或る青年の幸福(一)

或る青年の幸福(一)①

 暑い夏の日だった。むせかえるような鉄の匂いが、扇風機の風に乗って漂ってくる。気持ち悪かった。頬に垂れる汗を拭う。


 つけっぱなしのテレビでは今日が八月の終盤であることと、気温が三十二度まで上がること、そして一日中快晴となる見込みであることが告げられていた。


「もうすぐ、夏休みも終わりますね! どうか熱中症にはお気をつけて!」

「……夏休み?」


 そっか、本当なら夏休みなのか。しばらく学校に行っていないから忘れていた。


 テレビから視線を外し、目の前でうつ伏せに横たわるを改めて観察する。……どうやら死んでいる、っぽかった。息はしていない。びくともしない。頭は血塗れ。よくわからない肉片が散らばっている。俺の手には焼酎の角ばった瓶。同じく血濡れている。


 どこからどう見ても、俺が殺したことは明白だった。


「どうしよう……」


 ひとまず汚れていない場所を選んで座った。スーパーで値引きされた弁当を思い出す。安かったからと買い溜めてたのに、気付いたら腐ってた。冷蔵庫に入れてたのに。多分、も放っておいたらあっという間に腐るだろう。


「今日は三十二度だしなあ」


 立ち上がって冷蔵庫を見る。アルコール度数九パーセントの缶酎ハイがびっしりと入っている。あとは賞味期限が切れたマヨネーズ。缶酎ハイをどけてしまえば、を入れることもできそうだが、弁当を思い出すと少し心配だ。そのときの反省を思い出す。


「冷凍庫は?」


 冷凍庫も開けてみる。空っぽだ。


「こっちにしよう」


 少し狭そうだけど、イメージした感じだとうまくいきそうだ。もちろんこのままじゃ難しいだろうけど。


 俺は部屋に戻って、の足を掴んだ。思いっきり引く。その瞬間、肩に激しい痛みが走った。


「ッたあ……、……ちっ」


 さっき、こいつと揉み合ったときに痛めたんだろうか。青痣も生傷も打撲も、慣れたもんだと思っていたけど、いざ痛むと邪魔くさい。でも仕方ない。痛むのを堪えながら、俺はを引っ張って風呂場に向かった。


 風呂場に何とかを引き摺り込む。廊下を見ると部屋まで血の跡が続いていた。べったりと赤い血は、まるで道みたいだ。


「掃除めんどくさ……」


 どうせ部屋も掃除しないといけない。いったん血痕は放っておく。キッチンに戻り、俺は包丁を取り出した。


「よし」


 こいつは身体がでかい。俺より三十センチメートルは背が高かった。そのまんまじゃ冷凍庫に入らない。でも解体してバラバラになればうまく入る気がした。


 まずは小さなパーツに分けよう。うつ伏せに転がるの首に包丁を当てる。引いて、押して、また引いて。血がまだボタボタと流れる。あっという間に風呂場は真っ赤に染まった。ブチブチと音を立てて首に切れ込みが入っていく。順調だ。


「ん? ……あれ?」


 包丁が進まない。ブチブチ音も鳴らない。妙に硬い感触。骨に当たっているみたいだ。


「むり……かな」


 包丁で切るのはどうやら限界のようだった。仕方ない。ほかに切りやすいものを探そう。


 とりあえず手を洗う。ふと鏡を見ると、服は血で真っ赤だった。これを切りながら垂れてきた汗を拭いたからか、顔にまで血がついている。流すのも面倒なので、ひとまずそのままにしておく。


