第三話「絶望の罠」
ノアは、焦りながらも冷静だった。
ストレギーが出て行ってから、まだ二分と経っていないはずだ。だが、炎はもう二人を取り囲もうとしていた。
目の前で座り込む主の瞳に、光は灯っていない。
ただ、ぼうっとした目で、愛する父の亡骸を見つめていた。
青い瞳に溜まった雫がそっと落ち、床に流れる血と混ざる。その光景が、ノアの胸をこれ以上ないほどに強く締め付けた。
明るく優しく、そして誇り高い王女の姿はそこにはない。絶望にどっぷり浸かった少女だけがいる。
(なんなんだよ……)
そう心の中で行き場のない悪態を吐く。
こんな時に、ノアまで止まってはいられない。だがそれは、同時に残酷な選択をすることでもある。
「……姫」
呼び掛けに、主は少しだけ肩を揺らした。
ノアはぎゅっと目を瞑り、彼女の体に手を伸ばす。
「申し訳ありません。……失礼します」
そう言ってノアは、主の細い体を抱き上げた。胴に手を回して肩に乗せ、力無い少女を支える。
そして、窓に向かって足を動かした。
従者は主の体に触れてはならない。だが、今放った謝罪の意味はそれだけではない。
「……あ…………」
声とも言えない、掠れた音が少女の喉から漏れる。
「あ……あぁ……」
だんだんとはっきりしてくるその声が耳元で響き、息するのも苦しいほど胸が締め付けられる。
「ま……って、待って、待って……! やだ、やだ……!」
その声を無視して、ノアは窓へと歩き続ける。下唇を噛んで必死に涙を堪えた。
「お父様……お父様が、火に……ノア、お願い、お願い待って……!」
じたばたとノアの肩の上で動く。それを、ノアは腕の力で押さえつけた。いくらノアでも、二人の体を共に運びながら逃げることはできない。
輝きの消えた目から、大粒の涙がこぼれ落ちようとしていた。ルーナフィリアは抵抗し、そして叫んだ。
「まって、ノア……! ノークスレア!!」
「………俺は!!!!!」
少女の叫びとほぼ同時に、青年は叫んだ。
窓の前で、ノアの動きが止まる。
「俺は、陛下から……あんたの父親から、あんたを守れって言われたんです!! 今ここであんたを守ることが、俺の弔い方なんだ!!!」
叫ぶような、嗚咽するような声だった。涙と共に訴えられたその声は、ルーナフィリアの涙を抑えきれなくするには十分だった。
ノアの首にしがみついて泣きわめく姫の姿に、重い苦しみがノアを襲う。
(クソッ………!!)
燃え盛る火が亡き王の体を包み込む直前で、ノアは窓から飛び降りた。
* * * *
城を出てから、四十分ほどだろうか。
二人は今、城下町の街境の森にいる。
宰相の執務室から飛び降りるとそこは城の裏側で、ノアの率いる三番隊の隊員たちが消火活動にあたっていた。彼らは反逆など露知らず、王女の脱出を最優先に行動した。
隊員たちに手助けされ、城壁を登り外に出れば、そこはすぐこの森に繋がっていた。ノアはルーナフィリアの手を引き、外を目指してただ走っていた。
走り、走り、また走る。
震える足を懸命に前に動かす。足がもたつかないよう、どうにか従者の速さについて行く。
だが、一向に出口は見えない。
まだ昼前のはずなのに、この森は暗かった。
暖かな季節のはずなのに、嫌な寒気がした。
「おかしい……」
唐突にノアの足が止まり、従者の広い背中に顔がぶつかる。
下から見上げるようにして彼の顔を見ると、深刻な面持ちで周りを見回していた。
「……ノア?」
「この森、こんな深かったか……?」
ノア率いる三番隊の基本任務は、街境の森の警備となっている。つまり、ノアは誰よりもこの森を知り尽くしているはずだ。
「ノア、どうしたの?」
「いや……本来なら、もう森を出ていてもおかしくないはずなんですけど」
そう言って、ノアはルーナフィリアの手を離し、ゆっくりと足を進め始めた。周りを見回し、何かを警戒するようにしながら。
そして、ルーナフィリアもノアの後ろを行くように足を踏み出した、その時。
「――――姫!!!!!」
城の爆発と同じくらいの轟音が、森を揺らした。
白い影が前を遮ったと思ったら、物凄い速さで体が後ろに飛んだ。白い影は、ノアだった。
「……なに……?」
先程立っていた位置を、震える顔を上げて見る。
そこには、大きな穴が出来ていた。周りの葉や枝は焦げ、灰のようになって消えた。
(爆発……?)
