九章



 あたりはすっかり暮色に染まり、陽の沈んだあとの残照が禍々まがまがしく血潮のようで、まるでこれから起こる事態を暗示しているようだった。

 沙爽は臥房ねま凳子いすに腰掛けて背を曲げ、両手で顔を包んでいた。足音が聞こえて隔扇とびらが開く。異民族の少女が心配そうに声をかけてきて、燭台に火を移した。


鼎添ていてんさま」


 膝立ちで覗き込まれ、避けて顔を逸らす。

「……済まない。今はとても見せられる顔ではない」

 震えを抑えてそう返すと、歓慧はしばらく黙って沙爽を見つめ、静かに退出した。きっと情けなく見えたのだろう。王なのに、いちいち迷い、怖じけている自分に。


 ますます気が滅入って何をする気にもならず、ただぼうっと開け放した円窓の外、空が濃藍に染まっていくのを見送っていた。


 どれくらいだったのか定かでない。油火ひとつだけが寂しく灯るなか、気がつくと傍に歓慧が立っていた。手にはなにかを携えている。

「……それは?」

 ほんのりと照らされた顔が微笑む。

「わたくし、くのはあまり得意ではないのですけど、よろしければ聴いていただけますか?」

 どうやら楽器のようで、細身の長い木の板に弦が張られている。正直、がくを鑑賞するような気分ではなかったけれども、彼女の気遣いが見えたので沙爽は黙って頷いた。


 六絃琴を斜めに抱え、歓慧はことわって牀榻しょうとうに腰掛ける。何度か弦を爪弾いて音を調整すると、すっと姿勢を正した。


 宵闇の静寂に弦が震えて鳴る音だけが響く。心地よい高低で、しっとりと、どこか切なくしかし軽快で悲壮感は感じられなかった。


 沙爽は顔の前で両指を組んだまま、ぼうっと白い指が緩やかに動くのを眺めていた。木の葉の形のてのひら、桜貝のような小さな爪、いつも炊事をしているせいか所々あかぎれになっている。

 こんなか弱い手でも、日々労を生み出し、家族の為に貢献している。それに比べ自分はなんと無力で愚鈍なことか。


 演奏が終わった。歓慧は伏せていた目を上げ、沙爽の様子に驚く。声もなく涙を流すさまに、琴を置いてひざまずき、またも顔を覗き込む。

「……歓慧どの。そなたには、きょうだいはいるか?」

「わたくしにとっては一族全てが父母ちちはは、兄であり、姉であり、弟妹です」

 沙爽は泣き笑いの顔でゆるく首を振った。

「牙公にも同じことを言われた…私も、四泉の民を同じようにおもえるようになるだろうか」

「もうすでに、鼎添さまは懐っておられますよ」

「その証明として、私は家族に害になるものを排さなければならない。実妹いもうとという害を」

 言って嗚咽おえつこらえて嚥下した。詫び、顔をそむける。

「いますこし、独りにしてはもらえないだろうか」

 気丈に言ったつもりだったが、声の震えを隠すことは出来なかった。はい、と歓慧は頷き、少し躊躇ためらってからそっと沙爽のこぶしに触れた。氷のように冷たく血の気のない手だった。

「鼎添さま。あなたは決して独りではありません。牙族との同盟はきっと良いほうに向かいます。どうか悲しみに溺れて、まなこをお曇らせにならないでください」

 真摯にそれだけ言うと、礼を取って臥房を後にした。







「決は下った」

 四回目の謁見の間、簾を全て揚げた上座に黒面の族主は堂々と座っている。淡々と沙爽と茅巻にそう告げた。

「我らは四泉との同盟を前提に動く」

 なんと、と茅巻が腰を浮かせる。難しげに主を見た。出来るのか、という目線を受けながら、沙爽は深く頭を垂れる。

「……ご理解頂けたのですね」

「早合点はしない方がいい。なにより泉主が朝廷を説得しないかぎりはこの話は固まらない。そういうわけで、泉主には早急に支度をしていちど帰泉きせんしてもらわねばならない」