 水を止めて濡れた足のまま風呂場を出る。鋸か何かないかと思い玄関の方を向くと、



 ひとりの男が立っていた。



 初老の男だ。濃い灰色のスーツをびしっと着こなしている。銀色の髪は後ろに撫でつけられていた。


 男はきょろきょろとあたりを見回していたが、俺を見つけるとじっと見つめてきた。気付かなかった。いつの間に入ってきたんだろう。首を切るのに集中しすぎていた。


真野まのの倅か? あいつはどうした」


 男は俺を、頭からつま先まで舐めるように見ながら言った。


「えっと、今取り込み中で……。またにしてもらえませんか」

「みたいだな」


 男の目線は俺の頭を越えた、部屋の中に注がれていた。


「何があった」

「今片付けてるんです……。ちょっと待ってもらえませんか」

「そんな血塗れで言われたら気になっちまうよ」


 男はそう言って鼻で笑うと、そのまま土足で踏み込んできた。

「……っと。ここにいたのかい」


 男は俺のいるところまで歩いてくると、風呂場を覗いて立ち止まった。つやつやに磨かれた革靴が、あいつの汚い血痕を踏みつける。


「死んでるのか」

「多分……?」


「『多分』? 首まで切りつけておいてよく言うねぇ! これは坊主がやったのかい」


「……。俺、もう殴られるの嫌で……。それで殴り返したら、動かなくなった」


「一発なんてもんじゃねぇだろ、このザマじゃ! こりゃ傑作だ! あいつ、自分の倅に殴り殺されて死にやがった!」


 男はゲラゲラと心底おかしそうに大口を開けて笑った。ひとしきり笑い、黒手袋をはめた指で目元に浮かんだ涙を拭う。


「ひぃ……! 涙が出るまで笑ったのなんて久々だ。……で、坊主。おめえ、親父さんどうするつもりだったんだ? バラして捨てちまおうって魂胆か?」


「捨てる……? なんでですか?」


「は? 違うのか? じゃあなんで」

「弁当」

「ん?」


「弁当は腐ったんだ。今日は暑いし、夏だし。腐ったら臭いじゃないですか。だから、腐んないように、冷凍庫にしまっておこうかなって」


 男は俺の顔をじっと見た。「目を皿のように丸くする」という慣用句を学校で聞いた気がする。ちょうどこんな感じの顔だったのかな。


「坊主……おめえ、隠そうとか思わなかったのか?」


「隠すって……誰もこんなところ来ないですし。……あなたこそ、誰ですか? 何しに来たんです?」


 用がないなら帰ってほしかった。俺はこれを解体するので忙しいし、狭い家にふたりと一体、いるのは邪魔だ。


「……ははっ」


 男は僕を見開いた目で見つめたまま、小さく笑った。


「坊主、名は?」


「……真野 実次さねつぐ


「そうか」


 男はそう言うと、しゃがんで俺に目線を合わせた。


「俺は松原まつばら親成ちかしげってんだ。おめえの親父さんの、まあってとこか」


 男——松原さんはにやりと笑うと、俺の頭に手を乗せた。急なことに思わず身を固める。


「実次、俺はお前が気に入った! あとのことは任せておけ! とりあえず着替えてこい! 出かけるぞ!」


 松原さんはそう言うと、笑顔で俺の頭をくしゃくしゃと撫でたのだった。



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「おめえ、こういうときガキってのはパフェとかパンケーキ頼むもんじゃねえのか」


「昨日の昼から何も食べてなくて……。いけませんでしたか?」

「うんや、別にいいんだけどよぉ」


 松原さんはハンバーグを頬張る俺を見ながら、煙草の煙を吐き出して言った。


 時刻は十時。あの後父親の死体の脇で血を流し着替えた俺は、松原さんに連れられて真っ黒な車に乗り込んだ。運転手さんに「近くのファミレスまで走らせろ」とだけ言うと、松原さんは車の中でずっと電話をしていた。掃除屋がどうのと言っていた。


 その後しばらくして着いたファミレスに入り、今に至る。


「あの、松原さん」

「ん? なんだ?」


 松原さんはドリンクバーのブラックコーヒーを飲みながら答えた。俺が注いできたコーヒーだ。視線を感じて、松原さんの後方を見る。目が合ったウエイターのお姉さんが慌てて目を逸らした。


 ……はっきり言って俺たちは目立ってる。平日の昼間、異常に身なりのいい初老の男と、首元の伸び切ったTシャツを着た子ども。ここはただのファミレスだ。日常とはかけ離れている。


