十一章
沙爽ら三人を見送ったその日、午後から待ちわびていた大雪が降った。はじめは粉雪ほどの雪風が次第に水気を含んだ豪雪になり、あっという間に膝丈に積もっていった。
膠着状態だった四泉
撫羊の要求は二つ。
穫司が落とされ、南地域が事実上ほぼ制覇された。この事実に朝廷は
牙領方面では、あれだけ注意して隠匿していた驟到峰の
驟到峰が通行可能となった先鋒隊は途中の罠で数を減らしながらもじりじりと領地に迫り、ついに由霧を抜け、領門前の閑地で布陣し始めた。ここでしばらく本隊の到着を待つつもりのようだった。
「平原を突っ切ってこないのは流石と言ったところか」
合議の場で
「五万余が全て入れるほど閑地は広くない。後軍の不能渡を何処に駐屯させる気なのか。いずれにせよ数が分散されておるうちになんとか潰したいところだな」
「現状、敵兵はどのくらいの数いるか……。監視の報告ではここまでの罠でおおよそ二百は減らすことが出来たはずだが」
「先手をお打ちになるか?」
「猋を出さなかったのは閑地で一網打尽にする為だからな。ここでひとまず叩く」
猋は多くない。傭兵に貸与した分を差し引いて四十といったところだった。だから温存していたのだ。
「四泉のほうはどうだ」
問われた
「あの泉主がそれをするかね」
ガラガラと
「どうでしょう。すでに何らかの指示を瓉明軍に与えているとは思われますが」
「四泉のことはあれが同盟書を持ち帰った後でいい」
珥懿が言を切り、顎に手を当てた。
「北側に二泉の斥候はいたか?」
「いえ、今のところ見当たりません」
少し
「どう考えても北のほうが守りが薄く見えるだろうに、何故五万全てが正面きって向かってくる?」
「……たしかに。しかし、北路は迷路です。そう簡単に突破は出来ないかと」
それはそうだが、となおも考える。
「まるで目を逸らそうとしているようだ」
呟いたのと同時に
「どうした」
「当主。今すぐ猋を
「どういうことだ?」
「奴ら、
吐き捨てるように言った。
「不能渡の泉賤を猋に食わせてる。あのままじゃ猋が血に酔う!」
そんな、と
「正門からざっと見渡して五百ほど。早くやめさせろ、当主!」
落ち着け、と斂文がいなす。
「以前のように今現在、猋の統率が取れていない訳ではない。しかしながら当主、早急にご指示を」
珥懿はすでに立ち上がって出て行こうとしていた。跿象が後へ続く。
「皆は配置に戻れ。斂文、北側の
言い置き、城の手近な角楼に上がった。南東側の広い平原と閑地が見渡せる。
跿象があそこだ、と指差したほう、平原を囲んだ境界林に沿って火の手が上がっている。煙が立ち昇っているので見にくい。
「
眉根を寄せていれば猋に追い立てられる影が何人か平原に走り出てきた。手脚に
「
跿象が焦った顔で言った。
猋は血に酔うと
「
呼ばわった声に耳の欠けたのが一頭、
しばらくして
跿象がほっとして額の汗を拭う。珥懿は力の抜けた肩を軽く小突いた。彼は昔、想い人を血に酔った猋に食われていた。
「閑地を叩く。正門の守りを崩すなよ」
「承知!」
息を吹き返したように角楼を駆け下りて行ったのを見送り、顔を平原に戻す。
「……なぜ猋が血に酔うことを知っている……」
やはり考えうることは。
平原を睨み、珥懿もまた準備のために身を
猋のうち、
作戦の失敗を知ったのか、炎の向こう側から矢が放たれ結局泉賤たちは一人残らず殺されてしまった。
「……
斬毅が顔に皺を寄せて燃える森を眺める。残雪のおかげで平野への延焼は無い。
「外道が。泉賤とて同じ泉国の民ではないのか」
