一章



 竹をよこに連ねたすだれのあいだ、玻璃を通して白色の朝陽が臥房ねまに縞模様をつくる。窓にほど近い牀榻しんだいに仰向けで眠る顔にちょうど光が注いだせいで鬱陶しそうに寝返りを打ち、被衾ふとんうずまった。

 牀榻の下、巨大な獣が地毯しきものの上に伏しており、主のその様子をつまらなさそうに見上げ、そして外から聞こえてくる音にぴんと耳を立てた。


 徐々に近づく軽快な足取りは臥房の前でぴたりと止まる。入口の隔扇とびらが手前に開いた。すず蝶番ちょうつがいが軽く軋んだ音を立てたが、それでも臥房の主は起きない。身動きひとつせず微睡まどろみをむさぼっている。

 軽やかな足音はまず窓の簾を次々に揚げる。端に取り付けた組紐を引っ張ると、つづった竹板が勢いよく揃って上部に集まった。

 光を浴びて獣は大欠伸あくびをした。それに少女は振り返り、嬉しげに近づいて抱えるほどもある頭を撫でた。

 おはよう、と声を掛け、火鉢に炭を足す。四隅の燭台を灯した。陽が昇っても房内は暗い。ひとえに窓が小さいからだ。


 少女はおもむろに牀榻に近づく。紅木こうぼくに豪奢で繊細な彫刻をされた箱型の寝所、天蓋から垂らされた帷帳とばりの窓際の一辺を開けた。微かに寝息を立てる人の両耳を覆ったかぶり物を取る。



「姉上、朝でございますよ」



 はきはきとした明るい声に長い睫毛まつげを震わせた。うっすらとまぶたを開く。少女をみとめるも、唸りながら反対側へと寝返った。

 起きてください、と少女はなおも揺する。牀榻に登り、被衾を取り上げたところで、いきなり手を掴まれた。『姉上』は寝顔のまま眉間に皺を寄せ、喉頭を上下させた。

「……冷たい」

 起きがけのかすれ声に少女はにこりと笑んだ。「おはようございます。先ほど水を使ったのでそれででしょう」

「……お前はすぐに霜焼けができるから、気をつけなければ……」

 いまだ寝惚ねぼまなこ、ようようゆったりと起き上がりしとねの上で胡座あぐらをかいた。少女に上衣うわぎを着せ掛けられ、脇台の煙管きせるに手を伸ばす。しかし阻止された。

「あら、いけません。今日は大事な商談がおありなのでしょう?」

「……あとで薬湯ふろに入るから」

 いけません、と少女は煙管盆ごと取り上げる。

「もうお湯を張ってます。これはお仕事が終わったら返してさしあげます」

 結局、無念そうに肩を落として髪を掻き上げた。



 湯殿ゆどのまでの短い走廊ろうかを渡る。吹き抜けの通路はどこからか風鳴りを響かせている。立ち止まり、頭上を仰いだ。先程とは異なり陽はすっかり雲に覆われてしまっている。鈍色一色の空はいまにも雪が降り出しそうな按配だ。

 後ろからついてきた妹に呼び掛ける。

歓慧かんけいひるが過ぎるまであまり外に出てはならんぞ。雲が低い。いつもより毒が濃い」

 わかりました、と歓慧は頷いたが、でも、と小首を傾げた。「お客様のお世話がありますし………」

「相も変わらず酔狂なことだ」

 歓慧は照れつつも、少し申し訳なさそうに俯いた。

「好き勝手をして、ごめんなさい」

 良い、と頭を撫でてやると嬉しげに微笑むのでいつも許してしまう。



 歓慧はただひとりの妹であり、本来は客人の世話などするような身分の者ではない。しかし彼女がこうしてわずかな自由を駆使して生き生きとしている様は見ていて好ましかったし、不憫な出自ゆえの制約の多い暮らしの中で多少なりとも我儘を通してやりたいとも思っていた。もともと世話好きな性分も高じてか、各国から訪れる客人の世話をしたがったから、城仕えに混じって奉仕するのをとがめないでいる。

