十五章
ぷかりと吐かれた煙は丸を描いて広がって、空間に漂い紛れていった。
「今日を逃すとしばらく城下には行けないぜ」
「……目立つのは避けたい」
珥懿も炎と同じく煙を吐き出した。その横で
「
「あいにく
そうか、と珥懿は天窓を見上げる。入ってくる陽は弱々しく、光に照らされた白煙が反射し水面の綾目のように滑らかに光っている。
「いいのか、
「
「お前が女遊びを控えたからといって、茜が早く出てこれるわけじゃねぇ。今は客もいないし、籠る必要ないって言ったんだけどな」
手を後ろ頭に当てて炎は
「茜のほうが気にするだろう。しかし、自分のいない合間に
それに、自らのにおいというのは自分では分からないことも多いから慎重になったほうがいい。珥懿はまたひとつ煙を吐いた。
「万一城に攻め入られたら、分かってるな」
「無論。姫さま方を守れ、だろ。しかしそんなことはお前がさせないだろう」
まあな、と主は無表情に
「どうした、疲れているな。まさかあれしきの儀式でくたびれたわけではあるまい」
「……最近、歓慧がことさら
炎が失笑する。
「お前、戦より暁さまかよ」
「あの泉主のこととなると容易に
「気にしすぎだ。歳が近いから仲良くなっただけだろう」
いやいや、と丹の言葉を炎が遮った。
「あの年頃はいちばん多感さ。もういいとこまで行ってるかも。しかし、まあ領内にいる限り滅多なことはないし、相手は泉主だ。暁さまもそれは分かってるさ。口出さずに見守ってやれよ」
はあ、と珥懿は憂う溜息をつく。
「……お前たち、このあと少し付き合え」
「なんだ?酒か?」
「動かずにいては息が詰まる。
「……はぁ?まさか今から稽古か?」
炎が気だるそうに言ったが、珥懿は彼を
「お前、最近太ってきたろう」
慌てて起き上がると丹が声を立てて爆笑した。
「冬だからといって油断したな。一本つけてやる」
「本気か……受けて立つぜ。
「紅珥に勝ったことないだろう、お前」
丹がまだ肩を震わせながら言う。珥懿はやっと笑みを見せた。
「二人でかかってこい。鍛えねば腕が落ちるからな」
「余裕なのは今のうちだ。今年の俺は一味違うぜ」
二人はせせら笑う。
「脂が乗って
なにを、と立ち上がった。「そこまで
ひとしきり言い合ったあとで、三人は稽古場へと繰り出したのだった。
そう思い、深く溜息をついた。聞き咎めて珥懿が眉を上げる。
「一人前に溜息なぞつくな」
「それは横暴です。私だって悩むことがあるのです。というか、いつも悩んでいる」
「悩みすぎて一歩も動けぬのであろうが」
意地悪く言われて沙爽は小童のように頬を膨らませた。
合議の
「
骸骨に皮を張りつけたような痩せぎすの女が大卓に置かれた地図に石を置く。
「もう間もなく二泉本隊が霧を抜ける。総勢五万と少し、気になったのは大きな荷台を連れていることだ」
「荷台?
