十五章



 ぷかりと吐かれた煙は丸を描いて広がって、空間に漂い紛れていった。えんはそれをぼんやりと見つめ、向かいに座った主にいいのか、と問いかけた。

「今日を逃すとしばらく城下には行けないぜ」

「……目立つのは避けたい」

 珥懿も炎と同じく煙を吐き出した。その横でたんが茶をすする。

せんは――」

「あいにく室籠むろこもりの日だ」

 そうか、と珥懿は天窓を見上げる。入ってくる陽は弱々しく、光に照らされた白煙が反射し水面の綾目のように滑らかに光っている。


 彩影さいえいは客に姿形を隠す。唯一、与える情報がにおいになる。だからそれさえもいとう。血のにおいというのは特に敏感にぎ取ってしまうものだから、月に数日、外にもここ幽庵ゆうあんにも顔を出せない女である茜はさぞ窮屈だろうと思われた。


「いいのか、い人がまた怒るぜ」

彩影かげが籠っているときに遊べるか」

「お前が女遊びを控えたからといって、茜が早く出てこれるわけじゃねぇ。今は客もいないし、籠る必要ないって言ったんだけどな」

 手を後ろ頭に当てて炎は靠枕せもたれに沈む。丹が笑う。

「茜のほうが気にするだろう。しかし、自分のいない合間に紅珥くじが遊んでいたとなると機嫌が悪くなるからな。あれは自分のこととなると合理より情緒を重視しがちだ。そう考えると紅珥が正解だ」

 それに、自らのにおいというのは自分では分からないことも多いから慎重になったほうがいい。珥懿はまたひとつ煙を吐いた。

「万一城に攻め入られたら、分かってるな」

「無論。姫さま方を守れ、だろ。しかしそんなことはお前がさせないだろう」

 まあな、と主は無表情に雁首がんくびをこつこつと打ちつける。

「どうした、疲れているな。まさかあれしきの儀式でくたびれたわけではあるまい」

「……最近、歓慧がことさら我儘わがままなんだ」

 炎が失笑する。

「お前、戦より暁さまかよ」

「あの泉主のこととなると容易にのりを越えようとする。多少の『したい』なら可愛いのだが今回は何か嫌な感じがする」

「気にしすぎだ。歳が近いから仲良くなっただけだろう」

 いやいや、と丹の言葉を炎が遮った。

「あの年頃はいちばん多感さ。もういいとこまで行ってるかも。しかし、まあ領内にいる限り滅多なことはないし、相手は泉主だ。暁さまもそれは分かってるさ。口出さずに見守ってやれよ」

 はあ、と珥懿は憂う溜息をつく。

「……お前たち、このあと少し付き合え」

「なんだ?酒か?」

「動かずにいては息が詰まる。かんが溜まる」

「……はぁ?まさか今から稽古か?」

 炎が気だるそうに言ったが、珥懿は彼を睥睨へいげいした。

「お前、最近太ってきたろう」

 慌てて起き上がると丹が声を立てて爆笑した。

「冬だからといって油断したな。一本つけてやる」

「本気か……受けて立つぜ。してやる」

「紅珥に勝ったことないだろう、お前」

 丹がまだ肩を震わせながら言う。珥懿はやっと笑みを見せた。

「二人でかかってこい。鍛えねば腕が落ちるからな」

「余裕なのは今のうちだ。今年の俺は一味違うぜ」

 二人はせせら笑う。

「脂が乗って美味うまいのか」「一味違うのは剣のなまり具合であろうよ」

 なにを、と立ち上がった。「そこまであおられちゃこたえないわけにはいかねぇな」

 ひとしきり言い合ったあとで、三人は稽古場へと繰り出したのだった。







 血璽けつじは丸一日経っても乾いた血の色のまま、四泉の水色に変じてはいなかった。血璽の色変化はその時々で経過時間が異なるから、一概にどのくらい待てば良いかは予想が出来ない。沙爽に黎泉の神勅はいまだりておらず、はたしてその為なのか、そもそも継承者ではないのか。後者は考えたくないことではあったが、可能性はある。

