第四話「美しい涙」
今のこの光景を、嵐と言わず何と言うのか。
ルーナフィリアは、瞬きもせず、目の前で巻き起こる嵐を傍観していた。
嵐の真ん中にいる白い影は、自身の従者であるノア。
ノアが大剣を一振りすると、それだけで突風が吹き荒れ、敵の肉体を削ぎ取った。ルーナフィリアの目では認識しきれないほどの速度で、彼は重い大剣を回すように振る。
あれは誰だ。
ルーナフィリアは、心底そう思った。
今まで、ほとんどノアの騎士としての力を見たことはなかった。彼の剣は嵐のようだと、昔誰かが言っていた。あれは誠だったのだ。
相手の剣を落とせば終わりの剣術大会とは違う。彼の力量も、その目も、何もかもが違った。
(……すごい…………)
数分のうちに、彼の嵐によって敵の過半数が削り取られた。一瞬の隙も与えぬよう間を置かず、すぐにまた大剣を構え直す。
足を狙い、または胴を狙い、そして首を狙う兵たちの剣を下から掬い上げるように大剣で受け止め押し返し、敵の体が後ろに背れると同時にその胴に剣を滑らせる。
後ろから飛びかかってくる兵の剣を大剣で押さえ、軸足を叩く。そのまま手首をくるりと回して、転んだ兵の体に剣先を突き立てる。
血飛沫の量と反比例するように兵は瞬く間に数を減らし、ノアは足を止めることなく目まぐるしく動き続けた。
圧倒されていた。自分が見ている光景が、現実でないように感じられた。
ルーナフィリアにとって彼は、からかい好きの友人であるだけだったのに。
今の彼は完全に、ルーナフィリアを守る騎士だった。
(……あれ……?)
だが、何かに違和感を感じる。
今ノアが対峙しているのは、兵たちだけだ。
……ならば、あの男は?
(なぜ、手を出してこないの……?)
嫌な予感が身体を貫き、ノアに向けていた視線を上に上げる。
そこには、ノアの戦闘になど目もくれず、ただルーナフィリアを見つめる、冷たい男の目があった。
ぞくりと身体が波を打つ。
目が合うと同時に、彼は右手を前にかざした。
まっすぐ、ルーナフィリアを見つめながら。
「――――っ!!!」
咄嗟に仰け反っても遅かった。
ハイデンの放った黄色い光が、ほんの少しだけ、ルーナフィリアの肌に触れてしまった。
「いっ……!!」
光に触れた腕と足が、鋭い痛みに襲われる。
熱い光は少女の肌を焼き、赤くただれさせた。
痛い、なんて言葉では足りない。痛覚が狂ってしまったかと思うほどの、耐え難い痛みだった。
「姫!!!」
すぐさま、従者が駆け寄ろうとこちらに足を伸ばす。だが、それは二度目の爆発によって遮られた。
またも轟音と共に黄色い光が放たれる。
今度は、その光はルーナフィリアではなくノアを覆った。
と思えば、ノアに呼びかける間も与えず、すぐに同じ光がルーナフィリアの視界を塞ぐ。
(うっ…………!!)
なけなしの身体能力を絞り出し、なんとか後ろに飛び退いて避ける。
怒涛だった。
先程までノアが起こしていた嵐は消え、代わりにハイデンの起こす爆発が空間を破壊していくようだった。
人間の体は脆い。新しい傷を受けずとも、先程から痛みを訴えてくる腕と足の力が抜けていってしまう。
魔法は万能ではない。自分自身に魔法をかけることができず、自分でこの傷を癒すことはできない。
だが、止まるわけにもいかない。止まれば、そこに待つのは死のみだ。
(死にたくない……! 走れ、走れ、走れ……!!)
