とろける石

朝霧

2016.9.17

ふと我に返ると、静かなアトリエの中で、水やすりの擦れる音だけが聞こえていた。それを実感した瞬間、階段を踏み外した時のようにひやりとし、そっと、長く息を吐く。頭の上へ行っていた意識が、身体の中に沈むように戻ってくる。私は、無意識の状態から、意識が戻って来る時の感覚を感じる度に、得体の知れない恐怖を覚える。身体は休まず動いているはずなのに、自分の意識がないことにぞっとする。それに、時間が飛んでしまった後の、一瞬だけ感じてしまう、知らない場所に置き去りにされているような孤独感が、私がこれまでに感じた一番嫌なことに似ている気がしていた。

 手元を見ると、磨いていた八面体の石の、表面の凹凸はずいぶんと目立たなくなっていた。表面を布で拭き、天窓から差し込む光に透かして見る。マスカットの果肉ように瑞々しく、半透明で、とろりとした質感の鉱石。カラーバリエーションも豊富なそれの見た目は琥珀糖ようで、可愛らしさも兼ね揃えている。しかし触れると、拒絶されているのではとおもわせるほどに冷たい。この石をフローライト、またはホタル石と呼ぶ。

 海外を飛び回っている父から、石の減りが早いので抑制するようにとメールが届いてから、もう三ヶ月になる。私はそのメールを無視し、時間が許す限り石を割り、研磨している。父もどこかで、止められないことを理解しているのだろう。以前よりも短いペースで、フローライトの原石が届いていることがその証拠だ。

 磨き終わった石を大き目のジャム瓶に入れる。もうすぐ満杯になりそうだ。これらは私の時間と引き換えに作られた。最近は睡眠時間も奪われている。私は決して、鉱石の加工が趣味なわけではないが、学校でペンを握っているよりも、石に触れている時間の方が長い。私の技術と時間は全て、双子の妹、砂緒すなおのためだけにある。

 手を休めていると、がこん、と木材が落ちた音が表から聞こえた。アトリエの玄関のドアにかけてある表札が落ちた音だ。またか、と私は腰を上げる。サンダルを履いて外に出て、『アトリエつばくら』と書かれたそれを拾い上げる。軽く埃を払い、ドライフラワーで出来たリースの下にかけ直す。表札の裏の窪みを、ドアに打ち付けた釘に引っかけただけの表札は、最近やたらと落ちることが多い。作りが簡易すぎると前々からおもっていたが、父はこのままでいいと言うばかりで、一向に直そうとしない。直接ドアに打ち付けてやろうとおもったこともあるが、私はどうしてか、行動に移すということに関して臆病だ。

 私の家の敷地には、母屋とこのアトリエがある。芸術家である父が作品づくりをしたり、一時期、絵画教室を開いていたというアトリエには、昔から遊び場として出入りしていた。私たちの部屋は母屋にあるが、父が家を空けるようになってからはアトリエにいることが多くなった。それでも私は石をいじる時だけしかここに来ない。しかし砂緒は、もはやここに住んでいると言っても過言ではない。

 三ヶ月前、アトリエの屋根裏の掃除をし始めたとおもったら、知らない間に業者を呼び、ベッドを自室から移動させていた。それから砂緒は完全な不登校となった。詳しいことはわからないが、出席日数の関係で、進級が難しくなりそうだと母は言っていた。砂緒は、留年して私の後輩になるつもりなのだろうか。砂緒の性格を考えると大して問題視していなさそうだが、年の同じ妹が後輩になるのは、置いて行ってしまうようで気分が悪い。

 アトリエの中に戻ると、玄関近くの簡易キッチンがある休憩スペースのカウチに砂緒が仰向けに寝転がっていた。いつの間に下りて来たのだろう。

「砂緒、起きたの?」

 砂緒は目だけをこちらに向け、息を吐くついでといった、短い返事をした。寝起きらしい。砂緒はアオザイに身を包んでいた。今日は外に出かける予定がないのだろう。アオザイは薄い素材で作られているため、ブラジャーをつけていないことが一目でわかった。彼女の上半身にぴったりと吸い付くような藍色の上衣は、股下で捲れていた。そこから伸びる白いクワンは、直線的に広がっている。腰骨の辺りまで入ったスリットからわずかに覗く脇腹は蠱惑的で、盗み見をしたい気持ちになる。細身で、気だるげなくせにどこか悪戯っぽさがある、砂緒にそれはよく似合っていた。

 これは父から送られてきたベトナムのお土産だ。アオザイはオーダーメイドで、自分の身体に合ったものを作る。そのため、父に採寸した自分の身体の数値を教えなければならなかった。私はそれが嫌で作ってもらわなかったのだが、砂緒は私に採寸させて、メールで父に送っていた。届いてからは、気に入ったのかずっと着ていて、この姿のままコンビニにも行っている。当然のことながら目立つ。しかし、やはり砂緒は周りからの視線なども気にならないようだった。ある意味、砂緒はとても強い人間で、私はそれを羨ましいとおもっていた。

