或る青年の幸福(一)②

 車を降りて目の前にあったのは、大きな木製の門。周りは石造りの塀で囲まれており、その向こう側には松の木が覗いている。


 見るからにお屋敷だ。


「ここがうちだ」

「はあ……」


 言葉も出ずに松原さんの顔を覗く。別になんてことなさそうな顔。俺がこんな家に住んでいて、そこに人を招いたなら、きっともっと得意げな顔をしてしまう。


「なんだぁ時化た面しやがって。気に入らねえか?」

「いえ、そういうわけではなく……」

「まあいいさ」


 行くぞ、と小さく言うと、松原さんはつかつかと歩き出す。慌てて俺も追いかけた。


 車から降りていた運転手さんが門を開ける。その門をくぐると、異様な光景が広がっていた。


 白い玉砂利が敷き詰められた日本庭園。そこにズラリと並ぶ黒服の男たち。


 鋭い目線をした彼らは松原さんを見ると、ザッ! と音がしそうなくらいの勢いで一斉に頭を下げた。


「おかえりなさいませ、組長!」


 何重にも響く男たちの声。びりびりと鼓膜が震え、俺はとっさに松原さんの後ろに隠れてしまった。


「おう。ただいま」


 当の松原さんは飄々とその声に答えると、一番近くにいた男性に鞄を渡した。


「これ頼むな」

「はい。お預かりします」


「ところで、定臣さだおみはどうした? 帰ったら話があると電話していたはずだが」

「親父様。私ならここに」


 声の方を、松原さんの陰からこっそり見る。ずらりと並んだ黒服の男たちで出来た道。その先にひとりの若い男性が立っていた。


 その男性は、周りの男たちと同じように黒いスーツに黒いネクタイを締めていた。切り整えられた髪は、ワックスを使っているのか自然な流れを描いている。銀縁の眼鏡が日光を受けて反射していた。


「おお、定臣! 待たせたな!」


 松原さんは満面の笑みでその男性に軽く手を振ると、男たちに挟まれた道をそのままスタスタ進む。俺もできるだけ松原さんから離れないようにしながら、その後を追った。


 俺たちを挟む男性たちの顔を見る。皆一様に怪訝そうな顔で俺を見ていた。ふと、そのうちのひとりと目が合って、慌てて目を逸らす。……ここで、俺はようやくここが「普通の家」ではないことに気付いた。


 松原さんが立ち止まったのに気付き、俺も立ち止まる。目の前には先ほどの「定臣」と呼ばれた男性がいた。


「いいえ、親父様。ちょうど執務も終わったところでしたから。……ところで、後ろの子どもは?」


 定臣さんは、松原さんの後ろに隠れている俺をじろりと見た。その視線と、眼鏡越し目が合う。俺は身をすくめながらも、なんとなくここで退いてはいけない気がして、気持ち姿勢を正して彼を見つめ返した。


「ああ、こいつは実次。真野の倅だ」

「真野? 真野って親父様自ら追っていた売人バイヤーの?」


 定臣さんは改めて驚いたように俺を見てきた。……ここは、挨拶をしておいた方がいいかもしれない。


「初めまして。真野実次と言います。本日からこちらでお世話になります」


 俺はそう言うと、腰を折って礼をした。


「偉いなあ、実次。ちゃんと挨拶できるじゃねえか。俺と最初会ったときはつれなかったけど」

「ちょっと待ってください。新しい部屋住みってこの子どものことですか?」


 定臣さんは目を白黒させながら、眼鏡のアーチを中指で押し上げた。


「俺が連れてきた。詳しい経緯は昼飯がてら話そうか。ひとつ部屋を用意させてくれ。そこで昼飯を摂る。三人分運ばせろ。準備ができたらしんに俺を呼ばせろ」


 松原さんは定臣さんの肩をぽんと叩くと、「よろしくな」と言い添えて歩き出した。


 もう一度定臣さんと目が合う。先ほど同様、信じられないという目だ。俺も正直自分の置かれている立場がまだよくわかっていないので、多分同じような目をしていたと思う。


「実次。呆けていないで付いてこい」

「は、はい」


 松原さんに呼ばれ、俺は小走りで追いかける。立ち止まっていた松原さんは、俺が追いついたのを見ると改めて歩き出した。


 白い砂利道に敷かれた飛び石の上を歩く。広い庭には松の木が所どころ生えていて、向こうには石に囲まれた池があるのが見えた。昔テレビで見た高級旅館みたいだ。


「どうだ? お前の家とはだいぶ様子が違うだろう」


 きょろきょろとあたりを見回す俺を見て、笑いながら松原さんは言ってきた。その言葉に俺はこくこくと頷く。


「人がたくさんいます」

「そうだな。全員うちに住んでるんだ。お前の兄貴になるやつばかりだから、きちんと挨拶しておけよ」

「はい」


 兄貴。兄という存在に憧れていた。俺がもしひとりっ子じゃなかったら、あいつの暴力が俺とお母さん「だけ」に降り注ぐことはなかったかもしれない。でも、もう死んだから関係ない。俺が殺したから。