必死に、逃げ回るように走る。ハイデンが焦点を少しでも合わせづらくなるように、左右に方向を変えてただ走る。森の出口へと、ただ、ひたすらに。
だがそれは、長くは続かなかった。
ハイデンを見上げながら走っていたルーナフィリアが、足場の悪さに気付けるはずがなかった。
「!?」
身体が、突然前に傾く。
木の根に引っかかった足に、倒れないよう踏ん張れる力は残っていなかった。
(……あぁ……)
終わりだ。そう思った。
ハイデンの手は、まだこちらに向いている。その目は、ルーナフィリアを捉えて離さない。
眩しい光が目の前を包み込む。
この後待ち受ける熱い痛みを予感し、ぎゅっと強く目を瞑った。
――――だが、その瞬間は訪れなかった。
「……え……」
爆発は、確実に起きた。
轟音と共に地が焼ける臭いがした。
だが、その爆発に巻き込まれたはずのルーナフィリアの体は無事だった。
誰かが、彼女を庇ったために。
「…………ノア!!!!」
目の前で倒れ込んでいる男が目に入る。
すぐに、それがノアだと気付いた。
真っ白な髪の一部が焼け焦げ、うつ伏せになって地面に倒れ込んでいる。服からはみ出た手や足を見ると、火傷でただれ、赤く腫れていた。
金色のマントは破れて焼け落ち、青のブローチは地面に投げ出されている。
「ノ……ノ、ア……」
彼は爆発の直前、ルーナフィリアを片手で押し飛ばした。伸ばされた手は、今ルーナフィリアの膝の上に力無く乗っている。名を呼んでも、膝に乗るその手を引っ張っても、反応がなかった。
「ノア、ねぇ、ノア……ノア!!」
そう叫ぶと、散々嗚咽を漏らして枯らしていた喉がヒリヒリと痛んだ。
(ひ、
まだ、息はある。
震える右手を左手で押さえ、涙がこぼれないよう瞬きを我慢しながら、ノアの体に手をかざす。
紫色の光が放たれ、ノアのただれた手足が元に戻った。
だが、彼は起き上がらない。
ルーナフィリアの両目から、どうしようもなく涙が溢れ出した。
その流れる涙がノアの頭に一滴落ちると、ノアの白い髪が、体が、一瞬だけ、ぴくりと反応した。
「…………ろ」
一瞬、微かに声が聞こえたような気がした。
自分が鼻をすする音すら
「……ノア?」
「……げろ」
「え?」
「…………っ、逃げろ!!!!」
彼は、顔を上げると同時に、ルーナフィリアの膝に乗っていた手で、彼女の体を押し始めた。
* * * *
ノアは、力の入らない体に精一杯の力を込めて、叫ぶと同時に顔を上げ、ルーナフィリアの体を押した。
上を見れば、退屈そうな表情でこちらを眺めるハイデンの顔がある。その手は、何度目かわからない爆発を発しようと、前に構えられようとしていた。
何度も、何度も何度も主の体を押す。
「ねぇ、ノア……まさか、私一人だけ逃がす気……?」
ルーナフィリアのその言葉に、ノアの動きが一瞬だけ止まった。
だが、すぐにまた彼女の体を押し始める。
その言葉に、答えるかのように。
「……やめて、ノア。やめて、やめて!」
ルーナフィリアが、ノアの手を払う。
彼女は、払った手を掴み直し、ノアの身体を引き始めた。
だが、怪我をした少女の腕力など非力なものだ。
ノアの身体はびくともせず、力無く地面に横たわったままだった。
「早く……早く行けよ……!!」
自分を連れて行こうと必死な主の姿に、堪え続けていた涙が両目から静かに流れる。
だが、ノアも主と同じように、いやそれ以上に必死だった。傷が癒えても、抜け切った力は元に戻らない。身体を支配する倦怠感も、強すぎる痛みに狂わされた身体の感覚も治りはせず、身体を起き上がらせることすらできない。
こうしている間にも、いつ、ハイデンが魔法を繰り出してくるかわからないというのに。
