一章
竹を
牀榻の下、巨大な獣が
徐々に近づく軽快な足取りは臥房の前でぴたりと止まる。入口の
軽やかな足音はまず窓の簾を次々に揚げる。端に取り付けた組紐を引っ張ると、
光を浴びて獣は大
おはよう、と声を掛け、火鉢に炭を足す。四隅の燭台を灯した。陽が昇っても房内は暗い。ひとえに窓が小さいからだ。
少女はおもむろに牀榻に近づく。
「姉上、朝でございますよ」
はきはきとした明るい声に長い
起きてください、と少女はなおも揺する。牀榻に登り、被衾を取り上げたところで、いきなり手を掴まれた。『姉上』は寝顔のまま眉間に皺を寄せ、喉頭を上下させた。
「……冷たい」
起きがけの
「……お前はすぐに霜焼けができるから、気をつけなければ……」
いまだ
「あら、いけません。今日は大事な商談がおありなのでしょう?」
「……あとで
いけません、と少女は煙管盆ごと取り上げる。
「もうお湯を張ってます。これはお仕事が終わったら返してさしあげます」
結局、無念そうに肩を落として髪を掻き上げた。
後ろからついてきた妹に呼び掛ける。
「
わかりました、と歓慧は頷いたが、でも、と小首を傾げた。「お客様のお世話がありますし………」
「相も変わらず酔狂なことだ」
歓慧は照れつつも、少し申し訳なさそうに俯いた。
「好き勝手をして、ごめんなさい」
良い、と頭を撫でてやると嬉しげに微笑むのでいつも許してしまう。
歓慧はただひとりの妹であり、本来は客人の世話などするような身分の者ではない。しかし彼女がこうしてわずかな自由を駆使して生き生きとしている様は見ていて好ましかったし、不憫な出自ゆえの制約の多い暮らしの中で多少なりとも我儘を通してやりたいとも思っていた。もともと世話好きな性分も高じてか、各国から訪れる客人の世話をしたがったから、城仕えに混じって奉仕するのを
歓慧はくるくるとよく働く。料理に掃除、針仕事から
大人一人が脚を伸ばせるほどの大きさの板張りの浴槽には、なみなみと濁った湯が満ちている。草花を散らし漬け込んだ薬湯は湯気をもうもうと立ち昇らせて壁に結露をつくった。小さな湯殿は限られた者しか使わない。ぐるりと石で囲まれた壁、装飾的だが堅牢な鉄格子を
湯殿から出て隣の
「さ、出来ましたよ」
満足気な声に閉じていた瞼を開くと、鏡台に映る己の姿にはさほど頓着せず、いつものように礼を言う。そのまま二人で
餐庁に着くと、中には既に二人の人影があった。両人とも片膝を床につく。
「おはようございます。当主、ならびに歓慧さま」
柔らかだが芯の強そうな声は女のもので、歓慧は真っ先に挨拶を返した。当主と呼ばれたほうも軽く頷き、椅子に腰掛ける。再び立ち上がった二人は当主の腹心の臣下だ。
「今日はいつにも増してお
笑い含みに言ったのは男のほう。顎に
「初顔合わせの客がいらっしゃるので気合いが入りましたかな、歓慧さま」
ふふ、と歓慧は笑いながら
「当主がまるで見合いでもするかのような言はお控えなさいまし。……今日も大変お美しゅうございますよ」
当主はわずかに口角を上げる。「丞必に言われては立つ瀬が無いな」
わは、と高竺が
「本日は商談が立て込んでおりますゆえ、当主にもお出まし頂きたく。先方はすでに境界近くまで馬を進めております」
「数は」
「今のところ三騎確認しております」
当主は長い銀の箸をはしたなく鳴らして笑った。
「従者が二人だけ、か」
歓慧が首を傾げる。「初めての方ですよね」
「ええ。なんでも
「
当主はつまらなさそうに皿の山菜を端に避けたが歓慧が目ざとく発見し、頬を膨らませて裾を引っ張った。
「好き嫌いは駄目です」