 庭を見回しながら歩いているうちに玄関に着いた。また木造りの立派な玄関だった。松原さんが引き戸を開けると、そこには派手なシャツを着た坊主の男の人が靴べらを持って正座していた。


「組長! お疲れ様でございます!」


 男の人はさっと頭を下げながら、松原さんに靴べらを差し出した。


「おう、ただいま。ところで慎吾、部屋の用意はしてくれたか」


 松原さんは慎吾と呼んだ男の人から靴べらを受け取りながら話しかけた。


「はい! ばっちり俺の隣に!」

「そうか、ありがとうな」


 松原さんが脱いだ靴を、慎吾さんはさっと隣の靴箱にしまった。そこでようやく俺と目が合う。


「……組長。このガキは誰ですかい?」

「ああ、こいつは実次。お前に用意してもらった部屋に今日から住む」

「へっ!?」


 慎吾さんは素っ頓狂な声を上げて尻もちをついた。


「初めまして。真野実次と言います。今日からこちらでお世話になります」


「く、組長? 俺、新しい部屋住みが来るって定臣兄さんに聞いていたんですが??」

「ああ、だからこいつがその『部屋住み』だ。お前の弟分に当たるんだから大事にしてやれ。……実次。靴はそこに置いたままいいから上がれ」

「はい」


 僕は靴を脱いで家に上がった。その様子を慎吾さんはひどく驚いた顔のまま見ていた。


「いやいやいやいや! こんなガキが本家の部屋住みなんて聞いたことないっすよ!」

「なんだ、おめえ俺の決定に逆らう気か」

「いえ、そんな滅相もねえ! だけど、あまりに驚いて……!」


 慎吾さんは両手を前にして、慌てたように弁明した。


「とりあえずお前は実次こいつを部屋に案内してやれ。ついでにここのことも教えてやってくれ。しばらくしたら定臣が声をかけるだろうから、そしたらこいつを連れて俺を呼びに来い」


 松原さんは手をひらりと振ると、「俺ぁ部屋で休む」と言ってつかつかと歩き出した。その様子を俺と慎吾さんは茫然と見送る。


「えっと……」


 しばらくして、慎吾さんが俺に声をかけた。


「とりあえず、おめえ名前は何だっけか?」

「実次です」


「そうか。実次……。俺は高田慎吾。ここの部屋住みだ。慎吾と呼んでくれ」

「あの、よろしくお願いします」

「ああ。……とりあえずついてこい」


 慎吾さんは頭を掻きながら、廊下を歩きだす。俺はその後を追った。


「おめえ、ここがどこかわかってるか?」

「えっと、松原さん家……ですか?」

「松原さん!? おめえ組長のことそう呼んでんのか!?」


 慎吾さんはぎょっとしたような顔で俺を見た。


「え、あの人のことですよね」

「その様子じゃここがどこであの人が誰か、なんもわかんねえで来ちまったって感じか」


 慎吾さんはハァ、と大きくため息をつきながら頭を掻いた。


「ここは松原組。いわゆるヤクザだ。関東全域に関係組織を持つ、日本屈指の組合だ」


「やっぱり……そうなんですね」

「なんだ、意外と驚かねーんだな」


 慎吾さんは俺のことを見下ろした。


「なんとなく。そんな気がしてました。『俺のバックにゃすげーヤクザがいる!』……というのが、俺の父親の口癖でしたから」

「はあん。なんつーか、小物感のある親父さんだな」


 慎吾さんはさして興味もなさげにそう言うと、話を進めた。


「で、あの人……松原親成さんが、その松原組総本山の組長、大親方だ。俺はここで部屋住みとさせてもらってる」


 ふと慎吾さんは歩みを止め、右にある襖の方を向いた。


「ここがお前の部屋だ」


 慎吾さんはそう言うと、襖を開いた。


 畳張りの小さな部屋だ。学校の教室の半分ないくらいの広さ。奥には机と小さな棚がある。左には入り口のほかにもうふたつ襖が並んでいた。


「左の押し入れに布団が入ってる。夜は自分で敷いて寝ろ。朝は六時起きで炊事掃除洗濯だ」

「はい」

「とりあえず部屋で待て。しばらくしたら呼びに来てやる」

「わかりました」


 慎吾さんは唐突に俺の方に振り返った。なんだか怒っているような顔だ。


「えと、ごめんなさい。何か俺しちゃいましたか」

「おめえ、子どもにしては妙に落ち着いてるな。俺がガキのころなんざもっと馬鹿だった」


 慎吾さんはため息を吐いた。


「まあいいや……。俺は左の部屋にいる。なんかあったら呼べ」


 慎吾さんは俺に興味を失ったようで、さっさと部屋から出て行ってしまった。

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アコナイトを花束に(旧題:シュガーレス・イノセンス) 成田葵 @aoi_narita

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