第一話「ルーナフィリア・ソルテリス」
人は何故、こんなにも脆く、儚いのだろう。
あの日の記憶の片鱗は、そんな疑問だった。
人間は、幾度も生を積み重ね、愛を育み、尊き命の灯火が明日も消えないと確信して生きている。
だが、何年、何十年と生を構築しても、壊れるのは一瞬だ。死は唐突に訪れる。憎き絶望を引き連れて。
皆、知らないのだ。
命がどれほど容易く朽ちるものなのかを。
彼女も同じだった。昨日と同じ今日を生きようとしていた。愚かだったのだ。どこまでも、どこまでも。
彼女は、生を憎み、死を嫌い、目を閉じれば頭に浮かぶ血の海の中で、もがき苦しみ呼吸をしている。
そして今日も、苦しみが付き纏うこの生を蓄積し、死が遠い日のものであることを祈りながら歩くのだ。
* * * *
――――朝。
少し目を瞑れば、すぐにまた眠りに落ちてしまいそうな、そんな時間。
微かに小鳥の囀りが聞こえる中、一人の少女が、鏡を前にしゃんと背を伸ばして椅子に腰掛けていた。
場所は王宮。
大きな城の一角にある、王女の自室である。
室内に立ち並ぶ豪華絢爛な装飾品。
窓から差し込む眩しい朝の光が、それらを照らし上げ輝かせていた。だが、そんな装飾品よりも断然目を引くのは、この部屋の主の金髪の御髪だろう。
ルーナフィリア・ソルテリス。
それが、この部屋の主である少女の名であり、ここソルテリス王国国王の唯一の子、つまりは王女の名でもある。
毛先がほんのり巻かれた、煌びやかな黄金の長髪。
空の青よりも淡い色の、宝石のような瞳。
陶磁器のような白い肌に、紅く色付いた唇。
その顔に侍女たちの手によって化粧が施され、体は瞳と同じ色の豪華なドレスを纏っている。
だがしかし、その表情は浮かない。
「姫様、如何なさいましたか?」
そう心配そうに聞くのは、王女付き侍女長のラリアである。
「ううん、何でもないの。平気よ」
そう繕って返しはするが、その整った顔からは、隠し切れない憂鬱さが滲み出ていた。
ルーナフィリアは、眉を下げて自分を見つめる侍女長を安心させるように、優しく微笑んで見せる。
ルーナフィリアの憂鬱の原因。
それは、本日開催される祝典、成人式にある。
今年で十六歳の女、十七歳の男の成人を祝う祝典で、城下町に住む新成人の者とその親族や、辺境の貴族が城内の庭園で行われる招宴に参加する。
それに関しては大変結構、毎年行うお祭りだ。長時間椅子に座って笑顔を作るのには慣れている。
問題は、今年が王女の成人の年だということだ。
数え年で年齢を定めているこの国では、皆が一月一日、新年の始まりの日に一つ歳を重ねる。ルーナフィリアも例の如く、約四ヶ月前に成人を迎えた。
ソルテリスの王族が公務を開始するのは、成人からだと決まっている。それまでは教養を身に付けたり、最低限の祝典などに参加することになっている。
ルーナフィリアは今年成人、つまり公務を始めるのは今年からだ。
そして王族の職務の中には、当然『結婚』というものも含まれるわけで。
現王の子は王女のただ一人、王子は存在しない。故に、順当に事が進めば、ルーナフィリアの夫となる男が、次期国王、王太子となる。
つまりだ。本日の成人式、貴族のご子息たちからの猛烈なお声掛けが予想される。
それを想像して、既に気が滅入りそうになっているのだ。
「平気ですよ。あんまりしつこいのがいたら、俺が斬りますから」
そう部屋の隅から聞こえてきた声に、苦笑しながら反応する。
声の方を振り返れば、そこには白い髪に黒い瞳の美青年が、腕を組んで佇んでいた。
「流石に、ノアが手を下す程の不届き者はいないと信じているのだけどね」
「わかりませんよ。あんたちょろいからな」
「なんだと」
ノークスレア、通称ノア。
ソルテリス王国軍三番隊隊長であり、ルーナフィリアの専属護衛でもある。
平民であった彼は、城下町の剣術大会で見初められ入団し、昨年からは隊長を任されている。
現在は齢十七。最年少での起用なんだそうだ。
剣術に於いては右に出る者のいない凄腕騎士だそうだが、彼が入城した七年前から共にいるルーナフィリアにとっては、少々意地悪な友人でしかない。
今も、口に出していないというのに思考が読まれていた。年月というのは中々に恐ろしいものである。
そんな凄腕騎士がなぜ王女の護衛などしているのか、と疑問でならないのだが、誰に聞いても誤魔化されるのだ。皆に「ノアを見ていればわかる」と言われたものの、いくら見ていても全くわからなかった。
「ふふ。お二人の仲睦まじいご様子は、いくら見ていても飽きませんわね。ノークスレア様、こちらを」
少し語弊のあるラリアの言い方に苦言を呈そうと顔を上げると、彼女はノアに、成人式で着用するための金色のマントと、淡い青のブローチを渡していた。
それを見てなぜか頰を赤らめ下を向くノアを見て、ラリアがふふ、とまた悪戯に微笑む。
耳まで染め上げた真っ赤な顔でマントを羽織る彼を見ながら、首を傾げていると。
「痛っ!」
突然、侍女の一人が声を上げた。
何かと思ってそちらを振り向けば、侍女の手から血が流れ、床に青い花飾りが落ちている。
花飾りの留め具が尖っているのを見るに、恐らくそれが手に刺さってしまったのだろう。