 そう思い、深く溜息をついた。聞き咎めて珥懿が眉を上げる。

「一人前に溜息なぞつくな」

「それは横暴です。私だって悩むことがあるのです。というか、いつも悩んでいる」

「悩みすぎて一歩も動けぬのであろうが」

 意地悪く言われて沙爽は小童のように頬を膨らませた。


 合議のは本格的な軍議の場に変わり、牙族の重鎮の面々が顔を揃えている。皆素顔を晒していた。よって、暎景と茅巻はかんぬきの外に控えている。


驟到峰しゅうとうほうの拠点が潰されたゆえ、観測地点を領寄りの西に移した」

 骸骨に皮を張りつけたような痩せぎすの女が大卓に置かれた地図に石を置く。

「もう間もなく二泉本隊が霧を抜ける。総勢五万と少し、気になったのは大きな荷台を連れていることだ」

「荷台?糧秣しょくりょうとは別にか?」

「四角く板で閉じられた荷台だ。それが複数。補給であれば囲う必要などない。あれのせいで雪道に足が取られ、進軍が遅れたのだと思う」

「中は確認できたか、鈴榴りんりゅう

 問われて女は首を振った。「分からないが、こちらにとって良いものではないだろう」

 珥懿が視線を巡らせた。

「四泉のほうは」

蘭檗らんびゃくの指示のもと、崖都がいとちょう家配下が撫羊ふようの側仕えとして潜入に成功しています。そのまま穫司かくしに同行。撫羊は現在籠城していますが、四泉本軍が一旦曾侭そじんまで後退しているのを見て着々と侵攻準備を整えている様子です。穫司軍の間諜はいまだ動きがとれずにいます」

「二泉の各州の斥候から連絡が途絶えているな、蘭逸らんいつ

 蘭逸が唸る。「全てではないですが、今までこのようなことはありませんでした。蘭檗からはいつも通りに」

 そうか、と珥懿は図面に目を戻す。あの、と沙爽がおずおずと口を開いた。

「言いそびれていて申し訳ないが。四泉朝廷は牙族と連携を組むことには同意したのだが、私一人だけをこちらに逗留させているままはやはり許されないということで、牙領の直近州から改めて使者兼私の副官を寄越すと」

 暎景と茅巻はあくまで沙爽の護衛にすぎず、表立ってまつりごとに口を出せない。牙族に良いように戦局を運ばれることを懸念した朝廷が出した苦肉の策だろう。予想通り重臣たちは知っている、というように頷いて、沙爽は苦笑した。

「流石です」

「しかし北路にも二泉の者がいたのだろう?辿り着く前に消されるかもしれんな」

 いまだ北では二泉の斥候を確認できないでいた。沙爽は頷く。

「それはもう賭けるしかないでしょう。使者のために兵力を割くわけにもいかない」

「ご理解に感謝する。どのみち明日みょうじつ、四泉曾侭へは万騎はんき八百を遣わす。北路に二泉の斥候がいれば鉢合わせた時点で乱闘になるゆえ分かるだろう」

「取り纏めには誰を?」

 万騎の派遣には万騎長はんきちょうとは別に必ず統帥とうすいとして伴當はんとうの誰かをあてがう。珥懿はすぐ側を横目で見た。

高竺こうとく

 おや、と意外そうに見返した。

「指示に物理的距離があるゆえ、万騎と上手くやれて手綱たづなを握れる奴が良い」

「構いませんが、私の軍の指揮は誰が?」

「適当な者を」

「して、どの万騎を?」

驤之じょうしの八百でどうだ」

 高竺は頷いた。万騎は基本的に奔放で短気な者が多い。ゆえに指示が遅れると痺れを切らして勝手をしかねない。驤之は万騎の中ではわりあいに柔軟な万騎長、しかし戦いにおいては苛烈な隊だ。

「こちらの二泉軍を叩くのはやはり先にヒョウで?」

「奇襲のみで使う。泉賤どれいの件があったから日を置きたい。血酔ちえいになっては困る」

 たとえ人を喰らうことを禁じてはいても、殺めれば多少なりと血を味わってしまう。上限を超えてそれが続くと先日のようになる。どの時点で錯乱状態におちいるか、それは個体によって違うので、その見極めも主である珥懿の務めだ。

「城内に一万、城壁と街区の郭壁に守備三万を残す。甕城おうじょうしゅう家に一任する。あとは控えを残して万騎とともに平原に展開し二泉を叩く。本軍の不能渡わたれず由毒ゆうどくで動けないうちにな」

 皆が頷く。珥懿は沙爽へ向いた。銀桂花ぎんもくせいを模した珥鏁みみかざりが細かな音を立てた。

「泉主には城で作戦の采配と全体陣形の把握に努めていただく」

「たしかに私は役には立たないが、何もせずに見ていろと?」

「心配せずとも伴當も残す。二泉がこの後どのように動くかを予想し策を立案するのも後方の役目だ」

「牙公はどうするのです」

 珥懿は腕を組んだ。「泉国と違い、我々は元首が先陣を切るのでな。戦っているときにその後のことは考えていられない」

 そんな、と沙爽は愕然とした。

「真っ先に飛び込んでゆくと?牙公を失えばどうなるか分かっていますよね?」

「当主が先んじれば指揮に混乱が起きず即時応能が早い。士気も上がる。死ぬことを前提に戦を起こしはしない」

「……では、私も」

 珥懿は面倒そうに手を振った。「お前に何ができる。ここは泉国ではないのだ。お前が守るべき民はいないし、二泉に殺されては最悪の事態になる。大人おとなしく城にいることだ」

