八章



 穫司かくしは四泉の泉畿せんきから見て南部、その中央、曾侭よりさらに西南にずれたきん州の州都である。主泉しゅせんから続く幹川かんせん甜江てんこうの流れを引き継ぎ、のべ三十万の住民と常駐の金州軍一軍一万余が住まう堅牢な隔壁に守られた主要都市だが、門内はいまにも瓦解しそうになっていた。


 その厚みのある城牆じょうしょうの上、壁にもたれて歩道みちに脚を投げ出していた姚絹ちょうけんは同期の配下の気配を察知して項垂うなだれていた顔を上げた。


「起きてたか。そろそろ交替だ。まったく、こんなところで寝るなんて凍え死んでないか心配したぞ」

 気安い配下は歩道からぐるりと首を巡らした。陽はもう昇ったがまだ暗い。今はまだ街は朝靄に包まれて静かだが、もういくらもすれば煮炊きの煙が立ち昇り騒々しくなるだろう。

 大欠伸あくびをした姚絹を男は笑う。「相変わらず帛月はくげつは眠りが浅いな」

 言われてそうだな、と薄く笑い、耳から綿を抜いた。自室で寝る時は必ず護耳みみあてを着けるが、いかんせん目立つから人目のあるところでははばかられる。角楼つめしょは人が多くて雑音が大きいから余計に眠れない。

「我らの隊長は万年寝不足であられる。くまが無いのを見たことがない」

 姚絹は帛月としてここ穫司の州軍に属している。もう随分と長く務めて暮らしにも慣れた。――そう、この裏表の生活に。



 はじめに入営したのは十代も終わりごろ、戦のない安穏とした国で、まるでぬるま湯に浸かっているかのような生活をしてきた。兵の役目といえば街の見回り、小銭をくすねた盗っ人を追いかけ回すこと、氾濫に備えて堤をつくること。それくらいだった。姚絹という本来の名より帛月という偽名に馴染んでいるし、今では定期連絡以外はなんら接触のない自分の故郷のことも遠い記憶の中で薄れているような気がした。姚絹はこの生活を気に入っていたから、まさかこんなことになるとは夢にも思っていなかったのだ。



「しかし、なんでみんな沙琴公主さまに迎合してるんだ?崖都がいと瀑洛ばくらくもあんな簡単に」

 同僚が門外を窺って呆れたように言った。姚絹はくるまっていたふとんを軽く畳む。

「王族ってのもあるが、沙琴…公主は『葉南ようなん洛嬪めがみ』本人だからな。よう州の人間で知らない奴はいない。お前は北部出身だったか」

「ああ。知らないな。なんだその洛嬪というのは」

「まあ表立って騒がれなかったからな。三年ほど前に、葉州の南部一帯が雨季に氾濫したんだ」


 曾侭、穫司を通過し甜江はさらに枝分かれして四泉南部一帯に延びるが、穫司以南の増水した河川で堤が決壊し、崖都、瀑洛も含む多くの邑里むらと田畑を押し流した。流れ込んだ水で各都市の泉も溢れて濁り、飲み水の失くなった南部はたちまち飢餓状態におちいった。辺境の小邑しょうそんなどは貯水槽が雀の涙程度しかない所もあり、そういった住民がより大きな郡郷まちに押しかけてますます水も食料も枯渇した。しかしその年のはじめに王は病に倒れ、まつりごとに陰が射しはじめた頃で、朝廷もどこか意気を失ったように宣旨も通達も遅れがちになっていた。


 そんな折に二泉への留学るがくの為に泉畿から南下していたのが沙琴撫羊だった。撫羊は南部の惨状を目の当たりにし、すぐに宮城に取って返して王に直訴、付近の余剰を南部に集め、氾濫の被害に遭った都市の税を減免するよう嘆願した。


 公主こうしゅといえども泉主の実子、国政への影響力は強い。救援は速やかに整い、南部、ことに最南州の葉州では撫羊のおかげでその年には飢え渇きで死人が出なかったと言ってよかった。ときに当時撫羊は十二、年端もゆかぬ少女が事態を素早く把握し自分の出来うる最大にして最善のことをやってのけたことに周囲は驚嘆した。しかも、撫羊は二泉入りを遅らせて救援物資が届くまで葉州に逗留し、堤の再建を民に混じって手伝ったのだ。その逗留先が沛宿はいしゅく、国境に隣接する四泉最南端だった。沛宿の住人は撫羊の行動に感銘を受け、この先何があろうと彼女を助けると誓約したという。今では郷の名前も撫羊にちなんで変わっている。撫羊は賜与された君号を珠花蓮君しゅかれんくんというので、その号を冠して今では沛宿は蓮宿れんしゅくと呼び習わされているのは、字面どおり洒落しゃれた命名だった。


