は」

だって、と徼火が体をよじらせたのをやれやれと見やり、珥懿に膝をついた。他の傭兵もそれに倣う。

気爽きそう薫風くんぷう、耳して静寂しじま瓊音ぬなとの加護を受け、万騎三十、御前に帰投致した。首班におかれてはわざわざの出迎え恐悦に存ずる」

「重畳」

 珥懿は短く返す。「残りはどうした」

「無茶言うなよ。当然ここにいるのは猋持ちだけだ。猋でだってひと月で帰るのに徹夜したんだ。もっと褒めろよ」

 ふ、と主は笑んだ。

「冗談だ。よく戻った、侈犧しぎ

「冗談に聞こえねぇよ」

 侈犧は立ち上がり、小指で耳を掻きながら口を尖らせた。それで、と座り込んだままの沙爽を見下ろす。「どうすんだ、これ」

「叡砂は」

「ここにおります、当主」

 砂熙はよろめきながら前に出た。

「申し訳ございません。帰領の途上、二泉の伏兵と思しき斥候に急襲され、蕃淡を連れて戻ることかなわず、」

 痛みに顔を歪める。熱が出ていて息が荒い。

「命に背きました。また、四泉主をじゅうぶんにお守りできず、不覚にもこのような無様なありさまで」

「もういい」

 珥懿は砂熙を見下ろす。

「……よくやった。四泉主を生きて連れ戻したこと、誇りに思え。流石は私の伴當だ。あとは皆に任せよ」


 当主、と少女は泣き崩れた。初めての遠征でこれだけやれたのはひとえに砂熙の能力にる。途中で淡雲と別れたということは、それからずっと沙爽を守りながらの戦いだったに違いない。虚歳かぞえ十六、凄まじい伸び代だ。丞必の後継と目し、見込んだだけはある。


 砂熙が運ばれて行き、次に珥懿は沙爽を見下ろした。いまだ悄然と俯いている。

「泉主。牙族が四泉と盟約する条件を覚えているな?」

「……もちろんです」

「遺憾ながら三人揃わなかったが、同盟書は持ち帰ったのか」

 沙爽はのろのろと懐から箱を引き出した。

「しかし、盟約はもう……」

「貴様はそれでいいのか、沙爽鼎添」

 沙爽は顔を上げた。面の中の瞳は真っ黒でなんの感情も分からない。

「……いいわけがありません。しかし私が足を引っ張ったばかりにこんなことになったのです。それでも約そうなど、なぜ言えますか」

「お前は四泉の国主だろう。このまま踵を返すつもりか」

「三人で戻れと、最初からそういう条件でした。しかし私は守れなかった」

 沙爽は膝の上で拳を握った。悔しい、と初めて思った。自分の無力さが憎い。ほんの少しでいいから剣が使えたら。もっと肝が据わっていたら。自分自身さえ守れない者に一体何が救えるというのだろう。水盤のしずくは予告なく降りかかり、両手には何百万もの命がった。救わなければいけないもの、救いたいものがあっても、自分自身ではなにひとつこの忌々しさ。そうしている間にてのひらからこぼれ落ちてゆく命。窒息しそうなほどの重圧を跳ね除け、正しい答えに皆を導けるだけの力が自分には無い。辛い。苦しい。――逃げ出したい。

 だがそれは許されない。自分の身体、自分の全てはすでに自分自身のものだけではない。それなのに。


「私は四泉をも裏切ってしまった……」


 凍てつく夜風が吹いた。侈犧が溜息をつく。そんなあ、と徼火が珥懿をやるせなく見る。

「証書は持って帰って来たんでしょ?だったらいいじゃない」

「徼火、余所者よそもんが口挟むなよ」

「余所者じゃないわよ。あたしだって牙族の民よ!」

 徼火は括った薄い色の髪を揺らしながらめつけた。侈犧がまたやれやれと頭を掻く。

「つっかかんなよ。そういう意味じゃない。当主、どうするんだ?このまま孩子を四泉に帰すのか?」

 訊いたが黙ったままあらぬほうを見ている。

「盟約は反故になるとしても、どうか暎景と茅巻の命だけは」

 珥懿はそれでも沙爽に向かなかった。静かに何かに耳を澄ましている佇まいに、侈犧と徼火も察する。

「……?」

 沙爽は周囲を見る。みな一様に当主に倣って耳をそばだてている。


「……水音がする」

 しばらくして珥懿が呟いた。万騎のふたりがはっとした顔になる。

「見てくるわ!」

 言いおいて徼火が猋に跨り、あっという間に宵闇に消えた。沙爽は状況が分からず途方に暮れる。

「何があったのですか」

「まだ分からん」

 侈犧が煙管を取り出して素っ気なく言ったものの、顔はわずかに喜色を浮かべている。


 陽が完全に沈んだ。ちらちらと雪片が舞い出し、沙爽は黙す。珥懿も周囲も徼火が戻ってくるのを待っている。ふと、珥懿が顔を谷間に向ければ、闇しかない空間にようやく二人と二頭の姿が見えた。


「生きてるわよぉ!」


 徼火の叫び声に、人々は快哉かいさい雄叫おたけびを上げる。沙爽は呆然として立ち上がった。


 徼火が連れて戻ったのはずぶ濡れの猋と、その背で気を失っている淡雲だった。衣服は茶黒く変色し、泥まみれで顔は定かではない。同じように汚れた怒舟どしゅうは長い舌から大量の涎を流している。