 牙族の面々も同意する。でも、と言いかけて口をつぐんだ。分かっている。まともに戦いを知らない自分がいては足手まといにしかならない。

「果敢になるのは本国で敵と剣を交える時にとっておけ」

 沙爽は折をみて早々に四泉に戻らなければならない。戻る頃には戦が終わっているよう願うが、そうもいかないだろう。

「……分かりました」

 忸怩じくじたる思いで小さく呟いたのに頷き、珥懿は広房ひろまを見渡した。

「我らとて、この戦は泉国との初めての戦だ。不備不安はあろうが壁内に一歩たりとも二泉軍を侵入させるな。我らはこの地をうしなえば遥かいにしえの始祖と同じく流浪に身を費やす。それだけはあってはならない」

 若い主は立ち上がった。

「必ず民を守り抜け。それこそが兵の務めだ」

 臣下たちが一斉にひざまずく。次いで珥懿は向き直った。

「沙爽。まだ事は始まってもいない。今のうちにあらゆる覚悟をしておけ」

「あらゆる覚悟……」

「盟文には記したな?たとえお前が死んだとしても、牙族には必ずみずの大地を与えると」

「はい」

「しかしその約、まことたがえない為にはお前は必ずこの戦いを生き延びねばならない。私はお前という一人を信じたが、四泉を信じてはいない。同盟の完成には必ずお前がる。お前は四泉の命運そのものだ。絶対に死なず、何を犠牲にしても務めを完遂すると私に誓え」

 黒い瞳が逡巡を許さない。沙爽は唇を引き結んで見上げた。

「……盟約通りに、私は誓う。私は決して牙族を裏切らない。撫羊と二泉を撃退し、約束を果たすまでこの生命いのちは貴方のものだ。従いましょう。必ず生き延びてみせます。……しかし、牙公。貴方の生命も私のものだ」

 沙爽も立ち上がった。

「同盟を交わした今、四泉の民も牙族の民も等しく私の民だ。牙公とてそれは例外ではないのです。勝手に死ぬのは許しません」

 珥懿は絶世の美貌で口端を上げた。

「言うではないか。うけたまわった。必ず御前に帰ってこよう」

 とうとう始まるのだ、戦が。沙爽は悪寒に震えた。義兄たちの争いとは比べられないほどの人が死ぬ。自分がその渦中にいるなんて、想像したことさえなかったというのに。





 まだ陽も昇らないうちに、四泉へ向けて先遣軍万騎八百が旅立った。城内で見送った沙爽は一睡も出来ず朝を迎えており、見かねた歓慧が心配そうに声をかけた。

「大丈夫でございますか?」

「ああ。ただの寝不足だ」

 暎景と茅巻も顔を見合わせる。沙爽は眉間を揉みながら茶を啜った。

「泉主。なにも気に病むことはありません。四泉ではいまだ沙琴さきんさまは動いていませんし、牙族には練度の高い軍があります。どんと構えておけば良いのです」

 暎景の言に茅巻も頷く。沙爽は歓慧に問うた。

「歓慧どのも戦いに出るのか?」

「私は廝徒ざつようとして城内でお仕えします」

 内心ほっと胸を撫で下ろした。

「そうか。しかし、城は敵の正面だ。危険ではないか」

「皆が戦っているときに隠れてはいられません」

「それはそうだが」

「大丈夫です。当主がお出ましになるのです。甕城さえ落ちません」

「牙族は当主への信頼があついな」

「掟を犯した同族にさえ果断な罰を厭わない方です。まして他国の敵にじけるはずがないのです」

 言った顔はどことなくかなしそうだった。

「むしろ逆かも……」

「逆?」

 力無く微笑した。訊き返しには答えず、給仕を続ける。そんな彼女に沙爽もそれ以上は問えず、石のように感じる朝餉あさげを無理やり喉奥に押し込んだ。





 奇襲は明日の明朝に行われる。沙爽はしもべ二人と歓慧、珥懿と共に城裏に来ていた。

 壁は城を二重に囲っているが、城裏で大きく建物の外縁を離れて迂回し、街の郭壁に接続している。その広大な裏庭には城壁外と同じく牧草地と軒を連ねたうまや、家禽の小屋があった。

「出撃に使うのはこれだ」

 独特のにおいが立ち込める中で珥懿が馬房の一頭を見上げた。沙爽は呆然と立ち竦む。

「これを……操ると?」

「なんだ、孩子ぼうず。大きすぎて度肝を抜いたか」

 軽快な足音が聞こえ、侈犧と徼火が現れた。

「てっきり、普通の馬だと……」


 巨大な野牛やぎゅうだった。街中で見た氂牛ぼうぎゅうとは全く異なる。いや、同じ牛の仲間ではあるのだろうが大きさが桁違いだった。

 侈犧が一頭を房からき出す。出された野牛はひときわおおきい。頭から前肢にかけては縮れた長毛で覆われており、目はからだに反して小さい。捻れのない二本の角があり、途中鉤型かぎがたに曲がって角先は天を向いていた。肩部が異様に盛り上がっていて、下肢にかけて収束している。それほど長くない尾、どっしりと歩く姿は一見して動きは遅いように見えるが。