 結果として撫羊の多大な功績となったもののあまり末子をまつり上げては要らぬ軋轢あつれきが生まれ、逆に朝廷もとい王に批判が向くおそれもあり、また本人も既に四泉にはいないということであまり大々的に取り上げられなかった。しかし葉州南一帯の民は非常に恩義を感じ、人知れず撫羊を葉南の洛嬪と称えるようになったのだった。

 おそらく今回、彼女が易々と二県を攻略出来たのもこの功にる。たった三年前のこと、公主の顔を知っている者は多い。



 姚絹は同僚と共にやっと顔を出した陽を眺め目を細める。冴え澄んだ空気にひとつ身震いした。今日も一日が長い。ろくな武器も持たず閭門もんに詰め寄る民を押し返し、説得しなければならない。清々しい朝と反対に心中はどんよりと曇る。穫司に変事があればすぐに連絡しなければならない。久しぶりの主命に緊張もしている。

 ひとつ息をついた。靄に自分の白い息が混じってゆく。それを見送りながら、思った。



(ずっとここで暮らせたらいいのに)



 牙族の由歩は死ぬまで使命を全うする。しかし四泉民のように長くは生きられない。姚絹は城仕えをすることなくこうして外でのびのびしていられるからまだっているが、僚班りょうはん伴當はんとうになれば日がな一日あの黒い城で謀略を巡らせなければならない。そんなことは御免だった。だが自分は姚家大人たいじんにとって歳の離れた異父弟、いずれは家督相続の為に呼び戻されるかもしれなかった。

 四泉は自分に合っている。何より薬泉で暮らしているおかげか幼い頃からたまにあった瘛瘲ひきつけが起こらなくなり身体からだの調子がいい。人の気が多くて寝られない苦痛はあるが、工夫すればたいしたことではなかった。早く事態が収拾して、またのんびりと出来ればそれでいい。そう思い、姚絹はもう一度大きな欠伸をしながら城牆を下って行った。







 凍える石の牢、黒い岩を垂直に掘り進めた竪穴たてあなの中。穿うがたれた岩肌はじっとりと湿り気を帯び、わずかに射し込む光で苔とかびが生えているのが分かる。手を伸ばそうと腕を上げるとじゃらりと両腕に嵌められた手枷が鳴って、暎景はひとつ舌打ちしようとした。が、口中が切れていてそれは叶わなかった。


 牙族の懲罰は凄まじい。枷に繋がれ打擲ちょうちゃくを受ける合間にも、鞠問役じんもんやくは飴と鞭の要領で隙あらば四泉のことを聞き出そうとしてくる。話せば領地に住まわせてやることも出来るとほのめかした。宗室の間者は秘密を知りすぎていてその運命さだめからは逃れられない。牙族なら、そんな者でも受け入れて使ってやれる、と。だがこれは嘘だ、と暎景は嗅ぎとる。四泉の内情を話せばもはや沙爽の側には居られなくなる。また、野放しにすれば余所で牙族に受けた仕打ちを洩らすから、いずれにせよ沙爽と引き離された時点で末路は決まっていたのかもしれない。



 ――――だが、ああすべきだった。



 取引に応じるふうだった牙族は突如帰れと言った。足許を見られた、とほぞを噛んだ。こちらが他に縋るアテが無いと踏んでより良い代価を要求するつもりなのだ。取引を反故にすれば沙爽は必ず、どうすれば応じてくれるのかと粘るはず。それを見越してはかられた可能性は高い。それならば人質でも取って――ひとり取ったところで牙族が了承するとも思えないが――真に対等な上で取引するしかない。そもそも敵地、こちらには最初から分が無かったのだから、ひと騒動起こして四泉が本気で死にもの狂いであることを分からせるしかなかった。


 しかし狙う人選を見誤った。あの狐女、物静かな様子で一見ふつうの泉民のような気配をさせておきながら、その実自分を捕らえるあの一瞬に噴き出した殺気、あれは戦場の、殺し合いの場のものだった。殺人に慣れている者にしかあの気は出せない。ひとえに、四泉主の麾下きかだからというだけで即処刑されるのを免れたのだろう。


