十六章



 初戦から八日経った。境界に到着した二泉軍は閑地に不能渡わたれずを優先して布陣させ、入りきらなかった残りは来た道に沿って天幕を張り、時折交替しているようだった。いずれにせよ由霧の中に続けて滞在すると体は少しずつ弱っていくはずだ。


 しかし予想外にも全く動けずにいる不能渡はほぼいなかった。国境を越えてひと月は経っているはずなのに重篤者がいないのは奇妙だ。加えて珥懿が先鋒隊に感じたあの空虚感は健在で、それは閑地に寝泊まりする者に多かった。


 二泉としては不能渡が毒で動けなくなる前に事態を動かしたいだろうと思われたが、領門から平原まで積まれたおびただしい数の障害物に閉口したように動きを止めた。

 結果として戦場は狭い範囲での攻防になる予想がなされ、牙族としては籠城して時間を稼ぐ合間に少しでも不能渡が減るのに賭けていた。長引けば猋を使えるようになる。奇襲隊によれば先鋒隊螻羊ろうようの騎馬隊はさほど強くもない雑兵、もとは寄せ集めの歩兵ではと活雷は分析した。





 歓慧は隔扇とびらを開けた。珥懿は自房じしつ灌鳥文しらせに目を通していた。

「あの阿呆は剣術指南を受けているらしいな」

 歓慧は脇台に茶器を置く。

「言葉が過ぎます」

「よもや自分も戦に出たいと言い出すのではないだろうな?」

「それはないと思います。ただ鼎添ていてんさまは自分にできることがないのでもどかしいのです」

 珥懿は紙面から目を上げずに、だが、と呆れた。

「よりによってあいつに稽古を頼むとは」

「あら、適任だと思いました。鼎添さまは人を見る目がありますもの」

「どうだかな。いつまで経ってもふわふわと覚束ない」

 くすりと笑った。「姉上も放っておけないのでしょう?」

「そういうわけではない」

 ぼそりと言ったのになおも笑いながら湯呑みを差し出した。

「ところで、なにか進展はありました?」

 頷き、紙束を火鉢に投げ入れる。

泡丘ほうきゅうから灌鳥かんちょうがあった。四泉の使者が通過したとな」

 歓慧は手を打ち合わせた。

「ではお迎えの準備をしなくては」

「しかし辿り着くかな。この間のように蜚牛ひぎゅうの賊が待ち構えているかもしれない。いまだ北はもぬけの殻だが」

「鼎添さまにお教えしても?」

「くれぐれも城外に出すなよ。ここであれが死んでは全てが無駄になる」

 長靠椅ながいすに脚を伸ばす。床に伏せていた嘉唱が甘えてすねおとがいを乗せた。重い、と言いつつぞんざいに頭を撫でながら、枕に頭を埋める。

「少し休む。何かあったら起こしてくれ」

護耳みみあては?」

「眠りすぎるからな。やめておく」

 でも、と歓慧は衾衣うわぎを掛けながら心配する。

「最近夜も着けてないですし」

「非常時だ。二泉がいつ攻めてくるとも限らない」

 歓慧は珥懿が護耳を着けなければ悪夢を見ることを知っている。母もそうだったと聞く。

「心配ない。何かあれば嘉唱が教えてくれる」

 もう既に寝入りかけの珥懿にくしゃりと頭を撫でられた。なおも心配顔のまま頷く。火鉢に炭を足し、そっと房室へやを辞した。


 珥懿は分かりやすい。危険がなければ嬰孩おさなごのように無防備に眠り、気のおけない者には表情豊かになる。臣下からの心象も概ね良い。忠誠については揺るぎない。手足である族兵には特に頼もしく鷹揚で人望があった。逆に機嫌の悪い時、諸国から訪れる客と話す時は驚くほど不遜に無遠慮になる。部外者が嫌いだという気配を隠しもしない。伴當はんとう僚班りょうはんはそれに慣れているから今更なにも思わないが、族民の中では――特に耆宿院きしゅくいんでは、先代と比べて輪をかけて気難しい当主として通っている。間違いではないが、素顔を知る者にとっては珥懿を庇いたくなる。良く言えばとても素直だから、沙爽に対する今の接し方も本意はどうなのか歓慧にはすぐに分かった。いち泉主に対しての態度としては懲罰ものだが。