ドレスの裾を踏まないようゆっくりと椅子から立ち上がると、その侍女のもとへと歩いた。そして、彼女の手を取り痛々しい傷を見る。
「ひ、姫様……も、申し訳……」
「いいのよ。少し待ってね、すぐ治すから」
そう言うと、侍女は申し訳なさそうに小さく頷いた。
彼女の言う「すぐ治す」とは、文字通りの意味だ。
ルーナフィリアには、それが出来る力がある。
侍女の傷口に手をかざす。
すると、ルーナフィリアの瞳が紫に変化すると同時に、瞳と同じ紫色の光が侍女の手を包み込んだ。
血の流れる傷口を光が隠す。その光が段々と小さくなり、そして完全に消えると、光の中にあった傷も同じように消え去っていた。まるで元から無かったかのように、綺麗さっぱりと。
「やっぱ凄いですね、あんたの魔法は。
そんな風に偉そうに言うのは、じろじろと王女の紫の瞳を見つめる従者だった。彼の頭を拳で殴ると、「でっ!」と声を上げてわざとらしく頭を抑える。
――――魔法。
それは、この世界に古くから伝わる能力の名だ。
誰しも、魔力を持って生まれてくる。それはつまり、魔法は誰しもが使える力だということだ。
ならば、なぜ先程ノアは「優秀」だと言ったのか。
誰しもが持つというその魔力は、量で言うと微々たるものなのだ。人間は、魔法の発動には到底足らない程の少量の魔力しか内蔵していない。
そのため、ほとんどの人間は
だが稀に、膨大な魔力を持って生まれてくる者もいる。それがルーナフィリアだ。
魔力が多ければ魔法具を使う必要もない。それができるのは、彼女の知る限り、自身の他には魔法部隊隊長の一人だけである。
魔力量以外で何か周りと特別違うことがあるとすれば、それは魔法を使うと瞳の色が紫に変わる、ということのみ。
この現象の原因は、ルーナフィリア自身もわかっていない。綺麗なので気に入ってはいるのだが。
ラリアが床に落ちた花飾りを拾い、新しい青の花飾りを王女の胸元につける。
すると、誰かが扉を叩く軽い音が鳴った。
侍女が頭を下げながら扉をそっと開ける。
そこにいたのは、立派な髭を下げた偉丈夫だった。
「今日は一段と綺麗だね、ルーナ」
「お父様!」
この国で二番目に尊い存在である王女の名を、愛称で呼べるのはただ一人。
国王、ガリアン・ソルテリスだ。
日々の激務のせいか、それとも成人式の支度のせいか、国王の顔には少し疲れが見える。
王のもとに寄ると、彼は手に持つ小さな箱をルーナフィリアに差し出した。
箱を開けると、三日月の形をした黄金の耳飾りが姿を現す。
「成人おめでとう、ルーナ。これは父からの成人祝いだ」
金色の二つの月は、ルーナフィリアの持つ黄金の髪と同じくらい、いやそれ以上に光り輝いていた。
角度が変わる度に違う輝きを放つ。あまりの美しさに、後ろで頭を下げていた侍女たちも、思わず感嘆の声を上げていた。
ラリアが手早くその耳飾りをルーナフィリアの耳につける。手鏡を渡され見てみれば、そこには黄金の髪と黄金の耳飾りを持つ、美しい少女がいた。
「ルーナは、遠い国の言葉で『月』という意味なんだそうだ。金の月。お前にぴったりであろう?」
「金の、月……」
彼女は、それほど装飾品に興味を引かれない。だが、これだけは違った。
見ているだけでなぜか心が温まるこの耳飾りは、瞳に涙を溜めさせた。
「素敵です、お父様。ありがとう、大事にするわ」
「ああ。……本当に、ミラによく似ている」
そう言った父の表情には、憂いが込もっていた。
一国の王であるガリアンは、未だ、亡き王妃ミラ・ソルテリスを想っているのだ。
「しかし、そんなに喜ぶとは思わなかったな。装飾品の類には、興味がないと思っていたのだが。似合っているよ。なぁ、ストレギー?」
「はい、陛下」
その声が聞こえた瞬間、体がびくりと反応する。
「王女殿下の輝かしい御髪によーくお似合いです」
そう軽い口調で褒める彼を、恐る恐る見上げた。
宰相ストレギー・ヘイルランス。
二十一歳という若さで宰相の地位に就く、父からの信頼も厚い男。
だが、ルーナフィリアはこの男が苦手だった。
いつも貼り付けたような笑顔をしているこの顔の裏に、暗い何かが隠れているような気がして。
「行こうか、ルーナ」
そう声をかけられ、意識をストレギーからガリアンに戻す。彼は、大きな手を差し出していた。
「今日は、父にとって誰よりお前が主役だ。精一杯楽しみなさい」
「……はい、お父様」
優しいその言葉に胸を打たれながら、硬いその手を取る。
歩き出すと、後ろにノアとストレギー、その後ろに国王の護衛や侍女、さらに後ろにラリアたち王女付き侍女と並んでいた。
ノアの顔を見ると、なぜか「べ」と舌を出される。おちょくったその顔にむかっとするが、それはすぐにかき消された。
ノアの横にいるストレギーは、未だ変わらない笑顔でルーナフィリアを見つめていた。
片眼鏡の下に光るその目が、恐怖心を煽る。
――――嫌な予感がする。
根拠もなく、それがなんなのかもよくわからないが、悪寒が体を駆け巡っていた。
思わず顔を前に戻し、心を落ち着かせるようにぎゅっと強く父の手を握る。その手は暖かくて、何故だか少し、安堵した。
その予感が間違いでないと気付いたのは、事が起きた後だった。
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