七章
沙爽と茅巻がくたびれて薔薇閣に戻ると、入口からは良い香りが漂い、ふわりと暖かな空気が流れてきた。
「歓慧どの……なぜ」
歓慧は事の顛末を知ってか知らずか、微笑みを絶やさない。
「もうしばらくご逗留されると聞きましたので。掃き清め
「そうか…
ともかくも
「すまない。勝手を言って」
「……勝手どころでは……」
茅巻は力なく呟き頭を振る。伝鳩が届けば、
王の独自判断を
「泉主。本気で牙族に土地を授けるおつもりですか」
沙爽は少し考えた。
「割譲するとは言ったが、私の中では国土を繋げるという感じに近い。四泉と牙族間をもう少し人の通れるような街道を作って、どちらにも楽に行き来できたら理想だが」
言いながら、書面をしたためる。淕家はもともと文官を多く輩出した家柄でもある。それでそういう系統の事柄――人事や礼節、税、法令、水土木に関わる煩雑な書面でのやりとりに慣れていた。淕妃の長子である沙爽も幼いときから弓より筆に親しみ、文面の作り方や所作を
詔書や宣旨などは常ならば
玉璽は九つの泉国
沙爽は実際にその
「勅書に押してしまえばその瞬間から公文書、効力を持ちます。押すのは実際に牙族と盟約を交わしたあとになさってください」
「……茅巻。こうして用意はしているが、牙族はどうすると思う」
「俺だったら、そうやすやすと返事はしませんね。むしろ反対します。牙族がこの地を占有して
「そうだな……」
「それよりも、泉主。ご逗留を延ばされるのでしたら、
穫司の中にいる瓉明軍と州軍、それに民をみすみす見殺しには出来ない。
「そろそろ腹を括るべきです」
沙爽は目を閉じる。「牙公には見栄を張ってああ言ったが……私が、撫羊を殺すのだな」
重く沈んだ声に、茅巻はそれでも頷き返した。
「沙琴さまひとり取ったところで、民が死にゆけば四泉は終わってしまいます」
それには、分かっている、と呟くことしか出来なかった。
再びの緊急の合議は明朝から早くも紛糾した。臣下たちは狼狽しきっている。
「なにを…突拍子もない」
「莫迦莫迦しい。ただの思いつきだろう。信じられるわけはない」
「四泉朝廷も泉主がそう言ったところで二つ返事で了解するとでも?」
しかし、と前に進み出たのは
「当主は可能性があるからこうして皆を集めたのでしょう?じゃなきゃその場でとっくに断ってるはずだ」
皆の目が一斉に主に向く。珥懿は無表情で是非を答えなかった。
なりません、と一声をあげたのは斬毅の弟の
「我らがこの地に根ざしてから、その間ずっとどの泉国にも干渉を受けず、またこちらも介入せずを貫いてきたのです。それが我らの誇りであり揺るぎない矜恃と伝統のはず。それを当主は崩すとおっしゃいますか」
これには幾人かが賛同の声を上げた。しないものの難しい表情をした顔ぶれのうちからまた声がある。
「芭覇どのの言うことはもっともなれど、今は牙族存続の危機でもある。二泉に負ける気はそうそうないが、戦力の差は明らかだ。もし万一、攻め込まれるようなことがあればこの体制も
「
姚家は四泉を主な諜報活動の範囲としている。これには姚綾は驚愕したように目を見開いた。
「なにを無礼な。事実無根だ」
「そうは言うが、ここ何代か姚家では
「四泉の薬泉は聞得の能を曇らすという噂もあるぞ。姚家が
「
遮ってぴしゃりと言ったのは長髪を結った美男。壇上の珥懿に向き直る。
「はじめに
「
問われて顎に手を当てる。
「負ける、とは考えられませんが、数で押されれば厳しい。どの時点で開戦するかによります。いっそのこと、
「領門外で他国の者を攻撃してはなりませぬ。宣戦布告と捉えられる。二泉に要らぬ大義名分を与えることは避けなければ」
「しかし、明らかに我らを
「泉地に直接武力介入するは掟に反しますぞ。そもそもが泉国と意を通わしてはならぬ、武を持って泉地を侵してはならぬではないか。それをお分かりか」
だから、と跿象が頭を掻く。
「もろもろ分かった上で俺らが存亡の危機だからこそ、当主はこうして合議を開いてるんだ。俺たちがこの地に住み着いてからこういうことがなかった――なかったほうがおかしいくらいだったんだが、だから俺だってぜんぜん実感なんて出来ちゃいない。けど掟を守って死ぬより破って生き延びるほうがマシじゃないか。四泉の求めるものは全面的な支援、つまり傭兵だけじゃなく族軍の投入だろ。それは俺たちが四泉と手を組んだと泉地に公表することだ。だが、代わりに四泉地を分けてくれるって言ってんだ。悪い話ではないだろ」
「七泉のように鱗族を泉民と隔離して、高い
「それは有りうるな」
珥懿が頬杖をつきながら同意した。
「それでしたら、」
「しかし一蹴するには足らん。四泉も我々に大分譲歩している条件だ。跿象の言ったとおり悪い話ではないし、共に敵は二泉、共闘するには充分な理由にも思える」
「当主は同盟に賛成なのですか」
肩を竦めた。「私個人の意見は今は言わない。ここは合議の場だ。私は皆の意見が聴きたいのだ」
合議は中断と再開を繰り返した。
族主と沙爽の最後の会談から数日が過ぎていた。