「……もっと仲良くなさればよろしいのに」

 開廊の手摺てすりに凭れて見た遥か南東では、細々と煮炊きの煙が上がっているのが見て取れた。それをしばらく見、なんとなく鼻をひくつかせた。においなど、こちらに来るはずないけれど。



 そう思って自嘲しようとした瞬間、


 ぞわりと『何か』が鼻腔びくうに入ってきた。



 持っていた盆を取り落とす。体中の毛穴から一気に汗が噴き出してたまらずしゃがみ込んだ。喉元をり上がってくる強烈な吐き気をすんでのところで抑えて飲みくだす。



 ――何だ、このにおい。におい?そんなものなにも無い。


 ――これは、何だ?


 混乱した頭で欄干の間から閑地を凝視した。


 ――私はなぜ知っているの。



 これはにおいであってにおいなどではない。いていえば気。圧倒する強烈な存在感に歓慧は自分を抱いた。


「これは……」


 知っている。どくどくと鼓動が早鐘のように耳元で聞こえる。


(これは、そうだ……)


 揺れる視界で愕然と膝を見つめた。


(………なぜ、忘れていたの……)


 瞳を開いているのに、目の前に暗幕を降ろされたように深い絶望が己を飲み込んで何も見えなくなった。朦朧もうろうとして額に手を当てた時、近くで声がした。


「歓慧さま?」


 走り寄った影は少女のただならぬ様子に慌てた気配をさせた。ぼんやりと涙に濡れた目を向ける。何度か瞬くと、やっとにじんだ女の姿が見えた。

「……丞必」

「どうなさったのですか!ひどい汗です、薬師いしゃを呼びましょう」

 肩を抱かれ、歓慧は弱々しく首を振った。

「大丈夫。少し疲れただけ」

 丞必は眉尻を下げる。「当主の身支度に加え四泉主一行のお世話も一手に引き受けて。それみたことですか、体がちませんと申し上げたでしょう」

 丞必は軽々と歓慧を負ぶう。それで温かな背に縋った。

「お願い、姉上は呼ばないで……」

「しかしですね、こんなになっていては。ろくに眠ってもいないのでしょう?」

「姉上には、心配したまま出陣してほしくないの……」

 歓慧さま、と丞必が困ったように言うと、その背でいやいやをするように額を当てこすった。

「……分かりました、当主にはしばらく黙っておきますから。その分きちんとてもらいますよ」





 四泉の使者が到着したのはしらせがあった翌日、早晩のことだった。


 旅装のまま通された狭い小房こべやで、青年は儀礼通りに頭を床につけた。

「よく来てくれた」

 沙爽がほっとして呼びかける。青年は頭を上げず、定石どおりの挨拶の言葉を連ねた。

「顔を上げてくれ。本当に、よく無事で。名乗ってもらえないか」

 重ねて言うと、ようやくゆっくりと顔を上げた。珥懿と同じくらいの年恰好、涼やかな目許をしている。表情のないかおが沙爽の膝あたりを見据えてそれ以上は上に行かない。


「泉帝陛下のご尊顔を拝し奉る光栄に浴し、重ね重ね恭悦の極みに存じます。瀧州都水台ろうしゅうとすいだい水司空長すいしくうちょう寧緯ねいいと申します」

「名は」

燕麦えんばくと」

「燕麦。重ねて礼を言う。二泉の急襲の危険もあるなか、はるばるよく来てくれた」

 燕麦はにこりともせずに再び叩頭こうとうした。

「泉主をおたすけするよう、大司空だいしくうさまより直々の拝命、身命を賭してお仕えすることを誓約申し上げます」

 続いて主の隣に座す仮面の人影にも拱手きょうしゅした。

「牙族族主においてもご機嫌麗しく。同盟調印はすでに全国に布告されました。せつ心緒しんちょはともかく、泉主と同列に尊崇致します」

 燕麦は沙爽に見せた恭しさとは相反した面持ちでひたと族主を見据えた。珥懿が何か言う前に沙爽が口を開いた。

「いささか無礼ではないか。なにか含むところのあるような言い方だ」

 燕麦はそれ以上何も言わずただ目を伏せ、珥懿は意地悪げにわらう。

西戎ばんぞくに頭を下げるのは嫌か。いい度胸だ。そうこなくてはな。沙爽、お前よりは頭が良さそうだ」

「心外です」

 沙爽は燕麦に向き直った。

「使者が都水台とは具合が良い。これも大司空の計らいだな」

「小官のような者が使者として派遣されたのは瀧州の高位官の中で適当な由歩がいなかったからにすぎません。しかし、そうですね、できれば都水台からというお話でした」


 都水台は諸卿しょけいには属さない独立機関だ。都水台は禁苑である上霖苑しょうりんえんの管理をはじめ泉畿せんき、各州の泉全ての運営をつかさどる。命の源である泉の貯水や清掃、灌漑疏水かんがいそすい、護岸工事を主導し、これを他府と連携して行った。毎日水を使う民とは特に密接な関わりがあり重んじられる。ゆえに権力が集まりやすい。為に、独断で行える裁定権は少なく、基本的に国政に直接関与出来ない。通常は貯水ひとつとっても大司空の允許いんきょが必要な場合が多かった。

 しかしそうなると急の施策に対応が難しくなる。地方の州と泉畿では距離があるのに加え、水質も各地で微妙に異なるから、一律の施行は難しい。それを解消するために用いられる伝令には都水台のみで使う特別な聖獣を使った。これを水虎すいこという。牙族の使う灌鳥と同等に駿足だが、主泉を同じくした泉川間でしか移動できない。

 水虎の遊猟、また通行における故意の妨害は重罪に定められており傷、屠殺とさつの最高刑は死罪である。泉柱にも水虎に関する記述があるために、戦中においてもそれは適用される絶対不可侵の掟だった。


