二章



 「当主!」

 一階の開廊かいろう、呼び止められて主は振り返りもせず長い溜息をついた。

「四泉一行を召し替えも許さずに呼びつけたと聞きましたぞ。なぜそのような恥をかかせるようなことをしたのです」

 きんきんと甲高い声でまくし立てた人物は黒い被り物で頭を覆い隠している。振る度に垂らした布端が揺れる。

 若いが当主より幾ばくか歳上の男は夭享ようきょう。不吉な名は牙族耆宿院きしゅくいん院士いんし特有のもので、本来の名ではなく院に入ってのちの号である。


 耆宿院は不能渡わたれずの老家集団を筆頭としてその下部組織と院塾からなる。院は他国との調和を重視し、まつりごとに関わる。次期当主を奏薦し、現当主を監視、諫言できる唯一の機関でもある。

 当主の側近として必ず数名の監老かんろうが置かれ、耆宿院の総意を代表で伝える。夭享はその筆頭だ。若くして院塾を修了し、現当主が族長を継承してしばらく後に監老として参画した。

 耆宿院の者は総じて黒い幅巾ずきんに白い服、墨色の背心うわぎを纏う。常には宝飾品は一切着けない。不能渡だから族領を出ることはないが、間諜としての訓練は一通り終えているから客に気づかれないようにすることはできる。


「いたずらに泉国の反感を煽るのはおやめくださいませ」

「そういうつもりではない」

「そういうつもりがなくとも、相手は侮辱されたとみなします」

 かもな、とどうでも良さそうに当主は窓の外を見た。

「ことに今は四泉だけでなく他泉の者も多く滞在しているのですから……」

 叱責を聞き流しながら前方を見やって薄く笑んだ。

「…どうでもいいがな、夭享。あまり大声で喚くな。お前の声は耳に刺さる」

 前方から巨大な犬に似た獣が一頭、鋭い犬歯の間から長い舌をだらりと垂らしながら近づいてきた。夭享がひ、と短く息を飲んで後退る。

 獣が夭享に低い唸り声を発する。近づいてきた獣は全体として灰茶に黒いまだら模様、下肢と尾は縞で、くびの周りの毛脚がほかより長い。夭享を威嚇するようにぴんと立てられた耳はしかし、主に撫でられて伏せられる。

「礼を欠かれて破談にするような連中はそもそも取引相手にはなり得ない。我々はどの国の臣下でもないのだ。その矜持は崩してはならん」

「矜持を崩さぬことが、礼を欠くことと同義ではないのですよ」

「下手にへりくだればつけ上がる。金を積めばなんでも言うことを聞くと思うのだろう、連中は」

 夭享は嘆息した。主の他国嫌い――もとい他人嫌いは今に始まったことではない。特に初めて顔を合わす人物となると、どのような人物なのかを侮辱的な仕方で試すことがあった。そのほうが本性が見えて面白いのだ、とこともなげに言った。

 加えて、当主は過去のことで耆宿院を目の敵にしているから、夭享にはいつも風当たりが強い。

 従える獣は主が許す人間以外が近づくと大変危険であるので、威嚇された夭享はそれ以上当主と話すことができなかった。


 夭享と別れ、しばらくして当主はまたも足を止めた。前方の開廊から長身の男が姿を現す。漆塗りの猪面を付けていたが、それは今は少し正面からずらされて、優しげな右眼が覗いていた。

叡礼えいらいか」

「お久しぶりでございます、当主」

 柔和な微笑みで面を外した男は膝をつく。牙叡礼鶴がえいらいかくは齢三十すぎ、叡家は代々牙族に続く聞得キコエの能の高い一家で、彼はその家督だ。半年前から六泉ろくせんに傭兵を派遣していたが、その長として任命されていた。

「帰ったとは聞いていた。苦労をかけたな」

 なんの、と礼鶴は笑う。年齢の割に面立ちは所帯を持っているとは思えないほど若く見える。ちなみに同じ家の者が臣下に多い場合、家名と名の前一文字を取って呼ぶのが慣習だ。