「四泉へもこれで遠征する。四泉主にも乗り方を覚えてもらうぞ」

「これで⁉」

「馬よりは幅を取るが持久力も速さも劣らないし多少矢が当たっても皮膚が硬いからびくともしない」

「しかし、これはどこにくらを置くのです」

 徼火がくすくすと笑った。

「野牛に鞍なんてつけないのよ」

「裸馬ならぬ裸牛で乗る。最初のうちはしりの皮が剥けるが、耐えろ少年」

 侈犧に笑って言われ青褪あおざめた。ふと、猋に乗ったときに牛よりは容易たやすいと言った珥懿の言葉を思い出し、恨めしげに隣を見た。面を着けた族主の表情は分からないが、きっと意地悪く笑っているはずだ。野牛を撫でている歓慧に、おそるおそる問うてみる。

「もしや、歓慧どのも乗れるのか?」

 問えばにっこりと笑う。「城仕えの者は大抵乗る訓練を受けますから」

 こんなものにどうやって、と途方に暮れる。

「猋と違って流石に手綱は着けるがな。甲冑よろいを着た上に鞍まで乗せると、その分重くなって野牛の力が最大限引き出せない」

「……これだけで人を殺せそうだ」

 暎景が腕を組んだ。侈犧が頷く。

「実際、これに突っ込んで来られたらひとたまりもねぇさ。敵を蹴散らすにはもってこいだが図体がでかい分、馬より小回りはきかねぇよ」

「俺は他泉に行ったことがあるが、こんな獣初めて見たぞ」

「牙族が代々やして受け継いでいるのよ。他の泉国でも見たことはないわねぇ」

 沙爽に与えられたのは若いもので、他の野牛より一回り小さかった。まだ名がついていないという。

「はじめは野牛も嫌がって暴れるから、振り落とされないようにな」

 侈犧はそう脅したが、馬と同じくよほど性格に難のあるものでないかぎり、振り落としたり蹴られたりすることはなかった。ただ振動が凄まじい。背ではなく肩に乗っているわけで、当然前肢を動かす度に筋肉が隆起して体に相当の刺激がかかった。


