滅びの国の女王

 自室の大きな鏡の前で、ライラは身支度を整えていた。

 できることは全てやった。後は仕上げだけだ。

「ライラ」

 声を掛けられて、振り返る。いつもと同じ黒いローブのメルが立っていた。

「メル。まだ逃げてなかったの」

「酷いなあ。一人じゃ大変だろうと思って来てあげたのに」

 数ヶ月前、反乱軍の弓矢に倒れたメルだったが、今ではすっかり元気になっている。

 鏡台の前に置かれた銀の髪飾りを手に取って、メルはぽつりと呟いた。

「手伝うよ。とびっきり綺麗にしてあげる」



 反乱軍の力は、辺境の貧しい村や町の支援を受けて、瞬く間に強大になっていった。

 国王は何度か討伐隊を差し向けたが、反乱軍はその全てを跳ね返した。

 気付いた時には、反乱軍は王都のすぐ目の前まで迫っていた。

 身の危険を感じた国王は、縋り付く王妃や泣き叫ぶ王女の手を振り払い、多数の護衛を引き連れて逃亡した。

 取り残された王妃達は、実家が頼れる者はそちらへ逃げた。王子を産んだ第八王妃は、乞食のような格好で息子の手を引き、夜の闇の中へ消えた。

 城に残ったのは、頼る先のない王妃と王女だけだ。

 反乱軍の慰みものになるくらいならと、自害をした王女もいる。遺書に『私の死体は好きにしなさい』と書かれていた。

 国王が逃亡した直後、ライラは侍女と使用人達、宮廷魔術師に暇を出した。自分が作った孤児院や学校の関係者に金を持たせて、他国へ逃げるようにと促した。

 反乱軍は王族を憎んでいる。王族と深い関わりがあるというだけで、危害を加えられる恐れがあった。

 逃がせる者は全て逃がした。

 ライラは、逃げられなかった王女を守らなければならない。



 髪と同じ月の色のドレス。胸元には青い宝石のネックレス。髪を綺麗に結い上げて、化粧を施し、最後に銀の冠を載せれば完成だ。

「ありがとう。助かったわ」

「どういたしまして」

「じゃあ、メル。今すぐ逃げて。まだ間に合うわ」

「ライラを残して行けないよ」

「メル。私、あなたに生きていて欲しいの」

「私だって同じさ」

 反乱軍はまだ来ない。

 ライラの準備を手伝っている間に、ここまで来れば良いと思っていた。それなら、最期まで一緒にいられる。

「ライラ。私と一緒に逃げようよ。お願いだから」

「私にはまだやることがあるわ」

 ライラが優しく微笑んだ。今まで見た中で、一番美しい笑顔だ。

「お母様達を、私の妹を、反乱軍の好きにさせるわけにはいかないの」

「ライラ、それなら私も」

「お願いよ、メル」

 ライラに手を握られて、メルは言葉を失った。

「お願い」

「…………わかったよ」

 手が離れる。ライラは迷わなかった。背筋をぴんと伸ばして、真っ直ぐ進む。

「メル。元気でね」

 扉の向こうに消える直前、ライラは確かにそう言った。

 ライラの部屋の中に、メルだけが取り残される。





 王女を、反乱軍の好きにさせるわけにはいかない。

 その通りだ。

 そのために、魔術師になったのだから。




 赤く塗られた革に、大きな肘掛け。

 幼い頃、父が座るこの王座に、いつか自分が座る日が来ると思っていた。

 弟が産まれてその夢は消えた。だが、思いも寄らない状況でそれが叶うことになった。

(まさかこんな風に座る羽目になるとは思わなかったわ)

