第九話「儚く、尊い命」

「魔獣を、探す……?」


 ルーナフィリアは、小さな声で、スエンの言葉を繰り返した。


 そのままの意味で捉えるには、いささか説明が物足りない。いや、更に説明されたとしても、理解できるかはわからなかった。


 ルーナフィリアのその考えを汲み取ったかのように、スエンは話を続けた。


「ミラ様は、魔獣は実在すると仰いました。今も主を求め、探していると」


 そう低く響く声で言う彼女の言葉は、到底信じ難い事だった。


 魔法の知識が浅い者ならば、世の中の摩訶不思議は全て魔法によるものだと認識するかもしれない。

 だがそれは間違いだと、ルーナフィリアは知っている。


 魔法にも、絶対に出来ないことがいくつもある。

 その中の一つが、命への干渉だ。

 消えた命を蘇らせることは勿論、延命させることも絶対に出来はしない。加えて、魔法が直接人の命を奪うこともない。

 だから、有り得ないのだ。大昔からこの時代まで命が尽きていないなど、有り得るわけがない。


 ……だが。

 

「ミラ様は、こうも仰いました。魔獣たちは必ず、姫様を守ってくれると。姫様の為に生き、姫様と共に道を行くと」

「どうして……? そんな訳ないわ」

「そうですね。私もそう思ったのですよ。でも、ミラ様は嘘を仰る方ではないでしょう?」


 スエンは、そう言ってまた微笑む。

 それに、納得してしまう自分がいた。

 生まれてから八年しか共にできなかったが、嘘をつく人ではなかった。いつも真実であろうとしていた。

 そんな母が、無益な嘘をつくはずがない。それは分かっている。


 ルーナフィリアは、色とりどりに描かれた鮮やかな絵本の挿絵を見つめた。

 楽しそうに笑うお姫様と魔獣たち。ただの物語だと思っていたこの伝説の魔法使いたちが、本当に存在するというのか。


(……わからない)


 生きるために、力が必要なのはわかる。

 ここが敵国で国交を断絶しているからといって、ソルテリスの者がいない保証はない。現にルーナフィリアも簡単に入国できてしまったのだ。少し、容易すぎるくらいに。もしルーナフィリアの顔を知る者がいたらと思うと、ぞっとして堪らない。


 だが、魔獣はいるかもわからない存在なのだ。仮にいたとしても、こんな自分について来てくれるだろうか。そんな価値が、自分にあるのだろうか。

 混沌とした考えが、ルーナフィリアの頭を埋め尽くしていた。


「姫様」


 その時、スエンが芯のある声でルーナフィリアを呼んだ。


「どうやってでも、縋り付くのでしょう?」


 その言葉は、先程ルーナフィリアが口にした言葉だった。


(……うん。そうね、そうよね)


 ルーナフィリアの「生きたい」という言葉は、決して生半可なものではない。確固たる決意と意思を持った、心からの言葉だった。


 止まっていても、出来ることはない。


 なら、伝説でも作り話でも何でも、縋ってみてもいいのではないだろうか。もし魔獣が存在しなかったとしても、前に進む指標として、その偶像に近い存在を利用してみてもいいのではないか。


 この、儚く尊い命のために。

 そして、先に逝った彼らのために。

 もう何も、奪わせないために。


 今できることをする。それだけだ。


 ルーナフィリアの口は、自然と弧を描いていた。


「……私、探すわ」


 絵本の挿絵をそっと撫でながら、言葉を紡ぐ。


「魔獣を、探す。お母様のくれた希望だから。その希望に縋ってみる」


 もう、気持ちは固まっていた。

 同時に、少しの高揚感も感じていた。つい先程まで暗闇にいたとは思えないほど、光ある表情だった。


「それに、本当にいるなら、少し会ってみたい気もするでしょう?」


 そう冗談めかして言うと、スエンは一瞬驚いたような顔をして、すぐに表情を綻ばせた。

 

 久しぶりに、笑顔を見せた気がした。

 毎日笑顔が絶えなかったのに、ここ数日は涙ばかりだった。ルーナフィリアらしくない。


 笑うことが、亡くなった二人を軽んじているように思えて、どうしても笑顔にはなれなかった。

 だが、そんな訳がないのだ。

 命を呈して自分を守ってくれたノア。そして、ルーナフィリアの笑顔を喜びとしてくれていた父。

 塞ぎ込み、ここでただ静かに寿命が尽きるのを待つ生活など、それこそ彼らを軽んじることだろう。


 自分に都合のいい考え方かもしれない。

 だが、それでもよかった。

 彼らの分まで、死に物狂いで必死に生きよう。この人生を、余すことなく全うしよう。

 そう思えるくらいには、もうルーナフィリアの心は暖かさを取り戻していた。





「そしたら、まず髪を切りたいのだけど」


 ルーナフィリアは、腰まである長い黄金の髪の毛を触りながらそう言った。


「なぜ切るんです? お似合いですのに……」


 スエンはあからさまに残念そうだった。

 その問いに、少し眉を下げて答える。


「私はもう、ソルテリスの王女ではいられない。身分を隠して、出来るだけ目立たずに生活したいの。それをするには、この髪は目立ちすぎる。短い方がまだいいでしょう?」


 リリアンがどうかはわからないが、ソルテリスでは、金色の髪を持つ者はルーナフィリアと王妃ミラ以外見たことがなかった。何もしていなくても華やかなこの髪色は、どこにいても目立ってしまうのだ。


