第七話「息」
目が覚めたのは、あたりが暗くなってからだった。
少しだけ肌寒い風が頰を撫で、それに反応するようにぱちりと目が開く。
頭はやはりぼんやりとしていて、天井を眺めたまま数秒間固まった。
(……ああ、そうだ。スエンの家だ)
木造りの小さな家。
大きさだけ見れば、ソルテリス城の馬小屋よりも小さい。だが、不思議と窮屈には感じなかった。
先程、また気を失ってしまったのだ。
湧き上がった感情に体が耐えきれなかった。
今、寝台の上にいるのを見るに、スエンが運んでくれたのだろう。
足腰が悪いであろう老婆にそんなことをさせるなんて、と普段のルーナフィリアならば思っただろうが、今はそんなことを考える余裕はなかった。
また感情の渦にのまれないように、意識を内側でなく外側に向ける。
風が吹き込む窓を見ると、差し込んでいた陽の光は柔らかな月の光へと輝きを変え、家の中を照らしていた。
夜の虫の鳴き声と、風が木々を揺らす音、そして包丁で野菜を切る軽やかな音が耳に入ってくる。
その包丁の音が、妙に心地良かった。
窓の外を眺めていた視線を家の中に戻す。
テーブルに置かれていた紅茶と焼菓子は片付けられ、奥では細身の老婆が葉野菜を慣れた手つきで小さく切っていた。
ルーナフィリアは、それから目を離せなかった。
幼い頃、今とは違って少しやんちゃだったあの頃、こっそり厨房に入り込んではつまみ食いをして、料理人たちを困らせた記憶がある。
その料理人たちに混じって、スエンも毎日厨房に立っていた。本来王妃の侍女が自分で料理することなどないのだが、ミラの希望でスエンが食事を作っていたのだ。それがもう、堪らなく美味しくて。
食材を刻み、油を引いて炒めるあの音。それがルーナフィリアは大好きだった。いつもスエンの横に立って、その様子を目を輝かせながら見ていた。
ミラやガリアンと共にそれを眺めることもあった。涎が垂れてしまうほどの香ばしい香りに、三人揃ってお腹を鳴らしたりもした。
この記憶を鮮明に思い出したことなど、今までほとんどなかった……いや、思い出さないようにしていたのに。
ミラが亡くなり、スエンがいなくなってからは、毎日ガリアンと二人で食事をしていた。王城直属の料理人が作った見事な料理を、縦に長い食卓で父と向かい合うように座って食べていた。それも楽しかった。だがやはり、親子三人で言葉を交わしながら食事をしたあの暖かい時間が、恋しかったのかもしれない。
スエンの後ろ姿は、あの頃と何ら変わりなかった。
少し背の曲がった老婆。
その老婆の隣に、幼い金髪の少女が見える。きらきらした青い瞳を、料理と老婆の間で行き来させている。
その横に、少女と同じ金髪の美しい女性が見える。その人は、少女の頭をゆっくりと撫でていた。
その女性の肩を抱く、髭を生やした男の人が見える。肩を抱いていた手が、少女の頭を撫でていた女性の手に重なる。
頭に違う手が乗ったことに気付いたのか、少女は男性を見上げた。そして、三人で目を合わせて微笑み合った。その様子を、老婆は優しく見守っていた。
ルーナフィリアの頰に、一筋の涙がつたう。
あの光景は、暖かかったあの日々は、もう戻ってはこない。横に立って、自分を愛おしそうに見つめていた両親は、もうこの世にいないのだ。
その寂しさを埋めてくれていた友もいなくなった。
母が亡くなった時に慰めてくれたラリアたち王女付き侍女にも、きっともう会うことはできない。
どうして、こうなってしまったのだろう。
涙で顔が歪んでいく。頭には、愛する父と母、そして友の顔と、冷たい目を持つ反逆者の顔が浮かんだ。
(何も、考えたくない……)
全ての思考も記憶も消して、自分の存在さえ消して、何もない真っ白な世界で楽になりたかった。
だが、そうしたくても、頭にこびりついて離れない記憶は、まるで呪いのようで。
水分を摂取していないのに、もうどれだけ泣いたかわからないのに、涙は延々と頰を濡らし続けた。
死にたい。消えたい。
そう思っているのに、自ら命を絶つ勇気はない。誰かがこの息の根を止めてくれるのを待って、呪われた苦しみの中で必死に息をしている。
こんなに苦しくても、息をすることをやめられはしない。結局、生きていたいのだ。
頭では楽になりたいと思っていても、闇の中でもがくことを選んでいる。
死ぬのが怖くて、怖くて怖くて堪らないのだ。
「ふ……う、あぁ……」
我慢していた嗚咽が、とうとう口から漏れた。
呼吸が乱れ、溢れ出す涙で顔中がぼろぼろになり、乾いた喉からは枯れた声が発せられ続ける。
(苦しい、死にたい、死にたくない……!)
