第5話

 野分にとってナギの成長はあっという間のことでした。

 七十二候をたったの十五数えたばかりで、ナギはもう立派な体つきに育ちました。もう、大嵐にだって豪雪にだって負けません。はい群狼ぐんろうにちょっかいを出されることも無くなりました。同い年の熊とぶつかり稽古げいこをしても、あっと言う間に投げ飛ばしてしまうほどです。これはもうたくましく育ったというほかありません。それがまるで自分の手柄のように思えたので、野分はとても誇らしい気分になりました。ナギの目からは泥色がすっかりそそがれて、頼もしい大金剛ダイヤモンドの光がきらきらと揺蕩たゆたうばかりでした。


 ですから、ナギが「親元に帰ろうと思う」なんて言い出した日には、野分は全く我を忘れて怒りました。

「や、や、や! それはいかんぞ! 断固として認められん! ええっ、おい、忘れたのか。お前をすてるような村で、親だぞ。一体全体、そんなとこへ戻って何がしたいのだ」

 ナギは決してひるまずに、野分と向き合いました。

「もしかすると仕方のないことだったかもしれない。そう確かめないことには、どんなに静かな夜も、決して私を安らがせない」

「黙れ黙れ! この期に及んで俺に嘘を吐くのか、ええっ! お前の目を見れば分かるぞ、あの頼もしい光がちらちらと揺れているのだからな! さぁ本当を言わんと決して承知しないぞ!」

 野分はもう竜巻のように怒り狂いました。山の木々がどおおおおっと揺れ、落葉が暴れまわって空高く飛んでいき、鳥は羽ばたくことを忘れて地面へと吸い込まれました。山の向こうではごぉぉんと稲光いなびかりとどろき、空は今にも泣きだしそうです。

 それでもナギは負けじと、そっと絞り出すように言いました。

「もういちど、お母さんに会いたい」

 その瞬間、野分の身体から力が抜けていきました。荒れ狂う風は鳴りを潜め、稲光は静まり、空はどこまでも透き通りました。鳥たちはみな羽ばたき方を思い出し、めいめいに散らばって逃げました。

「そうか」

 野分は静かに言葉を落として、そして、それだけでした。もう野分の中には、どうやったってナギを止めるための言葉が、ひとつも出てこないのでした。

 本当は、野分も知っていました。穀雨こくう牡丹ぼたんが咲く頃、ナギが熊の寝ぐらに忍び込んで、御母みははの熊に寄り添っていたことを。それは決して冷たい夜をしのぐためでは無いことを。もう、野分は随分前から知っていたのです。

 空っぽの野分に、ナギは深々とこうべれました。そして入道雲が二人のうえをゆっくり通り過ぎた後、ナギは背を向けて、強く強く歩いてゆきました。


「今までありがとう。……さようなら」


 それは白露しらつゆにセキレイが鳴く頃で、穏やかな昼下がりの日でした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る