第八話「月の姫と魔獣」
それから、どれくらい泣いていただろう。
気付けば涙は止まっていて、スエンが氷を薄いタオルにくるんで渡してくれた。
枯れるまで涙を出し切って赤く腫れた目に氷を当てると、少し気分が落ち着いてくる。
スエンは、少しだけ鼻をすするルーナフィリアににっこりと笑いかけると、台所に戻って行った。
そういえば、彼女は調理の途中だった。
切った葉野菜と薄切り肉を、油を引いた鍋に、まな板から流し込むように入れていく。
ジュウ……という音と共に、肉の焼ける香ばしい匂いが漂って来た。これも、懐かしい香りだった。調味料を加えながら、スエンはそれを炒める。
思わず、ぎゅる〜、とお腹が大きく鳴った。
それもそうだろう。眠っていた三日間、何も食べていないのだ。感情がどうであれ、腹は正直である。
思ったより音が大きかったのか、スエンがこちらを振り返り、ふふ、と笑った。
「すぐ出来ますから、沢山食べましょうねえ」
子供をあやすような口調に、恥ずかしさで顔が赤らむ。俯くようにして頷くと、立ち上がってテーブルに向かい、椅子に腰掛けて料理を待った。
「お城で出るような食事じゃないけれど、お好きだったでしょう?」
そう言って目の前に出された料理は、
葉野菜やもやしなどの野菜を肉と共に炒め、胡椒や塩で味付けをしてある素朴な料理だ。
城で出される宮廷料理とは違い、平民の一般的な料理であるが、ルーナフィリアの好物でもある。
スエンが城にいた時、彼女はミラとガリアン、そしてルーナフィリアに毎日食事を作っていた。そしてその後、使った食材の余りを軽く調理して食べていた。その一つが、この野菜炒めだ。
普通なら口にもしないようなこの庶民料理が、ルーナフィリアは凄く好きだった。スエンがこれを自分用のまかないとして作るたびに、貰いに行っていた。
平民の料理の中でも、特に簡単で素朴なものだというが、それでもルーナフィリアはこれが好きなのだ。
(覚えてくれてたのね……)
スエンの心遣いに、また胸が熱くなる。
涙腺が随分弱くなっているようで、また涙が出かけるが、それをなんとか我慢して、誤魔化すように野菜炒めを口に運んだ。
「……美味しい……」
思わず、そう口からこぼれていた。
向かい側に座るスエンは、垂れた目をこちらに向けて、微笑ましそうにその様子を見つめていた。
胸に込み上げてくるものがある。どうしても、これを言葉にせずにはいられなかった。
「…………ありがとう……」
短い言葉に、沢山の感情を込める。
伝わったかはわからない。だが、スエンの見せた穏やかな笑顔が、今までで一番輝いているように見えた。それが、ルーナの心の慰めとなった。
意識していないと、また涙が溢れかえりそうになる。
それを誤魔化すように、落ちてくる顔の横の髪を左耳にかけ、もう一口、と野菜炒めを口に運ぼうとした。
突然、スエンが勢い良く椅子から立ち上がった。がたん、と彼女が座っていた椅子が後ろに倒れる。驚いて、ルーナフィリアは口に入りかけた野菜炒めをテーブルに落とした。
「ス、スエン……?」
そう呼んでも、彼女は何も反応しない。
スエンが、驚愕や歓喜、感動が入り混じった複雑な表情で見つめる先は、ルーナフィリアの顔の左側だった。
「……これは………」
彼女の皺のある細い手が、ルーナフィリアの耳に伸びる。
その指先が、金色の月に触れた。
「貴女様が……受け取ったのですね」
スエンの瞳に、涙が溜まる。
そして、心から大切なものを見るようにそっと耳飾りを撫で、ゆっくりと口を開けた。
「この耳飾りは、ミラ様がお持ちだったものなのですよ」
「え……」
その言葉は、ルーナフィリアの驚愕を誘うには十分だった。いや、それ以上だった。
生前は女神とも呼ばれていたソルテリスの月であり、たった一人の愛しい母。
王妃ミラは、城の金品を狙う賊によって殺された。朝起きて母の部屋に向かうと、母の私物は消え去り、白い布を被せられた女性と、それを涙を流しながら見つめる父だけがいた。あの記憶は、一生消えないだろう。
「これが、お母様の……」
耳に光るその月に暖かさを感じたのは、きっと、これが母のものだったからなのだ。
もぬけの殻となった中で、きっとこの耳飾りだけが残っていたのだ。
それを、母を誰よりも愛していた父が、ルーナフィリアに贈ってくれた。
どれほど自分が愛されていたのか。
それがひしひしと伝わってきて、また目頭が熱くなる。
ルーナフィリアは、金の月を左耳から外し、掌に置いた。片方は、ソルテリスの街境の森で落としてしまった。今はもう、この一つだけだ。途端に、惜しい気持ちが何倍にも膨れ上がる。
母が残した、唯一の母の形見を、ルーナフィリアは胸元でぎゅっと握った。
その月を耳につけ直し、視線をスエンに戻す。
スエンは、笑顔のない顔でルーナフィリアを見つめていた。先程のように涙ぐんでいるわけでもなく、優しい微笑みを浮かべているわけでもない。
ただ、いつになく真剣な表情をした老婆の目には、少しだけ迷いも見えるような気がした。
何か言いたげな顔をしているのに、中々口を開かない。彼女の顔を下から覗くように見ると、スエンは慎重に言葉を選ぶようにして、その言葉を発した。
「……姫様は、生きたいですか」
ルーナフィリアの胸が、ドクンと鳴った。
生きたいか。
今日だけで、それを何度考えただろうか。