「これが牙族の通過儀礼せんれいか……」

 辛抱強い茅巻でさえ途中で音を上げるほど、言われたとおり臀が燃えるように熱くなった。血が出ているのではないかとさえ疑う。

「猋より難しいではないですか」

 沙爽が不満を漏らすと、何を言っている、と珥懿が面の下で呆れた。

「たまたま可弟かとがお前を気に入って従順だっただけだ。野牛なぞ手綱通りに言うことを聞くのだからなにも困ることがないではないか」

「泉主だめです、こやつらには何を言っても我らが軟弱扱いされるだけです」

 暎景が悪態をつきながら臀をさする。歓慧が取りなして笑った。

「四泉に帰るまで馴れておけば良いのです。そう焦らずとも」

「だがいつでも乗れるようになっておかなければ」

 沙爽は立ち上がる。節々を庇って変な体勢だ。真面目だねぇ、と侈犧と徼火が声を上げて笑った。

 万騎の侈犧と徼火がいると場が明るくなる。朝には憂鬱そうにしていた沙爽も、しばらく共にいて落ち着きを取り戻したようだった。



 珥懿はまだ野牛を馴らしている彼らを見渡し、ふいと城内へと足を向けた。しばらくして背後で呼びかける声がある。

「姉上」

 こっそりついてきた妹が袖を引いた。

「まだあれらといて良かったのだぞ」

 頭を振ったのに珥懿は優しげな眼差しで首を傾げた。

「どうした」

「……また、人が死ぬのですね」

「仲間を殺すよりましだ」

 螺旋階段を登りながら面を外す。

「今からでも土楼すまいに避難して構わないよ」

 歓慧はまたかぶりを振り、不安そうに見上げた。

「姉上も分かるでしょう。この嫌な感じ。とても良くないことが起こる気がします」

 珥懿は見つめてくる瞳から顔を逸らした。

「……死なないで」

「お前を置き去りにして死んだりするものか」

 再び笑んでその頭を撫でる。歓慧は抱きつき珥懿の腕の中にうずまった。

「姉上は、心の底ではたかぶっていらっしゃるのでしょう?それが、心配なの。お願いですから必要以上に危険なことはしないでください」

 頭上で息をつく気配。「お前は母親に似て心配性だな」

「そんなこと、覚えておりません」

 いじけたように唇を突き出した妹の背を軽く叩いて離すと、珥懿は不敵に笑った。

「明日の支度もお前に任せるぞ。動きやすく、美しくしてくれ」

 お任せください、と歓慧は大きく顎を引いた。





 東の平原、ゆずりはの境界に集ったのは暁闇ぎょうあん、わずかに夜をぼかした薄明の空は紺青こんじょう、いまだ星々が瞬いていた。


 奇襲部隊は猋七十余を全て投入する。首将はかく家の活雷かつらい斂文れんもん異母弟いとこに当たる。

 奇襲であるからして活雷は密やかに猋の上から珥懿、そして義兄を見下ろした。

「俺の勇姿をとくと見ておけよ、霍斂かくれん。当主、この活雷、かならずこやつより良い働きを致しますので霍家家督を私に移譲することをご考慮くださいませ」

「やらんわ」

 斂文が苦笑する。

「さあ、どうしてくれるかな。考えてもいいぞ」

「当主。悪い冗談はやめてください」

「二言はありませんね?約束ですよ」

 活雷は無邪気に目を輝かせる。弱冠十八、まだ幼い。


さや晶風やまかぜを我らに。玲々れいれいの音があらんことを」


 活雷たち奇襲隊が境界に向かって音もなく滑走するがごとく離れてゆく。珥懿は脇に控える斂文を見上げた。

「済まないな、活雷に先駆けを任せて」

「問題ありません。功を立てたがっていたのはあれですし。……我らも準備を」

 促したのに頷き、珥懿はきびすを返した。



 時経たずして東の境界はにわかに騒がしくなった。怒号と悲鳴が飛び交う。やっと空が白み始め、松明たいまつが焚かれた。牙族本軍の陰影が浮かび上がってくる。

 見送りのために外に出た沙爽は兵らを見渡す。珥懿は長い髪を結って頭に巻きつけ、いつものような半面を着けていたが、目のまわりはより大きくかれて優美な目頭からまなじりまでよく見えた。支えも紐ではなく面に接続したかぶとでできていて戦闘用であることがわかる。それは火に照らされて黄金に輝いた。

 駆け登るように野牛に飛び乗る。



「――――時は来た。この戦いは牙族最初にして最後の戦いだ。我らが泉を持たないのをいいことに、曩祖のうそより受け継いだ豊穣ほうじょうの地を蹂躙じゅうりんせしめんとする奸譎かんけつなる二泉に痛棒を食らわしてやれ。もちろん戦が初めての者も多いだろう。しかし怖れるな。日々の鍛錬と己の耳目を信じ、私を信じよ。前兆まえぶれに忠実であれ。こころに従え。聖なる山水の湧きづる我らの地をまもたてまつらんとする者は私に続け!」



 喊声かんせいが響いた。珥懿が大きく腕を振りかぶった。肩に担ぐは大釤おおまさかり。紙のように薄い切っ先が光に反射して青白く、まるで月牙のように。  


 沙爽は自分でも気がつかないうちに冷や汗をかいていた。珥懿は笑っていた。上向いた口角、その薄い唇の間から白い歯が見えるほどに満面の笑みだった。まるで待ちわびていたかのよう、緊張もしておらず思い詰めた様子もない。こんな状況で、面を被っていてなお、沙爽が今まで見た珥懿のかおのなかでとびきり美しかった。同時に怖気おぞけが背筋から這い上がってくる。



 ――――私が盟約したのは本当に人だったのだろうか。

 もしかすると、死を呼ぶ神にでもたぶらかされたのか。



 珥懿は先頭を切って野牛を突進させる。他の者が後に続いた。大きな地響きを立てながら群れが横並びに平原を一直線に進んでゆく。さながら稲穂に広がる風の波紋。突進する彼らに、光が射した。


 城門を閉ざし、開廊に上がった沙爽と歓慧は珥懿をすぐに見つけた。


 茴香ういきょうを染めあげた長袍きもの、黄色い花弁を散らして純白だった。一目で分かる出で立ちは族主として皆を率いるためか。しかし沙爽には敵の格好の狙いになる装いとしか思えなかった。みるみるうちに小さくなってゆく影はあっという間に境界線の森の中に消えた。



「当主、楽しそうですね」


 全速力で野牛を駆ける傍ら、配下に言われ珥懿は高らかに笑い声を立てた。うら若い乙女の無垢と鬼神の惨忍ざんにんさをあわせ持つ。


罪咎つみとがの憂いなく敵を排除できるのだ。なんのわだかまりがあろうか!」


 野牛の角で突き上げられた眼前の敵が宙を舞った。何が起こったのかさえ分からず、呆然とした顔が可笑おかしい。猋の牙から逃れようとする兵、錯乱して平原に逃げようとしている二、三の人影に近づく。次に手綱を離した。痩身のどこにそんな力があるのか、しなやかな両腕で大釤を横に薙ぐ。敵兵は一瞬で頭を失った。


「当主。あまりはしゃいでは示しがつきませんよ」


 後ろを走っていた丞必しょうひつが剣先を辛うじて逃れた一人を確実に仕留める。主はわずかに紅い飛沫しぶきの散った顔で口許をほころばせた。平時にこんな素顔をされれば一体何人が骨抜きにされることだろうか。