「さっそく高竺どのに御用を仰せつかって、四泉御一行を案内させて頂きました」

「そうか。叡砂えいさも変わりないか」

 当主が自分の娘のことを形ばかりでも心配してくれるのは、娘の砂熙さきが歓慧と同い歳の乳姉妹しまいだからだ。

「つつがなく。あちらは先ほど歓慧さまから薔薇閣しょうびかくのお世話を仰せつかって出てゆきました」

「歓慧のやつ、相変わらず勝手をする」

 言葉とは裏腹に、当主は微笑みを浮かべた。稀に見る主の美貌の笑みに、礼鶴はほんの束の間呆ける。

「久しぶりの故郷くにだ、ゆっくり休むといい」

「そうさせていただきます」

 当主はひとつ頷くと、獣を従えて開廊を奥へと歩き出す。

幽庵ゆうあんへ?本日はもうお出ましはないのですか」

 ああ、と当主は手を振る。姿が見えなくなったところで、礼鶴は面を被りなおしてその場を立ち去った。



 地上からの光は頭上に空いた竪穴、天辺は玻璃で厚く覆われ、部屋の中まで到達する光は弱々しいばかり。穿うがたれて剥き出しの岩の空間は竪穴を中心に歪に揺れる円を描いて半球状に広がっている。床の厚い地毯しきものをめくれば石が見える。この部屋は建物を暖めるかんが通っていないし、地下なのでなおさら寒い。壁の側面に凭れていた男は身震いして小さな火鉢を引き寄せた。

「そんなに寒くはなかろうが」

 向かいで煙管をふかしていた別の男が苦笑した。火鉢を両手に抱える男ははなを啜る。

「やかましい。冬は苦手なんだ」

「夏も暑がってバテておるではないか」

「それはお前もだろ」

 言い合っていると潜戸くぐりどが開いて新たに人が入ってきた。姿をみとめて火鉢の男が鷹揚に頷く。

「おう。どうだった、四泉は」

「主どの。お疲れさまです」

 煙管の男も先にやっている、という身振りで挨拶する。当主はひとつ息を吐くと、手近の坐墊ざふに腰を下ろした。火鉢の男が傍にあった煙管盆を押しやる。

ぎょうさまが持ってきましたよ、っと」

 当主はおもむろに煙管の火皿に煙草を詰め始める。

「…まだこどもだった」

「そりゃ十六じゃ小子ガキだわな」

 火鉢を抱えた男は噛んでいたたばこを吐き出した。

「歳の話ではない。泉主としてなんの覇気もない。あれでは押し負ける」

「なるほど。まあ、お世継ぎ争いには無関係にも近かったのなら、無理はないかもしれん」

 ふう、と当主が煙を吐き出す。既に白く濁った部屋に煙が漂う。その様子を見て男二人は笑った。

「よほどえないのがこたえていたと見える」

「俺たちの有難みがわかったかい、え?」

 当主はじろりと二人を睨んだ。「黙れ、えんたん

 火鉢を抱えたほう――炎がおどける。「最近おまえが商談しごとに出るのが少なかったからな。いい禁煙になったろ?」

「辛抱たまらずすぐにここに来たようですな」

 したり顔で頷いたのは丹。主は渋い顔をしながらも煙管を離さない。

「皆きょうは終わりだな」

「さもなきゃ牙族当主は煙草くさいという噂が流れるぜ」


 商談の前には徹底的に身を清めることが求められる。においのつくものは避けなければならない。薬湯に入り汚れを落とすが、髪に油は塗らない。衣服は香を焚きしめたものであってはならない。『牙族族主』の身体的特徴はなるたけ謎に包まれていなければならなかった。気配、性別、顔の特徴、骨格。声ばかりはどうにもならないが、商談中は面紗ふくめんをつけているから相手にはくぐもって聞こえている。発声のしかたに気をつければ特別困ることはない。


 特徴――その人物に対する人々が抱く印象というのは、時に強烈に記憶に刻まれる。そういうものは、見方を変えさせることが出来れば真反対の印象を植え付け、本人とは全く異なる当事者が勝手に独り歩きを始める。それが、ある者には対象がこう見えるのにある者はそう見えなかった、という齟齬を生み、それが大きくなると人々は対象に対する正しい認識を難しくする。つまりそれは謎になるのだ。


