六章



 三日間、沙爽はひどく落ち込んでいた。質素な食事も喉を通らず、ただ臥房ねまの円窓から外を見ていることが増えた。昨晩遅くから降った小雪が溜池の淵に融け残って白く、竹林の緑と相まって冬の一景を描く。しかしその風趣も今の沙爽の心情を動かすほどにはならなかった。

 暎景が決断を急かしてもただ首を振るだけで一言もない。実際、沙爽に決断は出来ないだろうとしもべ二人は思っていた。形ばかりの兵法を学んだところで実戦の何が分かるとも思えなかったし、そもそも二人だって人を殺めたことはあれど他国と戦などしたことがない。



 約束の三日目、沙爽は朝餉の席で会談を延期して貰えないかと歓慧に問うた。歓慧は確認してきます、と言いおいて薔薇閣を出ていったが、一向に戻ってくる気配がない。

「何かあったのだろうか」

 ひるを過ぎて、沙爽は不安げに何度も外を見ている。門卒もんばんに尋ねても出てはならぬの一点張りでどうすることも出来ず、ただ時だけが過ぎてゆく。





 その頃、城内では緊急の招集がかかっていた。


「――――二泉が族領に進軍⁉」


 思わず大声で言った斬毅ざんきは失礼、と咳払いした。

「何故」

「どうやら四泉主が宮城にいないことが二泉にばれましたな」

 落ち着き払って言ったのは顔に横一閃傷のある男で、白髪混じりの髪をひとつに括っている。

「なにを落ち着いておるのだ灘達なんたつ

「慌てても始まらんだろう。子飼いの由歩を使って間諜の真似事をしているのはなにも四泉だけではない。しかし、まさか進軍してくるとは思わなんだ」

「しかも早い」

 おそらく、と灌鳥文しらせを読み返し、蘭逸らんいつが顔を上げた。

「朝議にはからず二泉主の独断でしょう」

 しかしなぜ進軍など、と広房ひろまはざわついた。

鈴丞りんしょう驟到峰しゅうとうほうは何と言っている」


 牙族は四泉、及び二泉との国境、つまり由霧山岳地帯にも見張りを置く。驟到峰とは二泉と牙族を隔てる山間にある峰々の総称だ。物見隊十余が常時監視の任に就き、牙領への侵入者をいち早く城に報告する。


 問われた丞必しょうひつは首を振る。

「敵はまだ由霧の中には入っておりません。驟到峰は姿を確認次第、半数を城に戻します。報告によれば数は三千が先鋒隊として進軍中、少し遅れて由歩と不能渡の混交部隊五万が続いています」

 数に動揺が走った。

「先鋒とは由歩兵か」

「そのようです」

 撫羊軍にいると聞いている人数と併せて分かっているだけで六千。いち泉国に由歩の兵がそれほどいるなど聞いたことがなかった。

「どうなっている……」

「撫羊軍の由歩が徐々に増えているのも関係があるように見えるな」

 烏曚うもうが唸ってあらぬほうを見る。

「しかし、なぜ進軍など?まさか本当に我らを攻めるつもりか。まるで黎泉の泉柱きまりを無いもののように」


 泉国には共通する理がある。古来黎泉から宣下されし大綱たいこう、それを泉柱せんちゅうという。その太柱の一がおかしてはならない、というものだ。ただ単に泉を蔑ろにすることだけではなく、泉を涸れさせるどんなこともしてはならないということだ。その最たるものが他国への侵掠行為に当たる。牙族は泉国ではないから、その泉柱の範囲にはない、しかし侵犯行為には違いない。二泉が涸れない保証などないはずだが。


「攻め込む以外に進軍する理由はない」「即刻兵を集めなければ」

 ざわつく広房ひろまに主の声が張った。

「街の者に周知させ、東門は日没までに完全に閉じさせよ。外出は最低限、城に出仕する者は掖門えきもんを使うことを許す。族領内は虎符こふを携行、持たぬ者の通門を許すな。領外に出ている者は安全圏で灌鳥しらせを待て」