叱られて苦虫を噛み潰したような顔をした主をちらりと笑い、高竺は腰に手を当てた。
「ま、当主もご存知のとおり四泉はごたついてますから、おおよその要求は予想できます。
大繁盛ではないか、と当主は湯呑みに口をつけた。
「昼には着いているだろう。早々に始めるぞ」
「なにかお急ぎで?」
まあな、と物足りなさげに頬杖をつく。耳璫がしゃなりと鳴った。
「早く終わらせて一服したい」
時刻は正午を少し過ぎ、少年ら三人は門の前で馬を下りた。
大人の背丈数人分はあろうかというほどの巨大な鉄門扉で、領門とは違い装飾類はまったく無い。中心に切れ目が見当たらないのを見るに落とし戸のよう、弓なりに手前に張り出した
三人が門前に佇んでいると、城堞からひょっこりと
「四泉泉主御一行とお見受けする」
馬が首を屈めて通れるくらいに開いて動きが止まり、一行は歩いて門を
「ようこそお越し下された。ご案内致す。ついていらっしゃれ」
なにかの獣を
厚みのある壁の幅を通り抜けると中庭のような場所に出る。四方をぐるりと壁で囲まれており、左にずれてさらに出入口と思しき内門があって、そこから出るとやっと
前方には一段高く、早朝に平野の向こうから見えた黒い城が居丈高に
息を切らして懸命に足を動かすものの、やはり意識が朦朧とする。途中、先を行く男が見かねて案内役に声をかけた。
「せめて主を馬に乗せて差し上げてもよろしいか。お体が優れないのだ」
案内役は振り向かずにならぬ、と冷たく言い放った。
「騎乗なさるのはこの先一切まかりなりませぬ」
「しかし」
言い募ろうとしたが案内役は首を振った。
「
「……
男が小馬鹿にしたように吐き捨てた。面の女はなんの反応も無い。
「……大丈夫です。行きましょう」
少年が息を切らして言うと、案内役は再び歩みを進め始めた。
巨大な城は周囲を同じ黒い石を積み重ねて築いた城壁で囲われているようだった。ようだった、というのは城壁の端が遠すぎて分からないからだ。おそらく
そして三人が案内されてくぐったのは正門ではなく幾つかある裏門のうちのひとつのようで、最初の入口の門とはうってかわって小さい。朱色の扉は既に開け放たれているが、人影はない。入ると城壁は十歩ほどの間隔をあけてさらにもうひとつ壁を築いてあった。こちらはあちこち崩れかけていたから、劣化が進んだので新しく壁を築いたのだろう。
二つ目の扉を通過しても、正確にはまだ城内ではないようだった。至るところに壁があり、建物がある。それら全てが同じような色と外観で、一行はすぐに自分たちがどう通って来たのか分からなくなった。
やがて辿り着いたのはやはり周囲を壁で囲まれたこぢんまりとした一棟だった。小さいながら
「こちらで少々お待ちを。お召し替えはして頂かず結構です」
「しかしこのような
埃と泥まみれの三人は揃って顔を見合わせる。面の女は感情の乏しい声ですぐに商談だ、と言った。
「すぐに?せめて身支度は整えるのが礼儀と思うが」
「当主は多忙ゆえあまりお時間がない。本日は初回ということで手間も取らぬでしょう。ほどなく
無機質な声で説明を終えると、音もなく去って行った。取り残された三人はともかくも馬を
入るなり少年は
「よう辛抱なされた」
外套を脱がし、旅装を解く。
「せめてしばしの休息くらいは時を取るべきであろうが」
「これが
従者二人は遣いの者に噛みついたが、猪のような面を着けた長身の男は意に介さずにお早く、と三人をせき立てた。
弱りきった主を支えながらしばらく歩き、ついに城内に入る。
薄暗く湿った石造りの廊下は天井が低く明かり取りの窓は小さく、自国の城とはかなり違った。すれ違う人もおらず、三人は堅牢な扉の一房に通された。