破茶滅茶で矛盾だらけの思考が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って脳内を支配する。まるで、足先から頭まで暗闇の中にどっぷり浸かっているようだった。
また、さっきと同じだ。生きている限り、ずっとこの苦しみを繰り返すのだろうか。
そんなのは……そんなのは、嫌だ。
(……誰か……!)
――――助けて。
そう願った瞬間。
乾いた喉に、冷たいものが流し込まれた。
ごくん、と喉を鳴らし飲み込むと、冷たい水が身体中に染み渡っていく感覚を持つ。
朦朧とした視界を、少しだけ横にずらす。
そこには、水の入ったグラスを手に持った、優しい蜜柑色の瞳を持つ老婆がいた。
(あ……)
水を、飲んでしまった。
もしかしたら、毒かもしれないのに。
だが、なぜか吐き出す気にはなれなかった。むしろ、水が不足したこの体は、もっと水分を欲しがった。
スエンの持つグラスにそっと手を伸ばす。
スエンは、ルーナフィリアがグラスをしっかり持ったことを確かめると、ゆっくりとその手を離した。
何かがぷつんと切れたかのように、ルーナフィリアはその水を無我夢中で飲み始めた。
だが同時に、目からは涙が溢れでてくる。
この水が、何も味のないただの水が、世界で一番美味しいもののように思えた。
その様子を、スエンはルーナフィリアの背中をさすりながら、ただ見守っていた。
最も幸せだったあの頃と、全く同じ見慣れた笑みを浮かべながら。
(……ああ)
この人は、敵じゃない。
何の根拠もない、直感的なものだった。
だが、はっきりとそう思った。何故だか、彼女に対する疑いは消え去っていた。
安直で、軽率かもしれない。
でも、堪え切れなかった。
空っぽになったグラスが寝台の上に落ちる。
ルーナフィリアは、スエンの胸元に飛び込んで、大きく声を上げて泣いた。
嗚咽に混ぜるようにして、ルーナフィリアはあの日のことを全て話した。聞かれてもいないのに、余すことなく、全てを話した。
もしかしたら、誰かに話したかったのかもしれない。
息苦しい暗闇の中に招いて、その誰かに苦しみを分け与え、少しでも軽くなりたかったのかもしれない。
全て話せば、スエンも同じように苦しみ、悲しんでくれるだろう。
本当に自分勝手で我儘な子供だと、そう思った。
でも、止まらなかった。
泣き叫ぶように話をしている間、スエンは何も言わず、ただ背中をさすってくれていた。
全て話し終わった時、一粒の涙が、彼女の瞳から落ちた。
「…………お辛かったでしょう」
そう言った彼女の潤んだ瞳に、嘘はなかった。
スエンは、ルーナフィリアの涙が止まるまで、ずっと抱き締めてくれていた。
背中に回った手は暖かかった。凍った心がだんだんと溶け始め、涙と共に流れ出した。
暗闇の中に、優しい光が見えた気がした。
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