もう、大切な人は側にいない。父と友を失い、居場所も失った。そんな中で、無理に生きている必要はないのではないか。この苦しみと寂しさを抱えながら生きるのは、どれだけの痛みを伴うだろうか。
……死んでしまいたい。
『――――――生きろ』
だが、そう思う度、頭にノアの言葉が響く。
スエンがくれた、暖かい気持ちも。
亡き父の、娘を想う優しい笑顔も。
その全てが、ルーナフィリアの生きる理由に、希望になるのなら。それが、二人への弔いになるのなら。
それならば……
「………生きたい」
小さな、小さな声。だが、その意思は本物だった。
「生きたい。どうやってでも、この命にすがりつきたい。お父様とお母様が生んだ命に。ノアが、全てをかけたこの命に。……失いたくない、生きていたい」
彼女のその決意も、覚悟も、心からの言葉だった。全てを失った少女が、惨めだとしても、その命だけは失いたくないという、心からの叫びだった。
光の消えていたルーナフィリアの青い瞳には、既に強い光が灯っていた。
その意思を聞いたスエンは、目を伏せて微笑み、席を立った。そして、棚から一冊の絵本を取り出す。
「それは……?」
スエンが持つ絵本は、何度か見たことのあるものだった。小さい頃、母がよく読み聞かせてくれた絵本。
『月の姫と魔獣』
表紙には、そう書かれていた。
スエンはその絵本をルーナフィリアに渡し、表紙をめくる。そして、丁寧に、丁寧に読み聞かせ始めた。
――――――――――
むかしむかし、あるところに。
月の色の髪と、夜の色の瞳を持つ、とても美しいお姫様がいました。
お姫様は、不思議な力を持っていました。
火も、水も、風も、土も、お姫様の言うことを聞きました。
その魔法のような力は、みんなに恐れられていました。
お姫様には、人間のお友達がいませんでした。
代わりに、四匹のお友達がいました。
鳥、熊、魚、蛇。
四匹のお友達は、いつもお姫様についていきました。
四匹とお話がしたくなったお姫様は、四匹に魔法をかけて、人間に変えてあげました。
人間になった四人は、とてもとても喜びました。
四人は、お姫様にお礼を言いました。
「ありがとう。これからは、僕たちがお姫様を守ってあげるね」
人間になった四人には、お姫様とはちょっとだけ違う、もっと不思議な力がありました。
四人は、その力で、お姫様をずっと守りました。
ずっと、ずっと、お姫様を守りました。
みんなは、魔法をかけられたこの四人の動物を、
『
――――――――――
懐かしい童話だった。
魔法使いのお姫様が、四匹の動物を四人の
ミラが毎日のようにこの絵本を読み聞かせてくれていたのを、ルーナフィリアはよく覚えている。そして、このお話が好きだったこともよく覚えていた。
「この物語が、どうしたの?」
ルーナフィリアがそう聞くと、スエンは絵本のあるページを開いた。金色の髪のお姫様と、四人の男の挿絵が可愛らしく描かれている。
「この童話は、大昔からリリアンに伝わる物語です。リリアンの人間なら、これを知らない者はいません」
それには、少し予想がついていた。ソルテリスでは、この童話を知る侍女も兵もいなかったからだ。ミラの出身がリリアンであるならば、リリアンのものだと考えるのが妥当だろう。
ルーナフィリアが相槌を打つと、スエンは話を続ける。
「この四人の魔獣。リリアンでは、これが実在すると、そう信じられています」
「魔獣が……?」
思わず聞き返してしまった。
それは、ありえるはずがない事だ。
この童話は大昔からあるものと、スエンはそう言った。その大昔の童話に出てくる魔獣が、今も生きているなんて、そんなことあるわけがない。
大体、これは童話だ。人が作った物語なのだ。
「私はね、正直信じていなかったのですよ、そんな話。心から信じている人など、ほとんどいないわ。だって、ありえないでしょう? ……でも、ミラ様は違ったのです」
スエンは、強く結んでいた唇を緩ませ、ルーナフィリアを見つめて優しく微笑んだ。
「もしかしたら、全て運命で決まっていたのかもしれませんね。ミラ様のあのお言葉も、貴女様がリリアンに来られたのも、全て」
ルーナフィリアには、その言葉の意味がよくわからなかった。
「貴女様が生まれた時、ミラ様からお聞きしたお話があります。今ならわかります。きっと、今日この日のためだったのでしょう」
その瞳は、何故か少し、潤んでいるように見える。
「姫様。姫様の生きると言うのは、私や他の民が生きるのとは違います。おわかりですね?」
「……ええ」
「貴女様は、ソルテリスという一国の王女であらせられます。国を追われても、それは変わりません。貴女の身を、今まで以上の危険が襲うでしょう。そのお命は儚い。一人では、いつか命を失ってしまう」
それは、ルーナフィリアもわかっていた。ハイデンは確実に命を狙っていた。ノアがいなければ、あの場でルーナフィアの命は消えていただろう。
ならば、どうしろと言うのか。
「……魔獣を、お探しなさい」
スエンは、低い声でそう言った。
予想だにしなかった言葉に、ルーナフィリアは、手に持ったフォークをテーブルに落とした。カチャン、という軽い音が、静寂に包まれた小さな家に響く。
スエンは、ただまっすぐに、ルーナフィリアの目を見つめていた。
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