 初めて座った王座の座り心地は、予想よりもずっと悪かった。この椅子に座っていた父は平然としていたが、慣れるものなのだろうか。

 王女達の住む塔は、王座の間の更に奥にある。反乱軍は必ずここを通るはずだった。

 反乱軍はまだ来ない。遠くの方で、何かを乱暴に叩きつける音がする。

 護衛の騎士すらいなくなった、邪魔をする者がないこの城で、一体何を手間取っているのか。城の内装が気に入らずに、力任せに破壊活動にでも勤しんでいるのか。

 やがて、鍵すら掛かっていない扉が乱暴に蹴破られた。反乱軍達がなだれ込む。先頭は、マイアとキースだった。

「遅かったわね」

 王座に座ったまま、ライラは反乱軍を迎え入れた。

「護衛の騎士もいなければ、罠もない。邪魔をするものなんて何もなかったでしょう。何を手間取っていたの」

「王は何処だ!」

 粗野な男の怒鳴り声。キースではない。

 反乱軍は、マイアを除けば全員が男だった。抜き身の剣や斧を振りかざしている者、棍棒を肩に担いでいる者、鍬や鋤など、農業に使う物を武器代わりにしている男もいる。

「あの男なら、とうの昔に逃げたわよ」

「何処にいる!」

「知らないわ」

 怒鳴り声を上げていた男の顔が真っ赤に染まった。手にした剣を振り上げて叫ぶ。

「探せ!」

 雄叫びを上げて、反乱軍が城の奥へと突進しようとした。

 肘掛けを掴み、腹に力を入れる。反乱軍の雄叫びをかき消すほどの大声で、ライラは怒鳴った。

「動くな!!」

 男達の肩が一斉に跳ねる。怯えたように顔を見合わせ、振り上げていた武器をそろそろと下ろした。

 反乱軍を睨め回した後、キースに視線を合わせる。この男だけ、先程の狂乱に参加しなかった。

「王はこの城にはいない。いるのは力のない女だけよ」

「そう言われて、素直に信じると思うのかい、お姫さん」

「姉さん、お願い。私達に従って」

 マイアが今にも泣き出しそうな顔で、こちらを見ている。幼い頃、転んで足を擦りむいた時に見せた顔と同じだった。

 あの時、小さな手を握って立たせてやった。傷口を洗って、擦りむいた膝にガーゼを当てた時に、マイアはぽろぽろと涙を零した。

 大丈夫。よく頑張ったわね、痛かったでしょう。

 そう、慰めたことを覚えている。

 第七王女。腹違いの妹────国に刃を向ける『剣姫けんひめ』。

「好きに探せば良いわ。だけど、王妃と王女には手を出さないで」

「いつまで女王様ごっこをするんだ? それを決めるのはあんたじゃなくて俺達だよ────あの女を捕らえろ!」

「キース! 姉さん!」

 マイアが悲鳴を上げる。すぐに男達の怒号に飲み込まれた。

 武器を持った男達が、ライラへと押し寄せて来る。先頭にいた男が剣を振りかぶり、投げつけようとするのが見えた。

 肘掛けを掴み直し、奥歯を噛み締める。目は逸らさない。悲鳴など上げてやるものか。男達が望むような、惨めな様は見せてやらない────!

 剣が迫る。すぐにライラの腹を貫くだろうその刃は、突然見えない壁に弾かれて床に転がった。

「え?」

「いやあ、男の人は元気で良いねえ。女の子一人にこんな大勢で寄ってたかって襲いかかってさ。実に男らしい」

 聞き覚えのある声がする。

 王座のすぐ脇に、黒いローブの魔術師が立っていた。

「メル…………どうして」

「魔術師っていうのはね、"透明"になったり"障壁"を張ったりできるんだよ」

 メルはそう言って、得意げに片目を閉じてみせた。

「何だこれ」

「魔術師!?」

「ぼーっとするな! 全員で掛かれ! 障壁なんか破っちまえ!」

 キースの号令で我に返った反乱軍は、次々に手にした武器を見えない壁に叩きつけ始めた。

 それを見たメルが大きく胸を張る。

「はっはっは。いくらやっても無駄無駄ァ…………って言いたいところだけど、そろそろ危ないかなあ」

「メル」

「大丈夫大丈夫。何とかするから」

 王座に座ったままのライラの頭を、メルは両腕で抱え込んだ。

 耳元で、聞き慣れた声がする。

「しっかり掴まるんだよ、ライラ」

 ライラが頷く前に、メルの輪郭が解けていった。

 黒く細い糸になってしまったメルが再び集まり、黒い鴉の姿になる。いつもの小さな鳥ではなく、人の三倍はある巨大な怪鳥になっていた。

 ライラは、その背の上にいる。

「メル」

『それじゃ、いっくよー!』

 ライラを背に乗せたまま、メルは嘴を大きく開いて、一声鳴いた。

 空気がびりびりと震え、反乱軍達が悲鳴を上げる。前方にいた男が、耐えきれずに転倒するのが見えた。

 右手の壁が崩れ落ち、外の風が吹き込んでくる。

 呆然としている反乱軍を後目に、メルは壁の穴から外へと飛び出した。

「待て! 逃がすな! 追えーっ!」

 背後から、キースの声が聞こえる。武器を投げつけた者もいるようだが、上空のメルには届かない。

『これで一安心だね』

「駄目よ、メル。戻って」

 呑気な声でそう言うメルに、ライラは硬い声で言った。

「まだユイナとエイラがいるのよ。私一人だけなんて」

『大丈夫だよ』

 メルは優しい口調でそう言った。

『ライラと同じでさ、ユイナ様とエイラ様にも、私みたいな人がいたんだよ』

「え?」

『ライラが時間を稼いでくれたから、その間にちゃんと逃げたと思うよ、お二人とも』

「そう、なの」

『そうだよ』

 風が冷たい。ぬくもりを求めて、ライラはメルの首筋に顔を埋めた。

『反乱軍みたいな連中もいるけどさ、ライラ達に生きてて欲しいって、幸せになって欲しいって人だって多いんだよ。私みたいに』

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