「四角く板で閉じられた荷台だ。それが複数。補給であれば囲う必要などない。あれのせいで雪道に足が取られ、進軍が遅れたのだと思う」
「中は確認できたか、
問われて女は首を振った。「分からないが、こちらにとって良いものではないだろう」
珥懿が視線を巡らせた。
「四泉のほうは」
「
「二泉の各州の斥候から連絡が途絶えているな、
蘭逸が唸る。「全てではないですが、今までこのようなことはありませんでした。蘭檗からはいつも通りに」
そうか、と珥懿は図面に目を戻す。あの、と沙爽がおずおずと口を開いた。
「言いそびれていて申し訳ないが。四泉朝廷は牙族と連携を組むことには同意したのだが、私一人だけをこちらに逗留させているままはやはり許されないということで、牙領の直近州から改めて使者兼私の副官を寄越すと」
暎景と茅巻はあくまで沙爽の護衛にすぎず、表立って
「流石です」
「しかし北路にも二泉の者がいたのだろう?辿り着く前に消されるかもしれんな」
いまだ北では二泉の斥候を確認できないでいた。沙爽は頷く。
「それはもう賭けるしかないでしょう。使者のために兵力を割くわけにもいかない」
「ご理解に感謝する。どのみち
「取り纏めには誰を?」
万騎の派遣には
「
おや、と意外そうに見返した。
「指示に物理的距離があるゆえ、万騎と上手くやれて
「構いませんが、私の軍の指揮は誰が?」
「適当な者を」
「して、どの万騎を?」
「
高竺は頷いた。万騎は基本的に奔放で短気な者が多い。ゆえに指示が遅れると痺れを切らして勝手をしかねない。驤之は万騎の中ではわりあいに柔軟な万騎長、しかし戦いにおいては苛烈な隊だ。
「こちらの二泉軍を叩くのはやはり先に
「奇襲のみで使う。
たとえ人を喰らうことを禁じてはいても、殺めれば多少なりと血を味わってしまう。上限を超えてそれが続くと先日のようになる。どの時点で錯乱状態に
「城内に一万、城壁と街区の郭壁に守備三万を残す。
皆が頷く。珥懿は沙爽へ向いた。
「泉主には城で作戦の采配と全体陣形の把握に努めていただく」
「たしかに私は役には立たないが、何もせずに見ていろと?」
「心配せずとも伴當も残す。二泉がこの後どのように動くかを予想し策を立案するのも後方の役目だ」
「牙公はどうするのです」
珥懿は腕を組んだ。「泉国と違い、我々は元首が先陣を切るのでな。戦っているときにその後のことは考えていられない」
そんな、と沙爽は愕然とした。
「真っ先に飛び込んでゆくと?牙公を失えばどうなるか分かっていますよね?」
「当主が先んじれば指揮に混乱が起きず即時応能が早い。士気も上がる。死ぬことを前提に戦を起こしはしない」
「……では、私も」
珥懿は面倒そうに手を振った。「お前に何ができる。ここは泉国ではないのだ。お前が守るべき民はいないし、二泉に殺されては最悪の事態になる。
牙族の面々も同意する。でも、と言いかけて口を
「果敢になるのは本国で敵と剣を交える時にとっておけ」
沙爽は折をみて早々に四泉に戻らなければならない。戻る頃には戦が終わっているよう願うが、そうもいかないだろう。
「……分かりました」
「我らとて、この戦は泉国との初めての戦だ。不備不安はあろうが壁内に一歩たりとも二泉軍を侵入させるな。我らはこの地を
若い主は立ち上がった。
「必ず民を守り抜け。それこそが兵の務めだ」
臣下たちが一斉に
「沙爽。まだ事は始まってもいない。今のうちにあらゆる覚悟をしておけ」
「あらゆる覚悟……」
「盟文には記したな?たとえお前が死んだとしても、牙族には必ず
「はい」
「しかしその約、まこと
黒い瞳が逡巡を許さない。沙爽は唇を引き結んで見上げた。
「……盟約通りに、私は誓う。私は決して牙族を裏切らない。撫羊と二泉を撃退し、約束を果たすまでこの
沙爽も立ち上がった。