 珥懿は壇下でこしかけうずくまる人影に顔を向ける。

大耆たいき。老人と女子供、希望する不能渡その他庶人を耆宿院で保護せよ」


 座るのは皺だらけの老婆、介添えの腕を借りつつ立ち上がり、主に礼をとった。

 大耆は耆宿院の最高齢の院老から選ばれる。現大耆は齢八十を超える大長老だった。


 重々しくしわがれた声がしかし、見目に相反して毅然と響く。

「主命に従い、領民を職掌問わず耆宿院で保護致す。監老以下城内の五人は二人を院へ戻しまする。総力戦となれば指図の者が必要ですゆえ」

 珥懿は頷いた。族領の不能渡は非戦闘員がほとんど、耆宿院は不能渡の為の組織としての役割が強い。しかし、万が一郭壁を越えて敵に街へ進入されれば只の族民とて戦わなければならない。


七泉しちせん傭兵へいを至急呼び戻せ」

「お言葉ながら当主。まだ契約の日数を満了しておりませぬ」

「緊急だ。仕方がない」

「しかし、七泉から戻るのに速い隊でもひと月はかかります。二泉が族領に到達するまでには間に合いません」

「間に合わずとも援軍として使える。ともかく大至急で帰還せよと鳥を飛ばせ」

 蘭逸が口を挟み、幾人かが賛同した。「上手く行けば挟撃できますな。それまで状況が続いていれば、の話だが」

「それは我らが早々に勝つと?それとも逆か」

 問い質す声に夭享がつよい調子で言う。

「我らは何よりもまず民を守らねばなりません。由歩三千全てが正面から攻撃してくるとは限りません。甕城おうじょう、城壁、街の郭壁全てに守備を置かなければ。守りを固めつつ敵を足止めしなければならない。早々に負ける気はありませんが難しいでしょう」

「そもそも、なぜ四泉主がここにいることが分かったのだ。いるからといって、我らを攻める理由になりうるか?」

何故わけを問うても始まらない」

 壇上の主が鉄扇を打ち鳴らした。

「甕城の内外に阻塞そそくを築け。先行の斥候がいれば領門りょうもんより内で会敵次第、排除しろ。驟到峰は先鋒を発見後ただちに報告」

 すみやかに指揮系統が整う。

「城内に逗留している客はどうします」

「即刻北の迂回路から帰泉させる」

 峰々には牙族のみが知る狭隘きょうあいな獣道が多数存在する。

「取引が終わっていない者もだ。彼らを預かるほどの余力はない」

「四泉主も、でございますか?」

 主は感情の見えない顔で頷いた。

「今は他を助ける暇はない。商談は中止だ。お引き取り願う」

 礼鶴はそっと隣の砂熙と顔を見合わせた。それは四泉を見捨てるということだ。四泉にもきっと二泉軍は越境してくる。

 砂熙はそんな、と口の中で呟いた。面を着けて得体も知れない自分にまでいちいち礼を言う四泉主の姿が浮かんだ。そして、それを嬉しそうに見やる乳姉妹の顔も。





 歓慧は広房の扉の前、見張りが複数警戒する中で、ちんまりと廊下の端に座り合議が終わるのを待っていた。

「暁さま、床は冷えますよ。おとなしくへやで待っていたらどうです?」

 呆れたように言ったのは守備役の鳴奔めいほんだ。歓慧とそう歳の違わぬ少年だが領地を主に警固するそう家の三姉弟の中でいちばん聞得キコエの才があると言われている。

「……私も中に入れないかな」

「何言ってるんです。そんなことをしたら俺が叱られる」

「そうよね……」

 歓慧は俯く。緊急の合議だ。まだ外の人間には何も知らされていない。

「胸がざわつく……」

 ん、と鳴奔が蹲った歓慧を覗き込む。

「とっても嫌な感じがしない?鳴奔」

「重暗い気配はするけどね。俺は暁さまほど感が良くないから」


 聞得は不能渡よりも五感に優れるが、個々にしてその能力には偏りがある。しかし、五感に加えて勘の鋭さや気配の察知――これを六感と言う者もいるが、その能が高い者もいる。当主に就任するにはまず聞得の高い血筋、それに付随する気に鋭敏な者で、加えて様々に能力を吟味される必要があった。現当主は殊更に耳がさとい。耳が敏いというのは単に遠くの音、多くの音を拾い易いだけでなく、六感に長けているという意味もある。


 歓慧もそんな当主の妹だからか、聞得が良い。

 眉間に皺を寄せて座り込む少女を案じて、鳴奔が隣にしゃがむ。鳥の面をずらして瞳を覗かせた。

「何話してんのかな。中で。砂熙はいいよなぁ」

「鳴奔は伴當はんとうになりたいの?」

「そりゃあろくだって上がるし、伴當になったらあんまり走り回らなくて楽だろ?霜家の家督は姉さまが継ぐだろうけど、伴當になれば生まれの家とは関係なくを名乗れて、いずれ霜家とは別の賜領とちが手に入るし」


 長子以外に姓はそれぞれ与えられるものだが、あくまで身分は生まれの家に帰属する。だから集落では婚姻しても生家の血族と同じ家に住むし、括りもその生家出身とみなされる。長子は家督を受け継ぐから伴當になっても別家にはならないが、それ以外ならその者から家をおこせる。これは財産を自分個人のものに出来るということであり、聞得の家格や優劣、生家の意向を気にせずに新たな婚姻をして新たに家を創れることを意味した。


 しかし僚班りょうはん――合議に出席できる最低限の資格を得た臣下ならまだしも、その中の当主の腹心である伴當になるのは並大抵のことではなれない。幼い頃から一族の間諜として腕を磨き、聞得に長け身体能力に格別不安がなく、静に耐え動にはやくなければならない。伴當に昇格するための登虎しけんで命を落とす者も時々いた。諜報を扱うのには人数が多ければ多いだけ危険が伴うから、それだけ厳しい環境に耐えうる精神力、一族に対する忠誠心がなければならない。


「そっか。鳴奔には夢があるんだね」

 しっとりと言った歓慧にしばらく答えられずに、ようやく口を開きかけたとき、広房の大扉が内から開いた。

 歓慧は立ち上がる。刻限は既に陽も落ちた頃、走廊は小さな灯火のみで仄暗い中を、顔に複雑な陰影をつくる人々が静かに散っていく。重臣たちを見送り、歓慧は目的の人物を探した。

「姉上」

 最後尾で出てきた珥懿に駆け寄った。珥懿は彼女の姿をみとめて眉を上げた(面をしていたから、それは彼女には見えなかったが)。

「歓慧、今から薔薇閣への出入りを禁ずる。城の荷を纏めて叡家の土楼すまいに隠れなさい」

 歓慧はぽかんと目を見開いた。

「……どういうことですか?」

「説明は後だ。ともかく城から出なさい」

「……嫌です」

 珥懿が困ったような様子で見下ろす。

「ちゃんと説明して下さらなければ、嫌です。……なにか大事なのですね?」

 言えばひとつ溜息を零すと、丞必と高竺に目線で何事か頷き、先を歩き出す。

「どのみち幽庵ゆうあんへ行く。お前も来なさい」





「せっかくうまい話が纏まりそうだったのに」

 炎が嘆いた。「せめてあといっかい、取引しちゃダメか?」

 炎、と茜がたしなめた。「危険なことはよして」

 滞在中の客には既に遣いが出た。これから彼らは秘匿の獣道を目隠しをされて族領外の危険ない所まで送り届けられる。

「姉上、四泉主御一行にもすでに?」

 歓慧が静かに問う。

「無論だ」

「……それは四泉を見捨てるということですよね」

 丹が顔を伏せた。「暁さまの仰る通りです。だが、すでに侵攻軍が族領に向かっている時点、我らは何よりもまず自分たちの領地を護らねばなりません」

「四泉はどうなってもいいと、おっしゃるのですか?由霧の中で不能渡は何もしなければ十日を過ぎれば命が危うい。四泉から牙族領ここまで、二十日はかかる山道を馬を飛ばして十二日で、醸菫水を飲みながら命懸けでおいで下さったのです。四泉も二泉の攻撃を受け我らをすがっていらしたのですよ」

「……情で一族を危険に晒すことは出来ない。お前は同胞より泉国を助けよと?」

「四泉主が自ら来なければならなかった窮状を酌量してくださいと言っているのです」

 それだけれど、と茜は面紗ふくめんの下で声を上げた。

「四泉主が族領におられるのが漏洩したはやはり、内通者がいるということですね?」

 四人は珥懿を見る。珥懿は憎々しげに頷く。

「あえて合議では触れなんだが……前と同じだ」

「じゃあ耆宿院のやつらがまた?だが、裏切り者は全て処刑したはずだ」



 十余年前、城は突如として武器を手にした耆宿院の院塾生と院老、同調した民に奇襲を受けた。激化した逆賊は城と街に火を放った。


 動機は不能渡で構成される耆宿院を族主以下由歩が蔑ろにしている、という不満が爆発したものだった。しかし、奇襲のある数日前から驟到峰で二泉の斥候らしき者が見受けられており、二泉の関与が疑われた。だから逆賊の叛逆のおり、まさか二泉が攻めてくるのではと思われたが、ちょうど二泉でも大規模な内乱があり侵攻の報は無くなんとか収束した。