ルーナフィリアは、その爆発に見覚えがあった。
また、体が震え出す。
「遅かったですね」
唐突に、上から声が聞こえた。
反射的に、ばっと上を見上げる。
「もう少し早くいらっしゃると思ったんですが」
その声も、顔も、慣れたものだった。
またも恐怖が、ルーナフィリアの身体を支配した。
「ハイ……デン……」
「はい、姫様。お久しぶりでございます」
ハイデン・キーベルク。
木の上で肩上までの艶めいた茶髪を揺らすその男は、全魔法使いの憧れを一身に受ける、魔法部隊の隊長だった。
「どう、して……」
「宰相閣下は追わなくていいと言うんですけどね。僕はそうは思わないので。貴女様の魔法も、ノークスレアの剣も、外に出すには危険すぎる。だから、森を少し深めに
ハイデンは、無表情のままそう言った。その言葉を理解するまで、数秒の時間を要した。
ノアが目を見開き、こちらを見下ろす男を強く睨む。
「まさか……この森」
「やっと気付いた? お前がこの森が普段より長いと感じていたのは、全て僕の魔法の力だよ。少し木々を増やしただけのつもりだったんだけど。おかげで準備は万端だ、感謝しとこう」
「準備……?」
ルーナフィリアが訝しげにハイデンを見つめる。
すると、ハイデンが指をパチンと鳴らした。そして突如、森から沢山の武装した兵が現れる。
ソルテリス王国軍の兵たちだった。
「残念ながら、僕の魔法部隊は城の消火に専念らしくてね。しぶしぶ、グリューエルの兵たちを借りてきましたよ。後で怒られそうでやだなぁ」
表情を一切動かさず、何も感情を感じない顔で男はそう言ってのける。
グリューエル。
ソルテリス王国軍二番隊隊長の名だ。
(グリューエルまで……)
もう、何をどう信じればいいのかわからなかった。
今唯一味方でいてくれるのは、目の前でルーナフィリアを庇うように立つ、自身の従者だけだった。
縋り付くように、ノアの金色のマントを掴む。
ノアは一瞬驚いたような顔をすると、こちらを向いて、少しだけ口角を上げた。安心しろ、とでも言うように。
「……んで? 力だけが取り柄のおっさんの部隊が、三番隊隊長の相手になるとでも?」
そう言いながら、ノアは大剣を片手で持ち、肩に乗せる。
余裕そうに見えても、その顔に冷や汗が流れているのを、ルーナフィリアは見逃さなかった。
ハイデンは木の上から見下ろしたまま、表情を動かさず、口を開いた。
「やればわかる」
短い一言。その言葉と同時に、彼は右手を前にかざす。
それを合図に、兵たちが一斉に剣を構えた。
ノアは肩に乗せた剣を両手で持ち替えると、大きく上に掲げ、勢いよく落とし地面に突き刺す。
「来いよ。いくら来ようが、姫には指一本触れさせねぇから」
決して大きな声ではなかった。
だがそれは、ビリビリと肌に伝わるほどの殺気を放ち、兵たちに足を踏み出すのを躊躇させた。
その瞬間を、ノアは逃さなかった。
刹那、空間に、嵐が巻き起こった。
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