 思い返して暎景は頸筋くびすじに手を当てる。くそ、と悪態をついた。今頃沙爽と茅巻はどうなっているのか。まさか泉主を殺すようなことはしないだろうが。

 見上げた。投げ込まれた穴の上部は重々しく塞がれている。竪穴は背丈よりもずっと深く、足をかけるところも無いので自力では抜け出せない。嘆息していたところ、思いが通じたのか、つと蓋が動いた。


 暎景が息を詰めて見つめていると目も眩むばかりの光が降ってきて、白い穴から仮面が顔を出す。囚人の意識があるのを確認して縄梯子を投げ入れた。

 登って来い、という手振りを見て暎景は重い腰を上げる。申し訳程度の食事しか与えられていないから体がうまく動かない。日を数えていたから、だいたい拘束されてから十日前後は経っているはずだった。

 おもりを引きずり、梯子にかじかむ手をかける。途端、乱暴に上へと縄梯子が引き摺られた。

 いきなり明るい地上に放り出されて暎景は固く目をつむる。乾燥した冬風が頬を撫でて咳き込んだ。ようよう目を開くと、小柄な男女数人が取り囲み身振りでせき立てる。暎景は彼らを観察した。首も腕も細い。まだ子供のようだった。一言も発さず、家畜を扱うように棍棒を携えて暎景に繋がれた鎖をいていく。彼らをもっとよく見ようとしたが、これまでと同じようにずだ袋を被せられてしまった。こうなってしまえば、もうどうすることも出来ない。


 曳かれるまま歩き、暎景はいつものところへ行っている訳ではないことに気がついた。右へ左へ曲がり、坂を上って下る。いつもならそろそろ刑場へ着いているはずだ。


「おい、どこに行くんだ」


 動かしにくい口で誰ともなく声をかけたが、返答はない。いくつか段差を踏み越えて自分の裸足の歩く音がいやに響く。磨かれた石畳。これには聞き覚えがある。

「……城か」

 牙族の根城に入っていることが分かり緊張する。まさか、改めて処刑を言い渡されるのか――――。


 扉の開閉音を過ぎ、肩を掴まれて床に座らされた。周囲で人の気配がして、はっとして袋を被ったままの頭を上げる。そしてそれはいきなり引き抜かれ、光に一瞬伏せ、呼び掛ける声がした。



「……暎景」



 息を飲んで呟いたのは主の沙爽、隣に険しい顔の茅巻の姿もある。 

 いつぞやに見た謁見の間だった。四角く狭い中の一角に簾があり、香炉から白煙が揺蕩たゆたう。暎景は簾と反対側の出入口から入って左隅におり、沙爽と茅巻は振り返る格好でこちらを見ていた。


 沙爽は唖然として麾下を見た。顔は青痣だらけで見るも無残に腫れ上がり、手枷と皮膚が擦れて血がにじみ、乾いた上にまた新たな裂傷が刻まれて鎖は彼のもので鉄錆色に染まっていた。緇撮まげは崩れ髪は垂れ下がり、しらみいている。


「なんとひどいことを。何もここまで」

 沙爽は憤懣やるかたなく簾の中の人物を睨みつけた。

「牙公。これではあんまりです」

 叫ばれた相手はただ呆れたように息をついた。

「あんまり、だと?私のものを殺めようとしたのだ、命を奪わないだけ有難いと思ってもらいたい。なに、この程度で死ぬような手下ならいない方がましだ。愚かな早合点で軽々に事を荒立てたくせに詫びの言葉一つないとはな」