 歓慧はくるくるとよく働く。料理に掃除、針仕事から家禽かきんの世話まで、役目の者がいるにもかかわらずなんでもやった。親しい者の衣食住に対しては自分の中でこだわりがあるらしく、ときに譲らないこともある。以前、見習いの子供が歓慧に鶏小屋の世話をする役目をられた、と泣きべそをかいたときはさすがに反省したようだったが、それでも常に動き回っている。



 大人一人が脚を伸ばせるほどの大きさの板張りの浴槽には、なみなみと濁った湯が満ちている。草花を散らし漬け込んだ薬湯は湯気をもうもうと立ち昇らせて壁に結露をつくった。小さな湯殿は限られた者しか使わない。ぐるりと石で囲まれた壁、装飾的だが堅牢な鉄格子をめ小さく切り取った窓の外から、細く射しこむ光に湯煙が反射してみどり色にきらめいていた。

 湯殿から出て隣の房間へやへ移動すればいつもと同じように歓慧が待っている。用意された衣に袖を通し、大きな鏡台の前に腰掛ける。歓慧が濡れた髪を丹念に拭き、くしけずっていく呆れるほど長い黒髪は足首に届くほど。ここ数年はそれを結うのも彼女の好きなようにさせている。はじめのうちは動くと留めの甘いかんざしが落ちてきたりしたものだが、今はきつすぎず緩すぎない、ちょうど良い塩梅にするのもお手のものである。耳朶みみたぶには腕の長さほどもある耳璫かざりを垂らす。袖振りの大きな襖衣きものに、さらに褂子はおりを着込み、鹿革の柔らかいくつを履いた。


「さ、出来ましたよ」

 満足気な声に閉じていた瞼を開くと、鏡台に映る己の姿にはさほど頓着せず、いつものように礼を言う。そのまま二人で餐庁しょくどうへと歩きながら、歓慧は毎朝と同じく楽しげに、今日結った髪型はこのような想見で、召し物は季節に合わせてこれで、と用意した装いについて事細かに説明した。


 餐庁に着くと、中には既に二人の人影があった。両人とも片膝を床につく。

「おはようございます。当主、ならびに歓慧さま」

 柔らかだが芯の強そうな声は女のもので、歓慧は真っ先に挨拶を返した。当主と呼ばれたほうも軽く頷き、椅子に腰掛ける。再び立ち上がった二人は当主の腹心の臣下だ。


「今日はいつにも増しておうるわしくいらっしゃいますな」

 笑い含みに言ったのは男のほう。顎にひげを残しているのは童顔を気にしてのことだともっぱら噂されている。背もそれほど高くない、どこにでもいそうな一見凡庸な男。だがしかし、先代に重用された切れ者で名を高竺こうとくという。

「初顔合わせの客がいらっしゃるので気合いが入りましたかな、歓慧さま」

 ふふ、と歓慧は笑いながらひつを運ぶ。同じく配膳をしながら女のほうが、こら、と高竺をめつけた。白い小顔につんと高い鼻。怒り面でさえ気品の溢れる美女は丞必しょうひつ。こちらも先代から仕える重鎮だ。高竺と丞必は軍の精鋭を率いる、他国で言うならば将の立場にある。

「当主がまるで見合いでもするかのような言はお控えなさいまし。……今日も大変お美しゅうございますよ」

 当主はわずかに口角を上げる。「丞必に言われては立つ瀬が無いな」

 わは、と高竺がほがらかに声を上げた。気安い者どうし、和やかな朝餉あさげが進んだところで、それで、と当主は促した。二人が顔を引き締める。

「本日は商談が立て込んでおりますゆえ、当主にもお出まし頂きたく。先方はすでに境界近くまで馬を進めております」

「数は」

「今のところ三騎確認しております」

 当主は長い銀の箸をはしたなく鳴らして笑った。

「従者が二人だけ、か」

 歓慧が首を傾げる。「初めての方ですよね」

「ええ。なんでも四泉しせん泉主とか」

領地ここに最も近い泉国だな」

 当主はつまらなさそうに皿の山菜を端に避けたが歓慧が目ざとく発見し、頬を膨らませて裾を引っ張った。

「好き嫌いは駄目です」

 叱られて苦虫を噛み潰したような顔をした主をちらりと笑い、高竺は腰に手を当てた。

「ま、当主もご存知のとおり四泉はごたついてますから、おおよその要求は予想できます。おん自らお出ましになることもあるまいと思いましたが、あいにく他三人も手一杯でして」

