十章
「どうして俺なんだよ」
小柄な少年は無表情に
「北路に関してはお前がいちばんよく知っているからだろう、
高竺にそう言われて淡雲は煙を吐き出しながら、どうだか、と他人事のように言った。
城の裏に広がる迷路の一角、小川に面した小さな
「死んでもいい奴を選んでるってことだろ」
「そうじゃない。もう一人は
「あのクソ真面目の叡砂かよ。ハズレだな。当主はどういうつもりなんだ」
大きく息をつくとごろりと横向きになる。高竺も嘆息して淡雲を見た。
「そう言うなよ。猋の扱いに関して言えばお前のほうが上手いだろう」
淡雲はもともと
「当主が血の絶えた家の俺に興味があると思うか」
断絶したということは生き残る能力が無かったと判じられるに等しい。
「あの方はそんなことにはこだわらんよ。家じゃなくお前を選んだんだ。泉主に庭を見せるようだから、お前が迎えに行ってやってくれな」
さらに気怠く溜息をついた。自分とて、
「泉主っていくつだ?」
「年が明ければ十七におなりだそうだ」
「……あちらの十七はまだ子供の部類なんだろうな……」
自分は十九になろうとしている。既に寿命の三分の一をとうに過ぎ、淡雲はほのかに羨望するように呟いた。高竺はやれやれと眉尻を下げる。
「お前がそんな風だから、当主もお前を推挙したんじゃないか?」
「そんな風ってなんだよ。それに俺、当主には一回しか会ったことないんだが」
しかも素顔は見たことがない。他の者から話を聞いただけで、自分の何が分かるのか。
「なんにせよ重要な任務だ。必ず戻ってこいよ。頼むから」
淡雲は首を竦めた。なぜ自分がそんな一族と四泉の命運をかけた大事に巻き込まれたのかは分からない。しかし心の奥底で微かに感じたのはたしかに……
牙領を出るのも久しい。しょうがない、とひとりごちた。やれることはやってやる。もしかしたら、功を認められて正式に家督に昇格出来るかもしれない。そう思いながら、段差を流れ落ちる小さな滝壺に吸殻を落とした。
大きな
歓慧が入ってきた。抱えた盆の上に飲み物や菓子が乗っている。
「
首を振る。「緊張で吐きそう」
叡家の
「飲んで」
差し出された
新年は夜通し起きているものである。砂熙は灯火に照らされた歓慧を見返した。夜なので髪は結わずに下ろした顔。俯くと垂れかかってほんのり大人びてみえる。
「歓慧は先代に似てるって言われること、ある?」
首を傾げた。「本当にたまに言われるだけ。砂熙の顔は
「よく言われる。父上みたいに鼻が高くないし」
鼻を摘んだ。歓慧は微笑む。
「でも中身は
「父上は私ほど臆病じゃないわ……」
俯くと、じんわりと涙が
「……どうして当主は私を泉主の
歓慧は
「……だから、じゃないかな」
火鉢の
「姉上は砂熙に期待してるんだよ。伴當で最年少だし、泉主とも上手くやれそうだから。もう一人が
「よりによってなんであの人なの?いつも怠そうにしてるひとでしょ。あんまり喋ったことないし、こんな重要な任務なのに意思疎通で支障が出ないかしら」
砂熙は手を揉む。不安な時の彼女の癖だ。歓慧は微笑んでそれを握った。
「大丈夫。姉上が選んだんだもの。砂熙は絶対帰ってくる。本当はついて行きたいくらい心配だけど」
「歓慧……」
「ごめんね、砂熙」
謝る姿になんで、と抱き締める。
「歓慧は何も悪くない。私、絶対に任務を完遂させて帰ってくるから。待っていて」
歓慧は目を閉じて抱き返す。役立たずな自分は、待っていることしか出来ないから。その言葉は心に秘めたまま、乳姉妹の頭を撫でた。
淡雲はぼやいたが、四泉まで騎乗する猋の選抜のおり、驚いたことに当主が直々に同席してきて砂熙と共に仰天した。少年は主の尊顔に
「泉主の