「しかし、私をただで返すほど牙族の信頼は得られていないように思うのですが」

「身の程をわきまえているな。その通りだ。泉主にはおひとりで帰って頂く」

 茅巻がそれは出来ぬ、と訴える。

「馬で二十日かかる距離を泉主ただ一人で往復せよと。醸菫水じょうきんすいを使ってさえ厳しい日数なのだぞ。それを単騎でなど」

 族主は指甲套つけづめの指先で椅子の肘掛けを叩く。

「おひとりで、というのは四泉民として、という意味だ。私の斥候を二人お付けする。同盟の条件は必ず勅書と共に三人で牙領がりょうに帰ってくることだ。斥候の両方、あるいはどちらかが欠けることは許さん。それが分かった瞬間から牙族は四泉の裏切りと看做みなす」

 沙爽はごくりと喉を鳴らした。

「……他に条件は」

 問うたのには答えず、族主は手を伸べる。扉が開いて数人の臣下が入ってきた。



 小童こどもなのか、小柄な男女が五、六人で塊になってなにかを抱えて座らせる。桎梏しっこくが床に触れて硬い音を立てた。人だ。粗末な麻袋を頭に被せられた罪人のようだった。

 沙爽と茅巻は息を飲む。まさか。


 袋を取られた罪人は紛れもなく暎景。しかしその顔は正視出来ないほどひどく崩れていた。



 沙爽は怒りの形相で食ってかかった。珥懿は内心でやはりなと頷く。沙爽はきちんと怒れる。麾下みうちが無下に扱われてもなんとも思わないような血の通わぬ人間ではない。そうでなくては、みすみす四泉主を帰国させるなど、こちらに不利となる危険を冒しはしない。


「もう分かっただろう」

 言えば悟った顔をした。

下僕しもべは人質とする。沙爽どのなら見捨てることは出来まいというのが合議の意見だ。そうだろう?」

 言外に甘ちゃんだと言われたようなものだ。それでも沙爽は頷いた。

「二人は私の手足です。切り落とされればもはや立つこともかなわない。分かりました。牙公の条件に従いましょう。しかし、ここから四泉泉畿せんきまで往復ひと月を越えます。それまでに情勢が悪化するのでは?」

 茅巻も頷く。四泉泉畿は領土の北に位置するが、牙領から帰るには通常、東の山道で一旦峰を横断し、途中で北上する道を使う。由霧の中で不能渡わたれずは何もしなければ時を置かずして身体に異常を来たす。それで、醸菫水と駿馬しゅんめを選りすぐって強行軍で訪牙した訳だが。

「それは考えてある」

 あっさりと言った族主に、沙爽がともかくも頷こうとし、悲鳴にも似た叫び声にびくりとたじろいだ。

「爽さま!本当に四泉を売るおつもりですか⁉」

 喋りにくそうに口を動かし、暎景が族主を睨みつけた。

「暎景、そうではない。これは互いにとって有益な、」

「なにが有益なのです。騙されてはなりません。泉を持たぬ部族は常に泉国に取り入ろうとしてきたことは歴史が証明している。この機にこの者たちは四泉を乗っ取ろうとしているのではないですか。同盟だと?馬鹿も休み休み言え。泉主を籠絡した挙句あげく自ら王統を名乗る気とは傲慢もはなはだしい。茅巻、なぜお止めしないのだ」

「しかし二泉が本気になれば数こそあれど四泉の兵に到底勝ち目は無いぞ」

「わからんではないか。国軍も州軍も総力を挙げて立ち向かえば勝機は充分にある」

 族主がわらう。「総力など挙げられるものか。州都がひとつ寝返ろうとしているのに。民とは得てしてそういうものだぞ。強い言、英雄と称えられる指導者が身に迫って団結を呼びかければたちまちなびくのだ。お前の主の予測では穫司は内から崩壊する。そうなれば南地域は撫羊側に落ちたも同然になる。そこへ戦慣れした二泉本軍が来ればどうなるのか、愚かなお前でも分かるだろう」

 ばかな、と呆然と呟き、暎景は再び沙爽と茅巻を見る。

「沙琴さまはどのような莠言ゆうげんを……」

 族主は可笑おかしそうに面の中の双眸を細めた。

「黎泉の神勅しんちょくは自分にくだり、よって沙爽は泉主にあらず、自らが不在につけ込んで王位を簒奪さんだつした。四泉軍も王に迎合したので二泉主の協力を得て、南より沙爽放伐ほうばつのために泉畿と主泉を取り戻す。……というものだ」

「めちゃくちゃな虚言だ。血璽けつじを使えば分かることだ」

「民はそのようなことは分からん。継承順位が上の男子がいるとしても神勅がくだらなかった例は稀だがあるし、洛嬪えいゆうの沙琴撫羊が実際に軍を連れて開門を呼びかけては信憑性は高い。拒否すれば逆賊になる可能性もある。それに影の薄い泉主より実際に為人ひととなりを知っているほうが民は信を置く」

「影の薄さなど関係あるか!爽さまが王で間違いない」

「だから妹を討ち取るしかなかろう。死んで泉に何も起きなければ嘘だったことは周知される」

 暎景は歯噛みしてなおも族主を睨む。自分がいない間に事態は急速に進みすぎていた。いればもう少し早く止めることが出来ただろうに。暎景は沙爽を見た。

「ほんとうに同盟を?おひとりで帰泉なさるのですか」

「牙族に同盟を提案したのは私自身だ。誰かから言われた訳ではない。四泉六百三十万の民を守るにはなにより私が四泉主として生き延びねばならない。牙族に縋ったのはなにも手助けが欲しかっただけではなく、四泉が今のような状況になることを将来的にも二度とないようにしたかったから。四泉は平和すぎた。安穏と享楽を謳歌しすぎて嵐に対する備えをしてこなかった。内から風が起こるなど予想だにしていなかった……」


 沙爽は自分への責めとして言った。己とて、当たり前のように義兄が泉主になり、自分は引き続き湖王しんのうとして補佐するのだと思っていた。上三人の争いを目の当たりにしても、当事者にならなければなにひとつ行おうとしなかった。止められたとは思えない。しかし仲裁の声くらい上げるべきだったのだ。


「今の状況は私の責でもある。暎景、私は…何を言われても背約する気はない。どうか人質として茅巻と共に待っていてほしい」

 ついに暎景は項垂うなだれる。鎖に繋がれた手を震えながら丸めた。

 沙爽は族主に向き直る。

「すぐに出立の準備をします。ひとつお願いが。手持ちの醸菫水は復路の分も半分ほど使ってしまいました。余剰がありますか」

「分けよう。四泉に辿り着かないうちに死なれては困るからな」

「ありがとう存じます」





 陽が落ちた。ちょうど今、族領ではしくも新年を迎えたが薔薇閣へと戻った三人は気を改める心の余裕など皆無だった。さらに沙爽はゆっくり休む間もなく臥房にこもって帰国の準備をしている。


 いましめを解かれ、久しぶりに湯を使った暎景は嫌がりながらも歓慧の手当てを受ける。

「自分でできる」

 しかし結局ぶっきらぼうに布を取り上げ、口を使って器用に自らの手首に巻いた。歓慧は諦めて肩を竦めると、厨房くりやに戻ってゆく。

「お前なぁ…… 八つ当たりが過ぎるぞ。小子ガキか」

 茅巻が呆れたように言うのにもじろりと見返した。

「やかましい。平気な顔をしていられるお前のほうがおかしいぞ。同盟など、飯事ままごとでもあるまいに」

「泉主はあれで頑固なところがおありになるからなぁ。我らが言ったところで変わらんだろう」

 茅巻でさえ、一時はどうなることかと肝を冷やしたが、話はなんとか纏まりそうだ。そうなればあっさりと引き退るのが彼の性である。

「上手くいかなければ終わりだ」

「おや、お前は泉主を信じていないのか?」

 そういうことじゃない、と暎景は苛々いらいらと薬草を食んだ。口中にみてますます気持ちが逆立つ。

「現実的に考えて朝廷が承認すると思えない。牙族の罠である可能性は拭えない」

「まだそんなことを」

「やはり、俺は泉主に付き添う。国境を行く間に暗殺されるやもしれんのだぞ」

 言いながら卓子つくえを叩く。と、それより大きな音が卓上に響いた。


 二人は唖然として目を見張る。いつの間にか居室いまに戻ってきていた歓慧が大ぶりの容器を二つ、卓子に置いた音だった。

「……な」

「いい加減腹をお括りになられませ。鼎添さまはとっくに覚悟を決めていらっしゃいます。臣下の貴方がいつまでも子犬のようにおわめきになると鼎添さまの士気にかかわります」