「たしかに不調法があったのはお詫び申し上げます。しかし、このように執拗に長く罰を与えずとも」

「本人からの謝罪の言葉がないゆえに加減が難しかったのだろう。それでだ、泉主。この者を連れてきた理由はもう分かっただろう」

 暎景は沙爽と簾の中の、おそらく族主とを見比べた。いったい、話はどこまで進んでしまったのか。

 主を見据えた。彼は逡巡するように目を泳がせ、観念したようにそれを伏せた。







「……来ました!一騎!」


 緊張した声に鈴榴りんりゅうは煙管の雁首を灰吹はいざらに打ちつけた。

 小窓から覗けば由霧に紛れた向かいの峰に白い影が登るのが見えた。頭の二箇所から二本ずつ、四本の角が生えた獣は背に甲冑よろいを纏った人間を乗せていた。

螻羊ろうようです。二泉兵の斥候で間違いない」

「警告を」

 すでに、と配下が答えて、鈴榴は頷いた。

「帰領する者は先んじて出ろ。虎符を忘れるなよ。残りの者は引き続き見張れ」

 配下が慌てて見返した。まだ若い男は彼女の従姉妹いとこの子だ。

「榴さまもお退きになりませんと」

「無粋だねぇ、年寄り扱いして。こんな楽しいのをあんたたちに譲ってやる気はないよ。灌鳥とりをさっさと飛ばしな」

 腕を組む。

「なるべく派手にやるんだよ。でも居場所を気取られるな。少しでも連中の足を止める。螻羊が怖気づけば万々歳だ」

 こまごまと指示を出し、鈴榴はぐっと眉間に皺を寄せながらそれでも笑った。二泉進軍の報から半月、敵方はついにやってきた。



 しらせは直ちに城に届いた。一方、穫司で交戦が始まったこともすでに知らされていた。撫羊は四泉軍が到着する前に先手を打ったのだ。







 二泉先鋒隊が驟到峰に到達したこの時よりさかのぼり、四泉主による同盟の提案から早数日のこと、連日続けられた合議は堂々巡りで紛糾し倦んだ気配を見せ始めていた。


「結局は四泉主がどういうかたちでこの盟約とりひきを持ちかけたのか、それを確認しない事には。こちらの条件を飲んで貰えるのかもわからん」

 斬毅ざんきががなる。

「しかし、悠長に話し込む暇はないぞ。二泉軍はすでに国境を越えた。盟約するならば兵を割かなければならん。しないならしないで即刻泉主には帰泉して頂かなければ」

「謁見が二度手間になると仰るのなら、四泉主をここに呼べばいい」

 跿象としょうが言って、広房ひろまは気色ばんだ。

他所者よそものを合議に入れるというのか」

「掟に反すぞ。我らの内情を晒し出すなど」

 皆連日の合議で疲労が見えた。非難された跿象も苛立つ。

「掟がどうのと言っている場合か。事は一刻を争うのだぞ。我が家は甕城おうじょう阻塞そそくを完成させねばならんのだ。いい加減言を左右にするのはせ」

 当主、と灘達なんたつが壇上を振り仰ぐ。

「やはり当事者の四泉主がどこまで本気で我らと隊伍を組むつもりなのか朧気で分かりません。今一度会合を持たねばならないのでは」

 珥懿は真顔で少し宙を見据える。

「我らが四泉の為に戦えば泉地を割譲して自治統治をさせるつもりなのか、はたまた我らが王統として四泉王家と聯立れんりつするのか、そもそもそれ自体を全て決めた上での同盟なのか、成功報酬としての条件とするのか。曖昧模糊で一向にまとまりません」

 珥懿は分かった、という風に手を挙げた。

「皆も煮詰まっているだろう。泉主を呼んで直に問えば早いだろうな」

 そんな、と保守派が騒ぐ。「前代未聞でございます。当主以外の族民が他国の者と問答を交わすなど」

「前代未聞のことばかりだろう。今さら驚くことでもあるまい。とにかくときが惜しい。この時間でさえ領地防御の備えにあてたいところなのだ。そうだろう、跿象」

 彼はにやりと笑って拱手かんしゃした。珥懿は改めて次の合議で沙爽を招請する旨を告げた。



「私が牙族の合議に?」

 沙爽は仮面の使者に鸚鵡おうむ返しで問うた。手元には色とりどりの布が散らばっている。その横で歓慧も運針の手を止めた。


 四泉朝廷との書簡のやり取りではいまだ色良い返事がもらえないまま、沙爽は引き続き族領にとどまっていた。やきもきするうちに日だけが経っていき、瓉明軍と合流した連合軍総勢九万があと少しで穫司に到着するという頃合いである。沙爽は何も手につかずただ落ちつかなげに居室いまをうろつくので、歓慧が新年に取り替える族旗はたを作るのを手伝わせている有様だ。