「あれが二泉の戦い方なのだ。自軍の兵へとて気遣いのない雑な動かし方、まして泉賤など、同じ人として扱うほうがおかしいのだろう」
「しかし、耐えがたい
二泉軍は猋が来ないことをいいことに境界を越えて回収した泉賤の
「こちらの鼻を利かなくしようとしておる。我らとてこの有様、当主は外に出ぬほうが良かろうな?」
「だろう」
頷きあったところで、噂をすれば階下から声が聞こえ、本人が上ってきた。
「当主!」
「大事無いのですか」
人並外れて鼻も利く主は無感動な目で平原を見据えた。
「腐った
「ご無理めさるな。もう二日めですからな。見張りの者も
「こまめに交替してやってくれ」
同じように布で鼻を覆い、ところで、と灘達は北を見た。
「四泉主は帰ってきましたかな?」
帰領予定は今日。北の監視からいまだ連絡はない。
「本当に帰って来れねば、盟約は反故になさるので?」
「……
ゆえに猋を酔わせ撹乱する作戦を展開したのだろうが、それは失敗に終わった。
「二泉に妙な入れ知恵がついている」
またも顔を見合わせる。「由歩が異常に多いというのも何故なのか分かっていませんでしたな」
「そうだ。しかも妙なのはそれだけではない」
「というと?」
当主にしては珍しく考え込んだ様子に、二人も怪訝そうに閑地を見た。
「あの先鋒隊、何かがおかしい。まるで
は、と礼を取ったものの、斬毅も灘達も当主の言う違和感がどういう事なのか分からず、内心首を傾げた。
珥懿は珥懿で例えようのないもやついた感覚をどう表せばいいのか言葉が出ない。ただ、驟到峰到達から監視している兵の様子や戦い方、猋への作戦、泉賤の扱い、その何もかも全てが珥懿にはひどく機械的な動作に見えた。もちろん、兵とは下達を忠実に実行して当たり前だし、そうでなくては軍として成り立たない。しかし先鋒隊はあまりに無感動に見えた。猋はどこにでもいるわけではない。おそらく見るのが初めてだという者のほうが多いだろう。その未知の獣に行きずりに仲間が切り裂かれるのを見ているのに、
よほど練度の高い軍なのか。練度が高ければ作戦もそれだけ緻密により高度なことも行える。泉賤など使わずに猋だけを狩ろうとすれば出来たはずだ。もしくはもっと上手く誘導して排除するとか。しかし、
境界林周辺は猋との衝突から二日経ってもまだ
「歓慧、何をしている。危ないだろう。
歓慧は、でも、と言いつつ手を止めない。血に
「まだ全員洗えていなくて」
「そんなことをする必要は無い。どのみち汚れる」
「でも、みんな我慢しています」
猋は元来気性の荒い凶暴な生き物だ。生き血を好み飢えれば同族で共食いもする。本当なら人の支配下には置けるはずのないもの。
「適当に雪の上で寝転んでいれば自ずと落ちる。それよりもお前が汚れる」
眉をしかめながら手首を掴み、忌々しく血糊を雪で拭う。体温で
「姉上。姉上の手が汚れます」
「……頼むから、お前から血のにおいなんてさせてくれるな」
低い声で言うと、絹袖で妹の
「姉上。
いや、まだだ、と城へ
しばらく歩いて、珥懿はぽつりと問う。
「あの泉主がそれほど気に留めるか」
「ずっとひとりで悩んでこられたのだな、と思って」
俯きながら微笑んだのを見返した。
「お前とあれはちがう」
「でも、似てますでしょう?」
困るのが分かっていて歓慧は
「お前はなにも心配しなくて良い」
この言葉を何度聞いたことか。
「ありがとうございます、姉上。歓慧はひとりで戻れます。
城へ続く迷路を先に駆けていった。小さな背を見送り、白く溜息をつく。灰雪の降る曇天を見上げ、いまだ漂う
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます