五章
街を臨む高台、果樹園を出て段を連ねる棚田を通り過ぎようとした歓慧は座り込む人影に気がついた。霜で固く覆われた
「
猫背にそう呼びかけるも、返答はない。籠を降ろしてひょっこりと顔を覗き込んだ。
「蘭檗さん」
「……びっくりした。暁さまか」
柄の短い
「寒くないですか」
男は気のない返事をした。もとから白い肌は寒さのせいもあって余計に生気がない。
隣に腰を下ろす。田は農閑期で凍った土があるばかりで味気ない。
「すぐに二泉に発つんですか」
「…ん。もうちょっとしたら」
そうですか、と歓慧も大きく白い息を吐いた。男はぽつりと呟く。
「
蘭檗が
二泉で間諜として生き残る者は少ない。既に蘭家の直系は今のところ危うい。長子も次子も、二泉の宮城でそれなりの地位と情報網を築いていたが、どちらもすでに粛清された。蘭檗は家督の蘭逸の甥にあたる。
昔から何を考えているのか分からない男だ。常には茫洋としていて存在感が薄く二泉で働いている姿が歓慧にはいまいち想像出来ない。そんな彼だから、ばれずに続いているのだろうが。
抱えた両膝に
「……合議はどうでした」
ふ、と口端を上げた。
「いくら暁さまでも、それは言えないんですよ……ひょっとして、カモを探してましたね」
そういうつもりじゃ、と慌てて手を振る。
「ただ、四泉のこと、どうなったかなって」
さあてね、と蘭檗は立ち上がって伸びをした。
「気になりますか。泉主とたいそう仲がよろしくなったとか」
「うーん、そうしようと思ってそうなったんじゃないんですけど……」
そうですか、とさして興味もなさそうに返して、背負い籠を覗き込んだ。中には
「
「どうぞ。今年は実が
手を突っ込んで、蘭檗はおや、というふうに引き出した。茶黒く腐った実。皮が今にも破れそうにぶよぶよとしている。
「あら、他のやつに紛れてたんですね」
少しだけ眉を
「暁さま、城まで送っていきます」
「いいの?じゃあ、お言葉に甘えて風避けにしますね」
蘭檗は頷く。毒のにおいが漂っている。由霧は無臭だが、風に混じって感じるこれをにおうという他に何と言ったらいいのだろう。そんなことを考えながら灰色の空を見上げた。
白砂を散りばめ、溜池を囲った広い庭園には、虫や小魚を狙って野鳥がしばしば降り立った。庭掃除を任された
「白い鳥!」
思わず叫んで、池の淵に近寄る。と、こら、と自分を叱る声があって思わず首を竦めた。
縮こまって窺い見ると、
「あまり乗り出すと落ちてしまうよ」
「
小童が指さすほうを見やって、主人はほう、と目を細めた。「
「あんな鳥は初めて見ました」
一見鳩のようだが頭も胴も白く、羽根の先だけが蒼灰色で、同じ色の小さな嘴の先がほんのり桃色を帯びている。目は血の色を映した赤、じっとこちはを見ていた。
「どこから来たんでしょう」
「北からかな。よく霧界にいる鳥だよ」
「ぼくは見たことがなかったです」
しばらく二人で見やって、主人が小童に向き直る。
「じきに
はい、と素直に答えて、小さな
すると、今まで身動きしなかった灌鳥がふいに飛び、瞬きする間に差し出した腕に止まった。意外にもずしりと重い。
嘴の先を二回叩くと、ぱかりと開く。下嘴に固定された石を抜き取り、褒美に餌を与えた。白い鳥はひとしきり餌を啄むと、鳴き声も立てず真っ直ぐ北西へと飛び去った。
抜き取った石を懐に仕舞い踵を返す。
窓から入る陽の光のみで文面を読んだ主人はひとつ息をつくと、火鉢の中に入れる。紙は小さく
筆を取って書簡をしたためていれば、ぱたぱたと軽快な音がしてさっきの小童が外から呼び掛けた。
「主公さま、昼餉が出来ましたよ」
今行く、と
「
阿透は、はい、と元気よく頷く。
「どちらまで?」
素直な彼に目を細めて柔和に微笑んだ。