「当主がそう言ったのですか」

 歓慧が見上げると、使者の男はただ頷いた。

「ただし伴はつけずおひとりでとのことです」

「私も行ってはだめですか」

 歓慧どの、と目を丸くする沙爽に、いたずらっ子が叱られたかのように肩を竦めた。

「合議がどんなふうにされているのか、知らないんです。気になって」

 しかし使者はただ首を振った。それに少ししょんぼりとする。

 茅巻が腕を組んだ。「しかし、泉主ただお一人でというのはいささか」

「危害を加えるつもりは一切ない。事態が切迫しているゆえ、泉主には早急にご準備いただく」

 沙爽は頷く。やっと返事がもらえるのだ、という期待と、断られるのでは、という心配が一度に来て複雑な顔をしているのが歓慧には分かった。

「鼎添さま。ともかく用意しましょう。正念場でございますよ」

 言うと不安げに瞳を揺らしたが、うん、ともう一度硬く頷いた。


 合議の間までは目隠しをされた。それで、その場所が城の奥まったところにあるのだと知った。普通なら禁足の所にいることに、沙爽の緊張は高まる。

 重厚な音がして扉が開く音、周囲に人が大勢いる微かな気配。そして扉が閉まり、椅子に座らされた。


 ようやっと目隠しを取ると、正面には同じ高さの壇上が向かい合わせに据えられ、 黒い面の人影が座っている。目を慣れさせようとあたりを見回した。まわりの者たちは一様に漆塗りの赤い面、揃いの黒っぽい服で佇んでいる。


 ここでは小房こべやにあったような香炉ではなく、両手を広げたくらいの大鼎おおざらに灰が盛られ、線香が幾本も差し込まれ煙を上げていた。何も匂いがしないのは同じ、沙爽は見回した視線を正面の族主に戻す。上半身を見たのはこれが初めてだ。これは、狼だろうか。鋭い目と長い犬歯をかたどった模様が描かれた面。その下の黒い面紗ふくめん涅色くりいろに銀糸の牡丹の深衣きもの、濃紺の褂裴うわがけ。髪は丁寧に結われて白甲べっこうと金の玉笄かんざしをあしらい、うなじで余らせたひとすくいは編み込まれて、胸まで垂れた耳の瓔珞ようらくに混じって光る。


 やはり女なのか、と沙爽は内心首を傾げる。格好は女人のそれだがやはり背が高く、肩幅が大きいように感じた。しかしゆったりした衣のせいで体の線は曖昧、指甲套つけづめが全て嵌められているから指の骨格さえ分からない。なんとも奇妙な出で立ちだった。


 房はあまり明るくなく周りの人間がどのくらいいるのかも判然としない。ただ水を打ったようにしんと静まり返り、皆が族主の発言を待っているのだと沙爽にも分かった。


「四泉主にはわざわざご足労頂き痛み入る」

 全くそう思ってなさそうに族主は口を開いた。

「早速ではあるが今一度先日の盟約の件で話を伺う」

 沙爽は頷いた。

「現時点で朝廷の承諾は得られていないということだが見通しはあるのか」

 ずばり問われていきなり返事に詰まる。大きく息を吸い見返した。

「……勅命なれば朝廷の承諾は必要ありません」

「しかし承諾出来ないということは勅書しょめんを準備してもらえぬのだろう?」

「それはそうですが」

「それはやはり本人が朝廷にて令を発さねばならぬということか」

 沙爽はどきりとする。やはり取引などせず追い出すつもりなのか。

「現時点では、……私本人がおらねば承服しかねると言われました」

 族主は周囲を見た。「聞いての通りだ。言い出しっぺが尻込みしているようではこちらがいくら乗り気になっても意味が無い」

「私は本気です」

 慌てて言うと周囲から声が上がった。

「いくら泉主がそう思われても国として難色を示されれば事態を思うままに動かすのは無理でしょう」

槐棘じゅうしん全ての承認をすぐに得られると?」

「必ず説得してみせます」

「ふん、では四泉が我らと盟約すると決した仮定で話をしよう。貴様お得意の『もしも』の場合だ」

 族主は尊大に沙爽を見据えた。

「まずこちらの要求を言おう。二泉撃破において、四泉には武器武具兵站の補填をお願いする。兵は損耗激しい場合にのみ泉軍から借用、しかしこれは非常時でいい。先日も言ったように我らの間では不能渡わたれずの兵は戦力にはならない。最終手段の矢避けの盾にさせてもらう。我らは四泉には傭兵と族軍を貸し出す。しかしあくまでも族領に侵攻する二泉軍の撃退、壊滅が最優先だ。当初の提案どおりはじめは傭兵八百を貸与いたす。異議はおありか」

