夕立

増田朋美

夕立

夕立

今日は朝から、また三十五度近くになる、猛暑の日だった。そんな日だったから、雨が降るなんて誰も予測せず、仕事に行く人は仕事に行くし、家で何かしている人は、家で何かする。いつもと変わらない日々が繰り広げられている。そんな猛暑日に必ずあるのは、激しい雨風と雷を伴ういわゆるゲリラ雷雨と言われるものであった。そういうことのおかげで、大雨警報が出て、そのあと避難指示が出て、五十年に一度の大雨という言葉が出て、その積み重ねだ。もしかしたら、五十年に一度ではなくて、毎年の恒例行事になってしまうのも、当たり前の事であった。

そういうわけで、製鉄所には、この猛暑に耐えられない人が集まっていた。その猛暑のせいで、精神がおかしくなってしまって、精神科に駆け込んで、安定剤などをもらって、どうにかこうにか生きている人がいる。大体の人は、そういう事で、迷惑だとか、いなくなってほしいとか、そういう言葉を並べ立てるが、そういう、異常気象にたえられないでいる人は、確実に増えているというのは、確かだった。

そう言うわけで、製鉄所には、最近怖いことばっかり起きているねと、いう言葉が並び立って、毎年夏になるのが本当に怖いとか、日本は災害ばかりで非常に困ると言い合う人が多くなった。

その日も、三十五度を超えた猛暑日だったが、空を見上げると、入道雲がきれいに広がって、まるで写真にでも撮りたくなるような、そんな空模様だった。

「はい、今日も、ほんとに少しだけど、食べてくれてよかったわ。明日は、もっとたくさん食べてくれるようになってね。」

製鉄所の利用者が、水穂さんの口元をタオルで拭いてやって、そっとかけ布団をかけてやりながらそういうことを言った。

「まあ、たくあん一切れで、たくさん食べてくれたと言えるのかなあ。それでも何も食べないよりはましか。」

一緒にいた杉ちゃんが、そういうことを言った。

「まあ、杉ちゃんたら、そんなことを言って。いつも肯定的に考えろというのは杉ちゃんでしょ。」

と、利用者が明るい声絵で言うと、

「こんにちは。」

と、顔の汗を拭きながら、ジョチさんがやってきた。

「ああ、理事長さん。今日はまた暑いですねえ。全く、この暑さ、いつまで続くんでしょうね。」

利用者は、そういうことを言って、ジョチさんにスペースを開けた。

「そうですね、先ほど、彼と遭遇して、アフリカとあまり変わらないくらいの暑さだと伺いました。全く、日本の夏も、暑くなったものです。」

とジョチさんがそういうと、こんにちはと言いながらやってきたのは、バラフォン奏者のキュイであった。

「なるほど、暑さに強くていいなあ。何も汗をかいてないじゃないですか。」

利用者は、キュイに言った。

「まあ、暑いですけどね。故郷では、エアコンも何もありませんでしたから、平気ですよ。逆に冬の寒さは、私には堪えるけど。」

キュイは、ジョチさんの隣に座った。もう正座もすっかり慣れてしまっているのか、平気な顔をして畳の上に正座をしている。

「所で、水穂さん具合はどうですか。」

「ええ、最近は安定しているみたいで、たくあん一切れでも食べてくれるので、良かったと思ってます。」

と、キュイに聞かれて、杉ちゃんは答えた。

「たくあん一切れですか。それではいけませんね。もっとしっかり食べないと、体力が付きませんよ。せめて、そばいっぱいは食べないと、体を持たせるためにもね。」

と、ジョチさんに合わせて杉ちゃんは、そうだそうだまったくだとにこやかに笑って言った。

「それにしても、今日は、入道雲が出てますね。まるで、私どもの国で雨季によくあった雲と似たような感じです。私たちは、美しい雲が出れば、雨が降るということで、喜んだりしたものです。雨季になる前は、もう暑くて乾燥してどうにもならないところでしたからね。40度何てざらにありましたけど、まさか日本が同じ温度になるとは思いませんでしたよ。」

キュイはにこやかに笑った。みんな確かに、こんなに暑くなるとは思わなかったねえ、とにこやかに笑いながら、お互いの顔を見合わせた。

「あ、一寸雷が鳴りだしましたね。」

とジョチさんがそう言いだすと、何処かでゴロゴロという音がした。そうすると、空が急に暗くなって、まだ真昼間のはずが、まるで夜のようになってしまった。

「それでは、夕立でも来ますかね。まあ、この地域で夕立はよくある事ですから、あんまり気にしないようにしてください。」

ジョチさんは、そんな風に話をつづけた。数分後、雨が降ってきた。まるで、瀧のような雨で、まるでバケツをひっくり返したような、そんな雨であった。

「ああ、何だか、故郷の雨季にあるような、そんな大雨ですね。私たちも、よく、こういう雨で洪水がよく発生しました。その代わり、乾季には、全然雨が降らないで、すごい旱魃が起こったりしましたけどね。」