 当主が兇死きょうしして混乱のなか、珥懿は足早に『選定』を受けて新たな王となり、叛逆者を徹底的に粛清した。拷問して分かったことは、二泉から武器武具を安価に仕入れることを条件に二泉に派遣している間諜の所在を洩らしたということだった。結果として二泉でも多くの同胞がたおれた。


 しかも、これはそれから数年ほど後にまた小規模ないさかいを生み、珥懿と耆宿院の亀裂が修復できないまでになった。ゆえに珥懿は基本的に、耆宿院へは意見も助けも求めない。首謀者を処刑したとしても裏切りは硬いしこりとなって城内の由歩と耆宿院を隔てた。それで、火災を命からがら脱した当時の丹――先代の彩影さいえいだった老茹ろうじょが耆宿院に入ることになったのだ。


 両者の溝が少しでも埋まれば、という周囲の考えだったが、今でも珥懿は耆宿院に対して冷たい。院の全てが謀叛に加担したわけではなかったし、現筆頭監老の夭享などは当時まだ入塾していくらも経たない頃だったから、個人としては関わっていなかったが、分かってはいても邪険にされるのは気分の良いものではない、と時々周囲に愚痴っている。



「まだいるということか」

「しかし、いまは内通者探しよりも二泉だろう。防備が間に合うか」

「急がせるさ。前のように内から狼煙のろしが上がるよりよほど容易い。ともかくも入らせなければ良い。叛逆にも警戒するが、今の耆宿院にその力はないだろう」

 彩影の三人が頷く。取引がないので彼らは職務上暇になる。しかしながらそもそも当主の身代わりだからあまり顔を知られてはならない。引き続き城に籠もるし、戦になれば当主として命を狙われることもある。


 茜が座り込んだ歓慧の膝を軽く叩いた。

「暁さま、城にいては危のうございますよ。当主の言うことをお聞き届け下さいませ」

 歓慧は珥懿を見上げる。

「せめて、もう一度四泉主に会ってはもらえませんか?きっと今頃お困りです。当主から直接説得してください」

「確かにボンは依怙地そうだし、遣いの説明で納得するとは思えんな」

 炎が他人事のように言う。珥懿が深い溜息を吐き、面々が顔を見合わせる。

「まさか力づくで?」

「……ひとりならまだしも、仮にも密偵の従者が面倒だ。良い、私が出よう」

 歓慧が少しほっとしたように胸を撫で下ろし、彩影の三人は苦笑した。とことん妹には甘い。





 暎景はどうしたものかと思案していた。晩を迎えてそろそろ夕餉かという時間帯、突如現れた使者は障りが出来たから帰ってもらいたいと告げた。障りとは何ぞやと問いただしても、身内の事として頑として口を割らない。そのうち沙爽が、つまりは牙族が四泉を見捨てるということに思い至って激しく狼狽しだした。


「どういうことなのです。族主は傭兵を貸してくださると言っておられた。安背泉の工作もです。まだ提案に乗ったわけではなかったが、それら全てを白紙に戻すと?」

 狐面の女に気を乱しながら問う。女は黙って頷く。

「看過ならざる非常が生じ、主は全ての取引を取り止めておられる。四泉とて例外ではござらぬ」

「国では瓉明や私を支持してくれる者が良い報せを待っている。むなし手では帰れません!」

三更よふけまでには準備なさいますよう。北の迂回路を使って中途までお送り致しますゆえ」

 全く意に返さない使者の言いように沙爽は俯き、そして床に立つと両膝を二拳ふたこぶし分開けて端座した。背を伸ばして真っ直ぐ前を見る。

「族主が直に説明して下さるまで、私はここを動きません」

 狐面の女が初めて困ったような雰囲気を醸し出す。と、入口から別の仮面の男が入ってきて、女に耳打ちした。それで少しばかり沈黙して沙爽を見下ろした。

「……当主がお出ましになる。ついて参られよ」

 図ったかのような時機に沙爽がでは、と希望に満ちた顔を使者に向けたが、男女は早くしろというふうに背を向けた。


 ふいに風がぎった。暎景が女の背に覆いかぶさったかのように見えた。しかし暎景が掴みかかるより早く、忽然と女が消えた。瞼を閉じて開く狭間に、女が暎景の腕を逆さにひねりあげている構図が出来上がっていた。


