第3話

 それは白露しらつゆにセキレイが鳴く頃でした。小川のせせらぎがころころとそそぐ、穏やかな昼下がりのことでした。野分は突然「や、いかん」と思い立ちました。

「そうだ、川というのはもっと雄大で、さりとて激しいものなのだ。ところがお前らときたら実に情けない、ちゃぴちゃぴと女々しく流れやがって。よし、俺が手本を見せてやる」

 野分はびゅうっと朱色の切れ端をひるがえすと、そのまま山中を駆け巡って、情けない小川たちを手あたり次第に蹴散けちらしました。

 そうして気分よく暴れまわっているところで、視界の端に人間の子供が映ったのです。それは実に情けない姿をしていました。

 髪はぼさぼさ、体中は泥だらけ。棒切れのような腕や足には、いくつものり傷、切り傷が刻まれています。うつろな瞳は小川の行く末を見守るようでもあり、また別な「なにか」をじっと見据みすえているようでもありました。

 野分は「や、や、いかん」と思いました。

「子供というのはもっと純真な目をしているものだ。それがどうだ、あの目ときたら。見ろ、まるで泥池どろいけのようににごっている有様じゃないか、ちくしょう。今に見ていろ」

 野分は居ても立っても居られなくなって子供の近くへ飛んでいき、自慢の朱色を「ごおっ」とはためかせました。すると小川は「ざあああっ」と叫び、木々は「どおおっ」と吠えるものですから、野分はすっかり気分を良くしました。

「どうだ。おそれ入っただろう」

 しかし子供は全く畏れる様子もなく、じっと野分を見つめていました。

「あなたは、一体なんなんだ」

 その死んだような目と声が、野分にはどうしても我慢ならなかったのです。

「なんだとはなんだ、ええっ。ものをたずねるときはまず自分から名乗るのが礼儀というものだ。さぁ言ってみろ、お前は一体全体どこの誰だ、ええっ」

 すると子供は、ぼたぼたと涙をこぼしてしまいました。野分はすっかり呆気あっけに取られて、あたりを右往左往しました。

「わたしは、すてられたんだ」

 と口を利いたので、野分も一緒に「すてられた」と呟きました。「そういえば、人間にはそのような風習があるのだ」と、野分は思い出しました。

「つまり、それは口減らしというのだ。村がえると末子すえごは追放されてしまう」野分は得意になって言いましたが、子供はすっかり項垂うなだれたままで、ぽつぽつと呟きました。

「わたしにはもう帰る場所がない。誰にも必要とされていない。だからもう名乗るような名前もない」

 名無し子がまたぼろぼろと泣き崩れるのを、野分はしばらく見守っていました。しかしやっぱり居ても立っても居られなくなって、「馬鹿野郎!!」と叫びました。

「さっきから帰る場所がないとか、誰にも必要とされてないとか、好き放題いいやがって、ええっ。もう我慢ならん」

 野分にとっての子供は、どこまでも純真で、どこまでも無邪気な存在でなければいけません。だからどのような言葉をろうそうとも、名無し子の目に浮かぶ泥を除かないことには、絶対に気が済まないのでした。野分はぶんぶんと朱色の切れ端を振り回しながら言いました。

「いいか、お前をすてるような村や親だぞ。一体そんな奴らに何をすがろうというのだ。お前は知らんのだろうが、そういう奴らをロクデナシというのだ。いいか要するに、お前はすてられらのではない。ロクデナシ共と縁を切ったのだ、一体全体どうしてそれが分からんか」

 それでも名無し子はぼたぼたと泣いているので、野分はいよいよカッとなって空高く連れ去ってしまいました。そこで名無し子はようやく驚いた表情を浮かべました。さっきからひるがえる朱の切れ端たちを、不安そうに見守っています。野分は「よし」と思って、声を張り上げました。

「見ろ、この山を! この山で暮らしている連中を! 誰に必要とされているわけでもないのに、どいつもこいつも好き勝手に生きているではないか!」

 二人は一緒になって山の上空を飛びまわり、そこで確かに色んなものが暮らしているのを見てゆきました。

 ひとりぼっちのせみが枯れ木でじくじく鳴いている姿。熊の長老がぼんやりと空をながめる姿。セキレイがせわしなく白岩をけずりまわる姿。かしわの木が、またはらりと葉を落とす姿。すすきの子供は、野分の姿を見つけるなり慌ててゆらゆら騒ぎ出しました。野分は面白くなって「かかっ」と笑い出しました。


 いつしか空が黄昏色たそがれともしはじめたとき、二人は先のみえない果てしない広原を、低く、すべるように飛んでいました。背高草せいたかそうが空へ向かってざぁっと伸び、蜻蛉とんぼの群れがわぁぁぁっと逃げ回るように飛んでいました。

 野分は「や、いかん」と呟きました。

「見ろ、蜻蛉羽あきつはが、お天道てんとうさまの戻り日を受けてあんなにきらめいているぞ。熊の子供なんかが一番星と間違えて、うっかり手を伸ばしたら一大事だ」

 野分は蜻蛉の群れをぎ払おうと思って、やめました。なんせ、名無し子があんまり目をきらきらさせているものですから。

「ふん、よかろう。また泣き始めるほうがきっと面倒に違いない」

 そう思い直して、野分はつむじ風をそっと仕舞しまいました。


 しかし、名無し子や蜻蛉たちに、風の心など知るよしもありません。

 かように風というものは――取り分け、野分という風は、まったく気まぐれなやつでした。

 

 

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