 野牛の速度を少し緩め、声を張る。

「猋を退さがらせろ。奇襲隊は野牛に乗り換えて援護!峡谷を逃げている者を追え!――薜鳴へきめい、右!」

 呼ばれた鳴奔めいほんが声に反応してすんでのところで矢を避ける。思わず主を驚愕して見返した。


(見ていないのにどこに飛んでくるか言い当てた……)


 丞必が暗器あんきで岩陰の射手を落とす。

「まだいるぞ!油断するな!」


 境界は先日火を放たれていぶされた林が黒くすすけていた。もとは木々が生い繁っていた窪地には焼け枯れた枝が大量に。いや、枝ではなかった。丸焦げになった泉賤どれいしかばね。それは境界に沿った燃え跡を埋め尽くさんばかり。敵先鋒隊は入り乱れて阿鼻叫喚、我先にと由霧の道を戻り始める。


「なんということを」

 斂文が正視に耐えかね炭灰となった亡骸から顔を逸らした。珥懿が振り向く。

「敗残兵を追えるところまで追う。すでに本隊が近くまで来ているはずだ。強襲出来そうならそのまま叩く」

 進めと叫んだ声に呼応して一気に谷道を抜ける。狭い蹊谷けいこく、崖を越えるまで野牛を二頭並べるので手一杯だ。


「上だ!」


 螻羊ろうようを駆って逃げる兵が崖上を登り、霧間から矢を射てきた。

「わたくしが!」

 言ったのは若い女。駆けながら矢をつがえるとまず霧の中を見え隠れする螻羊の動きを止め、反動で転がり落ちた人の頭を即座に放ったもう一本で射抜いた。

「見事」

 丞必が親族をたたえる。家督と同等の彼女に褒められて女ははにかんだ。


 逃げ遅れた先鋒隊はあらかた排除し、崖を抜けると道は少し開ける。幅なりに広がった牙族軍はふと野牛の歩みを止めた珥懿に従って停止した。

「どうされました。二泉本隊はもう近くまで来ているはずです。動きのままならない不能渡を今のうちに一網打尽にすべきです」

 応えず後ろを振り返る。

「……窊梨わり

 呼ばわった声に群れの中から男が進み出た。鈴榴麾下きかの驟到峰の監視役だ。

「お呼びでしょうか、当主」

「お前は本隊の姿を見たな?」

「はい」

「どのくらい近くで見た」

「あまり近づくと察知されますのでそれほど近距離では。螻羊と馬に乗った騎馬隊と歩兵、それに木箱を乗せたくるまが見えました」

 珥懿は大釤を担ぎなおした。前方を見据えて動かない。

「不能渡が由毒に冒されている様をしかと見たのか。肩を組んだり、馬に二人乗っていた様子は。荷台に人が寝ていたりしたか」

 窊梨は思い起こし宙を見据える。

「……いえ、そういうことは。歩みは遅いとは感じましたが。たまたま見た時は不能渡も歩いていたのかもしれません」

「そもそも集められたのは二泉騰伯とうはくの直轄と牙領直近州の州軍だったな」

「はい。しかし一番近くのけい州は封領ほうりょうです。治めているのは昌湖王しょうこおう、甥の二泉主とはあまり仲が良くなく、今回の遠征にも消極的で、桂州の内間ないかんによれば州軍は一万五千ほどしか送られていない。残りは騰伯軍と徴発した兵が泉川かわを下って合流しています」