「ありません」

「では次に二泉を叩伏こうふくせしめた後のことだが、四泉は我々に泉地を割譲し自治せしむのか、それとも王統として迎合するのか、双方ということなのか」

「……正直に言わせてもらうと、割譲とは言いましたが、既に住んでいる四泉民を押し出して小泉をひとつ造るのでも大変な労がかかります。私としては四泉地と牙領がりょうを繋げて領土を開展させるほうが良いように思います。牙領の北は、今は険道が幾筋かあるだけと聞いております。由霧の問題はあれど、そこを拡張し人の行き来を盛んにすれば、牙族にも四泉の恩恵が流入するのではと」

「つまり名目上ここを四泉地として封じ、治領は今までどおり我々が行うと。その際に徴税するということか」

「いえ、そういうことではなく。いや、そうなるのかもしれませんが」

 しどろもどろになった沙爽に周囲は苛立つ。「泉も与えず、土地も分けない、つまるところ隷属に下れということであろうか。そういうことならばこの話は白紙に戻したほうが良かろう」


 違います、と沙爽は立ち上がる。


「私は牙族民に強制的に移住をさせようなどとは思っておりません。しかし望まれるなら四泉においての戸籍の取得と給田も受けられるようにしたい。そうでなければ、いま仰ったようにただ名目上牙族領を四泉地の一部としただけで終わってしまう。それでは牙族は短命のまま、四泉も由歩が増えないまま平行線です。むしろあなた方はさらに束縛されることになる。黎泉に認められれば新たに泉を引くことができます。いずれ地下水が涸れるようなことが起きたとしても泉があれば安泰です。私はあくまで、四泉と牙族を対等に共存共栄させたいのです!」


 肩で息をした。これは本当に己の理想でしかない。そもそも自国民が受け容れてくれるかも分からない。泉国と泉外民は互いに軽侮けいぶするものだから。だがそういうものに昔から居心地悪さをおぼえていた。瓉明が同じ父を持つのに王統から外されているのと同じように思う。幼い頃、事ある毎に本人に訊いていた。どうして同じ房室へやで食事ができないのか、なぜ長子であるのに歳下の義兄たちや自分に跪拝きはいするのか。理解できなかった。その度に、瓉明は少し寂しげに困ったように微笑んだ。それがことわりなのですよ、と言って。


 何が理なものか、と年々思った。いくら能力高く功を尽くしても報われない泉柱きまりなど必要だろうか。同じ光景を見てきた撫羊もきっと同じことを考えた。むしろ妹のほうが身に迫ってその理不尽を感じたはずだ。だから泉柱の間隙を突いて大それたことを実行した。彼女にはその力があったから。

 泉柱を破れば報いは民にも影響する。ならば、撫羊のように綻びを見つけて黎泉に手を出させなければいい。泉外の部族とて黎泉の支配の範疇外、泉地ならのりに反するが、そうでないなら協力しようが統合しようが口を出されるいわれは無い。



 ざわめきと共に問答が交わされ、沙爽ははらはらと成り行きを見守る。

「我らが同等に並び立つのを許容すると言われるなら、当主を王族として列するということですよね?それを国は認めるでしょうか」

 静かな声が聞こえ、沙爽は落ち着こうと深く息を吐いた。当の族主は黙ったまま腕を組み事の成り行きを見守っている。今回は手頃な大きさの鉄扇、その親骨をずらして、開いては閉じ。発言を促すように目線を向けられ、沙爽は俯き加減に認めたくないことを口にした。


「穫司はこのままではおそらく……落ちます。それで朝廷の目が覚めることを祈ります」


 なに、とまたもざわついた。

「泉主は穫司に曾侭から九軍を向かわせておられるのでは」

「その通りです。二泉軍もとい撫羊軍は四万五千。であれば穫司内の兵二万六千余と挟撃すればなんとかなりそうですがそうはいきません。派遣した禁軍きんぐんと任州、金州軍なべて十二万、しかしそのうち腕の立つ瓉明軍は三万しかおりません。しかも半分に割かれている。ほかは槍さえまともに扱えない。撫羊はいたずらに民を苦しめるような者ではないから、甜江を汚すことはしないだろうけれど、南部では洛嬪とうたわれる英雄です。慕ってくる民を扇動しない訳がない。周辺の郷里まちから逃げ込んだ者たちも撫羊を知っている。もし三十万近い彼らが逆らえば抑えきれません。加えて、撫羊に付いている二泉軍は皆歴戦の兵士と聞き及ぶ。自国民でもないから躊躇なく戦える」