沙爽は伝鳩が運んできた紙面を読んで息を吐く。予想通り朝廷は難色を示している。沙爽本人から直接説明して欲しい、と母からの文にも書いてあった。
顔を上げて茅巻を見る。
「私が帰れば、牙族が同盟を信用しない。やはりただの舌先三寸だったのではと思うだろう」
「しかし、泉主不在の朝議で
そんな、と沙爽はもう一度紙面に目を落とした。
「やはり一度、
「それでは振り出しだ。私はなんの収穫もないまま、この取引も
次いで瓉明の文に移る。穫司が包囲されて七日、既に曾侭に合流させるよう指示を出した泉畿の残りの国軍のうちの三軍は移動に
それが嬉しくもあり、重圧でもある。沙爽はそっと文を火鉢に差し入れ、あっという間に燃えていく文字を見つめる。
「……牙公はあれだけでは信じてくれなかったのだろうか」
どうでしょう、と茅巻は唸る。「泉主が実質
沙爽は悄然と
「……やはり、もう一度族主と話したい。どちらにしても牙族が
行き場が無い。沙爽は手詰まりを感じていた。やはり同盟などとは奇天烈なことなのだろうか。しかし、四泉が生き残る道は限られている。可能性があるならなんでもやってみるしかない。背後からゆるゆると近づいてくる絶望を感じながら、それでも
城で朝から合議が開かれている同じ日の昼、
切り立った峰々には霜が降り、
くすんだ崖は所々に苔と幹の細い木が繁っている。目立たないよう
随分登って、下を見れば目が回りそうな高さになった時に突然崖は途切れ、露台が現れた。岩壁に張り出すのではなく奥まっている。というのも、岩棚の上部を水平に切り取っているから下からは見えない。さらに人目を阻むように樹木でこんもりと覆われていた。
丞必はその露台に立つ。簡単に
中へ入ると薄汚れた羊皮の
大卓のさらに奥、火鉢を囲った
「叔母上」
落ち着き払って振り返った人影は丞必をみとめて煙を鼻から吐いた。
「えらく早かったじゃないか」
「当主から早馬をお借りしました」
ああ、そう、と皺の刻まれた顔をまた前に戻す。「どうりで獣臭いと思った」
「こんなにけむたいのによく分かりますね。皆は?」
「出ているよ。
ええ、と丞必は懐から袋を取り出した。
「驟到峰は交替しますから、全員携行せよと。もちろん叔母上も」
やれやれ、と叔母は肩を竦め、受けとった虎符を手で
虎符は文字通り虎の形をした石だ。
虎符はこういった非常時の通行証の他に、他国にいる仲間に特命で任を授けるときにも使われた。普段は虎符ではなくてただの木札に族主の証明がついたものだが、侵入者を警戒する時に特に使用されるのだった。それだけ二泉の
「あたしは帰ることがほとんどないからいらないけどねぇ」
「いつまでもそんなことを言って。仮にも一家の
「もういくらもせずにお前に譲ることになるだろうよ
鈴家の
しかし丞必は
とはいえ彼女は奔放な性分で領外回りの役を得意としていたし、鈴家を継いだ時も驟到峰の監視役の長になったあとだったからまともに城にいた事がない。家督として総括はするものの、今は丞必が代理で采配することも多い。
丞必は卓の上に広げられている図面を見た。大まかな城と道の位置が描かれている。
「いまだ二泉の姿は見えませんか」
「油断は出来ないよ。あいつらは
螻羊。馬より少し小さく
普通の馬なら悪路に足を取られている隙にこちらの準備が出来るが、螻羊に乗った由歩兵は平地を移動するのと何ら変わりない速度で族領に近づいてきている。
「雪が降ってくれればいいんだがね。今年はなぜだか大雪が無い」
毎年この時期は
「北の一泉でも今年はまだ一度降ったきりといいますから、ちょうど新年初めあたりになりそうですね」
「……それまでにはあちらも仕掛けてくるだろうね」
鈴榴は呟いて丞必を見上げた。
「心配はおよしよ。驟到峰は最初の
「頼もしい限りです」
丞必はそう微笑んだが、心中では緊張を解かなかった。族領と二泉領の国境、驟到峰はそのちょうど中間ほどにある。二泉の国境からは馬で半月ほどかかるが、螻羊で駆る先鋒隊は本気を出せばそれより七日は早く到達すると予測できる。鈴榴は蹴散らすなどと言っているけれども、驟到峰に出来るのは敵の早期発見と警告だけだ。今ごろ合議でどう決められているか分からないが、もし警告を無視して二泉が攻め入って来るのなら最初に交戦するのは驟到峰にほかならない。しかし珥懿は、会敵次第驟到峰の半数を城に戻すと言った。十余では先鋒隊に太刀打ち出来ないと踏んだからだ。それならみすみす見殺しにするよりは最低限を残して領地守護に回した方が良い。──つまり、すでに領門内での戦闘を前提としている。
「味方どうしで殺し合うわけじゃあないんだ。その分気が楽さね」
鈴榴はあっけらかんと笑う。内乱を経験して牙族はさらに結束した。他国と真正面から衝突するのは初めてだが、誰も負ける気はしていない。
丞必はそっと門窗の隙間から外を見た。嵐の始まりのような風鳴りのなか見えるのは岩木と霧だけ、まだなんの気配もにおいもしなかった。
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