「泉の様子は?」

「とりあえずはつつが無く。ただ、公主さまのおわします穫司から繋がる川の流れが狭められておりますゆえ、瀧州含む以南の民に不便が広がっております」

 沙爽は頷く。「やはり籠城の為に貯水に重きを置いているということだな」

「はい。穫司泉の水位も下がっていると。曾侭において堤をお造りになっておられると聞き及びますが、そちらは何か動かしておいでなのですか」

 沙爽はちらりと珥懿を見た。「先日帰泉のおりに三公を通して指示を出した。そろそろ状況は動くだろう」

 珥懿は見返す。牙族は今のところその情報を得ていなかった。沙爽は痛ましく微笑する。

「牙公から授けて頂いた智恵を使いました」

「ほう」

 面白そうに頬杖をつく。

「さて、梼昧とうまいの汚名を挽回できるほどか。見ものだな」

 燕麦が硬い表情のなかに憤然とした顔をみせた。泉主を馬鹿呼ばわりするとは、ありえない。沙爽本人が慌ててとりなした。

「とにかく、無事に着いて安心した。今日はゆっくり休んでほしい」

 新たな麾下きかはもう一度平伏すると牙族の案内に従って小房を辞した。


「……どう思いますか」

 影が扉の向こう側に行ってしまったあとで珥懿に問う。そちらはつまらなさそうに燕麦の持ってきた書状を眺めている。

「はずれだ。少なくとも二泉の間者ではない」

 安堵して頷いた。「良かった」

「私がお前をあなどった時の顔を見たか。あれで確信した」

「私はもっと怒るべきなのでしょうね」

「しかし悪い意味で正直な奴だ。私がもう少し気難しかったら礼を欠かれた時点で斬って捨てていたぞ」

「それは私も驚きました。お詫び申し上げます」

「お前の詫びなどなんの腹の足しになる」

 立ち上がったのを沙爽は見上げる。

「燕麦を軍議に入れても?」

「水司空なのだろう?まあ多少なりと使うことは出来そうだ」


 水司空とは水工における人夫にんぷの手配、管理を司る。人夫とはつまり労役を課された徒刑囚ざいにんのことだ。


「数の扱いには慣れているだろう」

「戦と泉の工事は全く別物だと思いますが」

「駒を動かさねばならない点は同じだ。役立たずに食わせる飯はない」


 手を振って出ていくのを見送り、沙爽も立ち上がった。控えていた僕二人も後に続こうとして、主の言に立ち止まる。

「私は今から稽古をしてくる。二人は休んでいてくれ」

「なりません。一人の時に何かあっては目も当てられません」

「でも、相手をしてくれるわけではないだろう?」

 暎景と茅巻は苦吟くぎんして顔を見合わせた。

「それでもせめてどちらかはお連れください」

 分かった、と沙爽は息をつく。自分が稽古をしている間に、野牛に乗る練習でもしておいてくれればいいのに。そう心で呟き、ふと思い至った。二人とも沙爽が物心つくときにはすでに側にいた。側にいたということは間諜として、虎賁こほんとしての任が務まっていたということだ。それなりの能力がなければそれは無理だ。