 牙領には豊富な山野がある。それで山の恵みには事欠かなかった。牙領がりょうで独自に掛け合わされ、調合された煙草や茶葉なども多く存在する。だが、密偵や斥候として各国に潜入する者は匂いや香りで正体を露見されることがあってはならない為、帰領してもそういったものの摂取は控えなければならなかった。間者としてはやはり身軽さ、強靭な体力が求められるから男の割合のほうが多い。だから相対的に喫煙者は不能渡わたれずや領地から出ない女に多い。

 だが匂いというのは染みつくものだ。家守にせよ家のあらゆるところでいはしない。冬季でも戸外で、あるいは家の一角を喫茶房として定めるのが普通で、由歩のいる所では基本的に喫煙しないし、するとしても必ず許可を得る。それが掟だ。


 やっと一服出来たところで、幽庵の潜戸がまた開いた。入ってきたのは女、黒い面紗は付けたまま、白煙でこもっている部屋の様子に目を細めた。

「おう、せん。長かったな」

「お疲れさん」

 茜と呼ばれた女は戸を閉めると座り、当主に礼拝した。

紅珥くじさま。お疲れさまでございます」

 見目とは反対に、言った声は低く潰れて老婆のようだった。

「ご苦労」

 茜はもう一度頭を下げると、炎と丹にも会釈した。


 牙族当主は全ての名を牙紅珥懿がくじいという。長子が家督の姓を受け継ぐが、例えばさいが複数いた場合にはそれぞれの長子は共に同じ姓を名乗ることになる。当主にはかつて異母兄がいたため、臣下に対して同じ姓の者への呼び分け方と同様に紅珥と言ったり、単に珥懿と呼ばれる。もっとも、後者に至っては当主の下名を呼びつけできる者など限られるから、ほぼ使わない。


 これは族名ぞくみょうを頭につける牙族特有のものだ。他方、泉国であれば家名である姓が受け継がれ、個人には氏名うじなあざなが与えられるから一家の中に姓が違う者はいない。牙族において長子以外には固有の姓を与えて家名とするのは特定の一家の存続より一族共同体としての強い結びつきと拡大を優先させた結果だといえた。


 しかしここにいる三人に姓は無い。識別する為の名のみが与えられている。全員が『牙族族主』としての役割を果たしている。もちろん、当主は珥懿一人で最終的絶対的決定権があるが、三人が『当主』として関わる他国との商談、会談にはそれぞれに裁量が与えられている。彼らは他国への『牙族族主』の為人ひととなりを撹乱する為の手段であり、より多く取引を行うための当主の分身として存在する。平たくいえば替え玉だ。彼らは公では当主として振る舞い行動する。当主が表の光であるならば彼らは裏の闇にまう。それで彼らを彩影さいえいと呼び習わす。彩影の存在は城の中でも限られた者しか知らない。

 彩影は取引に関わる全ての情報を当主と共有する。それによる商談によって、言を大きくするならば他国の――ひいては一族の命運が分かれるのだから、情報の共有は絶対に必要なことだ。それでその日どのような商談や取引をしたのか綿密に記憶し、今後どのような流れを作るのかを話し合う場がここ幽庵となっている。地下に掘られた小房は外界の全ての音を遮断する。