彼は何故か構えていた手を下ろし、茶色の美しい髪を風になびかせながら、腕を組んで二人を眺めていた。
「逃げろって……言ってんだろ……!!!」
「嫌!! ノアは死なせない、絶対に死なせたりしない!!!」
ルーナフィリアの腕も、足も、火傷でただれて体液が染み出しているのに、それが傷に沁みて一層彼女の顔を歪めさせているのに、彼女は従者の腕を引く手を止めなかった。
ノアは泣きじゃくる主を、残った力の全てを使って拒否した。頭がくらくらし、朦朧とする。起き上がれない、姫を抱えて逃げることもできない、敵を倒すこともできない。ならば、今やれることは、一つしかない。
ノアは、ルーナフィリアを押していた手を離し、何かを服の中から取り出した。
「……ノア?」
涙の止まらない主は、ノアの手にある物を見た瞬間、愕然とした表情を浮かべた。
「ノア……やめて、やめてやめてやめて!!!」
彼の手に握られる銀色のそれは、魔法を発動するための、
「姫……」
「やめてってば……!!」
「……俺が生きてるのは、あんたを守るためだ。あんたが生きてなきゃ、俺が生きてる意味がない」
「何、言ってるの……っ、命令よ、命令だから……お願い、やめて……!!」
ルーナフィリアが、魔法具を奪い取ろうと手を伸ばす。だがその手は、ノアのもう片方の手に掴まれ、阻まれてしまった。
木の上で涼しい顔をしたハイデンは、まるで一つの劇を鑑賞しているかのようだった。その劇がつまらないと判断したのか、彼は組んでいた腕をほどき、喚く王女にその手を向けた。
ノアはそれを見た瞬間、魔法具に自身の魔力を込め始めた。
ノアは、今まで頑なに魔法を使おうとしてこなかった。入城した時、魔法具は支給されていたのに、頑なに魔法を使うことを拒んだ。
その理由も、胸に秘めた主への想いも、何も告げられず飲み込んだまま命を終えるなど、想像もしていなかったのに。
(まあ、いい人生だったんじゃないの)
まるで走馬灯のように、過去の記憶が鮮明に眼前に現れる。
ルーナフィリアに出会った後の事。
そして、その前の事も。
自分の中にある僅かな魔力が、この銀色の箱に流れ込んでいくのがわかる。
(……これが、最初で最後の俺の魔法だ)
ルーナフィリアの身体が、白い光に包まれた。
「ノア……ノア、お願い、ノア……」
純白の眩しい光。
その中にいる美しい少女を見つめる。
(できれば、一緒に逃げたかったんだけど)
そう願っても、もう遅い。
ルーナフィリアは、大粒の涙を流しながら、首を何度も横に振った。だが、白い光は、彼女の体を離そうとしない。
「お願いだから……ねえ、ノア……」
ハイデンの手が、黄色く光り出す。
「一緒に来て……死なないで、お願い……」
ノアは、彼女と目を合わせ、ゆっくりと微笑んだ。
「貴女は、生きなければならない人だ」
ルーナフィリアは、両手で顔を覆って、ひたすらに涙していた。ノアの声など聞こえないとでも言うように、首を振ることをやめない。
「ルーナ」
優しく、そう呼び掛けた。
彼女の最愛の父しか呼ぶ事のできない、愛しい名。
ルーナフィリアが、驚いたように顔を上げる。
「絶対に生きろ。命を捨てようなんて思うな。死に物狂いで生き延びろ。…………あんたは、俺の光だ」
生涯一人しか愛さなかったその男の涙は、きっと、何よりも悲しく、そして美しかっただろう。
「元気でな。――――――――。」
その言葉と同時に、ルーナフィリアの体がその場から消えた。
最後に見たのは、黄色い光に覆われた彼の体と、右耳からぽろりと地面に落ちた、金の月だった。
ノアの最期の言葉が、ルーナフィリアに届くことはなかった。
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