「……では、暎景。一緒に来てくれ」

 急にうきうきとした表情を浮かべた主に戸惑いつつ、暎景ははいと返した。茅巻も首を傾げる。機嫌よく階下に降りていくのに従い、暎景は茅巻と顔を見合わせながらも、あとを頼む、と言い残して後に続いた。





 かん、と小気味良い音が断続的に響いて城の石壁にこだまする。暎景が腕を組み凭れたところで、すぐ目の前で主が相手に押し負け尻餅をついた。隣でしゃがんでいた徼火が手を叩く。

「いい感じね」

 沙爽は悔しそうに正面を見上げた。

「踏ん張りが足りないみたいだ」

「素直すぎるんだ、お前は。もっと隙を突くように動かねぇと」

 破顔して木刀を担いだのは侈犧。侈犧は珥懿よりも背が高いから、沙爽とは身長差がかなりある。

「こう、上から振りかぶられて、受けきれないと思ったらな、流すか避けるかしたらいいんだ。なにも全部返そうと思わんでいい」

「でも最初よりだいぶ良くなったわよ。ね、暎景」

 気安く呼ぶな、と返すと徼火は肩を竦めた。


 侈犧たちは城内に入れない。しかし泉主を門外に出すわけにもいかないので、特別に二人だけ裏庭に入ることを許された。


「しかし、燕麦は入れたが」

「文官ひとりならどこぞの斥候でも寄ってたかってふんじばれるが、荒くれ三十ともなると危険だし誰が敵と内通してるやもしれないからな。万騎はんきは外の人間と関わることが多いし、用心に越したことはねぇのさ」

「そういうものか」

「派遣先で任務中以外はわりと好き勝手やってるからな、俺たちは。ひとつところの滞在が長いと、そのうち現地の女と恋仲になって辞める奴だっている」

「それは許されるのか?」

 徼火が楽しそうに牀台ねだいに寝転がった。

「万騎は十三翼じゅうさんよくと違って当主との契約関係で成り立ってるの。キリがいいところで抜けられるし、契約し直せばまた加わっていい。あくまでも傭兵だからね」

 沙爽は首を傾けた。「十三翼?」

 暎景が手巾てぬぐいを差し出しながら言を継ぐ。

「族主の私兵のことです。十三の軍に分かれている。こちらは泉軍と同じく主従関係で当主に忠義を尽くす者たちです。この間出陣したのは十三翼だったはず」

 徼火が笑う。「よく調べてるじゃない」

「馬鹿にするな。まあそういうわけですから、万騎はいわば当主にとって使い捨ての駒というわけです。通常泉国に派遣する兵は全て万騎です」

 おいおい、と侈犧が腰に手を当てた。

「ちと語弊があるぜそりゃ。たしかに当主は俺たちには雑さ。それがお互い楽だからな。だが万騎が真っ先に泉国に派遣されるのはそれで飯を食わせてもらってるからだ。万騎兵は田畑も耕さないし牛も飼わない。その代わり外貨を稼ぐ。それに、俺たちにだって忠はある。皆ここで育った奴らだ。一族には恩があるし領地くにを泉国から守ってやりたいと思ってる。でなきゃ、牙族の配下にはいねぇよ。今ごろどこぞの破落戸ごろつきになってるさ」

