第六話「死を求める体」

 お茶のいい香りと、それとは違う甘い香りが漂う。


 お菓子だろうか。何か少し、懐かしい香りだ。


 これは、何だっただろう。


 ……ああそうだ、お母様だ。


 お母様といるとき、いつも食べていたお菓子の香り。


 この香りを嗅いだだけで、暖かい何かに包み込まれるような感覚になる。

 そう、さっきも同じ感覚を……



「………………え」



 少し硬い寝台の上で、ルーナフィリアは目を覚ました。

 朦朧とする目に、木の天井だけが写る。


(……どこ……?)


 横になったまま周りを見回す。テーブルが一つと、椅子が二つ。寝台の横に置かれた棚には本がぎっしりと詰め込まれている。一間だけの、木で造られた小さな家だった。

 窓からは明るい陽の光が差し込んでいて、奥では白髪の痩せた老婆が皿を洗っていた。


 何故自分が、ここで寝そべっているのか。

 上半身を起き上がらせ、懸命に記憶を辿った。


(……ああ、そうだ)


 思い出した。

 魔法で飛ばされた後、何もない道に倒れ込んだのだ。

 確か、その直前、誰かに会ったような……


「起きましたか」


 不意に声をかけられ、顔を上げる。

 そこには、優しく微笑む老婆の姿があった。


「……あ……」

「お久しぶりでございます、姫様」


 ルーナフィリアは、彼女の顔に見覚えがあった。


 亡き母、王妃ミラの侍女であった、スエンである。


 たしか、八年前に母が亡くなった時、スエンも同時に城を出たのだ。いなくなった、という方が正しいだろうか。


 ルーナフィリアが生まれてからも、ミラと共に大切に大切に世話をしてくれていた。彼女の作る菓子の味は本当に絶品で、あの香りを嗅ぐだけで心を躍らせた記憶がある。


 そんな彼女が、何故今、目の前に立っているのだろうか。


 寝起きのぼんやりした目でスエンを見つめると、彼女はもう一度にっこりと微笑んで、ルーナフィリアに手を差し出した。


「起きられますか?」


 ルーナフィリアは、スエンと目を合わせながらそっと頷く。


「お茶とお菓子を用意してますから、食べましょうね」


 スエンはそう言って、ルーナフィリアの手を取りテーブルまで連れて行った。

 椅子に座ると、足と腕に包帯が巻かれていることに気付く。スエンがやってくれたのだろうか。痛みも少しおさまっていた。服はぼろぼろのドレスから、無地の白いワンピースに。体も拭かれているようだ。


「よく寝ましたねえ。三日も眠っていたのですよ」

「……三日……?」

「ええ。お腹も空いたでしょう、食べてくださいな」


 向かいの椅子に座ったスエンはそう言うと、焼菓子の並んだ皿と温かい紅茶を差し出した。


 昔と同じ、優しい良い香り。

 だが、あの頃のように胸を躍らせることはなかった。


 光の灯らぬ目で、ぼうっと宙を見つめているだけ。

 ここがどこなのかも、スエンが何故目の前にいるのかも、何一つとして分かっている事がないのだ。状況を把握しきれていないルーナフィリアの脳が、差し出された食事を食べろと指令を出すはずがなかった。

 

「食欲が無ければ、せめて紅茶だけでも飲んでくださいませ。また倒れてしまいますよ」


 そう言われても、何も食べる気にならない。何も喉を通る気がしない。

 喉が渇いて渇いて死にそうなのに、紅茶に手をつけることさえできない。


(あ、そうだ……)


 死んでしまっても、問題ないのだった。

 ーーーーああ違う、死にたいのだった。


 見慣れたはずの、微笑を浮かべた老婆の顔を見る。

 幼い頃、両親の次に近しい関係にあった彼女の顔が、何故か今は、別人のように思えた。

 その笑顔の裏に、暗いものが隠されている気がした。そうでないかもしれない。彼女は、ただの好意で、ルーナフィリアを気遣ってくれているのかもしれない。


 そんなわけがないだろうと、ルーナフィリアの内側に潜む闇が言う。

 この状況で、誰を信じるのだと。彼女だって、ソルテリスの民なのだと。城にいた者で、何か計画に関わっているかもしれないだろうと。この菓子や紅茶にも、毒を入れられているかもしれないだろうと。


(味方なんて、いないに決まってるじゃない……)


 当たり前だ。

 自分を愛してくれた人は、もういないのだから。


(もし、彼女が毒を入れていたら……?)