 大繁盛ではないか、と当主は湯呑みに口をつけた。

「昼には着いているだろう。早々に始めるぞ」

「なにかお急ぎで?」

 まあな、と物足りなさげに頬杖をつく。耳璫がしゃなりと鳴った。

「早く終わらせて一服したい」







 時刻は正午を少し過ぎ、少年ら三人は門の前で馬を下りた。泥濘ぬかるみに足を取られそうになり思わず手綱を引っ張ってしまい、馬が不満そうにいななく。それをなだめすかし、少年はふらふらと正面を見上げた。


 大人の背丈数人分はあろうかというほどの巨大な鉄門扉で、領門とは違い装飾類はまったく無い。中心に切れ目が見当たらないのを見るに落とし戸のよう、弓なりに手前に張り出した墻壁しょうへきの上には箭楼やぐら城堞ひめがき、左右には岩山が迫り天然の要塞と化している。巨大とはいえ両際の岩壁のほうが高く、むしろ隠れるような構えだったが他に越えられるような甘い箇所なども見当たらず、どうあっても正面の門から入るしかこの先へは進めないようだった。


 三人が門前に佇んでいると、城堞からひょっこりと歩哨ほしょうらしき人物が頭を出した。顔は奇妙な模様の面で覆われている。


「四泉泉主御一行とお見受けする」


 誰何すいかするでもなく、返答を待つでもなく歩哨はそう言うと、鉄の懸門けんもんきしんで下から上へ持ち上がる。

 馬が首を屈めて通れるくらいに開いて動きが止まり、一行は歩いて門をくぐった。最後尾の馬の尻毛が中へぎりぎり入ったところで、いきなり恐ろしい速さで門扉が降りた。唸るような地響きと揺れを感じ、少年は思わず後ろを振り返る。馬が巻き込まれていないのを確認してほっと前に向き直る、と、いつの間にか正面に人が立っておりびくりと立ち竦んだ。先ほどの歩哨と同じく、面を着けている。

「ようこそお越し下された。ご案内致す。ついていらっしゃれ」

 なにかの獣をかたどったような面から聞こえた声は女で、くるりと背を向けて足音もなく歩き出した。


 厚みのある壁の幅を通り抜けると中庭のような場所に出る。四方をぐるりと壁で囲まれており、左にずれてさらに出入口と思しき内門があって、そこから出るとやっと領内しきちに入る。

 前方には一段高く、早朝に平野の向こうから見えた黒い城が居丈高にそびえる。しかし道のりはまるで迷宮のようだった。地面より低い道――それは石垣で壁を作っている――を左右に曲がりくねり、隧道すいどうを通りあるいは小川の流れる橋を渡る。風景が分からないのでいったいどれほど城に近づいたのか見当もつかない。人の声も全くしない。どこか薄気味悪さを感じながら、少年は体の不調に拍車がかかるのを感じた。

 息を切らして懸命に足を動かすものの、やはり意識が朦朧とする。途中、先を行く男が見かねて案内役に声をかけた。

「せめて主を馬に乗せて差し上げてもよろしいか。お体が優れないのだ」

 案内役は振り向かずにならぬ、と冷たく言い放った。

「騎乗なさるのはこの先一切まかりなりませぬ」

「しかし」

 言い募ろうとしたが案内役は首を振った。

族領ぞくりょうでは我らのことわりが何よりも先立つ。お守りいただけぬのならばお帰り願うしかなくなる」

「……黎泉れいせんに認容もされとらん夷狄いてきが理とはな」

 男が小馬鹿にしたように吐き捨てた。面の女はなんの反応も無い。

「……大丈夫です。行きましょう」

 少年が息を切らして言うと、案内役は再び歩みを進め始めた。


 巨大な城は周囲を同じ黒い石を積み重ねて築いた城壁で囲われているようだった。ようだった、というのは城壁の端が遠すぎて分からないからだ。おそらくいびつに楕円形になっていて、端というものは無いのかもしれない。