決して広くはない
「急かしたくせにいないではないか」
男の一人が苦々しく言う。遣いは床の
「泉主、大丈夫でございますか」
少年は崩れるように座ると震える手で額を押さえた。頭が割れるほど痛い。
(はやく、眠りたい)
疲労と由霧の影響でもはや意識を保つことさえ難しい。痛みとともに急激な睡魔が襲う。
突然、簾が下りた。三人は驚いて固まる。入口は背後のひとつだけ、開いた様子はなかったのに、中の座には既に人影がある。両端から仮面の従者が二人出てきた。
「……由霧にやられたか。
まろやかに低い良く通る声が響く。少年は霞む目で簾を凝視する。きらりと光るあれは簪だろうか。だとしたら、
彼ら、
ともかくも三人は頭を垂れる。
「牙族当主…とお見受け致します」
少年が掠れた声を吐き出した。左後ろに控えていた男は目を
香のおかげで余計に牙族族主の様子もよく分からない。もともと気配がしない上に、男女の区別もつかない。ひどい得体の知れなさを感じた。
「そちらは
含み笑う言に、従者二人は憤慨した。
「族主におかれては無礼が過ぎよう」
四泉の王、沙爽鼎添は
族主は鼻を鳴らした。
「お前は沙家の密偵の
暎景はなぜ知っている、と問いそうになって慌てて口を
分かっていてなお、信じ難い思いで簾の中を凝視する。見たことも会ったこともまったくない者の名を
まずい、と生唾を飲んだ。これでは牙族に食われてしまう。
沙爽を見る。ぼんやりとして脂汗をかいている主はじっと正面を見据え、震える手で礼を取った。
「どうか、四泉をお救い下さい……」
「抽象的な依頼は無駄な
沙爽は迷って、暎景と茅巻を見る。二人も困って顔を見合わせた。茅巻が前に向き直り口を開く。
「実は、我らも牙族がどの程度まで取引をしてもらえるのか分からずに参った。失礼とは思うが、四泉の…沙家のことについてそちらがいまどれほどご存知なのか、その擦り合わせをしてはもらえないか」
族主が面倒くさがるように首を傾けるのが分かった。飾りが繊細な音を立てる。
「沙家の継承者の三人が死んで、
「口の悪さに気をつけろ」
暎景は憎々しげに言うと、言を継ぐ。
「そもそも先代が跡継ぎを公にせぬまま、昨年、病で急逝された」
先代四泉帝には四人の妃がいた。三人は一人ずつ
上三人はそれぞれに馬技や武道、学問に長けた将来を嘱望される若者たちだった。本来定石通りにゆけば、長子が四泉沙家を継ぐのが順当だったが、次子の後見親族がこれに異を唱えた。二の妃のほうが長子の母よりも家格が上だったからだ。四泉は
これにより政局は大きく動いた。継承戦争には全く蚊帳の外であった四子――沙爽鼎添に玉座が巡ってきたのである。序列の位は低いといえど四の妃は
「……事態はひとまず落着したかのように思えた。だが違った」
年が明けないうちに、熾烈な派閥争いが起きた。四妃と沙爽に取り入ろうとする者、排除しようとする者。そのうち、沙爽が泉帝として即位するのは相応しくない、とあからさまな声が上がった。もともと彼は世継ぎと定められて育ったわけではない。加えて四妃は
しかしここから予想外のことが起きる。隣の泉国・
これは正に寝耳に水、朝廷は驚愕したが、四家は腑に落ちるところがあった。四家は姓を
沙琴撫羊は
沙爽は撫羊とよく弓射を競って笑われたものだった。彼は弓が苦手だった。しかし妹はひとしきり笑うと兄の弓のどこがいけないかを丁寧に教授してくれたりした。決して仲は悪くない、と思っていた。その撫羊が沙爽に叛旗を
二泉は軍事大国、現泉主も好戦的な気性だという噂で、前々から四泉