「明らかに不利と分かって禁軍をいたか」

「それでも州軍よりは粘るはずです。私が瓉明にしてやれるのは増軍しかなかった。ですから、早急に練度の高い兵が味方に必要なのです。二泉が土足で踏み込んで来るのを、なんとか止めなければならない。しかし、今の国軍にその力はないでしょう。撃退するにはどうしても牙族のたすけが要る。おそらく、少し手を貸してもらう程度のことでは済まない。軍の采配や指揮はほぼあなた方にしてもらわねば右も左も分からない。それだけの働きをしてもらうつもりであるのに、不平等な同盟は結べません。私の一存で決められることではないかもしれないが、勝利のあかつきに牙族が泉地だけでなく、王籍に名を刻むことをも求めるのであれば、私には断る理由はない」

「実妹をつ覚悟はできたとみえる」

 族主に言われ、沙爽は諦念したように微笑わらった。

「失礼だが、牙公にきょうだいは?」

「さてな。同胞はらからと言うのなら族民は全て私の身内だ。……さて、泉主の主張は理解出来たが、いまだ空論にすぎない。私が思うに、実現させるとしても泉主には朝廷をなんとか説得してもらわねばならない」

「一度四泉へ帰れと?」

 族主は頷く。「必ず勅書を持って帰ってきてもらわねばこの話は水泡に帰す。盟約するとしてもそれからになる。今一度、我らだけで決を下そう。泉主の言を直接賜った今、ここにいる者がどう考えているか纏めねばならない」

 退席を願われて、後ろ髪引かれる思いで席を立ち、沙爽は礼を取った。

いご決断をされることを切に願います」

 


 四泉主が退場し、答申を迷う空気が流れた。

「泉の恩恵にあずかれば寿命は延びる。これは間違いない」

 夭享ようきょうを見た。

「我々は泉地の民が自分たちの孫を見ることが出来るのを知っている。だがほとんどの由歩はそれが分からない。病で死ねば子が婚姻するのを祝うことも叶わん。だから不能渡が泉民と同じ恩恵に浴すを妬み、つもりがなくともどうしても不能渡よりも同じ由歩を身びいきする。それが不能渡には気に食わない。そうして要らぬいさかいを生む」

 夭享は黙って俯いた。その諍いに巻き込まれた当事者である主に、なんと返せよう。

監老かんろうの意見を聞いていなかったな」

 水を向けられて目を泳がせ、見上げた。

「……私はたしかに不能渡です。しかし由歩の民に対しても同族としての想いはなんら変わることはございません。しかし、この体制が変わらない以上、以前のような内乱はまたあるだろうと予見します。我々は黎泉からはどうあっても自分たちの泉地は頂けないようですし、地下水脈がいつ涸れるとも分からない恐怖はいまや麻痺して楽観視しているほどです。不能渡の私が申し上げても詮無いやもしれませんが、いま申しました危機が、四泉と同盟することで和らぐのならそれもまた一案なのではないかと。四泉が嫌々提案しているふうでもございませんし」

 筆頭監老の言に保守派も口をすぼめる。地下水脈ついては、実際に枯渇した前例があるから安易なことを言えなかった。珥懿は溜息をついた。

「四泉の言に乗ったとして、我らが泉地である程度の自由を与えられるのなら、時経てば必然に血はざる。危懼きくするように由歩の能も失われる時が来るやもしれない」


 それは一族としての同一性が薄れるということだ。優れた由歩を多く輩出するからこそ、それを武器に牙族は久遠くおんの時を黎泉の庇護を受けず血統を絶やさずに来た。今になってそれが失くなるかもしれない。はたしてそれが族民に受け容れられるか。


 しかし二泉の脅威は先日跿象や斂文れんもんが講じたように決して楽観視出来ないものだ。今回退けられたとしても、またいつ国境を越えて攻撃してくるかも分からない。その不安は消えない。四泉という大国を味方につけるならば安全性は確実に跳ね上がる。


 一族としての血統を重視する者は僚班の中には多い。むしろほとんどそうだと言っていい。守り繋いできた聞得キコエの能をそうそう簡単に失わせてはならない。しかしここで四泉の提案を跳ね除ければ被害が甚大になるのは明らか。誇りを貫いて玉砕覚悟で一族のみで闘うか、四泉と聯合れんごうして少しでも勝利への活路を見い出すか。