 そして三人が案内されてくぐったのは正門ではなく幾つかある裏門のうちのひとつのようで、最初の入口の門とはうってかわって小さい。朱色の扉は既に開け放たれているが、人影はない。入ると城壁は十歩ほどの間隔をあけてさらにもうひとつ壁を築いてあった。こちらはあちこち崩れかけていたから、劣化が進んだので新しく壁を築いたのだろう。

 二つ目の扉を通過しても、正確にはまだ城内ではないようだった。至るところに壁があり、建物がある。それら全てが同じような色と外観で、一行はすぐに自分たちがどう通って来たのか分からなくなった。



 やがて辿り着いたのはやはり周囲を壁で囲まれたこぢんまりとした一棟だった。小さいながら涼亭あずまやがあり、池がある。

「こちらで少々お待ちを。お召し替えはして頂かず結構です」

「しかしこのような姿なりで目通る訳にはいくまい」

 埃と泥まみれの三人は揃って顔を見合わせる。面の女は感情の乏しい声ですぐに商談だ、と言った。

「すぐに?せめて身支度は整えるのが礼儀と思うが」

「当主は多忙ゆえあまりお時間がない。本日は初回ということで手間も取らぬでしょう。ほどなくつかいが迎えに参ずる」

 無機質な声で説明を終えると、音もなく去って行った。取り残された三人はともかくも馬をうまやに預け(厩には世話の者がいた)、建物の中に入る。


 入るなり少年はくつを脱ぎ散らかし、椅子に倒れ込む。顔は青褪あおざめて生気がない。

「よう辛抱なされた」

 外套を脱がし、旅装を解く。居室いまは火鉢が置かれていて暖かい。傍に主を連れて行き、ともかくも泥まみれの顔と手足を洗う。濡れた褞袍わたいれを着替えさせたいが、荷物は最小限にしてきたから替えの衣はない。せめて少しでも乾かそうと広げて干し、水気を取っていたところで迎えが来た。


「せめてしばしの休息くらいは時を取るべきであろうが」

「これがおそれ多くも泉国せんごくの主に対する振る舞いか」

 従者二人は遣いの者に噛みついたが、猪のような面を着けた長身の男は意に介さずにお早く、と三人をせき立てた。


 弱りきった主を支えながらしばらく歩き、ついに城内に入る。

 薄暗く湿った石造りの廊下は天井が低く明かり取りの窓は小さく、自国の城とはかなり違った。すれ違う人もおらず、三人は堅牢な扉の一房に通された。


 決して広くはない小房こべや、窓はない。等間隔に立てられた燭台の灯がわずかな空気の流れで揺らめく。正面には花鳥を描いた衝立ついたてを背にした瀟洒しょうしゃな彫り物に彩られた座、三方の簾はまだ覆われておらず、そこにいるはずの人物もいなかった。


「急かしたくせにいないではないか」

 男の一人が苦々しく言う。遣いは床の坐墊しきものを示し、そこで待つよう言いおいて出ていった。

「泉主、大丈夫でございますか」

 少年は崩れるように座ると震える手で額を押さえた。頭が割れるほど痛い。


(はやく、眠りたい)


 疲労と由霧の影響でもはや意識を保つことさえ難しい。痛みとともに急激な睡魔が襲う。


 突然、簾が下りた。三人は驚いて固まる。入口は背後のひとつだけ、開いた様子はなかったのに、中の座には既に人影がある。両端から仮面の従者が二人出てきた。


「……由霧にやられたか。不能渡わたれずの割にはよくったものだ」


 まろやかに低い良く通る声が響く。少年は霞む目で簾を凝視する。きらりと光るあれは簪だろうか。だとしたら、族主ぞくしゅは女なのだろうか。声だけで判別することが出来ない。



 彼ら、間諜かんちょう斥候せっこうおよび傭兵ようへいを生業とする一族を牙族という。諸国に間者を置き、どの国にもくみしない孤高の一族。一説には、伝説の妖犬、槃瓠ばんこの末裔なのだという。牙族の多くは由霧のなかを渡ることが出来る――これを俗に由歩ゆうほという――人々だ。それゆえに各泉国の動静を独自に集め、これを売る。その一族の頂点がどうやら目の前の人物らしい。