「――暎景!」

「泉主とて動けばこれの首が飛びます」


 狐の面は暎景と揉み合ったので顔横にずれている。面の下は黒い蒙面布ふくめん、切れ長の眉と眼だけが唸る暎景の影から覗いた。急襲者の片腕をさらにねじりつつ、くびに暗器をあてがっている。黒い切っ先には既に血がじわりと滲んだ。

「やめてください!」

 沙爽が床に手をつく。暎景は冷や汗をかいて横目で女を睨んでいたが、こんな切迫した彼を初めて見た。

「女だと思って舐めてかかったか。それとも全力でそれなのか?」

 狸の面の男が嘲るように見た。

「この者は捕らえる。泉主ともうひとりは当主のもとへ」

 いつの間にか居室いまには複数の面をした牙族の者たちが入ってきていて暎景を取り巻いた。音もなく現れた彼らは、女から暎景を引き受けると両脇を抱え込んで引っ張ってゆく。

「泉主!」

 叫ぶ声が聞こえた。「牙族の言いなりになってはなりません!決して、四泉を売ってはなりま―――」

 あとの声は途切れた。おそらくくつわを噛まされたのだろう。


 呆然とする沙爽と茅巻を、使者は何事も無かったかのように急き立てる。そのまま力なく従い、迷路を抜け、今までとはまた異なる謁見の間に通された。


 上座には既に族主。案内してきた男女がそのまま横に控える。

「……暎景は」

 沙爽は立ったままで不安げに問う。族主は今日は皮肉めいた笑いを立てなかった。かわりに不機嫌そうなくぐもった声が響く。

「馬鹿なのか、お前の手下は。いまはお前たちの相手をしている場合ではない。さっさと帰ってもらおう」

 今までよりも更に横柄に、敬意の欠片もない。

「暎景をどうするおつもりか」

「少々懲らしめてから返す。殺しはしないが領地で私のしもべに手を挙げたことは後悔させるまでゆるさん」

「主は私です。私を罰せばよろしいでしょう」

「飼い犬が他人に噛みつけば、まず主はそれを処分することで謝罪を表すべきでは?」

 沙爽はなおも立ったまま唇を噛んだ。

「遣いが伝えたとおり、我らはいま商談を続ける状況にない。遺憾ではあるが早々に旅支度を整えて四泉に戻るがいい」

「……戻ってどうすると言うのです」

 俯いた顔は小刻みに震える。「命懸けで国境を越え、はるばるここまで来たというのに、また命を賭して帰れたとして何の成果も得られなかったと言えますか。絶対に出来ません」

「残ったところで、こちらの出した案には乗り気でなかっただろうが。お前たちがここにいる意味はもう何も無い」

 族主の言はにべもなかった。なぜ、という絶望が重くのしかかる。自分がもっと早く決断していれば、結果は変わったのだろうか。

「……族主よ。非常が生じたということだが、いま四泉主を返さば、四泉の恨みを買うのは必定。その上で退けるつもりなのだな?」

 茅巻が静かに訊いた。

「斥候を生業としてる以上、泉国の恨みそねみをもらうのは分かりきっている。いまさらそのようなことで我らは怯えぬ」

「ということはつまり、他国との軋轢を引き起こすのもしようがないほどの、それだけ大事が迫っているということであろう?……もしや、二泉か」

 沙爽は弾かれたように茅巻を見る。

「どういうことだ」

「……泉主。まだお伝えしておりませんでしたが、穫司が包囲されました」

「なに……」

「夕に伝鳩とりが。撫羊軍に新たに二泉州軍が加わり、総勢四万五千、崖都、瀑洛の民も混じっている。沙琴さまは民衆に大演説をして籠絡に成功した模様です」

 族主が簾の向こうで、

「良いあみを持っているな」

「ずっと籠城しておられた沙琴さまがついに動いた。しかも穫司には州府がある。それだけの大都市を攻めるとなると勝算がなければ動かぬ」

 沙爽は辛そうな声を上げる。「曾侭の堤…瓉明には」

「既に鳩を飛ばしました。穫司の軍二万六千が囲まれた以上、甜江を堰き止めることは不可能になりました。無用に自軍を捨てることは出来ません。どころか城内のほうが危ない。曾侭から穫司までの甜江に何かされたら終わりです」