 やがて、もし盟約するとしても様々に条件をつけてはどうかという案も生まれた。四泉主自身の言い分は分かったものの、四泉が全体組織としてどこまで牙族と協調するつもりなのか定かでなく、鵜呑みにするのはありえない。また、一時的な同盟を提案する者もいた。だがこれには無理がある。いちど約してしまえば『中立の牙族』という認識は崩れるから、たとえ今回のことが一時的に終わったとしても、牙族は四泉と通じている、という見方が拭えなくなる。結果的に取引の依頼も傭兵の要請も減るだろう。


 いくつかの質問や疑念が交わされたものの、皆一様に顔を見合わせ、最終的には彼らの主へと向いた。合議は多数決に依らない。僚班の言い分を総括、吟味し、行き先を決断する最後の旗は当主が振る。一族の命運を担う覚悟、采配できる実力、決断する勇気のある者でしか、牙族当主の座は務まらない。


 当主は自嘲するようにわらった。

「私に決めろと抜かすか…お前たちにとってはただの若造でしかないこの私に」

「なにを仰います。当主は皆の希望の光、寄るの水そのものなのです」

 重臣たちが一様に膝をついた。

「我らの意見はすでに充分に出揃いました。泉主から直々に意向も伺えました。あとは当主が裁可なさるのみ。いかように判じなさっても、当主が我ら子らを想うて決めてくださることに誰も異を唱えたりはございますまい」

 珥懿は傍に立つ高竺こうとく丞必しょうひつを見る。二人は柔らかく笑って頷いた。それを見て今一度溜息をつく。

「私ひとりに百五十三万の孺嬰ちのみごを救えとは。さすがに手に余る。私をたすけるためにそなたらがいるのだろうに、肝心な時にはいっかなまとまらぬ」

 烏曚うもう磊落らいらくに大笑した。

「なにぶんどこに乳があるのか右も左も分からんでのう。親が手を引いてくれねばなにも出来んわい」

 ふ、と珥懿は微笑む。普段見せない、自然な笑み。数拍、瞼を閉じた。それから、つと見開き、鉄扇をくうで広げきる。扇を顔の前に差し伸べ、声を乗せて朗々と宣した。



「四泉の要求を飲む。対価には諸々言いたいことはあるが、今は捨て置く。盟約のあかつきには四泉への協力を惜しまない。どうあっても二泉の好きなようにはさせぬ。驟到峰を越えて警告を無視した時点で先んじて仕掛ける」



領門りょうもんまでは待たず、でございますか」

「二泉が国境を越えてこちらに攻め入るということは、黎泉の天譴てんけんが無いことを証明する。黎泉下にない我らが二泉の泉地しきちでもないところでなにをしようと、黎泉は関与してこない」

 斂文は頷いた。

「先制はまさに孤注こちゅうの大一番ですな。二泉がそれで怯めばそれで良し、逆上すれば総力戦」

「血の気の多い敵さんだ。きっと力で押してくる」

「問題はこちらだけにとどまらない。四泉にも増援をせねばならぬ。いずれにせよ、泉主にはなんとしても勅命を下し、証を持って来て貰わねばならぬ」

 跿象が蘭逸らんいつと不敵に笑った。

「裏切ればどんな手を使っても四泉を潰す」

「泉主を亡きものにするのがいちばん早いがな。それは当人もよく分かっているだろう。なんて怖いもの知らずな泉主だ。こんな綱渡りな取引を持ち掛けるとは」

 ああ、と珥懿は彼を思い出して不機嫌そうな顔をした。

「世間知らずのぬるま湯育ちだ。いかんせんなかなか自分の言を曲げない」

 言って、重臣の中で安堵の顔をした砂熙さきを見た。

「おまけに無自覚の人たらしと見える、あれは」

「それはまことにけしからんですな」

 頷いて更に渋面をつくったが、高竺と丞必には当主がいささかも困っている風には見えなかった。どころか、一族の命運を分ける決断を下しても重圧に押し潰されることもなく、いっそ勢いに乗ったような、そんな清々しさが感じられた。


 やはり人の上に立つ天賦の才、性格は少々難ありだが、当主たるべき資質をすべて兼ね備えている。本来なら、こんな若者に誰が自分の命を預けるだろうか。しかし宣言に臣下は一致して同じ方角へかじを切った。ひとえに当主への信頼と忠誠がなければ不可能だ。


 ほんとうにこのお方は、と丞必は肩を竦めた。高竺は苦笑いを浮かべ、無自覚の人たらしはどっちだよ、と内心で突っ込みを入れた。





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