 揶揄やゆされて暎景の頭に血が昇る。口を開こうとしたがしかし、ずいと差し出された容器に気圧けおされて黙った。

「………これは?」

 茅巻は物珍しげに木製の容器をためつすがめつする。

青稞酒おさけです。今日は特別です。いつもは新年にお客様はいないのでお出ししたことはないのですけど。このくだを使ってお飲みください」


 木製の容器には蓋がしてあり、そこに竹の管が刺してあった。雑穀を使った濁り酒だがもろみ状になったものと湯を混ぜ、竹管で濾しながら飲む。

 茅巻が早速吸いはじめ、美味という意味か頷いた。暎景もうたぐり深そうにしながらも口をつける。それを見て微笑んだ歓慧が首を巡らせたところで沙爽が隔扇とびらを開いた。

「鼎添さまもお飲みになりますか」

「ああ、祝いの酒か?」しかし下僕二人が止めにかかった。

「いや、泉主、やめておいたほうが。なかなか強いものです」

 沙爽は微笑んだ。

「いや。そうだな、気つけに少し、後で臥房で頂きたい。歓慧どの、持ってきてもらえるだろうか」

 はい、と頷くと、沙爽は居室に置いたままだった文房の類を抱えてまた引っ込んでしまった。

「……なにやら出立の準備だけではないようだな」

「生真面目な爽さまのことだ、帰った時の新年の挨拶文でも考えているのかもしれん」

「この非常時にそれはないだろう」

「それを言うなら酒などあおっている我らこそこの非常時に何をしているのやら」

 暎景がケタケタと笑う。茅巻と歓慧は顔を見合わせた。

「……飲んではいけないのは暎景どのでしたか」

「こやつ、すでに出来上がっている。まあ、半月近く牢に入れられていたからな。気が緩むのは分かるが」

 ほら、と茅巻は暎景に肩を貸した。

「今日はゆっくり休め。でないと泉主をお見送りできんだろう」

 茅巻は済まんな、本日はこれで、と軽く会釈すると、暎景を連れて自分たちの寝所へと去っていった。彼もまた疲労が溜まっているのだろう。



 歓慧は卓子の上を片付け、短い走廊ろうかを抜けて沙爽のもとをおとなう。盆には酒と土瓶、つまみの干しなつめが載っていた。


「鼎添さま、歓慧でございます。よろしいですか」

 返事が聞こえてそっと入る。灯火の乏しいなか、書案つくえでなにやら書きものをしていた。

 すっと伸びた姿勢の良い背からただならぬ空気を感じ、歓慧は脇台に盆を置くと大人しく沙爽の手が止まるのを待つ。


「……自分が今際いまわきわに何を言い残したいのか、考えるのは難しいな」

 ふいに沙爽はひとりごちて、筆を置く。歓慧はじっと広げられた紙面を見た。

遺言いげん、ですか」

「うん。書ける時に書いておこうと」

 灯に照らされた顔は至極落ち着いていたが、目が合って気まずそうに伏せた。

「……あの、……すまない。醜態を見せてしまって、その」

 泣いていたことか、と歓慧は微笑んだ。

「全く気にしておりません。鼎添さま、手休めに酒肴をお持ちしました」

 いただく、と牀榻しんだいに移動した。臥房は広くないのでゆったりと座るところがない。なので歓慧も遠慮がちに隣に座る。

「不思議な味だ。やはり四泉のものとはちがうようだ」

 青稞酒を軽く碰杯かんぱいして飲む。酸味があって爽やかで飲みやすかった。良かった、と歓慧はほっとして笑む。

「そなたも食べてくれ。気を遣う必要はない。ここでは私はただの宿借りに過ぎない」

「では、甘えさせて頂いて」

 干し棗を一粒かじる。光に輝く白い頬が咀嚼で弾み、柔らかそうな桜唇が動く。目の前の少女は特に色香があるわけではないのに、沙爽はその様子に妙に魅入られた。慌てて頭を振る。

