第7話

 ナギがまた野分の元へ現れたのは、美しい紅葉が山を彩った日のことでした。

 野分は偶然、山のふもと茫然ぼうぜんと立ち尽くすナギの姿を見つけたのです。と同時に、野分は、初めて出会った日をどうしても思い出してしまうのでした。

 かつて真っすぐに大金剛ダイアモンドの光をたたえていた瞳には、活力というものが消え去っていました。今はもう、泥池のような濁った光しか浮かんでいません。そうしてナギはぼんやりと、所在なく紅いもみじを見つめているのでした。

 野分は居ても立っても居られなくなって、ナギに声をかけました。

「言っただろう。お前をすてるようなロクデナシの連中だと。最初から期待する方がおかしいのだ」

 はためく朱色の切れ端を見据えると、ナギはなにかを言おうとしましたが、決して言葉にはならなくて、ぼろぼろと涙を零しました。

 朱色の切れ端でナギを包んでやりながら、野分はなにか言葉が続くのを待ちました。ナギの口からは、ひとつ、またひとつと言葉が零れていきました。

 その話を要約すると、こういうことです。

 ナギが帰ってきたことを、母は確かに喜んだそうです。そして、地面に頭を擦り付けて泣きました。「あの時は済まなかった。私はもう殺されたって文句が言えないことをした。それでも、生きていてくれて本当に嬉しい」と。ナギもまた気が付けばぼろぼろと泣いていました。

 それからは母と父、兄弟たちと一緒に暮らしました。家族は貧しく、なんとか日々を生き抜いている有様で、山にいた頃と比べれば決して豊かな生活だったとはいえません。それでもナギは幸せを噛みしめていました。山でつちかった知識や腕力が、家族のためになる。それだけで、ナギは満たされた気持ちになるのでした。

 しかし、そんな生活がずっと続いたわけではありません。白露しらつゆ秋分しゅうぶんへと移ろう頃、母がこんな風に言いました。

「お前もそろそろ、人並みに幸せになる頃かねぇ」

 家族は相談しあって、ナギを豪族に売ることを決めたのです。確かに日々の暮らしは限界で、豪族へ人売りでもしなければ凌げないほどでした。また、そうすれば当分は苦労しないだけの見返りが期待できました。

 豪族としても、ナギにそれ以上の価値を見出していましたから、話はとんとん拍子で進みました。山で培った類稀たぐいまれなる知識と膂力りょりょく。豪族は、それを欲しがったのです。

 家族の言葉には、確かにナギをおもんぱかる言葉で飾られていました。しかし山で過ごした十五年という月日は、ナギの六感をあまりにも研ぎ澄ましていました。だからナギには、どうしようもなく家族の本心が分かってしまうのでした。

「どうせ一度死んでいる奴なんだから……俺たちの命にはえられないだろうって……!」

 ナギが十五年分の夜をたった一人で越えてきたように、家族たちもまた、十五年分の夜を一緒に乗り越えてきたのです。ナギと家族の間には、途方もない月日が横たわっていました。それはどうしようもなく、あまりにも深い断絶だと、野分は思わずにいられませんでした。

 同時に、ナギと山の間に穿うがたれた断絶についても、想いをせずにはいられませんでした。

「馬鹿野郎」野分は静かに吐き捨てて、意を決したように言います。

「お天道さまはな、自らの意志で山を去ったものを、二度と受け入れては下さらんのだ。お前がここで途方に暮れていたのは、山に拒まれているからだ」

 そう聞くとナギはぐしゃっと頬をゆがめました。

「私はただ……お母さんにもう一度会いたかっただけなのに……」

 どうしていつも、私の居場所が無くなってしまうのだろう、と。

 絞り出すような声に、野分はどう答えたらいいか分かりませんでした。


 その時です。腹の底に沈むような地響きが、山に木霊したのは。

「や、や、どうしたことだ。これは」

「豪族の連中が、追ってきたんだ」ナギは、青ざめた顔で言いました。

「あいつらは私を、どうしても欲しがっていたから……」

「まずいな」野分は唸るように言いました。

 豪族。それは蛮勇ばんゆうに愛され、体格に恵まれ、暴力によって人間たちを支配する、おぞましい欲求のいきものです。その執念と欲望は凄まじく、彼らが通った後には草の一本すら残らないと言われるほどです。野分はずっと昔に、滅んだ山河の風がそんな風に歌っていたことを思い出しました。

「そうなると、きっと山もただでは済まないな」

 だからといって山の戒律がくつがえることはありません。ナギのために山が力を貸すことは、絶対にありえないのでした。


 ついに地響きの主たちが、二人の前に現れます。天を突くようにそびえ立ち、猛々たけだけしい両腕にならの巨木をたずさえた、忌々いまいましい巨躯きょくの群れが、醜い顔を歪めてナギを見下しています。

「ナギ、今ならお前の不敬も許そう。帰って祝杯を上げるのだ。そうすれば、家族の命だけは助けてやる」

 中でも、ひと際大きな豪族が、地の底から声を響かせました。ナギは静かに肩を震わせるのがやっとでした。

「……たわけが!」

 野分は思わず「どおおっ」と風をたけらせました。

「もはや貴様らには言葉も無い! どこまで欲望と執念を突き詰めれば気が済むか、ええっ! 貴様らのようなロクデナシに、どうしてナギが従わなくちゃいけないんだ、ちくしょう!」

 怒りに身を任せて旋風を轟かせる野分でしたが、豪族の執念は凄まじいもので、鳴神なるかみの大嵐すら蹴散けちらした旋風せんぷうにも、決して引けを取りません。

 そして一歩、また一歩とナギに手を伸ばし近づきます。

「さぁ、ナギ。本当の家族になろうぞ」

 ナギの瞳には、怒りと憎しみが渦巻きました。それはまるでけた灼華石ルビーの如き、くらい光をたたえていました。


 その時です。木々という木々の隙間から、灰の群狼ぐんろう共が一斉に飛び出してきたのは。

 「ホロ、ホロ、ホロ」と声のする方をみれば、群狼共の一番奥で、せっせと指揮を執る大将軍の狼が、にこにこ微笑んでおりました。

「本日はまったく素晴らしいお日柄です。この良き日に欲望に塗れたお肉みなさまと巡り会えたことは、実にお山の寵愛と言う外ありません――さて、面倒な前置きはこのくらいにして、さっそくご相伴に預かりましょう。では」

 いただきます、という言葉をお仕舞に、大将軍は「かかれ」と厳格に号令を放ちました。途端に、幾百もの群狼たちが、わっと豪族たち目掛けてなだれ込みました。阿鼻叫喚は甲高い遠吠えに掻き消され、紅葉が次々に、赤く、赤く、染め上げられてゆきました。

 野分とナギは、静かにその場を飛び立っていきました。

 しかし群狼たちはもうそれどころじゃありませんでしたし、豪族どもの骸といえば、なにも言わず地面に転がるばかりでした。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る