「……そうか」

「何か気になさることが?」

 問うた丞必にも無言で空を仰ぐ。陽は完全に昇っていたが、霧の紫雲で遮られている。


「くさいな」

 やがて呟いた。丞必は意識を鼻に向ける。こちらが風上で良くわからないから、主はおそらく、においではなく気配を感じ取ったのだろう。

「斥候を出す。螻羊もかなり逃げられた。この先の谷の様子を探る」


 斥候が二人先に出る。いくらも経たないうちに一人だけ戻ってきた。


「だめです、螻羊隊の残兵が崖の上に隠れています。谷に入れば矢の雨です」

 珥懿は目をすがめた。「一度退く」

「また閑地に布陣を許すのですか」

「これ以上道が狭くて野牛をかせず戦闘には不利だ。霧が濃くてあちらの姿も見えない。嫌ながする」

「いま攻め入れば完全に撃退できる可能性もあるのでは」

「どのみち弓隊が待ち構えている。いたずらに兵を失いたくはない」

「しかし」

 言い募った配下に珥懿は顔を向けて黙らせた。反転した主に従い、群れは領地に戻った。





「牙族軍、引き返して領地に帰っていきます」

 小高い岩山の上で少年が主に告げた。主は舌打ちする。

「やはり一筋縄ではいかないか」

 計画通りにゆけば、牙族軍を峡谷までおびき出して頭上から攻撃し、退路を絶ち、進軍する本軍と敗残の螻羊隊で挟撃して壊滅させる算段だった。

「数はどんな具合だ?」

 少年が手で目を囲う。「こちらより少ないです」

 ふん、と男は腕を組む。

「やはり目鼻か耳を潰さねば無理か……」

 噂には聞いていたが恐ろしく鋭い者たちのようだ。男は崖から下りて兵に告げた。

「本軍に予定通り用心しつつ進むと伝えよ。なんとか由霧を抜けるのだ」


 そして岩棚にひざまずかせている若者の前に立った。


「牙族の手の内を明かせば命までは取らないと約束しよう」

 先ほど捕らえた牙兵の斥候だった。男の言にただ睨み返したまま。

「えらく若いな。牙族は短命と聞くが、まだ小童こどもじゃないか。お前より下に見えるな、劉施りゅうし

 同じく崖を降り下ってきた少年が若者を覗き込み、形相に怯えた主の背に隠れた。

「こんな若人を殺すのはしのびないが。よし、ひとつ使ってみるか」

 少年は睨むことをやめない。くつわを噛みちぎらんばかりに歯を剥きだした。男は鼻を鳴らした。

「お前が信義を誓う牙族がどの程度のものか確かめてみよう」



 二泉軍はそのまま侵攻したが、やはり考えることは同じで峡谷で牙族による矢雨の攻撃を受けた。しかし用意していた螻羊によって散らすことに成功する。螻羊は針のような山も易々と登るからかなり有用だった。奇襲で半分失われたのが惜しまれる。


「いいか、やれるな?劉渾りゅうこん。お前のように小さくばすぐに攻撃はしてこないだろう。頼んだぞ」

 渾、と呼んだ劉施が心配そうに兄弟を見る。劉渾は硬い表情で頷くと馬を蹴った。もう一方の馬も連れて行く。こちらには捕らえた少年が意識なく括られていた。


 馬はひた走り、境界の焼け跡までやってきた。そこで劉渾はもう一方の馬を引き寄せ、意識のない捕縛者を引き揚げて短剣をかざしながら声を張った。


「使者である!我らが将たる西伐せいばつ将軍より言伝ことづてたまわった!牙兵のおさは名乗り出よ、さもなくば斥候をこの場で斬る!」

 劉渾は自分が飛矢で落命しても人質を殺せるよう、切っ先を轡に挟み込んだ。体重を掛ければくびを絶対に刺せる位置だ。剣の柄もすでに手と固定してある。


 はっ、と気がついた時には、いつの間にか五、六人の牙兵が音もなく劉渾を取り囲んでいた。距離はあるが顔が見えるほどに近い。しかし仮面を被っていた。

「言伝とは?」

 どこからか、至極冷静な声がした。

「四泉主を渡し、武装を解け。狻猊さんげいを即刻退かせよ。開門し降伏すれば命だけは保証する。要求をね除けるならこの者を二泉の決意の表れとして見せしめとする」

「貴殿の命も風前の灯火ともしびだが」

 八方から矢弦を引き絞る音が聞こえた。劉渾は気丈に笑った。

「我が帰還せぬ時は問答無用で二泉五万兵が牙領に攻め入る!」

「四泉主を渡さばなおのこと攻め入りやすかろう。一人の命と天秤に架ける問題ではない」

「それが牙族の答えか」


 正面の男が片手を挙げた。「このような年端もゆかぬ者を使者に立てる、その二泉の卑劣さには呆れ果てて物も言えない……済まないな、豎子こぞう。お前に免じることは出来ない。我々はとうに腹を括っている」


 手が降ろされた。一瞬ののちに体じゅうに来た衝撃に劉渾は息を詰めた。最後の力で剣を固定した腕に力を入れたが、ふと見るとそこにあるはずの腕は無かった。どうして、と疑問を浮かべながら、意識は己の血にまみれて暗幕に消えていった。





 唯真ゆいしんは振り降ろした手をこぶしに変え、静かに息を吐いた。単身乗り込んできた小柄な敵はゆっくりと傾いて落馬する。

 林の奥から猋に乗った主が姿を見せた。

しるしは置いていってやれ」

「しかし、敵兵です」

「まだおさない」

 珥懿は馬から下ろされて配下に囲まれた斥候に目を向けた。

「どうだ」

 問われて一人が首を振る。珥懿も近づき、傍らに片膝をつくと目を閉じた。生気は感じなかったからそうだろうとは思っていた。

「よく帰った」

 周囲から押し殺した嗚咽おえつれる。唯真は全身を射抜かれた敵兵を見下ろした。

「こいつは知っていたのでしょうか。李巽りそんがすでに殺されていたのを」

「知っていて来たのなら大したものだ。しかしあの様子を見ると」

「……なんと、汚い」

 唯真は吐き捨てた。怒りに震えた身体からだを抑えるように自らの肩を掴んだ。珥懿が二泉軍のいるであろう方角を睨む。

「西伐将軍とやらは我らを試したのだ。そして使者が殺されるだろうことも分かっていた……けがらわしい挑発だ。これで二泉を叩きのめすのにますます遠慮がなくなった」

 手を置かれ、唯真は自分よりひと回り以上も若い主を振り仰ぐ。

「辛いことをさせた。お前は子供が好きなのに」

 てのひらで目を荒く擦る。

「いえ、敵に憐れみなど不要です」

 珥懿は黙って頷いた。

「二泉をゆるしはしない。殺された同胞なかまの仇は絶対に取る」



 兵が戻ると同時に、東の大庭にも阻塞そそく拒馬きょばが設置された。奇襲隊と初陣を果たした兵は一万強、本軍こそ叩けなかったものの、二泉先鋒隊を追い散らすという目的はひとまず達成した。驟到峰撃破からここまで損耗そんもうは軽微。閑地と境界のむくろは味方のものであっても今は全てをとむらう余裕は無い。