「同盟を交わした今、四泉の民も牙族の民も等しく私の民だ。牙公とてそれは例外ではないのです。勝手に死ぬのは許しません」
珥懿は絶世の美貌で口端を上げた。
「言うではないか。
とうとう始まるのだ、戦が。沙爽は悪寒に震えた。義兄たちの争いとは比べられないほどの人が死ぬ。自分がその渦中にいるなんて、想像したことさえなかったというのに。
まだ陽も昇らないうちに、四泉へ向けて先遣軍万騎八百が旅立った。城内で見送った沙爽は一睡も出来ず朝を迎えており、見かねた歓慧が心配そうに声をかけた。
「大丈夫でございますか?」
「ああ。ただの寝不足だ」
暎景と茅巻も顔を見合わせる。沙爽は眉間を揉みながら茶を啜った。
「泉主。なにも気に病むことはありません。四泉ではいまだ
暎景の言に茅巻も頷く。沙爽は歓慧に問うた。
「歓慧どのも戦いに出るのか?」
「私は
内心ほっと胸を撫で下ろした。
「そうか。しかし、城は敵の正面だ。危険ではないか」
「皆が戦っているときに隠れてはいられません」
「それはそうだが」
「大丈夫です。当主がお出ましになるのです。甕城さえ落ちません」
「牙族は当主への信頼が
「掟を犯した同族にさえ果断な罰を厭わない方です。まして他国の敵に
言った顔はどことなく
「むしろ逆かも……」
「逆?」
力無く微笑した。訊き返しには答えず、給仕を続ける。そんな彼女に沙爽もそれ以上は問えず、石のように感じる
奇襲は明日の明朝に行われる。沙爽は
壁は城を二重に囲っているが、城裏で大きく建物の外縁を離れて迂回し、街の郭壁に接続している。その広大な裏庭には城壁外と同じく牧草地と軒を連ねた
「出撃に使うのはこれだ」
独特のにおいが立ち込める中で珥懿が馬房の一頭を見上げた。沙爽は呆然と立ち竦む。
「これを……操ると?」
「なんだ、
軽快な足音が聞こえ、侈犧と徼火が現れた。
「てっきり、普通の馬だと……」
巨大な
侈犧が一頭を房から
「四泉へもこれで遠征する。四泉主にも乗り方を覚えてもらうぞ」
「これで⁉」
「馬よりは幅を取るが持久力も速さも劣らないし多少矢が当たっても皮膚が硬いからびくともしない」
「しかし、これはどこに
徼火がくすくすと笑った。
「野牛に鞍なんてつけないのよ」
「裸馬ならぬ裸牛で乗る。最初のうちは
侈犧に笑って言われ
「もしや、歓慧どのも乗れるのか?」
問えばにっこりと笑う。「城仕えの者は大抵乗る訓練を受けますから」
こんなものにどうやって、と途方に暮れる。
「猋と違って流石に手綱は着けるがな。
「……これだけで人を殺せそうだ」
暎景が腕を組んだ。侈犧が頷く。
「実際、これに突っ込んで来られたらひとたまりもねぇさ。敵を蹴散らすにはもってこいだが図体がでかい分、馬より小回りはきかねぇよ」
「俺は他泉に行ったことがあるが、こんな獣初めて見たぞ」
「牙族が代々
沙爽に与えられたのは若いもので、他の野牛より一回り小さかった。まだ名がついていないという。
「はじめは野牛も嫌がって暴れるから、振り落とされないようにな」
侈犧はそう脅したが、馬と同じくよほど性格に難のあるものでないかぎり、振り落としたり蹴られたりすることはなかった。ただ振動が凄まじい。背ではなく肩に乗っているわけで、当然前肢を動かす度に筋肉が隆起して体に相当の刺激がかかった。
「これが牙族の
辛抱強い茅巻でさえ途中で音を上げるほど、言われたとおり臀が燃えるように熱くなった。血が出ているのではないかとさえ疑う。
「猋より難しいではないですか」
沙爽が不満を漏らすと、何を言っている、と珥懿が面の下で呆れた。
「たまたま
「泉主だめです、こやつらには何を言っても我らが軟弱扱いされるだけです」
暎景が悪態をつきながら臀を
「四泉に帰るまで馴れておけば良いのです。そう焦らずとも」
「だがいつでも乗れるようになっておかなければ」