キュイは、そういう思い出話を始めたのであるが、それと同時に、ゴロゴロゴロ、ドシーンと大きな雷が鳴った。そのあとまた、ピカピカと稲妻が光り、またゴロゴロ、ドシーン!と大砲でも放ったような大きな音が鳴る。

「すごいですねえ。毎年のことですけど、夏にこんな大雨が降るのも当たり前になってしまうのですかねえ。」

とジョチさんがそういうことを言うと、またピカピカッと電が光って、ゴロゴロ、ドシーン!という音と同時に、部屋のエアコンがぶちっという音を立てて切れた。

「ああ、停電ですか。まあ大したことありませんね。相当大きな、雷ですね。」

とジョチさんが言った。

「なんだか、昼間なのに、夜みたいな天気になっちまったな。」

と杉ちゃんが言ったのと同時に、ゴロゴロゴロ、ドシーン!という雷が落ちた。ちょうどその時、富士市の放送で、土砂災害危険地域の方は、避難してくださいなどとの指示が出たが、雷の音が大きすぎて、そんな事、聞き取れなかった。

「何だよ。市の放送が、雷の音で聞き取れなかったじゃないか、うるさい雷だな。」

と、杉ちゃんがそうつぶやくと、また、ゴロゴロゴロ、ドシーン!という音がする。杉ちゃんたちは、まったく平気な顔をしていたが、利用者の中には雷が苦手な人も少なくない。きゃあ!と悲鳴を上げてしまう人もいる。そのうち、彼女たちは、停電で製鉄所の建物中のエアコンが稼働していないことに、恐怖を覚え始めた。それで、真っ暗に近い部屋の中で電が光って、雷が何度もゴロゴロドシーンという音が聞こえてくるので、彼女たちは、それだけでもかなりの恐怖をもってしまうようであった。水穂さんに食事をあたえていた利用者も、ゴロゴロドシーンという音を聞いて、きゃああと悲鳴を上げてしまうほどである。

同時に、水穂さんも激しくせき込んだ。ジョチさんと、杉ちゃんが、急いで彼の背中をたたいたり、さすったりし始めた。

「ちょっと薬飲ませますから、水を持ってきてくれますか?」

とジョチさんが利用者に言うと、利用者は、あまりにも恐怖で、ものが言えない様子だった。そうなってしまうことはこの製鉄所では珍しくない。其れについてきつく批判する人はいなかったが、一般社会では雷ごときでという人もいるかもしれない。

「私が持ってきます。」

キュイは、平気な顔をして、急いで枕元にあった吸い飲みをとった。そして、ゴロゴロとなっている中、急いで台所に行って、水を持ってきてくれた。

「はい、これで大丈夫ですかね。水穂さん、薬飲みましょうね。」

と、キュイからもらった水を受け取って、ジョチさんは急いで粉薬を吸い飲みに入れて、水でとかした。そしてそれを水穂さんの口元へもっていく。ほら、飲んでと促されて、水穂さんは中身を飲み込んだ。これでしばらくしてくれれば、せき込むのも止まってくれて、休んでくれるはずだ。ところが、この薬に強力な眠気をもたらす成文が入っているのにもかかわらず、水穂さんは、眠ることができなかった。それほど雷がうるさいのと、それと同時に、利用者たちがきゃあと騒ぐからである。

「大丈夫ですよ。停電何て、大したことありません。そんなこと、何も気にしないでいいんです。」

と、ジョチさんは言ったが、利用者たちは、そうとは思えないらしい。それよりも、停電によって何十日もエアコンを稼働できなくて、人がなくなったとか、そっちの方を連想してしまうらしいのだ。雷は、ただの気象現象であるというより、凶器であると考えてしまう利用者のほうが多い。それを、精神科の先生たちは、薬を与えるとかそういう事で落ち着かせようと試みるが、完全に落ち着くことはできないと思う。

「大丈夫ですよ。停電はいずれ治りますから、それは気にしないでください。」

とジョチさんは言うが、

「そうはいっても、理事長さん、こないだの千葉の台風のようになったら。」

「あたしたち、エアコンがなくなってしまったら、真っ先に自殺するしかできないから。」

と利用者たちは相次いでいった。こんな時に、彼らの私的な事情を持ち込んでも困ると思われるが、彼らは、そう思ってしまうらしい。

「あたしたちは、死ぬしか価値がないんです。こういう人間は、頭のおかしい人間として、冷たく扱われるしかないんですよ!だって、あたしたちは働いてないもの。其れしか、人間の価値はないんですよ!」

