第十四話「魔法屋ルーナ」
「皇太子……?」
ルーナの喉から出た声は、心なしかだいぶ震えていた。
大きな太陽の中に、一回り小さな太陽が埋め込まれた形の、どこか赤めいた黄金のブローチ。
一般的に、皇帝は『帝国の太陽』、皇后は『帝国の月』と称される。その子供であり、王位継承権第一位である皇太子は『帝国の小さな太陽』と称されるのだ。それ以外の皇族は『帝国の星』と呼ばれている。
これはどこの国でも大抵は同じで、ソルテリスでも父ガリアンは『太陽』、母ミラは『月』、女性である為に王位継承権のないルーナは『星』と称されていた。
彼の身につけているそのブローチは、彼が皇太子であるという証拠以外の何物でもなかった。
(ありえない……)
頭では理解していても、信じられない思いで何度も契約書の名前を確認してしまう。
今、ルーナが最も警戒すべき相手。それは、まず間違いなく皇族だと言って良いだろう。
国交断絶中だとはいえ、皇族ならばソルテリスの内情を知っていてもおかしくはない。国王の訃報や王女の失踪も知られているかもしれない。
――――危険だ。
ルーナの内にある本能がそう言った。
「契約は、無しにさせてください。私はこれで失礼します。無礼をお許しください、皇太子殿下」
まくし立てるようにそう言って、ルーナはこの場を後にしようと椅子から急いで立ち上がった。
だが、誰かの手がルーナの腕を掴み、阻まれる。
「どこへ行くつもりだ?」
「…………っ!!」
悪魔のような笑みを浮かべる皇太子は、テーブルから離れようとしたルーナの腕を、座ったままがっしりと掴んでいた。
紅の瞳と目が合う。思わず、顔を横に背けた。
次の瞬間、強い力で腕が引かれる。体が前に倒れ込みそうになり、掴まれていないもう片方の手を机に乗せ、ぎりぎりのところで体を止めた。
至近距離に、紅く光る瞳が見えた。
その瞳に、ルーナの焦った顔が写る。
「なぜ逃げる必要がある?」
紅い瞳の持ち主はそう問いかけた。
なぜ逃げるのか。
彼が皇太子だから。それも一つの理由だ。
ルーナは今、出来る限り自分の生活から危険因子を取り除かなくてはならない。どう考えても、目の前のこの男は危険因子だ。
それに、何よりも。
この紅い目に見つめられると、自分の内側が全て曝け出され、何もかも吸い取られてしまうような感覚に陥るのだ。
今更逃げようと思っても、逃げられない。
そんなことはもうわかっている。
皇太子だ。リリアンという大国で、上から二番目の権力を持つ男だ。
ルーナがどこに行ったとしても、すぐに見つけられてしまうだろう。それに、彼らは既にスエンの家を知っているのだ。ルーナが消えても、スエンという切り札を既に彼らは持ってしまっている。
現実的に考えて、逃げられるはずがない。
(わかってる、けど……っ)
だが、人間には本能がある。理性と裏腹の行動を取らせるその本能は、彼を「危険」だと判断している。
ルーナは、自身の腕を掴む手を振り払おうと、力一杯腕を引いた。
一瞬離れかけたかと思えば、またぐいっと引き寄せられ、眼前に美しい顔が迫る。
「なんでかは知らないが、逃げられると思うな。今更、俺がお前を手放すわけがないだろう」
彼の丁寧だった言葉遣いは、もう消え去っていた。
これでもかというほど輝いていた笑顔は、先程よりも一層不快な笑みに変わっている。
後ろで頭を抱えていたネイソンは、もう既に遠い目で明日の方向を見つめていた。
(……な……)
すぐ近くにある整いすぎた顔は、紅い瞳は、まるでルーナをおちょくっているかのようだった。
(こ、この男……!)
あの麗しく誰もが見惚れるような上品さから滲み出ていた黒い部分の全貌が、ここで見えた気がした。
ルーナの本能がこの男に感じていた「危険」は、自分の命を揺るがす何かなどではなかった。
彼のこのねっとりとした笑みと、紅い瞳から投げかけられる視線への生理的な拒否感、そして身震いを起こさせるほどの猛烈な嫌悪感から来るものだった。
恐らく今ルーナは、幼い頃に東方の国の使者から土産物として献上された、地獄の飲み物のような青い汁を飲んだ時と全く同じ顔をしているだろう。
「よろしく頼むぞ、魔法屋」
ルーナの顔を下から覗き込むようにして、悪魔のような皇太子は美しく甘い声でそう言った。
(〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!)
反射的に、ルーナはばちん! と自分の腕を掴む男の手を叩いていた。
これがルーナフィリアの、いや、ルーナの新たな人生の幕開けである。
王女ルーナフィリア・ソルテリスではなく、苗字のない、魔法屋ルーナとしての第二の人生。
どんな運命が待ち受けているのか、ルーナ自身にもわからない。
平和で穏やかな人生を歩むかもしれない。
もしかしたら、愛する人が出来るかもしれない。
だが、今の時点で言えることはただ一つだ。
ルーナは、沢山の愛が詰まったこの命を何よりも慈しみ、何に代えてでも守ると誓った。
それが、ルーナの生きる理由なのだから。
『魔法屋ルーナ』の扉は開いた。
そして、ルーナを取り巻く大きな運命の歯車が、ゆっくりと回り始めるのだった。
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