「役割か……」

 沙爽は俯いた。ふいに、以前歓慧が琴を演奏してくれた時の心情がよみがえった。

「私の役割とは何なのだろう」

 三人が顔を向ける。

「それはもちろん、まずはご無事に国へ帰ることです。爽さまなくして、四泉の平定はありえない」

 暎景に迷いなく答えられて苦笑した。

「それはそうだが。族軍が二泉と戦っているいま、私には何ができるかということだ」

「そう思ったから、俺に稽古をつけてくれと言ったのだろう?」

 侈犧が沙爽の頭を雑に撫でた。撫でられるまま、でも、とまたうなだれる。

「私には自ら人をあやめる覚悟がない。私は牙公に撫羊と決着をつけると約束した。だが自然と、撫羊を捕らえた後に申し開きを聴き、その上で断罪するのだと、そう思っていた」

 それは理想だ。しかしそれでは悠長すぎる。族軍と二泉の衝突を目の当たりにして考えを改めた。もしかすれば、乱戦の最中に撫羊を討たなければならない可能性もあるのだ。それも、自らの手で。

「もしその時が来たら、私は剣を振り下ろすことができるのだろうか。そう思うと、ひどく不安で……」

「そのようなこと、俺がさせません」

 目の前に膝をついた暎景は真剣な眼差しで見つめる。

「たとえ王族殺しの汚名を着ようとも、泉主の為ならこの暎景、沙琴さまが懺悔ざんげして命乞いしようとひと振りで首を落として御覧にいれます」

 主は泣きそうな顔をしてただ頭を振った。どういう意図なのかは測りかねたが、少なくとも彼が妹を討つと決断した今でも、ずっと罪悪感の呵責かしゃくに悩んでいることは窺い知れた。

 突然徼火が沙爽に抱きつく。「泉主はいい子ねぇ。暎景がこう言ってくれてるんだし、任せておけばいいんじゃない?」

 泉主から離れろ、と喚いているのに侈犧もにんまりと笑った。

「そうとなれば傭兵ごときに負けてはいられまいな?」

 放り投げられた木の棒を受け取り、暎景は顔をしかめる。沙爽が徼火の腕の中で憂いを引きずりながらも目を輝かせた。これが見たかったから先ほどから時機を見計らっていたのである。

「泉主、一戦よろしいですか」

「もちろんだ。暎景の剣技を見るのは久しぶりだ」

 侈犧と暎景は正対して木刀を構えた。静かに息を吐く。しんと静まり返った中、侈犧の動きに目を配りながら、暎景は頭の隅で遠き日の幼い沙爽を思い出していた。あのとき、自分は己を捧げると誓ったのだ。

 棒先を打ち合わせ、素早い動作で構えながら眉間に皺を寄せた。

(必ず、爽さまを玉座に据えてみせる)

 その為には、どんな犠牲を払おうとも。







 高竺率いる万騎八百が曾侭にいる四泉国軍と合流した。族領を出てから十三日経っていた。途上二泉軍と少しばかり交戦。万騎は最短距離を優先して穫司のすぐ側を通過したのである。二泉軍も瓉明軍も突如西から現れた野牛の群れに驚愕した。その噂は野火のように広がって門を閉ざした穫司の中にまで周知の事実となった。

 これを受けて二泉は京師兵けいしへい八軍十万のうち牙領攻めの兵と首都の防衛を除いた五万に加え、各州から集めた州軍六万、合わせて十一万の本軍を差し向ける決定を下した。泉帝自らの出征である。これには朝廷でもかなりの反発があったが、二泉主の独裁に馴らされた諸官では抑えることが出来なかった。一方、余州八州のうち、封領の桂州と南の二州、四泉と国境を接する二州は人員不足を理由に派兵に難色を示した。そもそも現二泉主が登極してからというもの、州の軍権は極端に縮小されて中央集権化が進んでいたため各州の軍備も軍兵もお飾り程度しかない。さらに南では特に泉の汚染が進んでおり年々人口が減って南部の民は賦税を納めるので精一杯の状況だった。この上、不足の兵を徴発する余裕が無かったのである。



