ナミアス編
第十五話「客無しの魔法屋」
――――風が吹く。
風は、色々なことを教えてくれる。
温かい風も、冷たい風も。
彼の方の美しい香りを乗せて、私を導いてくれる。
緑鮮やかなこの翼を大空に羽ばたかせ、私はただ、その香りを、彼の方を追う。
私が守らなければならないお方。
私が守り続けられなかったお方。
久しぶりに感じる彼の方の香りに、私がどれほどこの身を震わせたことか。
早く。早く、早く。
翼よ、この香りが濃くなるところまで、早く連れて行ってくれまいか。
今度は、今度こそは、必ず守り抜く。
貴女の御身は、その尊きお命は、絶対に失われることはない。失われてはいけないのだ。
誰よりも麗しく、尊大で、聡明なお方。
早く、この溢れんばかりの想いを、余すことなく全てお伝えしたい。
今、貴女は何を考え、何を想っていらっしゃいますか。
――――親愛なる、月の姫よ。
* * * *
昼時の、 お腹が空く時間帯。
変わらない暖かな気候。窓を開ければ、気持ちの良い風が店内に流れ込む。
その店には、退屈そうな顔をしてカウンターに座る、一人の少女がいた。
育ちの良さが表れた、しっかりと伸ばされた背。
魂が抜けたかのような、虚ろな表情。
半分閉じかけている青い瞳は、彼女の目の前に置かれたカップに向いている。
彼女が手をかざすと、紫の光がカップを包み、たっぷりの水が出現した。その水を何に使うでもなく、また光を放って水を消し、出し、消し。その繰り返しが、もう既に五十回は行われている。
この光景を見れば、誰だって分かるだろう。
(……お客さんが、来ない)
全くもって、客がいないのである。
この『魔法屋ルーナ』は、開店から既に一週間と二日が経過していた。
だがその九日間、本当に一人も客が来なかった。十日目の今日も、まだ誰にもお目にかかれていない。
店主である少女ルーナが、魔法を使って人々のお悩みを解決するいわば『魔法の便利屋さん』なのだが、この国の魔法の普及率が低いのもあるのか、胡散臭い店だと思われているようだった。
(想像と違う……)
思わずカウンターに顔を突っ伏してしまう。
彼女の契約者である男は、「絶対に客は来る」と確信を持って言っていた。魔法の使用が制限されているリリアンでなら、合法的に魔法を見ることができるこの店は注目の的だろうと。
だが、何だ、この有様は。
いくら中心街から外れた場所だからと言って、ここも同じ首都だ。何故こうにも話題にならないのか。
答えは明確だ。
国の認可店であると、契約者のいけすかない男がまだ公表していないからだ。
当然である。魔法具を持つことのできないこの国で、突然魔法を使った店が現れても、人々は「どうせはったりでしょ」としか思わないだろう。
(まあ、別に、いいのだけど……)
ルーナの給金は、客の入り具合に左右されない。
店を営業している限り、毎月国から三十万リーネが給金として払われるようになっている。反対に言えば、客が多くても貰える給金は同じだということなのだが、彼女自身、特別儲けたいわけでもないのでそこはあまり気にしていない。
人目につきたくない、目立ちたくない、それを自身の優先事項の一番前に置いているルーナにとって、客がいないことは逆に好都合だとも言えるのだが、退屈とは無縁の生活を送ってきた彼女には、この暇さは耐え難いものなのだ。
問題は、客がいない事だけではない。
今この瞬間も、店の扉の内側と外側でこちらを延々と睨み続ける二人の男。
護衛と書いて監視と読む、胸に国章を付けた二人の男。
この二人がいることが、本当に窮屈で堪らないのである。
少しでも動きを見せると、すぐに鋭い目つきでこちらを凝視してくる。用を足しにも行かず、飲まず食わずで四六時中こちらを監視している。
かろうじて午前午後で交代はしているようだが、ルーナの心労は何一つとして変わらない。
「はあ…………」
無意識に深いため息が漏れた。
それに反応するようにして、護衛たちがギロリと睨んでくる。
下心のある関心の目は向けられ慣れているが、さすがにこの様な警戒・異物視・嫌悪の目は向けられたことがない。行儀悪く椅子の上で足を抱えて身体を縮こめたい気分だった。
(……逃げたい……)