 ともかくも三人は頭を垂れる。

「牙族当主…とお見受け致します」

 少年が掠れた声を吐き出した。左後ろに控えていた男は目をすがめる。四隅に香炉が置かれ、狭い房内はぼんやりとけぶっている。鼻が利かない。どうやら匂い消しの香だ。主に変なものをこれ以上嗅がせたくないが。

 香のおかげで余計に牙族族主の様子もよく分からない。もともと気配がしない上に、男女の区別もつかない。ひどい得体の知れなさを感じた。

「そちらは四泉主しせんしゅ沙爽さそう……鼎添ていてんどの、でよろしかったか」

 含み笑う言に、従者二人は憤慨した。

「族主におかれては無礼が過ぎよう」



 四泉の王、沙爽鼎添はあざな泰添たいてんというが、沙家の四男であるために鼎添と呼ばれるようになった。それは上三人と歳の離れた彼を格別に親しんでの所以ゆえんであり、兄たちと違い特筆すべき長所がなく、おまけで生まれたのだ、という揶揄やゆも含んでいた。今はこちらの意味合いのほうが強い。



 族主は鼻を鳴らした。

「お前は沙家の密偵の暎景えいけいだろう。そっちの大きいほうは茅巻ぼうけん

 暎景はなぜ知っている、と問いそうになって慌てて口をつぐんだ。知っていて当たり前だ。相手はあの牙族。牙族に代々仕える斥候一家も各国に存在するほどという噂、沙家の中にもいないはずがない。

 分かっていてなお、信じ難い思いで簾の中を凝視する。見たことも会ったこともまったくない者の名を咄嗟とっさに出せるなぞ、一体どこまで詳しく四泉のことを知っているのか。暎景は初めてうすら寒さを感じた。まるで何もかも見通しているかのようなこの調子。

 まずい、と生唾を飲んだ。これでは牙族に食われてしまう。

 沙爽を見る。ぼんやりとして脂汗をかいている主はじっと正面を見据え、震える手で礼を取った。


「どうか、四泉をお救い下さい……」

「抽象的な依頼は無駄ないさかいを生む。泉主にはより明確に意向をお伝え願おう」

 沙爽は迷って、暎景と茅巻を見る。二人も困って顔を見合わせた。茅巻が前に向き直り口を開く。

「実は、我らも牙族がどの程度まで取引をしてもらえるのか分からずに参った。失礼とは思うが、四泉の…沙家のことについてそちらがいまどれほどご存知なのか、その擦り合わせをしてはもらえないか」

 族主が面倒くさがるように首を傾けるのが分かった。飾りが繊細な音を立てる。

「沙家の継承者の三人が死んで、勿怪もっけの幸い、おまけの四男にお鉢が回ってきた」

「口の悪さに気をつけろ」

 暎景は憎々しげに言うと、言を継ぐ。

「そもそも先代が跡継ぎを公にせぬまま、昨年、病で急逝された」



 先代四泉帝には四人の妃がいた。三人は一人ずつ公子むすこを産み、四人目の妃は公子と公主むすめを産んだ。

 上三人はそれぞれに馬技や武道、学問に長けた将来を嘱望される若者たちだった。本来定石通りにゆけば、長子が四泉沙家を継ぐのが順当だったが、次子の後見親族がこれに異を唱えた。二の妃のほうが長子の母よりも家格が上だったからだ。四泉は閨閥けいばつで発展したために母方勢力の発言権が強い。当然、長子と次子は反目した。後継争いは内乱に発展する勢いで過熱し、死者が出るまでになった。そしてついに次子がたれてしまい、勝敗は決したかにみえたのだが、あろうことかそのすぐ後に三子が長子を毒殺してしまったのである。喜びに湧いていた正妃とその親族は三子勢と瞬く間に交戦状態におちいり、三の妃と三子を共に捕縛、正当な後継者をしいした大逆の罪で処刑した。


 これにより政局は大きく動いた。継承戦争には全く蚊帳の外であった四子――沙爽鼎添に玉座が巡ってきたのである。序列の位は低いといえど四の妃は王統譜おうとうふに連なる大家の出であり、嫡后ちゃくこうといえど、四の妃を無視してまつりごとを牛耳ることは出来ない。正統な継承者がいる以上、争いを長引かせる必要はなくなり、他の閨閥が沙爽に対して異を唱えることは不可能になった。