声を掛けられ、淡雲はうまく返答できない口を動かす。この世のものではないような美貌を直視出来ない。
「……わ、若いやつにしました。
「
当主は大庭の全ての猋に名を付けているが、大抵の者には見分けがつかない。主の他に名を言い当てられるのはよく餌を与えている歓慧くらいだろう。
「お前たちのやつは
二人は黙って頷く。当主は可弟を撫でた。
「庭を出たらしばらく落ち着かないだろうが走りに集中させろ。四泉に着いたら泉域に入れず由霧の中で待たせておけ」
主は指笛で数種の音を出す。三頭はぴんと耳を立ててその音を聞き分けた。しばらくして黙って頷くと、二人に向き直る。
「腹が減ると気が立つから餌はこまめにやれ。泉主と四泉のにおいも覚えさせろ」
そう言いおき、あっと言う間に去って行った。背を呆然と見送りながら、淡雲は気を改めた。当主がわざわざ顔を見せた意味を分からないほど愚かではない。
「おい、叡砂」
「砂熙でいいです。何ですか」
「足引っ張んなよ」
ぶっきらぼうに言われて、砂熙は驚いた顔をした後でぷいとそっぽを向いた。それはこっちの
沙爽は言われるままに手の甲を巨狼の鼻面に
「……これでいいのだろうか」
横に佇む
彼女はよく歓慧を手伝っていた者で、紹介によるとたしか叡砂と言った。その横で猋を撫でているのは朝方の少年、名を問うとただ蕃とだけ答えた。
三人と少し離れて歓慧と、幾人かの仮面をつけた族主の
沙爽の乗る猋――可弟は沙爽の手を物珍しげに存分に嗅ぐとくしゃみをした。
「
言われて革袋にわずかに残った四泉水も鼻面に近づけてやる。四泉から族領まで由霧の中、朝から晩まで走りづめの強行軍だったとはいえ、この水が尽きれば
「鼎添さま、これを」
歓慧が差し出したのは小瓶。
「牙族の醸菫水は独自の手法で作られたものです。片道四日なら、これを二日に一口お飲みくださいませ」
それだけで足りるのか、と沙爽は礼を言いながらしげしげと小瓶を見つめた。
醸菫水とは、端的に言うと由毒を中和させる薬水のことである。由毒を含んだ水を加熱しその結露を集めた蒸留水、または由霧に侵食された土地で採れる
荷は最低限、猋の柔軟性を最大限活かすため体に帯びれるだけ帯びる。猋の騎乗が初心者の沙爽のため、特別に可弟には前肢まで胴輪のある
「体勢は低く。猋の胴体に押しつけるように」
淡雲が沙爽に騎乗の指南をしている間に、砂熙は見送りの仲間たちに膝をつく。
「それでは出立致します」
ひとりが頷いて進み出た。猪の面――
「
見送りが倣って膝をつき、頭を軽く垂れた。歓慧も同じようにしながら砂熙を心配そうに見る。だがもう何を言うでもなかった。砂熙も無言で頷くと、雨帰に跨った。
沙爽もなんとか可弟の背へ登る。慣れない獣に乗るのは一苦労だ。猋は馬ほど人に懐きはしないから騎乗する際でも屈んではくれない。
猋の群れには明確な順位がある。その頂点が頭目、そしてその頭目が主と認めた人間が牙族主だ。猋は頭目に、ひいては主の命令にしか従わない。その他の人間に個別に従属はしないものだった。
脚で猋の胴をきつく締め、首の長毛を掴む。淡雲は二人に頷くと、北に向かって進み始めた。
三頭の獣がとてつもない速さで草原を疾走してゆく。黒い城の階上、吹き抜けの開廊で男が二人、それを見送っていた。
「出発したな。雪が降る前で良かった」
腕を組んで佇み、三点を追う。風に衣と髪をはためかせ、
「しかし、あの二人に任せて大丈夫だったのか」
「ま、当主が決めたことなら、俺らがあえて異を唱えることじゃあないけどな」
大きく伸びをし息を吐く。斂文は遠ざかる白い影に目を戻し、細めた。「淡雲はああ見えて出来るやつだ。ちと偏屈だがな。砂熙も普段は気弱いがいざとなったら肝が据わる。無事に帰ってきてくれればいいが……」