「どうかなさいました?」

「いや…、前も思ったが、歓慧どのは大人だなと」

 目を瞬かせた相手は小首を傾げた。

「なんだか全てを見通して悟っているみたいだ。歳下のはずなのに私のほうが子どもなのかもな」

「そんなことはございません。わたくしは鼎添さまのような星のもとに生まれず、天命もない日々を送っているのです。ですから少しでもお役に立ちたいと思い、お世話させて頂いております」

「牙族の中でも、役割は決まっているのか」

「それぞれの能力を見極めて、適材適所でみんな働いています」

「そうか……やはりそんな一族の上に立つ牙公も私などでは到底かなわないように思う。提案を受け入れてくれたのが奇跡のようだ」

「そんなことはございませんよ」

 沙爽は竹管をすする顔を上げる。

「鼎添さまが提案なさったから、当主もわざわざ合議にかけたのです。それは当主が優しいからではなくて、鼎添さまの実力です。鼎添さまなら、裏切らないと当主も感じ取ったのかもしれませんね」

「しかし、無事に戻って来れねば盟約は」

「きっと大丈夫です」

 そう言っても、と不安げに顔を曇らせる。書案の上の遺書を見た。

「私に出来るだろうか……」

「だろうか、ではなく、やるのです」

 きっぱりと言った歓慧に、なんとも豪胆な、と瞬いた。

「鼎添さまは覇気が足りません。もっと堂々としていらっしゃいまし。そうすれば自ずと鼎添さまを泉主と認めて下さる方も増えるはず。当主をご覧下さいませ。あんなに横柄な態度なのに配下はみんな当主の決定に反抗しません」

 確かに、と苦笑した。

「では、牙公を手本としようかな」

「お手本にするにはあまり参考にならない気がしますが」

 二人で笑い合う。と、沙爽は軽い目眩めまいを感じてしとねに手を着いた。

「鼎添さま?」

「ん。少し勢いに任せて飲み過ぎたみたいだ」

 ふわふわと頭のなかは軽いのに蟀谷こめかみに痛みが走る。飲みやすかったのでつい茶を飲むようにしてしまった。


 歓慧が沙爽の体を支えようとし、こちらも掴まろうとして、手を滑らす。そのままもたれかかって、二人して横向きに倒れた。

 衝撃はなく、沙爽は酩酊で霞む目で歓慧を見つめる。息がかかるほどの距離、円窓から射し込む月光に照らされて大きな瞳が宝石のように輝いている。

 ぼんやりと何も考えず再び手を伸ばし、そっと水蜜桃のような頬に触れた。歓慧がさらに目を見開く。

「鼎添さま、」

「本当の名で」

 しらず呟いた。「いまいちど……」

 急激な睡魔が襲ってきて、たまらず瞼を閉じる。望んだ答えが返ってきたのかは分からなかった。







 払暁ふつぎょうにはまだ早い時刻、沙爽は何の虫の知らせかふと目を覚ました。起き上がった肩から被衾ふとんがずり落ちる。睡衣ねまきではなかったせいで節々が少しばかり痛い。薄暗いといえ二度寝する気にもなれず、脇台に着替えが畳まれて置いてあったのでともかくも手に取る。


 昨日の寝入りのことを思い出せないまま、書案の書面を眺めて折り畳んだ。文具も片付け、荷を纏める。

 そっと臥房を抜け出し、走廊を抜けて厨房へ向かう。あたりはまだ暗く、暎景も茅巻もまだ休んでいるのだろう、物音一つしない。

 軽く髪を括り、水甕からたらいに水を取る。身を切る冷たさが気を引き締めて、大きく息を吐いた。


 外に出るとやっと東の空が明るみはじめた頃合いで、その一辺と自分の息だけが白い。

 門の前まで来て不寝番がいないことに気がつく。不思議に思い見回すと、門柱の下、やぶが茂った影に隠れるようにして人が蹲っていた。こちらの姿をみとめて立ち上がる。背は沙爽よりも低く小柄な少年のようだった。着古した薄い襦褲ふくなのに寒そうな素振りも見せず、ついてこい、というように白い仮面の首をらした。先導する彼は恐ろしく速足で、これはいい運動になるな、と小走りで後を追った。