沙爽は立ち上がる。節々を庇って変な体勢だ。真面目だねぇ、と侈犧と徼火が声を上げて笑った。
万騎の侈犧と徼火がいると場が明るくなる。朝には憂鬱そうにしていた沙爽も、しばらく共にいて落ち着きを取り戻したようだった。
珥懿はまだ野牛を馴らしている彼らを見渡し、ふいと城内へと足を向けた。しばらくして背後で呼びかける声がある。
「姉上」
こっそりついてきた妹が袖を引いた。
「まだあれらといて良かったのだぞ」
頭を振ったのに珥懿は優しげな眼差しで首を傾げた。
「どうした」
「……また、人が死ぬのですね」
「仲間を殺すよりましだ」
螺旋階段を登りながら面を外す。
「今からでも
歓慧はまたかぶりを振り、不安そうに見上げた。
「姉上も分かるでしょう。この嫌な感じ。とても良くないことが起こる気がします」
珥懿は見つめてくる瞳から顔を逸らした。
「……死なないで」
「お前を置き去りにして死んだりするものか」
再び笑んでその頭を撫でる。歓慧は抱きつき珥懿の腕の中に
「姉上は、心の底では
頭上で息をつく気配。「お前は母親に似て心配性だな」
「そんなこと、覚えておりません」
いじけたように唇を突き出した妹の背を軽く叩いて離すと、珥懿は不敵に笑った。
「明日の支度もお前に任せるぞ。動きやすく、美しくしてくれ」
お任せください、と歓慧は大きく顎を引いた。
東の平原、
奇襲部隊は猋七十余を全て投入する。首将は
奇襲であるからして活雷は密やかに猋の上から珥懿、そして義兄を見下ろした。
「俺の勇姿をとくと見ておけよ、
「やらんわ」
斂文が苦笑する。
「さあ、どうしてくれるかな。考えてもいいぞ」
「当主。悪い冗談はやめてください」
「二言はありませんね?約束ですよ」
活雷は無邪気に目を輝かせる。弱冠十八、まだ幼い。
「
活雷たち奇襲隊が境界に向かって音もなく滑走するがごとく離れてゆく。珥懿は脇に控える斂文を見上げた。
「済まないな、活雷に先駆けを任せて」
「問題ありません。功を立てたがっていたのはあれですし。……我らも準備を」
促したのに頷き、珥懿は
時経たずして東の境界は
見送りのために外に出た沙爽は兵らを見渡す。珥懿は長い髪を結って頭に巻きつけ、いつものような半面を着けていたが、目のまわりはより大きく
駆け登るように野牛に飛び乗る。
「――――時は来た。この戦いは牙族最初にして最後の戦いだ。我らが泉を持たないのをいいことに、
沙爽は自分でも気がつかないうちに冷や汗をかいていた。珥懿は笑っていた。上向いた口角、その薄い唇の間から白い歯が見えるほどに満面の笑みだった。まるで待ちわびていたかのよう、緊張もしておらず思い詰めた様子もない。こんな状況で、面を被っていてなお、沙爽が今まで見た珥懿の
――――私が盟約したのは本当に人だったのだろうか。
もしかすると、死を呼ぶ神にでも
珥懿は先頭を切って野牛を突進させる。他の者が後に続いた。大きな地響きを立てながら群れが横並びに平原を一直線に進んでゆく。さながら稲穂に広がる風の波紋。突進する彼らに、光が射した。
城門を閉ざし、開廊に上がった沙爽と歓慧は珥懿をすぐに見つけた。
「当主、楽しそうですね」
全速力で野牛を駆ける傍ら、配下に言われ珥懿は高らかに笑い声を立てた。うら若い乙女の無垢と鬼神の
「
野牛の角で突き上げられた眼前の敵が宙を舞った。何が起こったのかさえ分からず、呆然とした顔が
「当主。あまりはしゃいでは示しがつきませんよ」
後ろを走っていた
野牛の速度を少し緩め、声を張る。
「猋を
呼ばれた
(見ていないのにどこに飛んでくるか言い当てた……)
丞必が
「まだいるぞ!油断するな!」
境界は先日火を放たれて
「なんということを」
斂文が正視に耐えかね炭灰となった亡骸から顔を逸らした。珥懿が振り向く。