「……事態はひとまず落着したかのように思えた。だが違った」


 年が明けないうちに、熾烈な派閥争いが起きた。四妃と沙爽に取り入ろうとする者、排除しようとする者。そのうち、沙爽が泉帝として即位するのは相応しくない、とあからさまな声が上がった。もともと彼は世継ぎと定められて育ったわけではない。加えて四妃は身体からだが弱く、泉太后おうのははとして勢力を維持出来うるかどうか分からないという不安要素があった。一から三家は完全に親沙爽派と反対派に分かたれ、事態は膠着した。しかし親派としては沙爽は先代の継嗣けいしであることは間違いないのだから、反発している者たちも即位に漕ぎつければ収まるだろうとどこか楽観視していた。


 しかしここから予想外のことが起きる。隣の泉国・二泉にせん留学るがくしていた沙爽の実妹、沙琴撫羊さきんふようが自らが正統な王と宣して二泉主と結託し、四泉領地に二泉軍の精鋭と共に越境、国境を接する南のまちを落とし、占拠したのである。


 これは正に寝耳に水、朝廷は驚愕したが、四家は腑に落ちるところがあった。四家は姓をりくというが、淕家は先代の高祖父帝の姉妹が降嫁した家系、その姉妹の曽孫は現二泉主と血の繋がりがある。四泉の占有を主張した二泉主にも、いちおう四泉王家の血筋が入っていることになるのだ。


 沙琴撫羊は虚歳かぞえで十五、明達利発、しかも秀麗な面立ちで兄の沙爽と比べると抜きん出て才覚に恵まれている。十二の時からの留学も二泉の淕家の縁故を頼っていた。撫羊が男であったなら、という声を沙爽も幼い頃から嫌というほど聞かされた。王位は男子相続ゆえに、継承者である上四人を差し置いて践祚せんそなど不可能だったし、彼女もそれは当たり前だと思っていたはずだ。なのに。


 沙爽は撫羊とよく弓射を競って笑われたものだった。彼は弓が苦手だった。しかし妹はひとしきり笑うと兄の弓のどこがいけないかを丁寧に教授してくれたりした。決して仲は悪くない、と思っていた。その撫羊が沙爽に叛旗をひるがえしたのだ。当然母の四妃――淕妃は衝撃を受け、倒れた。沙爽が牙族をおとなうために出奔するときでさえ、寝床からは出られなかった。沙爽は母のせこけた顔を思い出して胸が苦しくなる。潤む瞳が、実子二人がどうあっても争わねばならない状況になったことを憂い、悲しんでいた。


 二泉は軍事大国、現泉主も好戦的な気性だという噂で、前々から四泉侵掠しんりゃくを狙っていた節がある。撫羊に与えられた精鋭はなべて由歩兵で固められ、南部の四泉民を籠絡して自軍に引き入れようとしている。


 四泉にはもともと由歩が少ない。二泉軍の新たな侵攻を防ぐにも、大多数が国境で待ち構えるしかないのが現状だった。ついひと月ほど前、既に撫羊軍と交戦があった。しかし追い散らしたとしても由歩であれば国境沿いの霧界むかいの山中に留まれるし、すでに国内に籠城した撫羊軍の勢力圏には郷里の住民も含まれていて迂闊うかつに手を出せず、戦況は一進一退、膠着状態だ。この現状で二泉の本軍が出てくれば太刀打ち出来ない。



「知っていたとは思うがそういう訳で、我らは牙族に助力をいにきた」

 暎景が結び、沙爽は物思いから我に返って額の汗を拭う。目の前の人物は全て了解していたのか反芻するように身じろぎした。

「ようは由歩の傭兵が欲しいのだろう?」

「戦力もそうだが……どうにか二泉には侵攻を思いとどまってもらいたい。淕家も身内のことで国を荒らしたくはないと思っている。黎泉に訴えても埒があかないので参じたのだ」