 どう道を辿ったのか分からないが、石垣の壁の小路を抜けてひらけた場所に出た。あたりは緩やかな丘陵地、枯れ残った牧草が霜で凍って寒々しい。どうやら城から東側のようで、その坂をしばらく下ると木の杭が等間隔で穿うがたれた平原に出た。


 沙爽と同じくらいの高さ、その二倍ほどの間隔を空けて並ぶ杭列は古びて今にも朽ち落ちてしまいそうだった。それが地平線に霞むまで平原を横断していた。背後に見える城から出てきた沙爽から見て横に並んでいるから、実際には南北を縦断しているかたちになるのだろう。


 案内人は杭列の前で立ち止まる。

「ここに何かあるのか?」

 問いかけて杭の先に足を踏み出そうとし、いきなり襟首を掴まれてけ反った。そのまま尻餅を着く。

 せながら涙目で見上げると、少年は黙ったまま杭の向こうを指した。つられて見れば、ぽつりとひとつ、影が見える。立ち止まってこちらを窺い見ている。

 ふいに、影は首を天に向けた。聞こえたのは雄々しい遠吠え。狼のような声だったが、合間に猫のような高音を挟んで二重に聞こえた。長く一回吠え、呆然と凝視する沙爽に一瞥をくれると、くるりと転身した。

「なんだ、あの獣は……」

 まだ陽がないためよく見えなかったが、その背は薄闇に白く光って見えた。


 振りあおいで答えを求めたが、すでに上には何者の姿も無かった。少年は忽然と姿を消し、沙爽はただひとり残されていた。

 状況が理解出来ず慌てる。ようやく一光、雲間から漏れ出た暁光の一筋が目を刺す。手で庇いながら見渡した杭の並んだ先、ふと気がつくと、また忽然と人が立っていた。


 まるで狐妖こように化かされているようだ、と土を払って立ち上がる。人影がこちらを見ているのが分かるが、近づいては来ない。沙爽が一歩踏み出すのを待っているようだった。

 峰の合間から顔を出した朝陽はまるで夏日のように鮮烈に平原を照らす。蜜柑色に反射したそれが、沙爽と佇む人の輪郭を徐々にあらわにしていった。


 近づくにつれ、ゆるゆると奇妙な既視感に襲われた。木杭の同じ側に立ちつくす人。自分より頭ひとつ半は背が高く、なにより目に入るのは緩く冬風を受けてたなびく瑞艶みどりの黒髪。

 額から鼻梁にかけてを朱塗りの面で覆い、面紐を通した環には白い穂子ふさかざりが優美に揺れている。それが見て取れる位置で、沙爽は歩みを止めた。


 目の醒めるような碧青へきせいの衣は陽を受けて反射し、細かに散乱した光がひだに沿ってまばゆい。套褂がいとう襖衣きもの絖綸子ぬめりんずで滑らかに揺蕩たゆたった。帯は箔引きのにしきで吉祥紋を描く。合わせた金の短冊簪びらかんざしには珊瑚玉が連なり、それがひとつ、まげを貫いて繊細な音を立てた。

 五色の調和。豪華絢爛、威風堂々のその姿はまごうことなき牙族族主。


「……牙公」


 呆気にとられてなおも見た。まるで天女のような立ち姿に現実感なくもう一歩踏み出すと、族主は目を逸らし杭の向こうに顔を向けた。横からだと仮面はなにかの獣をかたどったものであることが分かった。

 静かだがよく通る声で言った。

「そちら側に足を踏み込んではならんぞ。縄張りだからな」

「そちら側……?」

「杭より向こうのことだ――見ろ」

 平原の彼方、なだらかな丘の上に数頭の獣が群れをなし、こちらを窺っている。族主は短く甲高い指笛を鳴らした。

 そのうちの一頭が疾風の勢いで向かってくる。徐々に正体がはっきりとしてきた姿に沙爽は後退じさった。



 狼にも虎にも見える四肢と顔、頭が一抱えほどもある。尖った長い犬歯に鉤爪、だらりと垂れた肉厚の舌は真っ赤で、よだれがつたって地に落ちた。

 獣は杭を打ち立てた見えない境界線で急停止する。もの欲しげに見る鬱金うこんの瞳に声をあげる。



「……狻猊さんげい



 由霧山岳地帯に生息する猛獣。群れで生活し狩りをする。餌がれないと付近の邑里むらを襲って嬰児こどもを好んで食べる、獰猛な生物だ。沙爽も話に聞いたことがあるだけで、泉地にいるかぎり滅多に見かけることは無い、由霧のなかにむもの。到底人の飼い馴らせるような獣ではないはず。