 本来ならば甜江を堰き止め、穫司駐留軍を曾侭に合流させる算段だった。実質穫司を人質に取られた状態だ。穫司に貯水槽は豊富にあるが、上流を堰き止めた上で住民と国軍、州兵全てに加え、撫羊軍まで攻め入ればそれらを賄うのにはひと月もたない。


「どうすれば……」

「穫司が落ちる前に攻めるしかないだろうな」

 族主は他人事のように言った。茅巻は見据えながら重々しく頷く。

「いまだ合流した二泉軍は一万二千ほど。今頃は由毒で動きは取れないでしょう。国境にも未だ次軍はいない。しかしどうも、くさい。二泉は四泉侵攻に目を向けつつ裏で何かやっているような気がする。やはり別隊で牙族に進軍していると見て間違いないと思うが。勝算はあるのか」

「それはお前の憶測でしかないだろう」

 族主は素っ気なく返した。こちらには何も話すつもりが無いとみて、茅巻は溜息を吐く。

「族主。どうかお願いです。四泉には防備の厚い都市も軍功を競い経験を詰んだ兵もおりません。数の上では多くとも所詮はほとんどが雑兵。もし少しでも策をお考え下さっているのであれば、何卒ご助力下さい」

 沙爽はひざまずく。「今、族主は茅巻の言うことに否定もされず虚勢も張られなかった。それは裏を返せば、つまりは事実なのではないでしょうか。だから他泉の人間を帰している。危険に巻き込まないために」

 茅巻は虚を突かれて見返した。

「もし二泉が多軍を差し向ければ牙族とて無事では済みません。黎泉のもとにはない牙族はいたずらに二泉に踏みにじられる。孤高ゆえに他国の助けを求めるのも難しい……」

 茅巻はごくりと喉を鳴らした。嫌な予感がする。主は何を考えている?


 茅巻は沙爽が生まれた時から彼のことを知っている。昔から人懐こく、優しい気性で義兄たちからその凡庸さをからかわれても全く反抗することが無かった。撫羊のように突出して何かが得意な訳でもない。本来の、湖王しんのうとして泉主や朝廷を支える役割なら本人も周りも何も問題なく沙爽を認めただろう。

 しかしそれゆえか沙爽は人の思慮に敏感なところがある。彼は大多数と同じ不能渡だが、時々妙に他人の所作で何かに勘づくことがあった。聞得、と呼ぶにはつましく、本人も無自覚なのであろうが、それは茅巻と暎景を時々どきりとさせることがある。