 茅巻が答えた。族主は手を軽く挙げ、三人との間に図面が広げられる。


 大泉地。世界の全てだ。北は峻険な山々、その奥に存在する全ての国が持つ泉の源、黎泉がある。泉国の泉とは黎泉から流れ出て生まれたとわれる。黎泉は国ではなく神域で、俗世から離れた泉に仕える者たちが住まうという。


 始祖たちは泉を都と定める際、黎泉に許しをもらい国とした。黎泉をないがしろにし好き勝手に泉を扱えば、その泉はたちまちれたという。だから黎泉は各泉国により尊崇される。過去には隣国の泉を自国のものと繋げようとした国があり、その際に黎泉に奏上しなかったゆえか泉が涸れた例もある。そういうわけで国に変事があった時や祭りのおり、王の践祚崩御の際には必ず黎泉におもむく。


 今回も他泉国の侵攻を受けているから四泉は使者を黎泉に遣わした。しかしなんの変調も起きなかった。侵攻側の渠魁しゅりょうが四泉の王統である以上、致し方ないのかもしれなかった。


「思いとどまらせる、か。なかなか面白いことを言う。身内の説得にも応じないのに、我々が口出ししてどうにかなるとでも?」

 族主は嘲笑した。「いちばん簡単なのは泉主が妹君に位を明け渡すことだ」

「ふざけるな。それは簒奪さんだつにほかならん。それを許すというのか」

 暎景が苛立ちあらわに膝を叩いた。族主はさらに含み笑うと手を振る。

 たちまち簾が椅子の肘掛けほどまで揚がり、三人は思わずその姿を凝視した。


 ぎっしりと刺繍をした豪奢な黒衣を纏う姿は細身なのが分かる。胸にかかった面紗ふくめんは目下から垂れているようで顔は分からない。長い耳璫の玉が灯火にきらめき、同じように艶光る黒髪が膝上でわだかまっていた。

 族主は背丈ほどもある長い鉄扇を持っていた。広い裾に隠れて手の形は分からないが、指から伸びた七宝の指甲套つけづめが印象的で、畳んだ鉄扇を指示棒代わりに図面を指す。

「南の都は既にもう一つが撫羊軍にくだっていると報が入った」

 なに、と従者二人は気色ばんだ。

「落ちたのか。我らが来る間に?」

「開城したようだな。付近の里の住民もそのまま兵とともに支配下に置かれた」

 沙爽はぼうっと指された箇所を見る。いまだに現実味がない。撫羊が――本当に?

 まだ信じられずどこか他人事で、まわりの大人たちの会話に上の空でいれば、ふいに族主の声が降ってきた。

「思いとどまらせる、ということが可能な方法はあるにはあるが……」

 沙爽は族主を見上げる。しかし相手は続きを話さず、話題を変えた。

「傭兵は出せることは出せる。だが現在、別泉に派遣している部隊もある。出せるのは八百だ」

 八百、という数字がどれほどのものなのか沙爽には分からなかったが、暎景と茅巻は微妙な表情をした。

 族主は鉄扇で床を叩いた。「ただの八百ではない。生粋の由歩であり皆聞得キコエの精鋭だ。一人あたり百人力の働きはする」



 聞得とは特に耳目鼻の優れた者たちのことを言う。普通の者が聴き取れない細かな音や遠方の歩兵の足音を察知し、感じ取ることができる。しかし聞得の者の中には耳目鼻に限らず五感、六感すべてにおいて卓越して鋭敏な感覚の者もいた。



 さて、と族主は声の調子を変えた。「今までの話はあくまで仮の話だ。あとはお前たちがいくら出せるのか、それにかかっている」

「承知している」

 言って沙爽を見た暎景は顔色を変えた。


「――泉主‼」


 目の前が暗転した。ぐらりと平衡を失って身体が力なく横倒しになる。昏倒した主を茅巻が慌てて抱え上げれば燃えるように熱く、汗がとめどなく流れている。

 簾が降ろされ、族主が立ち上がるのが分かった。

「今日はここまでだ。また遣いを寄越そう」

 沙爽の容態には毛ほども関心がない。平然と素っ気なくそう告げると、歩揺ほようの涼やかな音を残響に衝立の裏へと消えていった。





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