「
扇状に広がった巨大な泉は周囲を柵と家々に取り囲まれている。扇で言う
壁は泉に面して菱形を描き二重に楼閣を囲う。分厚い壁は上に
泉に正対して、中の楼閣を挟み左右対称に並ぶ
「泉主がお呼びだと?」
「すぐに参る」
そう返し、もう一度憂いを帯びた眼で泉を見つめた。遠目には、広大な泉は濃紺に光って見える。
しかし、男がまだ新参の一兵卒でしかなかった頃、泉は今のように底が濁って見えないことも、まして濾して煮沸しなければ飲めないなどということもなかった。
――――なぜこのような。
何度目かの溜息を漏らし、階下へ降りてゆく。
郭壁の中の巨大な楼閣は幾重にも階層を重ね荘厳な雰囲気を
磨かれた黒檀の
扉の衛兵もまた礼をとり、閂を外す。重厚な音を立てながら開いた扉の向こう、室内には空の酒器が転がる。離れた窓際には
ひとしきり笑っていた主は臣下の姿をみとめると酒盃を上げた。
「来たか、騰伯」
臣下――騰伯は膝をつく。「お召しにより参上致しました」
主は頷く。しなだれかかった女たちを押しのけると億劫そうに玉座に登った。絹で箔を引いた流雲の
「聞いたぞ。撫羊が倒れたとか」
「由霧に耐えられなかったのだと思われます」
で、あるか、と手酌で酒を注いだ。
歳の頃は四十半ば、体格の良い美男。これが騰伯の主である二泉の王、
「せっかく特等級の
「民のほとんどは不能渡でございます。本来ならば、命を賭して
斉穹は肩を竦めた。
「お前の精鋭と軍も貸し与えたというのに、落としたのはどうでもいい郷だけ。しかも内から開城させたという」
「沙琴さまなら、民の情に訴えられるであろうと、私は思っておりましたが」
主は
泉主、と騰伯は玉座を見上げた。「今一度お聞かせ願えませぬか。本当に四泉を侵犯なさるのですか」
「侵犯とは言わぬだろう。我とて四泉の王統ぞ。これは紛争ではなくただの内乱だ。分断されてはいるがな。王統ならば、我が二つの土地を統べてもなんの問題もあるまい。現に黎泉は泉を涸らしてはおらぬ。それが証拠だろう」
「しかし、泉主はそれを確認するために先に沙琴さまを送り出された」
斉穹は愉快そうにする。「あれが自ら攻めると言ったのだ。先に越えてみろとは一言も言っていない」
「由霧で平気なはずがないことはわかりきっていたでしょう。崖都と瀑洛を攻略した時点で四泉に攻められていれば、確実に討たれておりました」
「四泉は攻めきれぬさ。あれは貴重な血だからな。なんとしても殺したくないはずだ。跡取りが兄ひとりしかいないとなっては、撫羊が泉主に
酒盃を傾けた。「みるみるうちに乗り気になって。お前も聞いていただろう、騰伯。あれが出征する前になんと言ったのか」
撫羊は実兄が自分より才でも能でも劣ることが分かっていた。しかし殺すのは嫌がった。兄のほうが正統な後継である以上、それはしたくない、と。黎泉の罰も
斉穹は思い出して笑う。
「いかにも戦を知らん奴の甘い考えだ。叛逆した以上は殺すか殺されるかしかないというのに。だが乗り気なふりをしておくのは良いな。なんの因果か、我は由歩の能があるし、越境は容易い」
由歩の能力は遺伝だけに限定されない。
「さて、これで黎泉の
他泉の軍でも、当国の王統である者が先頭に立っていれば黎泉は動かない。ならば、斉穹が出たとしても二泉は涸れない。そういうことだった。
騰伯は複雑な表情を浮かべつつも、腰を折った。
「では
「もうひとつ、別でつついてみたいところがある」
「それは?」
斉穹は窓の外を見る。次いで、腕を組み
「騰伯。我の好きなものを三つ上げてみよ」
「泉主のお好みのもの?さて……」
「我が十五から仕えておるお前なら分かるはずだ」
騰伯は気まずげに目を落とした。