 そして戦況は牙領と穫司、双方で動く。



 万騎八百が曾侭の四泉本軍と合流する前日、領地に続く閑地で動きがあった。二泉軍が突如領門を越えてきたのだ。駐屯して九日、阻塞そそくおので除き、道をひらいた真中に設置したくるま、布を被せたそれを外せば、甕城から雨のように降り注いでいた矢がぴたりと止んだ。



 紫の濃霧を抜けた騫在けんざいは屍累々の閑地に辿り着くと惨状に顔をしかめた。牙族は狻猊さんげいなる異形の獣を従わせ、使役するという。それは血を好み、火と煙を好む。狻猊とはそもそも大乱飢饉の災厄が起きた際に神出鬼没する妖の類として泉国では古来から嫌厭けんえんされる。まさか本当に牙族がその獣を御しているとは、騫在も実際にこうしてその被害を目の当たりにするまで半信半疑だった。歯型に四肢や頭が欠損した泉賤どれいの屍は焼け炭となり、その上に霜が降りていた。さらに爪で破き裂かれた先鋒隊の死骸が閑地のあちらこちらに散らばっている。少なからず刃物で斬られたものもあった。り倒されて焦げた切り株の上、劉施が悲鳴をあげて覆い被さった。兄弟の頭を掻き抱いてむせび泣くのを後目しりめに、騫在は首を巡らす。

「死体をどけて野営の準備だ。不能渡は由霧からなるたけ出ろ」

「将軍。不具合の者を閑地に優先させてもようございますか」

 問うたのは不能渡の将帥しょうすい。騫在は腕を組んだ。

「死にそうな奴はそのまま捨て置け。どのみち耐えられぬ。まだっている者を閑地に」

 はい、と従順に頭を下げた目はうつろでなんの情感も浮かんでいなかった。それを薄気味悪く思う。

(まったく、なんだってここまで)

 粛々と閑地に入ってくる不能渡たち――もと、と言ったほうが正しいかもしれない――を見渡した。皆一様に無表情、どこか夢現ゆめうつつの顔だ。たまにふらふらと酒に酔ったように隊列からはみ出た。実際のところ、先鋒三千のうち生粋の由歩はたかだか五百で、残りは全てこれらと同じように何らかによって由霧を渡れるようになった者たちだった。醸菫水じょうきんすいを服用してさえいない。なぜなのか、牙族討伐の長である自分は知らされていない。しかし騰伯でさえ詳しくは分からないようで、ただ首を振るだけだった。なんとも情けない。自分がここで功を立てればもしかしたらその地位になれるのではないか、と騫在は寸暇夢想する。騰伯は泉主が歳若い頃から仕えているから重んじられている。だがそれだけだ。あのように体も心も老いぼれてしまっては三公の一大司馬の名が泣く。これは自分の有能さを示す絶好の機会、泉外人の西戎せいじゅうならば躊躇も情けも不要だ。おなじ国民くにたみならいざ知らず。



 敵兵のむくろを積み上げて京観けいかんまがいの塚を築いてみたものの、こちらの兵の損害がかなり上回っていることが分かっただけだった。騫在は唸って領門の向こうに見える甕城を睨んだ。

「劉施はどこだ」

 あちらに、と配下が示した先、少年は自兵の遺体を集めて並べている脇でへたり込み、なおも斬首きりくびを抱いていた。

「劉施。いい加減にしなさい」

 泣き腫らした赤い瞳を主に向ける。

「劉渾は立派に務めを果たした。いい加減、弔ってやるのだ。お前も私の麾下きかなら、ここが戦地であることをわきまえなさい」

 まだ幼さの残る顔を悲しみで歪ませながら、膝の上の頭を撫でる。

「連れては帰れぬぞ。この閑地も数日すればまた交戦場になる」

「こんな山の中に置いていけとおっしゃるのですか」

「首があっただけましだと思うんだ。いまは悲しみに暮れている余裕はない。お前にはお前の務めがある。劉渾の仇を取りたいとは思わないのか。お前の目が必要なのだ、劉施。分かってくれるな?」

