月の魔法屋ルーナ

梅明いゆ

開店編

「僕の記憶」

 ――――僕は、あの日を鮮明に記憶している。




 空は青く、水も、風も、土も、全てが落ち着いていたあの日。


 僕は、僕を狂わせるあの香りに誘われて、そこにいた。


 爽やかな風が、褐色の地面に落ちた緑の葉を運ぶ。


 その葉は、ひらひらと揺れながら、人々の間を縫うように舞い進んだ。

 風の動きに抵抗できない緑葉は、風が止まると同時に、ゆっくりと降下していく。

 冷たい水の上にその葉が乗ると、水は葉を中心として輪を広げた。


 美しい噴水が、まるで踊っているかのように水を噴き出しては降らす。

 その雫は、海の宝石である真珠と見紛うほどに照り輝いていた。


 その水を小さな手で撒き散らしながら、鈴の音のような声で笑う子供たちの声。

 髪先から水が垂れるまで夢中になって遊ぶ子供たちを諌める、厳しくも優しい母親の声。

 香ばしい匂いを漂わせる露店で客寄せをする、遠くまで通る男性の声。

 

 沢山の声が合わさって、活気のある賑やかな街が生まれる。


 だが、それはあくまで、人の行き交う街中の話だ。


 少し奥に進むとそこは、中心街よりも緑が少し増え、穏やかな静寂に包み込まれていた。


 噴水も露店もない。明るい子供の声も、道端で大口を開けて笑う大人も。

 ただ、一軒だけ、木で造られた二階建ての建物が、街の中心とは打って変わった静かな風景にそっと溶け込んでいた。


 カランカラン、と軽やかな音を立てて、ゆっくりとその建物の扉が開く。


 木の扉から覗くのは、少しくたびれた白のローブを身に纏った、一人の少女だった。


 少女は、薄い雲に遮られながら街を照らす日の光を、これでもかと存分に体に浴びせる。

 少女が空を見上げると、眩しかったのか、片手を上げて顔の上に広げた。

 陶磁器のような白い肌に、手の形をした影が落ちる。頭上に広がる青空よりも少し淡い色の、宝石のような瞳。桃のように薄く染まった頰。形の良い唇はほんのり紅く色付いている。


 僕は、息を飲んだ。 


 頭では忘れていても体が忘れていなかった。


 狂おしいほどに求めていた、甘美な香り。


 その香りが、一層濃さを増したのだ。

 

 少女は、微かに口角を上げ、目を細めながら空を眺めていた。

 ただ、じっと、何かに想いを馳せるように。


 瞬間、強い風が少女の体を揺らした。

 ローブの裾が風の動きに沿るようにしてなびき、風に煽られたフードが少女の背に落ちる。

 

 覆い隠されていた少女の髪が露わになった。


 それは、この世の何よりも美しく、日の光に負けないほどに光り輝く、黄金の髪だった。


 肩の上で切られたその髪は、恐らく誰もが溜息をこぼすほどの見事な美しさだ。

 世の貴族令嬢たちのように煌びやかな髪飾りを付けなくとも、髪の毛だけで既に華美であり、そしてまた、闇を照らす月の光のように暖かくもある。


 顔の左横に一房だけ、腰までの長い髪が垂れていた。その房の先は軽く巻かれていて、少女はそれを慈しむように優しく掴む。


 その指がゆっくりと上に上り、少女の髪と同じ色の耳飾りに触れた。

 左の耳にだけ付けられたそれは、三日月の形をしていた。


 少女は微笑を浮かべ、まるで自分の心臓に触るかのようにして、その金色の月を大切そうに、そして愛おしそうに指の腹で撫でる。


 女神か、天使か、はたまた妖精か。


 あの姿を見た者なら、皆そう思うことだろう。

 少女は一人、その広い空間で、他の何をも寄せ付けない、彼女だけの輝きを放っていた。

 純粋で、柔らかく、優しく、それでいてどこか強い、言い様のない輝きを。


 僕は、この輝きを知っていた。


 少しだけ違うかもしれない。

 でも、それでも、その暖かな黄金の髪が、なぜか、どこか――――

 ――――懐かしく思えたのだ。

 

 角度が変わる度に異なる光を放つ耳飾りは、少女が再度フードを被ったことで見えなくなった。

 フードに隠されて、黄金の髪の毛も、淡い青の瞳も、そして彼女の表情も、何も見えなくなる。


 少女は踵を返し、建物の中へと戻って行った。

 開け放していた扉を、鈴の音が鳴らないようにそっと閉める。ぱたん、という音と共に、少女の姿は、完全に視界から消えた。


 代わりに目に映ったのは、扉に掛けられた看板だった。金色の文字で、何かが記してある。



『魔法屋ルーナ』



 僕は、気付けばその店の扉に手をかけていた。

 何故なのかはわからない。

 ただ、この世のものと思えぬほどに美しいと感じた少女の姿を、もう一度見たかったのかもしれない。

 或いは、今にも涙が溢れそうになるこの香りに誘われているのかもしれない。

 もしくは、心を締め付けて離さない懐かしさがそうさせたのかもしれない。


 そして、僕は勢い良く扉を開けた。

 彼女に僕の存在を知らせるように、鈴を大きく鳴らしながら。


 店内は、瓶に入れられた紫色の水が棚に立ち並び、窓から降り注ぐ日の光がそれを照らしていた。


 僕は、少しだけ荒くなった息を整えながら、店内を見回した。

 奥の受付の内側に、白のローブを着た後ろ姿が見える。僕は、入口に立ち止まって、それを見つめた。


 その後ろ姿が、ゆっくりとこちらを振り返る。

 青の瞳が、僕の目を捉えた。


 少女は、一瞬不思議そうな顔をすると、次の瞬間、目を細めてにっこりと笑った。

 そして、お決まりの台詞を口にする。



「いらっしゃいませ。魔法屋ルーナへようこそ」



 少女は、そう言ってまた微笑んだ。



 これは、黄金の髪を持つ一人の少女のお伽話。

 美しく、弱く、強く、そして暖い少女の、儚く尊い人生のお噺。


 僕はただ、書き留めようと思う。


 大きな運命の渦中で彷徨う少女と、その家族たちの、愛おしく、何よりも大切なこの記憶を。


 ――――愛すべき、月の魔法屋の物語を。

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