「我らはこれをただヒョウと言う。我らの武器であり最大の戦力だ」

 族主は獣に一声、よし、と言う。おもむろに獣が境界を越えてきて沙爽は慌てて離れる。

「案ずるな。私のめいがない限り人は襲わないし、普段はこのゆずりはの境界を越えて出てはこない」

 平然と獣の頭を撫でる姿に驚きが止まらない。

「なんという……人の言うことを聞いている」

 驚き冷めやらないまま猋を観察した沙爽だったが、大口を開けた口には生々しい血がついていて青褪める。

「牙族の猋は餌を与えるゆえ誰かれかまわず襲うことはない。だが許可なく境界に入ればその者のにおいを覚えて敵として認識するから気をつけろ。死ぬまで追ってくるぞ」

 ぶるりと震えた。先ほどの少年が助けてくれなければ今頃は肉片となっていたということか。

「牙公が、猋の主なのですか」

「それが族主を継承する絶対条件のひとつだ」

 さらりと言い、沙爽を見据えた。

「帰泉の足にこれを使って頂く。猋なら休みなく飛ばして四日で泉畿に辿り着ける」

「四日⁉」

「そのかわり振り落とされないようにしろ。体が千切れるぞ」


 沙爽は開いた口が塞がらない。馬で二十日、駿馬を飛ばして十二日かかった険阻をわずか四日。驚異的な速度だ。なるほど、族主が考えてあると言っていたのはこのことだったのか、ともう一度まじまじと獣を見た。族主の傍に寄り添う一頭は片耳が欠けており歴戦の勇士のような風格を漂わせている。撫でられて満悦なのか、微かに喉を鳴らしているのが見た目と反し珍妙だった。

「これは猋の頭目だからお貸し出来かねるが、もっと若いものを使うといい。付き添いの斥候二人に選ばせておく」

「ご配慮に痛み入りますが、私に乗りこなせるものでしょうか」

「牛より容易い」

「牛…にも乗るので?」

 聞き返せばこともなげに頷く。「猋は馬や牛とはつくりが異なる。鞍を置かずとも乗れるしある程度なら人語を解する。指示の仕方はあとから習うといい」

「はあ……わかりました」

 族主は腕を組む。

「泉主。正直なところ朝廷を説得するのにどれほどかかる見通しだ?」

「勅命として押し通せばなんとか――朝議にかけて書面をととのえ、公卿こうけいの印のついた同盟書をしたためて……本当に急がせて、それはもう押させるだけ押させて……五日、というところでしょうか」

 朱面は頷いた。

「では今日から半月で戻れ。おそらく昼から大雪が降る。降り込められぬうちに距離を稼いでおくのがいいだろう」

 半月、と沙爽は肝を冷やした。本当にぎりぎりの期間しか設けてくれていない。事が事だけに牙族としてはすぐにでも同盟の調印をしても良いと考えているのかもしれない。四泉国が必ず後ろ盾になるという勅書は絶対に必要なものだ。勅命がなされても、内輪でごたついていたら進むものも進まない。

「四日で帰泉できるとは到底信じられませんが……最善を尽くします」

「みすみす斥候を失わせるなよ。お前の手足と思え。我らはすでに盟約に乗り気なのだ。必ず戻ってもらわねば困る」


 言いながら、片手で面を押さえ、もう一方で支えていた紐を解いた。


 雲間から朝暉ひかりが射した。一陣の風が吹き上がる。思わず目をつむった沙爽は、開眼した先に現れた族主の外貌に感嘆の吐息を漏らした。


 生を受けて十七年、これほどまでに完璧なつくりの顔を初めて見た。完全なる左右相称、整った黒い眉に双黒の瞳。対比するしろい雪肌は陽光を受けて燦然と輝く。鼻梁はすらりと伸びてまるで彫像のようだ。少し薄い唇は今は引き結ばれ、じっと沙爽を見据えている。