 劉施は鼻をすすり、小刀で斬首の髪をひと房削ぎ落とした。布で包んで胸元に収める。名を呼び、劉渾自身の胴の上にそっと頭を置いた。

 ――――牙族。兄を奪った憎き敵。


「絶対に許さない……」


 そう呟くと彼は振り切って駆け出した。







 閑地が動いたと報があり、沙爽は食べかけの朝餉あさげもそのままに慌てて広房ひろまに駆けつけた。すでに臣下たちと珥懿が大卓を囲んでいる。

「二泉軍が動いたと」

 言いながら腰を下ろし、隣をまじまじと見る。珥懿はその視線を無視し地図に集中して目を合わせない。

 長い髪は括っただけ、しかも拭き足りず湿っている。まるで睡衣ねまきかと思うくらい質素な綿の長衣で、いつものような珥飾かざりもしていなかった。少しばかり緩んで肌の見えたえり元が不特定多数の配下を幻惑していることなど歯牙にもかけていないだろう。


 ここ数日歓慧の体調が思わしくないらしく、姿を見ない。代わりの世話人は彼女がいる時のように甲斐甲斐しくはないからかく言う沙爽も牙族の着る平服ふだんぎを着まわしている。世話人は面をしていて落ち着かないし、食事や臥房ねまの準備を終えると一言も話さず去っていく。歓慧が世話好きなだけで、これが牙族の普通の接し方なのだろうと暎景たちとはそう納得していたが、やはり慣れ親しんだ者がいないというのは居心地が良くないものだった。

 ひょっとして、珥懿のことも歓慧が世話をしているのだろうか、とふと思ったがそれは無いと思い直す。歓慧は沙爽がここに滞在して以来、毎朝毎晩世話をしている。余人に仕えているゆとりはないだろう。

 彼女とはまだ話し足りない。早く良くなるといいのだが。一抹の淋しさに浸っていたが、呼びかけられて急速に現実へ引き戻された。


「沙爽、四泉への帰還は先延ばしだ。北路にも敵影が確認された」

「いつの間に。どのくらい」

「本軍から割いたな。泡丘ほうきゅうからの灌鳥が途絶えた。鳥がやられたか、監視のほうか」

「どうするつもりです」

「北は放っておいても迷路から抜けられるとは思えない。ただこちらから出るのは危険だ。南側を片付けてからでも間に合う」

 沙爽は図面を見た。「西に回り込まれたらどうします。砂丘側には耆宿院や土楼があるでしょう?危なくはないですか」

「それは心配ありません。谷がありますから」

 言ったのは珥懿の傍に控えていた妙齢の美人で見覚えがあった。暎景とやり合った者だ。

「谷?そんなもの、あっただろうか」

「北門のすぐ西側からは勾配の無い突兀とっこつの山肌があり、その両側は深い谷なのです。南西も同じように領門より西向こうには壁のような山と谷があり、街を守っているのです」


 足を掛ける突起もないのっぺりとしたその天然の壁は天衝壁てんしょうへきと呼ばれている。頂を見た者はおらず、ましてや越えたり登ったりすることの出来ない人知を超える要害である。牙族はそのわずかな隙間に街をつくっていた。そして、四泉との間の霧界むかいもおおよそ人が足を踏み入れて良いような場所ではない。針のような岩山と歪んだ奇岩が迷宮を成し、方位を狂わせる。だから泉国の客は北からの道を使えず、必ず東か南からやってくる。沙爽が牙領に北から帰って来た時に襲われたのは稀なことだったらしい。


「二泉各州からも灌鳥が絶えて久しい。泉畿のあみはまだ生きているが更に援軍が投入されているとしても実態数が掴めない。そこで二泉国境に近い四泉のまちの斥候を牙領に一番近い桂州とまい州に派遣する」