 それに、自分のけじめとしても、王女の象徴とも言えるこの長い髪を切ってしまいたかった。

 まずは形から、少しずつ前に進もうと、そう思った。


「……わかりました」


 そう言うスエンの顔はまだ少し寂しそうだったが、納得したのか、引き出しからはさみと鏡を取り出した。


 椅子に座るルーナフィリアの後ろに立つと、ゆっくりと、黄金の艶めいた髪にはさみを入れ始める。

 ルーナフィリアは、そっと目を伏せた。


 ザク。


 頭の後ろで響くその音が、鼓膜を大きく揺さぶる。

 目を閉じていると、髪を切る音だけに意識が向かった。

 

「……スエン、ちょっと待って」


 音が何度か鳴ったところで、スエンを制止する。

 閉じた目を開け、顔の横の髪を一房持った。


「ここだけ、長いまま残してくれる? お母様が、残したものだから」


 ミラがルーナフィリアに残したものはたった二つ。

 金の月の耳飾りと、この黄金色の髪の毛だ。

 母と同じこの長い金髪を、少しでも残しておきたい気持ちを捨てきれなかった。

 まだ隙のある弱い意思だな、と自分に呆れつつも、後悔のない選択がしたかった。


 スエンは「はい」とだけ、短く返事をした。

 だがその声色だけでも、少し嬉しそうなのが感じ取れた。




* * * *




「……はい、出来ました」


 約三十分ほどの時間、ルーナフィリアは目を閉じて、スエンに身を任せていた。


 終わったことを告げる言葉に目を開くと、スエンが手鏡を差し出した。それを受け取り、鏡に写る自分を見る。


 腰まであった金髪は肩上までばっさりと切られ、顔の左に一房だけ、元の長さのまま残っていた。その横では、月の形をした耳飾りが輝きを放っている。


(私じゃ、ないみたい)


 ルーナフィリアはそう思った。王女として、美しさは必要なことの一つでもある。だからいつも、民の前では美しくあろうとした。だが、もうそれも必要ない。


 これからは、平民として。ルーナフィリア・ソルテリスではない人間として生きるのだ。


「お似合いですよ、姫様」


 スエンが、満足そうに満面の笑みでそう言う。


「スエン、姫様はもうやめない? 私はもう庶民よ。敬語もいらないわ」


 ルーナフィリアがそう言うと、スエンは「ああ」と言って口を抑える。


「それなら、なんとお呼び……呼べばいいかしら?」


 ぎこちない物言いに、思わずくすっと笑みがこぼれた。こうして何気なく笑えることが、凄く尊いことのように今は思える。


 ルーナフィリアは、長く残った一房の髪をくるくる、と指で巻きながら唸る。その指が、黄金の月を模した耳飾りに当たった。



「…………ルーナ」



 口から漏らすように、そう言った。


「ルーナにする。これからは、ルーナって呼んで」


 国王、そして王妃しか口にできない愛称。彼女の名前の一部であり、父がこの耳飾りをくれた理由。

 そして、亡き友が、最期に呼んだ名前。


 その返答に、スエンは眉を寄せる。


「いいので……いいの? 愛称を使うだなんて、可能性は低いけれど貴女を知っている人がもしいたら、気づいてしまうかもしれないわ」

「これでいいの。髪の毛と同じよ。これも、両親が残してくれたものの一つでしょ。消したくないの」


 捨てられないものが多いと、自分でも思う。

 情けない? 仕方ないではないか。それだけ、大切なものが多いということだ。


 ルーナフィリアは、顔の左で揺れる長い一房の髪と、その横にある月の耳飾りを一緒に撫でながら、静かだが、それでいてはっきりとした声で、新たな自分の名を呟いた。



「ルーナ」



 新しい風が吹いたような気がした。


 ルーナ。

 これからは、彼女は王女ルーナフィリアではなく、肩書きのない、ルーナとして生きていく。


 悲しみは消えない。だが、消したくもない。


 覚えていなければならない。父と友の記憶を残し、この命を守ることが、彼女の生の意義なのだ。


 ルーナは、窓から外に広がる星空を見上げた。



(さようなら、ルーナフィリア)



 貴女の苦しみも、悲しみも、全て持っていく。そして、希望に変えてみせる。


 彼女の顔は、今までの誇り高い王女とは違った。


 だが、優しく、暖かく、凛とした笑顔だった。

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