「敗残兵を追えるところまで追う。すでに本隊が近くまで来ているはずだ。強襲出来そうならそのまま叩く」
進めと叫んだ声に呼応して一気に谷道を抜ける。狭い
「上だ!」
「わたくしが!」
言ったのは若い女。駆けながら矢をつがえるとまず霧の中を見え隠れする螻羊の動きを止め、反動で転がり落ちた人の頭を即座に放ったもう一本で射抜いた。
「見事」
丞必が親族を
逃げ遅れた先鋒隊はあらかた排除し、崖を抜けると道は少し開ける。幅なりに広がった牙族軍はふと野牛の歩みを止めた珥懿に従って停止した。
「どうされました。二泉本隊はもう近くまで来ているはずです。動きのままならない不能渡を今のうちに一網打尽にすべきです」
応えず後ろを振り返る。
「……
呼ばわった声に群れの中から男が進み出た。鈴榴
「お呼びでしょうか、当主」
「お前は本隊の姿を見たな?」
「はい」
「どのくらい近くで見た」
「あまり近づくと察知されますのでそれほど近距離では。螻羊と馬に乗った騎馬隊と歩兵、それに木箱を乗せた
珥懿は大釤を担ぎなおした。前方を見据えて動かない。
「不能渡が由毒に冒されている様をしかと見たのか。肩を組んだり、馬に二人乗っていた様子は。荷台に人が寝ていたりしたか」
窊梨は思い起こし宙を見据える。
「……いえ、そういうことは。歩みは遅いとは感じましたが。たまたま見た時は不能渡も歩いていたのかもしれません」
「そもそも集められたのは二泉
「はい。しかし一番近くの
「……そうか」
「何か気になさることが?」
問うた丞必にも無言で空を仰ぐ。陽は完全に昇っていたが、霧の紫雲で遮られている。
「くさいな」
やがて呟いた。丞必は意識を鼻に向ける。こちらが風上で良くわからないから、主はおそらく、においではなく気配を感じ取ったのだろう。
「斥候を出す。螻羊もかなり逃げられた。この先の谷の様子を探る」
斥候が二人先に出る。いくらも経たないうちに一人だけ戻ってきた。
「だめです、螻羊隊の残兵が崖の上に隠れています。谷に入れば矢の雨です」
珥懿は目を
「また閑地に布陣を許すのですか」
「これ以上道が狭くて野牛を
「いま攻め入れば完全に撃退できる可能性もあるのでは」
「どのみち弓隊が待ち構えている。いたずらに兵を失いたくはない」
「しかし」
言い募った配下に珥懿は顔を向けて黙らせた。反転した主に従い、群れは領地に戻った。
「牙族軍、引き返して領地に帰っていきます」
小高い岩山の上で少年が主に告げた。主は舌打ちする。
「やはり一筋縄ではいかないか」
計画通りにゆけば、牙族軍を峡谷までおびき出して頭上から攻撃し、退路を絶ち、進軍する本軍と敗残の螻羊隊で挟撃して壊滅させる算段だった。
「数はどんな具合だ?」
少年が手で目を囲う。「こちらより少ないです」
ふん、と男は腕を組む。
「やはり目鼻か耳を潰さねば無理か……」
噂には聞いていたが恐ろしく鋭い者たちのようだ。男は崖から下りて兵に告げた。
「本軍に予定通り用心しつつ進むと伝えよ。なんとか由霧を抜けるのだ」
そして岩棚に
「牙族の手の内を明かせば命までは取らないと約束しよう」
先ほど捕らえた牙兵の斥候だった。男の言にただ睨み返したまま。
「えらく若いな。牙族は短命と聞くが、まだ
同じく崖を降り下ってきた少年が若者を覗き込み、形相に怯えた主の背に隠れた。
「こんな若人を殺すのはしのびないが。よし、ひとつ使ってみるか」
少年は睨むことをやめない。
「お前が信義を誓う牙族がどの程度のものか確かめてみよう」
二泉軍はそのまま侵攻したが、やはり考えることは同じで峡谷で牙族による矢雨の攻撃を受けた。しかし用意していた螻羊によって散らすことに成功する。螻羊は針のような山も易々と登るからかなり有用だった。奇襲で半分失われたのが惜しまれる。
「いいか、やれるな?
