桃と台本

なかがわ

桃と台本

 ガガガガと耳障りな音をたてて、扇風機が止まった。

 ため息をつきながら老眼鏡をはずし、読んでいた台本を伏せて置く。

 惰性でゆるゆると回っている扇風機にひざでにじり寄る。ボタンをいじったり本体を叩いたりしてみても、復活する気配はない。三年前、商店街のくじで当たった景品だから、ちゃちなのも仕方ない。

 部屋にエアコンはある。つけたくないのは、電気代がかさむからだ。しかし外の気温は三十五度を超えている。老いた肌が猛暑を実感することは、もうあまりないのだが、そういう人ほど熱中症になるともきく。


 蝉しぐれがふいに途切れた。

 饐えたにおいのする畳に寝ころぶ。目を閉じ、まぶたを揉む。本日ふたつめのため息をついた。

「……あなた。こんな部屋にいたら、死んでしまいますよ」

 声を掛けられて目を開ける。視界の中、さかさまに俺を覗き込む顔がある。

「芳子」

「ここはとても暑いですものね。涼しいところに行きましょう」

「暑い……か。ああ。東京砂漠ゥ、てなぁ」

 古い歌謡曲の節で答えると、芳子の目尻に皺が寄った。

「よそへ行きましょう。だって劇団はやめたのでしょう」

「ああ、あんなところは見切りつけてやった」

 動物の脚を配役されて。馬と牛の二役ですよと言われて。それももうずいぶん前の話だが、思い出すと今でも胃がうずく。

 俳優になると息巻いて上京したのは、何十年前だったか。

 いっそ鳴かず飛ばずのほうが良かったのかもしれない。一時期は映画の仕事を次々もらい、食うに困らない以上の収入もあった。その時代を覚えているからしがみついてしまうのか。覚えているのは自分だけなのに。落ちぶれてからいくつも受けたアルバイトの面接で、オヤあなたはもしかして……アアあの映画は観ましたよ……などと言われることは決して無いと、身に染みて知っている。

 今の俺は、その日暮らしが精一杯の死にぞこないだ。

 覗き込んでくる芳子の微笑みからついと目を逸らせば、投げ出した枯れ枝のような自分の腕、その先に、伏せて置かれた台本。

 もう一度、芳子を見上げる。

「先週、オーディションに受かったんだ」

「どんなお芝居なんでしょう」

「なに、たいしたことない舞台の端役だよ。老いぼれの役さ、はまるだろ……だがな、爺のくせに主人を守るために大立ち回りなんかするんだ。若いの相手に派手に動くから体力がいる。最近トレーニングをしているよ。まあ、老いぼれらしくなきゃいけないから、筋肉マンにならないよう加減しなきゃならんがな」

 芳子が口元を隠し、ふふふと吐息だけで笑う。その仕草が懐かしく愛おしい。

「おい、笑うな、いいわけしてるんじゃないからな。面白い役だと思うんだ。俺は必ずうまくやれる。俺でなきゃあ。だから……」

「あなたはいつまでも変わりませんねえ。お芝居のことだけ、大真面目」

「もう少しだけ、待ってくれ」

「ええ、わかってますよ」

 腕を持ち上げ、芳子のほほに触れようとした。指先はすり抜けて、しかし温もりめいたなにかに触れた気がした。

「すまんな。ちゃんとした仏壇もなくて、居心地悪いだろう」

「とんでもない。きのうは桃をいただきまして。とっても甘くて美味しゅうございましたよ」

「芳子。いつもありがとうな」

 言った時にはもう姿はかき消えていて、余韻のように蝉しぐれが降ってくる。


 ――ガ……ガガッ……

 扇風機が動き出す。

 発声の趣でアーと声をぶつけると、旋回に掻き乱された声はそれでも芯があると我ながら感じられ、胸の底が灯る。

 アーアーやりつつ、しばらく涼んだ。飽きると立ち上がり、エアコンを入れて、麦茶で喉をうるおした。冷えている桃は夕食後にしよう。

 スチールラックに立てかけてある遺影を撫でる。表面のガラスが、硬くて、少しぬるい。寂しさと、それとは違うなにかに触れる。

 俺は老眼鏡をかけなおし、台本を手に取った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桃と台本 なかがわ @nakagawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