「おい、実次。どうした」

「あ、えと、ごめんなさい。……その、俺はいつになったら家に帰れますか?」


「は? おめえ、家に帰る気なのか?」

「だってあれ、片付けないと……」


 俺は気が気じゃなかった。蝉の声がする。これからどんどん気温は上がるだろう。早く冷凍庫にしまわないと腐ってしまう。


「ああ、おめえの親父さんのことなら気にしなくていい」


 松原さんは煙草を灰皿で潰しながら言った。


「俺の部下が片付けている。上手いことやるさ。プロだからな」

「プロ……?」

「ところで、おめえ自分の親父さんがどんな人間だったか知っているのか?」


 俺は自分の父親を思い出した。思い出して、吐き気を催した。


「……くそみたいな人間でした」

「お袋さんはどうした」

「半年くらい前に出て行きました。俺をいつも庇ってくれてたから……。今どこにいるかはわかりません」


 お母さんを思い出す。優しかった。でも、いつも泣いてて、俺以上に傷だらけだった。あの日は俺が最後に学校に行った日でもあった。


 テーブルに「ごめんね」という手紙とともに置かれた一万円札。本能的にもうお母さんには会えないんだとわかった。


「そうか……実次、苦労したんだな。…………デザート食うか?」

「いいんですか?」

「おう。好きなもの食え」


 松原さんはメニューのデザートページを俺に見せながら笑った。


 俺は夏限定だというマンゴーのパフェを注文した。マンゴーは食べたことないけど、黄色いフルーツは見ているだけで元気になりそうだった。


「ここじゃ詳しくは言えないけどな、おめえの親父さんは……っと」


 テーブルに置いてあった松原さんのケータイが震えた。


「実次、悪いんだがコーヒーのおかわり持ってきてくれねえかな。ブラックで頼むよ」


 そう言うと、松原さんは電話を取った。何か話し始める。どうやら電話の間は席を外せということらしい。


 父親の話は聞きたかったけど仕方ない。俺は松原さんのカップを持って、ドリンクバーコーナーに行った。


 松原さんのコーヒーと自分の分のメロンソーダを注いで席に戻る。パフェが来ていた。松原さんは電話を終わらせたらしく、新しい煙草に火を付けているところだった。


「ありがとな、実次。おめえの家だが、片付けが済んだらしい。これで全部きれいさっぱりなかったことだ。おめえの親父さんはどっか行ったっきり帰ってきてねえ。わかったな」


 松原さんは僕をじっと見つめながら言った。あまりに鋭いまなざしに、心臓を刺されたような気持ちになる。


「わかりました」


「よし。いい子だ。……ところでおめえ、親父さんに似てるって言われねえか」

「えっ」


 似ている? 僕とあいつが?


「はじめて言われました」


「そうか。あいつはなかなかの美男子だった。それで商売やってるようなもんだったしな。おめえさん、あいつによく似てるよ。学校じゃモテるだろう」


「どうでしょう……最近行ってなくて」

「はあ!?」


 松原さんは煙草を持ったまま身を乗り出して僕に詰め寄った。


「あいつ、自分の倅学校にさえ遣ってなかったのか!? おめえ幾つだ?」

「九歳です」

「九歳! ガキじゃねえか」


 松原さんは呆れたように、身体をソファに沈めた。


「おめえさんみたいなガキがあんなことしちまうとは、正直信じらんねえ……。まあ、やっちまったもんは仕方ねえよな」


 人間追いつめられると何するかわからんなあ、と呟きながら、松原さんは煙草をふかした。


「松原さんはあの人とどんな関係なんですか」

「ん? 俺と真野との関係か?」


 僕は頷く。さっき聞き損ねたことを、もう一度聞きたかった。


「そうだなあ。あんまりでけえ声じゃ言えねえな。ただ……そうだな。昔お前の親父さんの面倒見てたんだ。けど、いろいろあってな。俺、裏切られちまったんよ」


「うらぎり?」


「まあ、俺が『それだけはすんじゃねえぞ』って言っていたことをあいつはやってたんだ。だからその『処分』をするために、最後の情けで俺自身が来たわけだが……。まさか、あんなことになっているとわねぇ……」


 松原さんはソファに深く寄りかかると、上を見ながら煙草の煙を吐いた。


「実次ぅ」

「はい」

「おめえ、この先どうすんだ」


 この先。考えてもなかった。父親は死んだ。俺は自由だ。


「うまいことやります。もう殴られないし」

「馬鹿言え。ガキひとりで生きていけるほど世の中甘くねえぞ」


 松原さんは低く響く声で言った。その声が持つ凄味に俺の身体はひとりでに震える。


「でも、もう、誰もいないし」

「実次、俺はおめえの根性と度胸を買ったんだ」

「え?」


 想像だにしていない言葉に、僕は素っ頓狂な声を上げる。そんな俺を余所に、松原さんはぐっと僕に顔を寄せる。煙草と香水の香りがした。


「おめえ、うちに来ねえか?」

「松原さんの家に、ですか?」


「まあ、そういうことになるか。飯は食わせてやるし寝る場所もやる。俺の傍にいるのに半端な格好させられねえし、新しい服も買ってやる。学校も行かせてやるさ。何もねえあの家に戻るよりよっぽど良くねえか?」


 ただ、と言いながら松原さんはいたずらっぽく笑った。


「ちょっとうちの『仕事』を手伝ってもらうこともあるけどな! まあおめえさんはまだ子どもだし、大したことはさせないさ。さあどうする? うちに来るか?」


 松原さんの目を見つめながら俺は考えた。松原さんの言う通り、家に帰ったところで俺は独りで生きていけないかもしれない。松原さんの提案はすごくいい提案だった。


 でも、ひとつだけ確認しないといけないことがある。


「松原さんは、どうしてそんなに僕に優しいんですか」

「ああなんでって……そうだなあ」


 松原さんは俺から顔を離すと、ドサッとソファに身を沈めた。


「まずはおめえ自身の度胸に惚れ込んだわけだが……。ああ、あと」


 松原さんはテーブルに頬杖を付いて言った。


「俺、最近娘が生まれたんだ。これが可愛くてなあ。すっかり子どもに弱えんだ。だからおめえのことも放っておけねえんだよ」


 なあ、来るだろう? とにこにこと笑いながら松原さんは言う。その笑顔にすっかり毒気が抜かれた俺は、その魅力的な提案に頷くしかなかった。

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