と泣くように叫ぶ彼女たちに、そういうことを持ち出しても、困るだけどなあと杉ちゃんがでかい声で言った。

「そうですよね。確かに働かざる者食うべからずと言いますし、それでは確かに日ごろから、自分を責めてしまう気がしてしまいますよね。こういう時は確かにつらいでしょう。」

泣いている彼女たちに、キュイが、そういうことを言った。

「私たちも、何回も雨季に大きな洪水に遭遇いたしました。まだ私たちは家をしっかり建てる技術がないので、家がつぶれることも多かったですし、村中が壊滅したこともありましたよ。毎年、雨が降るたびに、そういうことが起きるので、怖がって泣く人は、結構いましたよ。」

「そうなんだねえ。キュイさんの故郷では、家を建てられなかったのか。」

と、杉ちゃんが彼の話に相槌を打つ。

「ええ、まだ、アスファルトもなければ、鉄骨もありませんし、木造建ての家を建てることもできなかったんです。そんなことができるのは、村のえらい方だけですよ。だから、私たちは、洪水に見舞われると、村の統治者の家に駆けこんで、しばらく住ませてもらいました。戸籍のようなものもありませんでしたから、誰でも他人の家に、住んでしまうことはよくあったんです。」

「へえ、面白いところだなあ。」

「ええ、確かに面白いところですが、電気もなければガスもなく、水は、川の水を飲んでいましたし、食料は、動物を弓で撃ってその肉を分け合って食べてました。なんでも、ボタン一つで解決する国家ではありませんでしたから。」

杉ちゃんがそういうことを言うと、キュイはあっさりとそういうことを言った。

「それでも、不思議なことに、人間は、生きられるものなんですよね。まあ、確かに、便利なものがなくなってしまうのは、恐怖感があると思いますが、私たちは、何も便利な物もないところで、こうして生きられてきたんですから、それは大丈夫だと思ってくださいよ。もし、何か失ってしまったら、私たちを使ってくれればいいんです。何もない国家から来た人間も、こういう時には役に立つもんですねえ。」

「なるほど。人間、価値のない奴などいないんだなあ。必ずどこかで役に立つ分野があるもんだね。」

と、杉ちゃんがそういう事を言うと、利用者たちは、ありがとうございます、と言って、泣くのをやめてくれた。

「ええ、大丈夫ですよ。私は、電気もガスも水道もないところで、長く生きてきましたから。」

「そうなると、どっちが良い生活しているのか、わからなくなりますね。」

と、キュイの話にジョチさんが言った。いつの間に、ゴロゴロなっていた雷は、どこかへ行ってしまったようだ。先ほどまでうるさいくらいなっていたのに、今は一寸小さな音でつぶやいているような、その程度になっている。

「ああ、こうなると、雷も止むかな。熱中症にならずによかったねえ。」

と、杉ちゃんはのんびりとした口調でそういうことを言ったが、

「杉ちゃんよく平気ね。私はもう暑くて、もし男性がいないところだったら、服を脱いでしまいたいほどだったわ。」

と、利用者の一人がそういうと、

「まあ確かに暑いですが、着物ですと、さほど暑く感じないんですよ。やっぱり着物は、夏の高温多湿によくあってますね。暑くないかと僕たちも聞かれますが、日本人の知恵だと思いますね。」

とジョチさんが言った。へえ、そうなんですか、と利用者たちは、興味深そうに杉ちゃんとジョチさんを見た。杉ちゃんはいつも通り、黒大島の着流しを着ているし、ジョチさんは、単衣の正絹の着物を身に着けている。

「いいですね。日本にも、そういう優れものがあるじゃないですか。私たちの故郷では、旱魃とか熱中症で死亡する人が後を絶たないですよ。そういう、湿気を逃せる衣類があれば、また違うかもしれない。」

キュイは、杉ちゃんたちの着物を見て、そういうことを言った。

「まあ、人間同士ですもの、完璧な文化というものはありません。それらの文化がまじりあって、僕たちは、生きているんだと思います。」

とジョチさんが言うと、またエアコンから涼しい風が吹いてきた。ということは、停電から回復したのだ。ああよかったねえ、と、利用者たちは、大きなため息をつく。

「まあ、今回は、比較的早く、停電治ったな。全く、こういう時は、何もできなくなっちまうのが、今の社会というべきなのかもしれんねえ。」

と、杉ちゃんがでかい声でそういうことを言った。ようやく雷も治まってくれたらしい。やがて、真っ暗だった部屋も、少しずつ明るくなってきた。ようやく、水穂さんも力が抜けたのだろうか、静かに眠り始めたのだった。ジョチさんが、静かにかけ布団をかけた。



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夕立 増田朋美 @masubuchi4996

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