 沙爽は真っ直ぐに族主を見上げた。



牙公がこうは……もし、兵をお貸しすると言ったら、私に二泉との戦い方を教えてくださいますか?」



 茅巻は驚きのあまり声を失った。暎景は連行される時、何と言ったか。もしかしたらこれを見越していたのかもしれない。

 沈黙が流れた。動いているのは揺蕩たゆたう白い香煙だけ、まるでこの空間にいる者がみんな石になってしまったかのようだった。

 沙爽はじっと簾の中を見る。族主は全く動かない。長いようで短い沈黙の末、ふいに簾の中の空気が変わった。


 ひどく抑えがたいような笑い声だった。高くも低くもない。腹の底が震えるのを耐えるのに苦労するような、そんな笑い方。

「……まさかそんなことを言い出してこようとは思いもよらなんだ」

 笑いの切れ間にそう族主は言い、大きく息を吐いた。

「それは取引のつもりか」

「……少なくとも、私はそのつもりでした」

「それが取引に成りうると?取引とは等価を交換するもの。戦も知らぬ兵など盾にするくらいにしか出来ぬ。こちらが割に合わなさ過ぎて取引にはならない」

「しかし、二泉は国軍八軍、一軍一万二千五百の大軍です。牙族の総力を持ってしてもかないません」

「全軍は来ない。大半は四泉だ。それに、我らは真正面から受けて立つ訳ではない。曲がりなりにも間諜一族だからな」

 沙爽はそれでも首を傾げた。

「なぜです?我らは二泉に蹂躙されようとしているのですよ?なぜ共に戦おうとしないのですか」

「それは取引ではなく、もはや盟約関係だ。我らはどの国とも協調しない」

 綱渡りだからだ、と族主は脚を組んだ。

「どこかの国と同盟すればそれだけ他方の情報は入りにくくなる。本来は表に出ずに水面下で戦うのが我々のやり方なのだ」

「しかし今回ばかりは異なります。下手をすれば四泉も牙族も滅びます」

「では貴様は、我々が四泉に智恵を貸し協合するに値するものを差し出せるのか?ただ兵力の補充というのなら必要ない。見知らぬ雑兵には意思疎通もままならないし、そもそも不能渡、矢面に立たせるくらいしか使い道がないからだ」


 二泉の泉をひとつばかり涸らし、傭兵を少し与えるだけならまだしも、四泉を勝たせなければならない依頼なら、なおさら相応の対価が要る。

 沙爽はしばし床を見つめる。牙族だって、泉国から真正面に攻められることなど史上初めてのはずだ。聞得に長け、並大抵の身体能力でないとしても、戦慣れした二泉には牙族兵と比べ物にならない軍備がある。よほど策を弄してかからねば勝ち目はない。加えて、二泉にはなぜか由歩も多い。由霧を渡れるのと渡れないのとでは明らかな戦力差になる。由歩とはいったい、何なのだろう、と沙爽は思う。思い至って、ふと顔を上げた。


「……失礼ながら牙族は由歩の生まれがほとんどだと」

「それが」

「由歩は自由に由霧を渡ります。毒にあてられない。しかし、由歩は不能渡よりもずっと寿命が短い」


 茅巻は頷いた。由歩はその実、耐性があると言うよりは毒に侵されてもそれが身体に不調となって現れないだけ、そう茅巻などは考えている。現れない代わりに蓄積していき、寿命を縮める。実際に、由歩でも由霧をしょっちゅう渡り歩く者は渡らない者よりも短命だった。


「ご存知と思いますが、四泉は長寿の泉国です」


 四泉は主泉をはじめ、そこから流れ出る支流、支泉は全て薬泉だ。生を受けた時から、受ける前でさえ四泉民はその水の恩恵を受ける。人だけでなく家禽も野獣も多産でえる。

「私の曽祖父は百と三十を超えていますが未だ健在です」

「全て知っている」

 族主は苛立つように返した。「たしかに我らの生は泉国からすれば短いのだろう。斥候の多くは天寿を全うせずに絶える。だがそれは運命さだめ、変えようのないことだ」


 だから早くに子を生すし、生まれた子供は幼いうちから生きるすべを叩き込まれる。渡りの多い由歩は三十過ぎて子を持てば憐れまれた。子が二十になる頃にはすでにいないからだ。特異な能を活かし、連綿と受け継がせる。その代償に刹那を生きる。


「もしも、です。もしも牙族が四泉を全面的に支え、二泉を共にはばんでくださるのでしたら」

「仮定の話はもういい。持ちかける気があるなら最初から責任を持て。さてはなにか?族領にその薬泉を引き入れるとでも?それとも我らに四泉をくれるとでも言うのか」

 小馬鹿にして言った族主を、沙爽は凛と見つめた。

「――その通りです。四泉を割譲します」

「……泉主!それはなりません!」

 茅巻は慌てて沙爽の前に出た。

「血迷ったのですか!泉地はそもそもが黎泉よりたまわった土地。そんなことをすれば泉が涸れます」

「しかし茅巻。七泉しちせん鱗族りんぞくに土地を分けている」

「貸し付けているだけで、割譲しまして共同統治をしているわけではありません」

「しかし、協力せねば二泉には勝ち得ない」

 茅巻は詰まった。

「四泉の民のほとんどは不能渡です。今回のように、由歩の軍の攻撃に遭えばたちまち命を落としかねない。私は由歩がもっと増えたらいいのにと昔から思っていました。そうすれば泉国間で共有できることも増えるから、他国と利権を巡りいたずらに戦をすることも無くなるのでは、と。反対に牙族は由歩の民だけれども、真に土地を失わず定住できる保証のない、いわば流浪の民。泉を持てばその憂いはなくなります。四泉の水は命をながらえさせる」