 珥懿が地図上に小石を二つ並べた。

「四泉との国境はまだ通れるのですか」


 崖都がいと瀑洛ばくらくと接する、撫羊が通ってきた街道は山脈を越えて果ては二泉泉畿と繋がる大街道で、そちらの道はすでに封鎖されていると聞いていた。


「埋州へ続くほうの道は通れそうなのです。埋州は鉄鉱石の産地、いまだ由歩の商人が多く行き来している。それに混じって関を抜けられます」

 空気を揺らす声で言ったのは老練そうな男で、胸まで伸ばした立派な髭があった。

「儂の家の者をつかわしましょう。不具であれば斥候だと疑われることもありますまい」

 意味が分からず沙爽は首を傾けてその男を見る。男は可笑おかしそうに指で瞼を押し広げてみせた。

「儂は目が見えんのです」

 驚いて見返した。「そうは見えないが」

 男の所作には不自由を感じない。

「そうでしょうとも。家は常人より何かが欠ける代わりにどこかしらの能力がかたよる者が多うございましてな。儂の耳の良さは当主と引けを取りません。なまじ目で映すより見えることもある」

烏曚うもう、誰を行かせる」

寿玄じゅげんにしましょう。四泉から戦禍を逃れてきたと体裁をつくれます」

 二泉泉畿からの報によれば二泉主が西伐に援軍を差配した様子はないという。しかし何より信頼できるのは実際に現地にいる者の言だ。

「では、二泉はそのように。して、こちらはどうなさいますか。二泉軍はすでに領門を越えて阻塞を壊しはじめています。甕城まで到達するには時間がかかるとは思いますが、平原でも火の手があがっております」

 斂文れんもんが新たな小石を卓上に置いて珥懿を見た。

「甕城の防御を最優先にする。弓弩兵は平原側にも配置しろ。射程距離まで近づけばって良い」

「承知致しました」

「門外の侈犧隊にも援護を要請する。しかし猋の使用もほりを越えての戦闘も許さない」

 沙爽は思わず声をあげる。「それでは、侈犧どのたちがいい的になるのでは。せめて壁に上げてはどうです」

「それはできかねます泉主。ただでさえ郭壁に城の守備をまわして手薄でありますのに万騎に二泉との内通者がいれば内から崩れます」

「それほど万騎は信用なりませんか」

 珥懿は片膝を立ててそれに顎を乗せた。

「万騎は傭兵、雇い雇われの関係だ。立場上は私と対等の関係に近い。忠義と信にあついとは言えないし、奔放な奴が多い。裏を返せばそれだけ自由にさせてこそ力を発揮できるのだ。とはいえ泉国と一番交流を持つ機会の多いのも事実、ゆえに隙も生まれやすい。僚班や族民と違って一族の縛りの意識が薄いから掟を軽んじるし、利益を重視して二泉の取引に応じている者がいる可能性も高い。もとより己らが矢面になるのはあれらも想定済みだ。それだけのものを報償として与えている。文句は言うまい」

 取り巻いた伴當たちが頷く。

「誤解しないようにあえて言うが」

 ぐい、と首を傾けて珥懿が覗き込んできた。思わず白い胸元に視線がいってしまい、沙爽は慌てて目を逸らす。

「お前は我らが万騎のことを使い捨てにしていると考えているようだが違うぞ。矢面に立たせても敵をね返すだけの技量と気概があると見込んでいるからこそ任せているのだ。敵に背を向けるような弱兵には万騎は務まらないからな」

 言っていることは分かったものの、沙爽は咀嚼できない思いを抱えたまま俯いた。

「沙爽、何も犠牲にせず何かを得ようとするのは貪汚たんおに過ぎる。その点は沙琴公主に見倣うべきだ」

「撫羊に……?」

「あれは自らの立場や命全てをしてお前に対立している。ただ単に二泉にそそのかされただけではあのように自ら出兵などしない。それに応えるにははぐらかさずに受けて立たねば収まらない。すでに公主は瓉明軍の将帥を見せしめにして覚悟を示した。無血融和はもはやありえない」

 沙爽は唇を噛みしめた。たしかに――そうだ。もう逃げてはいられない。撫羊が間違っていると示し、事態を早期に決着させなければ、その被害を真っ先にこうむるのは自分ではなく民なのだから。


 …………でも、と束の間、玉台の上の書面を見た。もし、間違っているのが撫羊ではなく自分だったら。撫羊を失ったあとにも、万が一、神勅がくだらなかったら。その時自分はこの戦の責任をどうやって取ればいいのだろう?




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