「牙公……」

紅珥懿くじいだ。調印を心待ちにしている。爽鼎添」

 沙爽は口中でその名を唱える。

「なぜ、私に素顔を?」

 ふ、と珥懿は絶世の笑みを浮かべた。

「お前が裏切れないようにする為に決まっている。私が当主となってから、族民にさえ素顔を見せたことがない。知っているのは限られた者だけだ。その意味が分かるか」

 衣がはためく。珥懿は顔にかかった流れ髪を払った。

「一方の国に手を貸さば、他方の国にうとまれる。牙族主とは間諜、斥候の長。常に命を狙われている。顔を知られれば危険なのだ。だからあえてお前に見せた」

「顔を知った私が約束を反故にし、敵となれば生かしてはおかないというわけですね」

「一族の掟において不義背信は最も重い罪だ。その者の命を持ってあがなってもらわねばならない。我らを巻き込んだのはお前だ。心変わりは許さん」

「わかっています。心変わりなどあろうはずがありません」

 真剣に頷いた沙爽に鼻を鳴らす。

「そう願う」

 空を仰いだ。灰色の雲がかさになって、先ほどまでの眩しさは無かった。


「……話は変わるが貴様、下女に気安くするのは王としてどうなのだ」

 本当にいきなり話が変わって沙爽はぽかんと見返す。以前歓慧が怒られたと言っていたことを思い出し、ああ、と宙を見た。

「歳も近いし、話しやすかったので……。言っておきますが歓慧どのからではなくて、私が勝手に名を聞き出して話し掛けているだけです。叱らないでやって下さい」

「変な奴だ。よもやあれを利用しようと思ったのか」

「誤解です。そんなふうに思われていたなんて。私の泉宮みやではまかり通っていたことなのです」

「まあ貴様にそのような策謀が出来るはずはないがな」

 沙爽はむっとして口を尖らせる。

「さっきから少しばかり失礼ではありませんか。こんな話し方をされたのは初めてです」

「最低限の矜恃きょうじはあるようで安心した」

「牙公は他人への敬意が無さすぎます」

 珥懿は眉を上げる。

「牙公がそんな風だから暎景とて信用出来ずに短慮を起こしたのです」

「人などはなから信用出来んものだ。失礼な態度を取られたからと言って後々までそれを引き摺るくらいなら、我らとの取引など最初からしないほうがいい」

「ではなぜ、私のことは信用してくれたのです?」

「信用?信用していたらこのようなことはしていない。ただお前は裏表を分けられる人間ではないと思っただけだ」

 沙爽は納得出来ずに珥懿を見上げる。だがそちらは視線を受け止めることなく背を向けた。

 話はしまいのようだった。距離が開いていく。


「……っ。牙公」


 顔だけを背後に向けた珥懿は、近づいてきた彼の差し出すものを見下ろした。


 手に握れる大きさ、白玉と黄金で細かな意匠が彫りこまれた。それは四泉王家の宝だ。


「これを貴方に預けます。私を、信じてください」

「……玉璽ぎょくじか。勅書に使うだろう」

「勅書は族領で完成させます。これで、私は真に牙族を裏切れなくなった。必ず戻りますから、持っていてください」

 帛紗ふくさに包むと改めて差し出す。珥懿は沙爽とそれを見比べると、ややあって受け取った。

「……大それたことをする。よりによって泉外人せんがいびとに玉璽を渡すとは」

「これで少しは牙公の信を勝ち得たでしょう?私も牙公は筋を通す方だとお見受けしたので預けるのです」

 笑ってみせるも、つまらなさそうな顔をした。帛紗を仕舞う。

「歯の浮くような言ではなく結果で示してもらおう。では、たしかに預かった」

 それだけ素っ気なく言うと今度こそ城へ遠ざかって行った。しかし沙爽は珥懿が受け取ってくれたことで、本当に信頼関係を築けたような気がしてひとり喜色を浮かべた。事態はきっと良い方向に進む、そう信じて拳を握った。




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