 ルーナフィリアは、静かに紅茶に手を伸ばした。

 これを飲めば、もう必要のないこの生を終わらせられるかもしれない。


(これで、終われる……?)


 妙な安堵感と、焦燥感。

 そんな感情を抱きながら、老婆の顔を視界の端に置き、紅茶を飲もうと唇をつけた、その時だった。


「それにしても、リリアン帝国にいらっしゃるだなんて。よほど大変な事があったのですね」


 スエンがそう言った瞬間、ばっと俯いていた顔を上げ、目尻の垂れた老婆に視線を向ける。


「……今……なんて…………?」



 ――――リリアン帝国。



 それは、ソルテリスの敵国の名前だ。

 二十三年前の戦争により、国交が断絶状態になっている。お互いの国を行き来することもままならず、緊張状態を保っているのだ、と歴史を教えてくれた老師が言っていた。


 口が、わなわなと震える。

 もし本当にここがリリアンであるなら、ルーナフィリアがいて良い場所ではない。

 血の気が引いていくのが、はっきりとわかった。


「ここは……リリアン帝国、なの……? どうして……」

「あぁ……ご存知ありませんでしたね。私とミラ様は、リリアン出身なのですよ」

「…………え?」


 淡々とした声で、老婆はそう返した。


 理解が、追いつかない。


 ルーナフィリアは、ただただ混乱していた。

 簡単に飲み込むには、それは少し難しすぎた。


 亡き母の故郷が、敵対国であるリリアンだと?

 考えてみれば、確かにミラがどこの生まれかなど聞いたこともなかった。当然ソルテリスの出身かと思っていた。母も父もそれを話してくれたことなどなかった。

 一国の国母が敵国出身など、洒落にならないではないか。それをきっかけとして和平を結んだならまだしも、未だ国交断絶状態が続いているというのに。


 その上、父が死に、友の命を踏み台にして辿り着いたこの場所は、よりにもよってその敵国だという。

 どれだけ、恵まれていないのだろう。


(……なんなの……)


 この世界は、ルーナフィリアを嫌っているのだろうか。

 唐突に幸せを奪い、代わりにいくつもの不幸だけを重ねて与えた。味方のいない敵国に放り込んでまで、ルーナフィリアをどん底まで落としたいのか。


 一向に枯れない涙が、また頰を伝う。

 これは全て夢だと、そう思いたかった。悪い夢で、いつか目が覚めれば、そこには悪戯に笑うノアと、愛おしそうに自分を見つめる父がいるのではないか、と。


 彼女の中で、命の価値がまた低くなっていく。

 

 命が憎い。生が憎い。


 ルーナフィリアの体は、死を求めていた。

 

 咄嗟に、手元で震えていた紅茶を、また唇をつけた。だが、口には入れない。


 ルーナフィリアは、毒にある程度慣らされている。並大抵の毒では即死することはない。それは、王女を知る者なら、誰でも知っていることだ。


 これに毒が入っていたとしても、死ねないかもしれない。

 ただ苦しいだけかもしれない。


(苦しいのは……苦しいのは、嫌)


 なんて情けないのだろう。

 苦しまず命を絶とうなどと考える臆病者は、やはりこの世に必要ない。


 死にたい。死にたくて死にたくて堪らない。

 この苦しみの中にずっといるくらいなら、死んだ方がましだ。


 そう思うのに、どこかに、心の奥底に、それとは違う感情がいる気がして。


(邪魔をするな……)


 生にしがみつこうとする不必要な感情をそぎ取ろうと、胸を押さえて必死にもがく。

 呼吸が段々と荒くなっていく。絡み合ってぐちゃぐちゃになって、いくつもの矛盾を生む感情の糸が、心臓を締め付けて圧迫する。


(私は……私は、生きたくないの……)


 ーーーー生きて、いられるわけがないの。


 それまでで一番正直な感情が、心臓を押し潰した。


 視界がまた、暗い闇に包まれた。


 気を失って真っ暗になった世界で、甘い香りだけが鼻に残っていた。

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