「それは四泉と血を交わらせることになります」

「いけないのか?」

 首を傾げた。

「牙族ほどの聞得の能は他の泉国や部族には見られないものだ。しかし、あまりに早世。それは異能を保持させる為の代償にしては少々高く思う」

「たしかに由霧の晴れた地に暮らせれば今よりは生きられると思いますが……」

「それに、四泉にはかつて他の土地に住んでいた者も多くいる。牙族を住まわせたからといって、黎泉はお怒りにはならないだろう」


 族主は沙爽のすべての言を聴いていた。鉄扇の親骨を指でずらし、開いては閉じを繰り返している。


「私は本音を言うと牙族と盟約したい。でも牙族があくまで取引という体裁にこだわるのならそれでも良いです」

「泉主は取引を盟約に替えようとしておられるのです」

「そうだ。所詮は同じ。あとは牙族の捉えよう次第だ」

 族主は押し黙っていた口を開いた。

「……貴様は四泉と我らの血をぜても良いという。四泉に住まう誇りはないとみえる」

 そうではありません、と沙爽は笑んだ。

「なにも他の血を雑ぜることが泉民の矜恃を傷つけることには必ずしもなりません。九泉くせんの故事をかんがみれば、あまりに近ければ逆に濁るのは明白でしょう。より良い血を入れて四泉を繁栄させたいと思うだけです。それが牙族ならば申し分もない」

 珥懿は目を眇める。簾越しの少年は本心からそう思っているようだった。

「四泉が二泉に侵掠されるのは嫌です。しかし、四泉を守るために仕方なく牙族と同盟しようというわけではない。これは私の言だけしかなく、証しようもないけれど、きっと四泉と牙族にとってはそう悪い話ではないと思う」

 茅巻は視線を泳がせる。とんでもないことになりそうな予感がする。こんなとき暎景がいれば何と言うだろう。

「……どうでしょう、牙公。四泉を守ってもらう代わりにあげられるものが私には他に思いつかないのです」

「……いまのことが法螺ほらでないと、どうやって証明する」

「乗ってくださるのであれば、今ここで約しても構いません。私はこの戦いが終わるまで族領に逗留しましょう。無事に事が済み、朝廷が首を縦に振ればそれで良し、ひるがえさば私を討って四泉を破滅させれば済むことではないですか」

 茅巻が何故そこまで、と沙爽を見る。うまく利用するだけにとどめて、刃向かうなら四泉全軍で牙族を潰すこともできるのではないか、と思った。

 沙爽は茅巻の考えていることが分かったのか微笑む。

「約束は本気で守ると決めてからしなければ不幸になる。昔、そう母上から教わった。この広い世界で、狭い場所しか動けない民を少しでも幸せにしてやりたい。だから、守ると決めたものは守りたい」

 自分のてのひらを見つめた。

「茅巻、私はできるなら撫羊に王位を譲りたかった」

 茅巻が目を見開く。

「撫羊のほうが相応ふさわしいと、周りも、私自身でさえそう思っていた。今も思っている。しかし継承はなぜか撫羊よりほんの少し先に生まれた私に示された。でないと泉が涸れる。そうすれば民が困る……」

 沙爽はひどく辛そうに手を顔にあてた。

「私は泉を澄明にする使命を帯びた。私の勝手で民を飢えさせることはあってはならない。撫羊が私を認めず私をしいし、泉柱に反するつもりならば、……私は撫羊を退けなければならない」

 呻くように声を絞り出した泉主に、珥懿は凡庸な王の心の内を垣間見た。揺れる蠟燭の灯火、彼もまた不安定な足場を必死に歩いている。落ちれば死が待っている谷、その闇を見下ろしながら、震えながらそれでも歩を進めねばならない恐怖。孤独。焦燥。寂寥せきりょう…………。



 しばらくして、珥懿はひとつ溜息をついた。おもむろに立ち上がり踵を返す。振り返り、背越しに少年を見据えた。

「合議に諮詢してはかってみよう。返事は遅くなる。その間、穫司は己らで守ってみるがいい」

 そして少年の顔を確認せず歩み去る。向こうのおそらく嬉しげな顔を見るのはしゃくに障るし、何より自分がどんな顔をすればいいのか分からなかったからだ。相手の目には、姿さえ曖昧なのに。




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