 今日も大層な時間をかけて四人で会合を持つ。四泉の話には三人とも面白がった。

「戦がしたいから傭兵を貸してくれという依頼なら山ほど来たことがあるけれども」

 丹が腕を組んだ。「まさか戦わずして敵を退かせたいなどと言ってこられたのは初めてだな」

「金持ちの平和ぼけしたボンボンが言いそうなことだ」

 炎が笑いながら新しい莨を噛む。「しかもその方法を考えろと。頭が弱いのかよほど兵力が無いのだな」

「……四泉は建国から他国と戦をしたことがないもの。内乱でさえ数えるほどだからそもそも兵卒なんて見張りと土木工事くらいしかやったことないんだ」

 茜は香ばしい匂いのする茶を湯呑みに淹れながら呟く。珥懿の前に置き、上目遣いに窺った。

「それで、どうなさるおつもりです。兵を八百貸したところでいたずらに死なせるだけでは」

 そうだな、と珥懿はあらぬほうを見ている。

「二泉のはらも気になる。本当に四泉を侵し沙家を征服したとして黎泉が沈黙を守る保証はない。それと、撫羊軍を構成する由歩が思っていたより多い」

「それは気になりますね。二泉にそれほど由歩がいたとは間諜からは伝えられておりませんでした」

「二泉には中枢にいる間諜が少ないですからな」

 丹が唸る。「二泉は侮れん。聞得ほどではないにしろ鼻の利く奴が多い。軍人が多いゆえ怪しげな気配には敏いとみえる」

「二泉に灌鳥とりは?」

 飛ばした、と珥懿は抱えた片膝に顎を乗せた。「二泉の主泉しゅせんの水位が下がっているというしらせもなにか関わりがあるのか…」

「黎泉に見限られはじめた、とかじゃねーの?」

 茜が異を唱えた。

「それはないと思う。過去に黎泉が正当な理由なく水門を閉じた例は無い。不正当な理由を正当とするなら二泉の四泉への侵攻が挙げられるけれど、そもそも攻撃している軍の長は四泉主の実妹であるから侵犯とは見なしていない、という説が有力だ」

「内輪の喧嘩だと?」

「実際、四泉側が黎泉に調停を求めてもこの数ヶ月何も起きなかったということは今さら水門を閉じたとは考えにくい。仮に水位の低下が二泉の水門を閉じて主泉を涸れさせている予兆だとしても、それは戦を止めるには逆効果。民は何がなんでも隣の四泉に流れ込もうとする」

 流れ込んだとしても二国分の民を養える余力は四泉には無い。流浪の民となれば二泉民は泉が涸れた原因を許さないだろう。そうなれば撫羊たちは支持を得られなくなって瓦解する。

「まるまるひとつの主泉を消してまで無駄な混乱を招くことは黎泉の今までのやり方からすると考えられない」


 黎泉の過去の業からすると、黎泉は大泉地の九つの泉が均衡を保つことを望んでいる。過去、侵掠がなかった訳ではないが、泉が涸れるのはいつも侵掠するほうもされるほうも同時に涸れてゆくものだ。それで実質的に生命線を断たれることで混乱し、戦どころではなくなる。黎泉とは時にそのように無情な働きをする。


「いずれにせよ黎泉がどう考えるのかは我々の範疇を越えるであろうよ」

 茜は珥懿が少し口角を上げたのに気がついた。

「紅珥さま?」

「いや。その今までの事例を知っている者が二泉にも少なからずいるだろうと思ってな」

「どういう意味です?」

「依頼は撫羊軍と二泉に侵攻を思いとどまらせること、だ。戦って欲しいとは言われていない」

 炎が胡座の上で頬杖をついた。

「だが現に兵を貸せといってるのだろ?」

「それもこちらから提案したが直接泉主から頼まれたわけではないし、本当に戦の為に欲しいのか、ただ単に味方が欲しいだけなのか」

 なんだそれは、と炎が呆れた声を出す。

「戦なぞやったことがないのだ、他力本願になるのも無理はなかろう。黎泉が四泉を無視している以上、他国に頼むわけにもゆかず、やむを得ず我らを訪ねたのだろうな」

 丹が四泉に少し同情する素振りを見せる。

「不能渡の泉主が自ら出向いてきたことを考えると礼はわきまえているようですが……国を庶子しょしに預けていると聞いたが、いくら名のある将軍とはいえ主が留守なのでは四泉の士気が下がるし、不安にもなろう。自ら国を空けて得策だったかは分からぬ」


 間諜の報告では、四泉主沙爽は留守の間、国を先代の庶子でもある将軍に守らせている。庶子の名を瓉明さんめいりく妃がまだ後宮に入る前、淕妃の側仕えと先代四泉主との間に生まれ、母と共に淕家に仕える。軍学に進んだあと頭角を現し、五泉や八泉で兵卒として経験を積み、四泉に戻り将軍となった。沙爽の母淕妃は瓉明とその母を常に側に置き、四妃として沙爽と沙琴を産んだ後も重用していた。その経緯から沙爽とは親交がある。国を任せるくらいなのだから彼にとっては信用できる相手なのだろう。


「正しかったのかは知らない。だが我々にとっては良い駒だ」

 珥懿がそう言い、三人は顔を見合わせる。

「……何を考えてる」

「撫羊軍と二泉軍は動きが早い。これを抑えつつ、客お望みの仲直りの方法を考えねばならん」

 湯呑みを持ち上げて微笑んだ。

「久しぶりに稼げそうだ」


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