そう瞳に涙を浮かべながら、また頭をカウンターに落とし、突っ伏す。と、今度はあまりに勢いが良かったようで、ごん! と痛々しい音が店内に響いた。
痛ぁ……と赤くなった額と鼻を撫でる。
訝しげにこちらを見る護衛の目が痛かった。
「何してるんだ?」
唐突に、上から誰かの声が降ってきた。
甘ったるい蜂蜜のような声。
その声のおかげで、顔を上げずとも声の主が誰なのか判別できた。
「帝国の小さな太陽にご挨拶致します、ラエフィラン皇太子殿下」
カウンターから立ち上がり丁寧にお辞儀をして、慣れた口調で挨拶をする。
そのままゆっくりと顔を上げると、案の定、そこには麗しの皇太子殿下がいらっしゃった。
漆黒のローブのフードを取りこちらに笑いかける仕草はこの世のものとは思えないほどに美しいが、ルーナにとっては気苦労の種でしかない。
心の中で、また大きなため息が吐かれる。
「鼻が赤いな。自虐趣味でもあるのか?」
(どの口が……)
顎に手を当ててまじまじとルーナの鼻を見つめてくるフィランに、芋虫を見るかの様な目を向ける。
普通なら、平民が皇太子に向かってこんな視線を向けるなど言語道断なのだが、彼の場合は違う。むしろ何だか嬉しそうなのだ。完全に面白がっている。自虐趣味はどっちだと言いたい。
頭を抱えそうになるのを我慢して、そして軽蔑の眼差しを向けそうになるのも何とか抑え、作り笑顔を見せる。
「本日はどういったご用件でしょうか、殿下」
「客足の確認をしに。どうだ、一人でも来たか?」
「……いいえ」
「だろうな」
(だろうな????)
眉間の皺がまた一層深さを増す。
麗しの皇太子殿下は、暇なのか、二日に一回の頻度で店に訪れるようになっていた。
その度に客足を聞かれるのだが、毎回報告する内容は変わりなく、非常に不服なことに、これがお決まりの会話の様になってしまっていた。
営業と言えるほど何もしていないが、営業妨害である。何より、ルーナの心への害が大きい。
その上、いつもこちらを睨みつけてくる護衛もとい監視たちも、フィランがいる時間は顔を青くして唇を強く結んでいるので、もはや何だか同情してくる。
今日は一体何分間のご滞在だろう、と思いながら、ルーナは「早く帰れ」の意を込めて口を開いた。
「殿下。政務がお忙しくお疲れではありませんか。こちらには時間を割いて頂かなくても結構ですので、どうぞ、城に戻ってお休みください」
そう言って王女時代の板についた作り笑いを浮かべる。
だがそれでも、彼は相変わらず不愉快な微笑みを顔に貼り付けているだけだった。
「俺が邪魔だと言いたいのか? それは心外だ」
「いえ、決して、そんな意味ではありませんよ殿下」
「城に戻っても休めないよ。顔を真っ赤にした側近が探し回ってるところだからな」
「ああ……」
先程から少し気になってはいたのだが、いつも斜め後ろに控えている彼の側近が見当たらない。恐らくフィランが撒いてきたのだろう。
聞けば、彼もれっきとした伯爵位を持つ方だそうで、人柄も良く働き者なのでもっと良い役職に就けるだろうと思うのだが、なんでも代々皇族に仕える家系らしく、生まれたときから皇太子の側近に決まっていたのだそうだ。
本来皇太子の側近など誰もが喉から手が出るほどに就きたい役職である筈なのだが、いかんせん主がこれである。今も困った主を探し回っている事を思うと、あまりにも不憫でいたたまれなくなってきた。
哀れなネイソン・苦労性・アルハードにお菓子でも差し入れよう、とそう考えていると、いつの間にか彼の主はルーナの目の前から消え、店の護衛達に何やら指示をしている。
話し終わると、彼はフードを被り直しながら、ルーナに視線を向けた。
「行くぞ」
「はい?」
主語も目的語もないその言葉に、また目が細くなる。
「どこへでしょうか?」
そう聞くと、彼はフードの下に紅い目を覗かせて、不敵に笑った。
「いいところだ」
麗しの皇太子殿下は、それだけ言って、店を後にした。
含みのある言い方にまた苛立ちが蓄積されるが、彼女に契約者の言葉を拒否する権利はない。
しぶしぶ、ルーナはその漆黒の貴人の後を追うのだった。
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