「怒らぬよ。正直に言うてみよ」
「……では、
「ふむ。正解だ。我は酒があれば珍味など要らぬ。他は?」
「……大変申し上げ難いことではございますが、泉主は権を競うことがお好きです」
「包み隠すなよ。ああ、我は戦が好きだ。残るひとつは?」
騰伯は眉根を寄せる。「あえて言いますならば…女、でございますか?」
「ふん、確かに美姫は好きだぞ。だが男なら誰だってそうであろう。……残るひとつがわからぬか?」
首を振ってみせると、斉穹は得意気に玉座に凭れた。
「我は大きい
はあ、と目を瞬かせた騰伯になおも語る。
「大きな宮、大きな泉、広い領地。あればあるだけ良い。なぜならそれだけ国は豊かになり、我は贅沢できるからだ」
そして、と声を低めた。
「それが手に入れられるならば力で
騰伯の
「泉主…斉穹さま。一体なにを」
「四泉を我が物にし、ついでに隣の牙族を潰す。知っているか、あの土地には地下水脈があるのだぞ。黎泉に縛られぬ肥沃な土地が」
騰伯は床についた自身の手が、恐れのためか怒りのためか震えているのに気がついた。
「お待ちください。泉地以外の他部族の領地を攻めること、黎泉がどう捉えるか」
「……そうか、お前には隠していたのだったな。何年前だったか、お前の
騰伯は瞠目した。よく覚えている。配下で軍を纏める有能な
「それは……
「出処は確かだぞ。もう一人
騰伯は慌てて広間を固める近侍を見回す。虎賁郎たちは中空を見据えて微動だにしない。
「そんな……
「何を悠長なことを。
「そのような横暴が露見でもしたら」
「我の虎賁は外へは洩らさぬ」
泉主の手足であり盾でもある虎賁は宮中において王の身辺警護を担う。宮外では
「まったく、忌々しいことだ、牙族というのは。人の庭にいつの間にか勝手に入り込んで聞き耳を立てるとはな。いっとう好かぬ。何年前だったか、あれらの内乱に手を貸したが、その時もなんの懲罰も無かった」
「間接的に関わるのと実際に出征するのとでは、黎泉の対応も違うのでは」
「いや同じだな」
斉穹は言い切った。「黎泉は泉地以外の者たちのことは意に介さぬ。気にかけておるのなら二泉の泉は涸れ、牙族領にも何らかの変事があったはずだ。だがそういったものは見受けられなかった。それで分かったのだ、泉地以外なら何をしても黎泉は我関せずなのだとな。そもそも関心があるなら泉のひとつも与えているだろう」
それに、と心底楽しそうに頬杖をついた。
「いま牙族には四泉主がいるそうだぞ」
「泉主が国を離れていると?」
「撫羊の兄は
「ここ数年
斉穹は登極からこれまでに自身を脅かすあらゆる勢力、親族までも手に掛けてきた。異常なまでの利己心と征服欲はとどまることを知らない。
「泉主、なぜそのように血気に
「同じなどではない。飲めるのであろうが。罰では有り得ぬ。……騰伯よ、お前は力を貸してくれるだろう?愚かな男ではないことは我が一番良く分かっている」
斉穹は囁いた。「お前は誰よりも二泉を愛している。我が死ぬようなことがあれば、それは二泉の死も同じことだ。我が死ぬ時は
「何をおっしゃいます……‼泉主ともあろうお方が、国と
「飢え渇いて干涸らびるよりは死んだほうがましであろう」
斉穹は冷たく、興味無さげに言い放った。
「お前の一軍と州軍をして牙族領を攻めさせよ。征伐がかなったのち族民はなるたけ捕らえて二泉に連行する。族主は殺すなよ、唾でも吐きかけてやらねば気が済まぬからな。――それと幾らか策がある」
意味深に口角を上げた。
「お前に由歩兵をくれてやる。使い潰しても構わん。どのみち渡ることしか出来んからな」
鼻歌を歌いながら酒を
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