渾、と呼んだ劉施が心配そうに兄弟を見る。劉渾は硬い表情で頷くと馬を蹴った。もう一方の馬も連れて行く。こちらには捕らえた少年が意識なく括られていた。
馬はひた走り、境界の焼け跡までやってきた。そこで劉渾はもう一方の馬を引き寄せ、意識のない捕縛者を引き揚げて短剣をかざしながら声を張った。
「使者である!我らが将たる
劉渾は自分が飛矢で落命しても人質を殺せるよう、切っ先を轡に挟み込んだ。体重を掛ければ
はっ、と気がついた時には、いつの間にか五、六人の牙兵が音もなく劉渾を取り囲んでいた。距離はあるが顔が見えるほどに近い。しかし仮面を被っていた。
「言伝とは?」
どこからか、至極冷静な声がした。
「四泉主を渡し、武装を解け。
「貴殿の命も風前の
八方から矢弦を引き絞る音が聞こえた。劉渾は気丈に笑った。
「我が帰還せぬ時は問答無用で二泉五万兵が牙領に攻め入る!」
「四泉主を渡さばなおのこと攻め入り
「それが牙族の答えか」
正面の男が片手を挙げた。「このような年端もゆかぬ者を使者に立てる、その二泉の卑劣さには呆れ果てて物も言えない……済まないな、
手が降ろされた。一瞬ののちに体じゅうに来た衝撃に劉渾は息を詰めた。最後の力で剣を固定した腕に力を入れたが、ふと見るとそこにあるはずの腕は無かった。どうして、と疑問を浮かべながら、意識は己の血にまみれて暗幕に消えていった。
林の奥から猋に乗った主が姿を見せた。
「
「しかし、敵兵です」
「まだ
珥懿は馬から下ろされて配下に囲まれた斥候に目を向けた。
「どうだ」
問われて一人が首を振る。珥懿も近づき、傍らに片膝をつくと目を閉じた。生気は感じなかったからそうだろうとは思っていた。
「よく帰った」
周囲から押し殺した
「こいつは知っていたのでしょうか。
「知っていて来たのなら大したものだ。しかしあの様子を見ると」
「……なんと、汚い」
唯真は吐き捨てた。怒りに震えた
「西伐将軍とやらは我らを試したのだ。そして使者が殺されるだろうことも分かっていた……けがらわしい挑発だ。これで二泉を叩きのめすのにますます遠慮がなくなった」
手を置かれ、唯真は自分よりひと回り以上も若い主を振り仰ぐ。
「辛いことをさせた。お前は子供が好きなのに」
「いえ、敵に憐れみなど不要です」
珥懿は黙って頷いた。
「二泉を
兵が戻ると同時に、東の大庭にも
城に入るとすぐさま駆け寄ってきた影が二つ。ひとつは歓慧で、心配そうに
「首尾は」
「一日もすれば本軍が来る。蹴散らした敗残兵も、夜にかけて攻め入って来るならば我々も夜戦に移るが、おそらく今日は攻めてこないだろう。歓慧、猋の様子はどうだ」
「今のところは落ち着いています」
猋がもっと使えたなら、と珥懿は内心で憂えた。
「……牙公は戦に馴れているのか」
近寄るのを恐れるように沙爽は距離を取っていた。珥懿は面を外す。
「馴れているわけではない。が、いつもは図面の上で頭を巡らせているのが実際に自ら駒となって動いている、それだけに過ぎない。相手の動きもこちらの練度もほぼ想定通りだ」
そうではなく、と沙爽は首を振った。
「……人を斬ることを
「今更そんなことをほざいているのか貴様は。呆れて問答する気もないわ」
闇のように
「怖いならば見なければいい。お前は泉主だ。自ら手を汚す必要はない。しかし前線に出ている兵を侮辱する言は控えてもらいたい。その甘さが罪もない民を無駄に失わせ、兵の士気を下げる」
冷たくあしらい、俯いた沙爽の横を通り過ぎた。歓慧は少し悲しそうに見てきたが、珥懿に
入れ違うようにして暎景と茅巻が駆け寄ってきた。
「泉主。ここにいらっしゃったか」
「暎景。私は……どこにいても無力だな」
「何を言っているのです。謙虚も度を越すと卑屈ですよ」
「しかし、こうしてなにもしないでいると泉主の気持ちも分からなくもないですな」
茅巻が溜息をついた。二人が命を懸けるものは沙爽だから戦には参加しない。それに牙族自体も二人が加勢することは許さないだろうと思われた。そういうわけで沙爽が
茅巻に四泉の状況を問うたが、こちらも今のところ動きは無い。撫羊は穫司内で次戦に備えており、
沙爽は吹き抜けの
「甘い、か……」
だって、戦など分からない。したことなどない。人の死に立ち会った経験はあるが、それはどれもいわゆる平和的な死であり、故意に命を奪われた人を間近で見る機会など皆無だった。
父の
死は
かといって人を殺めてみたいとか、そういう気持ちには絶対になれない。だからせめて、自分で自分を守れたのなら、要らぬ損害を出さずに済む。そう思い至り顔を上げる。暎景と茅巻を見比べた。この二人は泉主大事できっと
だれか適当な――そう考え、思い浮かんだ顔に内心膝を叩いた。あの者ならば。
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