洪猷狼煙

合澤臣

序章



 深い森と峨々ががたる連山、まれの晴れ間には、それら切り立った峰々が遠く霞を帯びるまで続いている荘厳な景色が眺望できるという。その山中、身もすくむような峭壁しょうへきのわずかな幅の獣道を三頭の馬が用心深く進む。周囲は濃い霧雨きりさめで、もう陽が昇ってしばらく経つというのにあたりは暗い。むき出しになった灰色の岩肌が濡れててらてらと光沢を放つ。


 馬とそれぞれに騎乗した人も同様で、雨避けの外套は既に水気を含んでずしりと重い。しかし縦列に並んだ真中、少年は別の理由でも体を濡らしていた。

 雫が蟀谷こめかみからあごにつたってぽつりと落ちる。視界が涙で曇り、瞬きを繰り返した。ひどく寒く感じるのに、体の芯は息苦しいまでに暑くて、しぜん呼吸が荒くなる。

 前を往く乗手が馬首を返した。

「――息を深くしてはなりません」

 言われ、少年は微かに首を振る。震える手で手綱を握り直した。



 由霧ゆうむという。山間や峡谷に漂う、瘴気をまとった薄紫色の霧で、この地に住まう人々と国を隔てる。吸い込むと非常に危険な代物で、只人がこの霧の中で過ごすと半月とたないという。



「覆いも取ってはなりません」

「だが、苦しいんだ。あの水をくれないか」

 額を押さえる。耳鳴りと目眩めまいがした。後ろの者が励ますように少年に声をかけた。

醸菫水じょうきんすいは多用すれば効かなくなります。これ以上は危ない。あと半日の辛抱です。お気張りください」

 少年は前後のふたりをうらめしく見やった。平然と馬を進めている。本当になんともないのだな、と半ば信じられず、また、自分もこの毒に耐性があれば良かったのに、と悔しく思った。



 この世界の――といっても少年の知る範囲での世界のことだが、大半の人間はこの瘴気に耐性がない。それで由霧のない大地、泉をたたえる土地に自然と人が集まり、国を築いた。だからほとんどの人は自分の生まれた場所から離れず暮らし、生を終える。もちろん、少年も知識として他の国々のことは学んでいたけれども、どこか絵空事のように思っていたし、今こうして国を出て、体を毒にむしばまれながら越境することがあるなどとは夢にも思っていなかった。



 峠を一つ越え、一行は徐々に傾斜が緩やかになる峰を下る。目的地までひらかれた経路はこの道しかないようで、この奥に本当に人里があるのか、少年は半信半疑に首を傾げて目線を上げた。曇天の空が低い。しかし霧は徐々に晴れてきており、ほっと安堵の息を吐いた。幾分、呼吸が楽になったようだ。

 さらにしばらく鬱蒼とした森を進み、少しばかりひらけた高台に出る。坂を登りきらないうちに先行していた男が前方を示した。「見えました」

 少年は朦朧としながらも、眼前に広がる広大な平野に目をみはった。



 少年の知る世界の西の果て、眼下には呆れるほど大きな牧草地が広がり、ちょうど彼らのいる側の平野を挟んで真向かいに沿って土地は再び傾斜している。その丘の上、遠目でも巨大に見て取れる黒い建物がどっしりと構えていた。

「……あれは……城か?」

「そう言っても過言ではありませんな。牙族がぞくの本拠地です。我々のものとはおもむきが異なりますが」

 後ろから追いついた男がやれやれと言うふうに息をついた。

「なんとか半月経たず由霧を抜けましたね、泉主せんしゅ

 少年は俯いた。「その呼び方はやめてくれ」

 前の男が厳しい目を向けた。

「いつまでそうして固辞しているんです。ここまで来たのは一体なんのためか忘れたんですか。いい加減腹を括ってください」

 少年は唇を噛んだ。瘴気にあてられ疲労した頭では、もう何を言い返す気力もない。後ろの男が前の男をたしなめる声が聞こえた。



 一行は牧草地を回り込んで続く道に歩を進める。平野を突っ切ればいいのではと言ったが、男たちは否と答えた。

「この先は既に牙族の領地です。前もって言っときますが、あいつらを同じ人だと思わんほうがよろしい。無断で領地に入り込んで生きて帰った奴はいないと聞きます」

「だが、別に塀や柵があるわけではないだろう」

 境界を隔てるものはあたりには何も無い。

「なおさら性質たちが悪いんですよ。牙族は俺ら泉国せんごくの人間と違って泉柱きまりが無いし、用心深さでは随一と言われます。牙族領をおとなう際には絶対に正面からというのが暗黙の決まりです」

 そんなものなのか、と少年はぼんやりと聞いていた。


 再び坂を下りて進んでゆくと、突然森が開けた。木が除かれて見晴らしの良い閑地かんちがこぢんまりと楕円に広がり、正面には木々に埋もれるように二本の角柱が間を空けて立っている。

 先ほど遠目で見た黒い城とはうってかわったみすぼらしいその柱には、様々な表情をした人の顔や草花、動物の紋様が彫り込まれている。風雨に晒されて劣化していた。

「これが領門せいもん?」

「のようです」

 少年は族人がいないかと見回したが、周囲はしんと静まり返り、人どころか鳥一匹いない。

「取り次いでくれる者はいないようだ。このまま入って問題ないでしょう」

 前の男が言いつつも、腰に帯びた剣の柄に手を添えるのを少年は見逃さなかった。それで柱の間にさらに延びる道へ、緊張した面持ちで踏み出した。


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