 城に入るとすぐさま駆け寄ってきた影が二つ。ひとつは歓慧で、心配そうに手巾てぬぐいを差し出した。もう一人、沙爽は珥懿の顔や衣に散った飛沫を見て蹈鞴たたらを踏んだ。

「首尾は」

「一日もすれば本軍が来る。蹴散らした敗残兵も、夜にかけて攻め入って来るならば我々も夜戦に移るが、おそらく今日は攻めてこないだろう。歓慧、猋の様子はどうだ」

「今のところは落ち着いています」

 猋がもっと使えたなら、と珥懿は内心で憂えた。嘉唱かしょうでさえ何かを抑えるような気配をさせている今、これ以上血を与えたくない。

「……牙公は戦に馴れているのか」

 近寄るのを恐れるように沙爽は距離を取っていた。珥懿は面を外す。

「馴れているわけではない。が、いつもは図面の上で頭を巡らせているのが実際に自ら駒となって動いている、それだけに過ぎない。相手の動きもこちらの練度もほぼ想定通りだ」

 そうではなく、と沙爽は首を振った。

「……人を斬ることを躊躇ためらわないのですか」

「今更そんなことをほざいているのか貴様は。呆れて問答する気もないわ」

 闇のようにくらい瞳はさらに冴えた。

「怖いならば見なければいい。お前は泉主だ。自ら手を汚す必要はない。しかし前線に出ている兵を侮辱する言は控えてもらいたい。その甘さが罪もない民を無駄に失わせ、兵の士気を下げる」

 冷たくあしらい、俯いた沙爽の横を通り過ぎた。歓慧は少し悲しそうに見てきたが、珥懿にき従って去っていった。


 入れ違うようにして暎景と茅巻が駆け寄ってきた。

「泉主。ここにいらっしゃったか」

「暎景。私は……どこにいても無力だな」

「何を言っているのです。謙虚も度を越すと卑屈ですよ」

「しかし、こうしてなにもしないでいると泉主の気持ちも分からなくもないですな」

 茅巻が溜息をついた。二人が命を懸けるものは沙爽だから戦には参加しない。それに牙族自体も二人が加勢することは許さないだろうと思われた。そういうわけで沙爽が広房ひろまで次なる策を伴當と練っているあいだ、黙って周囲に気を配るくらいしかやることがない。城内の者は顔を見られるのを嫌うから気軽に出歩けないし外に出れもしない。

 茅巻に四泉の状況を問うたが、こちらも今のところ動きは無い。撫羊は穫司内で次戦に備えており、瓉明さんめいは州軍を残して曾侭まで後退している。瓉明へは、書簡を通じてもう指示をしてある。


 沙爽は吹き抜けの走廊ろうかで白い息を吐いた。陽の沈んだ空は曇っていて星は見えない。冬風は肌を刺す冷気のなかになまぐさいものが混じっているような気がした。

「甘い、か……」

 だって、戦など分からない。したことなどない。人の死に立ち会った経験はあるが、それはどれもいわゆる平和的な死であり、故意に命を奪われた人を間近で見る機会など皆無だった。


 父の崩御ほうぎょや、義兄たちが薨去こうきょした時でさえ間接的に伝えられ、葬儀の準備が整った後の拝顔はいがん、血にまみれ苦痛に歪んだ顔を見たわけでも、なにか死に際に恨み言を聞いたわけでもない。


 死はけがれだ。周囲によって関わることは忌避されてきたし、人はだれも無意識にそう思う類のものだ。泉主だからそれで良いと言われた。はなから期待などされていないのだし、自分が死ねば四泉が終わる。だがしかし、やはり何も分からないでは許されないのではないだろうか。珥懿たちが今やっている事を知らないから、よく考えもしない言が飛び出すのだ。


 かといって人を殺めてみたいとか、そういう気持ちには絶対になれない。だからせめて、自分で自分を守れたのなら、要らぬ損害を出さずに済む。そう思い至り顔を上げる。暎景と茅巻を見比べた。この二人は泉主大事できっとけ負ってくれはしないだろう。きっとそんなことをする必要はないと言うだろう。


 だれか適当な――そう考え、思い浮かんだ顔に内心膝を叩いた。あの者ならば。





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