 嘉唱が低く唸り、珥懿も目を眇める。ともかくも少年が抱え降ろされ、城の者に引き渡された。珥懿は侈犧たちに、

「お前たちは門内なかへは入れない。門外そと客閣きゃくまを使え」

「おいおい、本気か」

灌鳥しらせにもあったろう。虎符を持っていないのだから辛抱しろ」

 冷たく言って、残された怒舟に向き直った。嘉唱も他の猋も様子を窺うようにしている。鬱金きんの瞳の焦点は合わず、ふらふらと蹈鞴たたらを踏む。

由川ゆうせんに落ちたんだな」

 侈犧が自分の顎をさすった。由霧の間に流れる川は霧の晴れた箇所に出れば多少は毒気が抜けるが、飲み水としては使えない。しかも牙族の狻猊に与える影響は未知だった。由霧とは基本的には人にしか害を及ぼさないもの、山岳の動物は由川、もとい由水ゆうすいを飲んでいるから、獣には支障ないはずだが。


「お前たちは退さがれ」


 侈犧たち万騎に言ったのか、猋に言ったのか。いずれにしても人垣も群れも怒舟から離れ、珥懿と嘉唱、それに立ち竦んだままの沙爽が残された。

「泉主。貴様もだ。爪に掛けられても知らんぞ」

「この狻猊、何があったのですか」

 問いには答えず、珥懿は怒舟の眼前に立つ。


 怒舟は名の通り癇性かんしょうの強い個体で、おおよそ弱腰になったことがなかった。猋どうしの喧嘩にも強い。だが、いま怒舟が纏う空気は揺らいでいる。何故だかは分からない。

 頭目である嘉唱が鼻を近づけようとするも、拒否するように後退じさった。

「怒舟。……怒舟」

 歌うように呼びかけながら、珥懿は近づいて怒舟の顎の下を撫でる。牙を剥いたが、構わず鼻を掴んだ。

「私のにおいを忘れたか?」

 鼻腔に手の甲を当て、嗅がせる。ひくつかせた怒舟が大きく息を吸う。しばらくそうしていると、ゆっくりと身を伏せた。

 珥懿は怒舟が落ち着いたのを確信して頷く。顔を舐めた嘉唱を、今度は避けなかった。


「……戻ってきたのですか?」


 沙爽の言葉に珥懿は微かに目をみひらく。言い得て妙だが、的確に感じた。

「……もう大丈夫だ」

 怒舟の顔の泥を払い、その少し紫みを帯びた土を指でこすった。

「良かった」

 沙爽が手を伸ばして怒舟の頭を撫でようとする。

迂闊うかつに手を」

 出すな、と言いかけ、珥懿は内心少し動揺する。怒舟も、嘉唱でさえ彼に警戒する素振りを見せなかったからだ。


 猋は主人の許した人間しか触ることを許さない。主人の許しとはつまり、声かけや指笛、口笛などの直接的な命令を指す。しかし、猋は聡い。人語を理解し、主人の思考をある程度おもんぱかることもある。たとえ主人が直に命ぜずとも、意向をむことがままある。―――それはたとえ、主自身が無自覚であっても。


 沙爽はそのまま怒舟の額から頭にかけてを撫でる。頑張ったな、と声をかけて寂しげに微笑んだ。ひたとこちらを見据えた怒舟の目が、良いのだろう、と言いたげで、珥懿は軽く唇を噛み、そして溜息をついた。

「……私までたらしこまれたか」

「はい?」

「閑地の二泉軍は援軍を待って動かない。一両日中に盟を結び、先鋒隊を叩く」

 沙爽は呆気にとられた。今、言われた言葉が信じられない。

「いえ、でも条件は……」

「私は確かに三人で帰ってこいと言った。その意味を?」

「私には牙族の信用がないから……」

「牙族の信用ということはつまり私の信用を勝ち得よということだ。『私』というのはつまり私の手足である『猋』の信用を得る意味もある。刻限は過ぎたが、確かに三人で帰領し、勝負に勝った」

 族主は懐から帛紗ふくさを取り出した。

「お返しする。朝に使わなければならないからな」

では、と沙爽は受け取りながらまだ呆然としていた。出来るのだ、牙族と同盟が。

「牙公…」

「我が兵たちを無事に返して頂いたこと、感謝申し上げる。正直を言えば半分生きては帰らないだろうと思っていた」

「……はい」

「まだほうけているのか。若造とはいえ容赦はしないぞ。お前は四泉国主だろう。この私を失望させるな」

 沙爽は胸を手で押さえ、そうして力尽きたように意識を失う。倒れてきたのを横から嘉唱の頭が入り込んで支えた。

「お前もこれが正解だと?」

 面の下でしもべにそう微笑み、取り巻いている万騎を見回した。徼火が良かったわねぇ、と瞳を潤ませ、侈犧は珥懿を見てにやついている。

「この孩子がねぇ」

「やかましい。お前たちもさっさと荷を解け。休ませている暇などないのだからな」

 そう言って蝿を追い払うようにした当主の仮面の下は、きっとかなり面白いことになってるだろうな、と侈犧は見たくてたまらなかった。




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