「それはあの三人を信じるしかなかろう」
跿象はあっけらかんと笑う。「それよりも俺たちは自領を守らねばならん。せっかく帰って来れても、こっちが壊滅してたんじゃあ、意味が無いからな」
そうさな、と笑い返し見上げた。色のない空から微かに粉雪が舞い降ってきた。
薄暗い宮の中、
二泉城の内廷だった。磨かれた石床に赤い
その声の主がこちらに気がつき、喜色を浮かべて
「とうはく!」
高く澄んだ声で呼び掛け侍官の手を振りほどき、膝をついた騰伯の胸に飛び込んできた。
「王太子殿下。ご息災であられましたか」
「
熟れた林檎色の頬を膨らませ、幼い
「碇也さま。本日は何をして遊んでいらっしゃったのですか」
あのねぇ、ときらきらと目を輝かせてもときた庭園を指差した。
「じょうばくんれん」
見るとつくりの豪勢な木馬が鎮座していた。
「父上が四泉につれてってくれるって。そのときにね、碇也がもうすこし大きくて、馬に乗れたら良かったのにっておっしゃっていたの。だから、今からでも乗れますって言ったら」
碇也は思い出し、両手を口に当ててくすくすと笑った。
「無理だったらとうはくが負ぶってくれるからしんぱいない、って」
騰伯は必死に笑顔を取り繕ったが、頬筋は力なく下がっていった。
「どうしたの?だいじょうぶ?」
「あ、ああ。平気でございますよ」
「もしかして、そう言われるのがいやだった?ごめんなさい、ぼく……」
騰伯は小さな手を握った。無理に歯を見せて笑う。
「そうではありません。その時には騰伯が碇也さまをおんぶして誰よりも早く駆けてみせましょう」
幼子は再び笑って、騰伯の背後のなにかに気がついた。するりとあっという間に腕を抜け駆け出す。
「母上!」
振り返れば、鮮やかな
「訓練はもうおしまいなのですか?」
「あのね、とうはくが来たよ」
言われて初めて気がついたのか、女はこちらを見た。騰伯は目を合わせる前にその場に頭を下げる。
「正妃さま」
正妃――
「泉主にお会いしたくて行ってきたのです」
硬い表情でそう話しかけられて、顔を上げた。
「碇也さまを四泉行軍へお連れなさると」
湶后は
「それで、
「わたくしとはお会いして下さいませんでした」
俯いた顔は今にも泣き出しそうに蒼白だった。
「戦の
湶后は騰伯に当たるように語気を強めた。
「碇也はただひとりの太子なのですよ。あの子が死ねば二泉は
王と継嗣の不在は泉の汚濁を招く。泉が治められるべき主を失うからだという。それで、泉主の子を泉根、その血統が断絶することを泉根が枯れると言った。
「湶后陛下、お気をしっかりお持ち下さいませ。私も引き続き思いとどまっていただくよう奏上致しますし、万一本当にそんなことになっても、必ずお守り致しますゆえ」
「
放つ声は抑えながらも掴みかからん勢いの苛烈さを滲ませていた。
「決して碇也が失われることがあってはなりません。たとえ泉主がお隠れになろうとも、碇也だけは絶対にそなたが盾となり必ずここへ戻すのです」
もとよりそのつもりです、と騰伯は床に額を擦りつけた。
「先代から仕える忠実なそなたに重荷を背負わせることは本意ではありません。しかし、泉主は
「承知しております。碇也さまを失えば二泉五百万の民が死に絶えまする。私とてその民の一人。この命に代えましても、王太子殿下をお守り致します」
湶后は頷き、涙を
泉主は今日は
頭を下げたものの
…………あんな
騰伯は首を傾げ、無人の回廊にしばらく佇んでいた。
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