四泉にはもともと由歩が少ない。二泉軍の新たな侵攻を防ぐにも、大多数が国境で待ち構えるしかないのが現状だった。ついひと月ほど前、既に撫羊軍と交戦があった。しかし追い散らしたとしても由歩であれば国境沿いの
「知っていたとは思うがそういう訳で、我らは牙族に助力を
暎景が結び、沙爽は物思いから我に返って額の汗を拭う。目の前の人物は全て了解していたのか反芻するように身じろぎした。
「ようは由歩の傭兵が欲しいのだろう?」
「戦力もそうだが……どうにか二泉には侵攻を思いとどまってもらいたい。淕家も身内のことで国を荒らしたくはないと思っている。黎泉に訴えても埒があかないので参じたのだ」
茅巻が答えた。族主は手を軽く挙げ、三人との間に図面が広げられる。
大泉地。世界の全てだ。北は峻険な山々、その奥に存在する全ての国が持つ泉の源、黎泉がある。泉国の泉とは黎泉から流れ出て生まれたと
始祖たちは泉を都と定める際、黎泉に許しをもらい国とした。黎泉を
今回も他泉国の侵攻を受けているから四泉は使者を黎泉に遣わした。しかしなんの変調も起きなかった。侵攻側の
「思いとどまらせる、か。なかなか面白いことを言う。身内の説得にも応じないのに、我々が口出ししてどうにかなるとでも?」
族主は嘲笑した。「いちばん簡単なのは泉主が妹君に位を明け渡すことだ」
「ふざけるな。それは
暎景が苛立ちあらわに膝を叩いた。族主はさらに含み笑うと手を振る。
たちまち簾が椅子の肘掛けほどまで揚がり、三人は思わずその姿を凝視した。
ぎっしりと刺繍をした豪奢な黒衣を纏う姿は細身なのが分かる。胸にかかった
族主は背丈ほどもある長い鉄扇を持っていた。広い裾に隠れて手の形は分からないが、指から伸びた七宝の
「南の都は既にもう一つが撫羊軍に
なに、と従者二人は気色ばんだ。
「落ちたのか。我らが来る間に?」
「開城したようだな。付近の里の住民もそのまま兵とともに支配下に置かれた」
沙爽はぼうっと指された箇所を見る。いまだに現実味がない。撫羊が――本当に?
まだ信じられずどこか他人事で、まわりの大人たちの会話に上の空でいれば、ふいに族主の声が降ってきた。
「思いとどまらせる、ということが可能な方法はあるにはあるが……」
沙爽は族主を見上げる。しかし相手は続きを話さず、話題を変えた。
「傭兵は出せることは出せる。だが現在、別泉に派遣している部隊もある。出せるのは八百だ」
八百、という数字がどれほどのものなのか沙爽には分からなかったが、暎景と茅巻は微妙な表情をした。
族主は鉄扇で床を叩いた。「ただの八百ではない。生粋の由歩であり皆
聞得とは特に耳目鼻の優れた者たちのことを言う。普通の者が聴き取れない細かな音や遠方の歩兵の足音を察知し、感じ取ることができる。しかし聞得の者の中には耳目鼻に限らず五感、六感すべてにおいて卓越して鋭敏な感覚の者もいた。
さて、と族主は声の調子を変えた。「今までの話はあくまで仮の話だ。あとはお前たちがいくら出せるのか、それにかかっている」
「承知している」
言って沙爽を見た暎景は顔色を変えた。
「――泉主‼」
目の前が暗転した。ぐらりと平衡を失って身体が力なく横倒しになる。昏倒した主を茅巻が慌てて抱え上げれば燃えるように熱く、汗がとめどなく流れている。
簾が降ろされ、族主が立ち上がるのが分かった。
「今日はここまでだ。また遣いを寄越そう」
沙爽の容態には毛ほども関心がない。平然と素っ気なくそう告げると、
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