「そうだ、砂緒のクラスの山口くんが、今度砂緒の様子を見に来てもいいかって言ってたよ」

 寝起きの砂緒に温かい紅茶を淹れてあげようと、コンロに火をかける。

「誰、それ。知らない」

「クラスメイトの名前くらい覚えて。委員長の人だよ。砂緒が学校に行かないから心配してくれてるんだよ」

花緒はなおって、本当、ばか?」

 砂緒がせせら笑う。どういうこと、と振り返ると、砂緒は胸まで真っ直ぐに伸びた、前下がりの髪をくるくるといじりながら、心底興味がなさそうに言った。

「そいつ、最終的に私とセックスしたいだけ」

 悪い意味で、どきりとすることを言う。不登校のクラスメイトを気にしてくれているだけなのに、何故そんな考えがおもいつくのか。山口くんは控えめで感じのいい人だ。優しそうだし、口調も柔らかくてとても好感が持てた。そんな人がふしだらなことを考えているはずがない。

「来るなって言っておいて」

「砂緒、でも……」

「ああ、そうか」

 すると砂緒は、手の甲を頬に当て、頬杖をつくと不敵に笑った。その姿は、絶対の存在であるかのように私の目に映った。

「来てほしかったの?」

「え?」

「来てほしかったんでしょう、山口に。気に入った?」

 私は咄嗟に否定しようとしたが、唇が動いただけで、言葉は何も出てこなかった。砂緒にそう言われると、本当にそうなのではないかとおもってしまう。私は山口くんに、家に来てほしかったのだろうか。もっと話してみたかったのか。砂緒の心配をしてくれたから、好感が持てた。違う。山口くんが砂緒に好意を持っていることに、私は気づいていた。その好意が、私に向けばいいとおもったのだ。多分、そうなのだろう。

「断っておくね」

「花緒」

 気怠そうな、怒っているような声で私の名を呼ぶ砂緒は、細めた目に軽蔑を隠しているように見えた。

「いい加減私の言うことが本当のことだとおもう癖やめな」

「違う、本当にそうなの。砂緒の言う通りだった」

「あっそ。まあ、どうでもいいけど」

 砂緒は、ぱっと髪から手を離した。はらりと、彼女の控えめな胸に毛先が散らばる。何故か、そこから目が離せなくなる。

「ヤカンうるさい」

 はっと気がつくと、とっくにお湯が沸いていた。一瞬の浮遊感に粟立った肌を撫でながら、コンロの火を消す。用意していた二つのマグカップに一度お湯を注ぎ、ティーバッグをセットしたポットにゆっくりとお湯を注いだ。立ち込めるストロベリーの香りにうっとりしていると、「ねえ」と砂緒の甘えるような声がした。

「まだ?」

 起き上がってカウチに座った砂緒は、私にしかわからない、切なげな表情をして私のことを待っている。マグカップのお湯を捨て、紅茶を淹れる。

「今行くよ」

 十分に蒸らすことが出来なかった紅茶を一口含んでから、作業机に置かれたジャム瓶を取りに行く。ジャム瓶を軽く振ると、からからと涼しい音が鳴った。それだけで砂緒は物欲しそうな顔をするので、私はおもわず笑ってしまう。この時、私は一番の優越感を抱く。カウチに向かいながら瓶の蓋を開け、フローライトを一粒つまみ上げる。砂緒は、そっと口を開いて、舌を伸ばした。私は床に膝をつき、砂緒の舌の上にフローライトを優しく乗せてやる。すると、それは肌に落ちた雪のように、じりじりと溶けていった。全て溶けきるまで、ずっと眺めていたいとおもっても、砂緒はすぐに口を閉じてしまう。私は何も言えず、立ち上がりながら瓶の蓋を閉める。

「まだ、もっと」

 魚の腹のような白く柔らかな手に引き止められる。本来、月に一粒与えれば十分らしいが、砂緒はほぼ毎日、一粒以上欲するようになった。ちらりと見ると、砂緒の熱を帯びて濡れた瞳が、ゆるゆると細められた。私は少しだけ、静かな心持ちで、フローライトを強請る砂緒のことを見下ろす。彼女がこんな表情をするのは、この時だけだ。普段は何事にもあまり興味を示さず、人を馬鹿にした態度を取る砂緒も、この時だけは私を上目遣いで見る、恐ろしいほどにかわいい、私の妹。

「砂緒、あんまり食べるとまたお父さんに怒られちゃう。それに最近、少し変だもの」

「変?」

「食べる量が増え始めてからかな。砂緒、ますます生活に無関心になったっていうか。ご飯もろくに食べてないよね?」

「おしゃぶり昆布食べてる」

「ご飯じゃないでしょ」

 アオザイのままコンビニに行き、買ってくるものは決まってそれだ。カロリーもあまりないし、食べすぎるとお腹が緩くなるという。

「花緒はあの味を知らないからそんなこと言えるの。あんたと私じゃ全然違うんだから口出ししないで、ね?」

 白い羽で首元をくすぐるような、ふわふわとした砂緒の笑顔とは裏腹に、針のような言葉は私の心を深く抉る。無邪気なのか、わざとなのか、私ですら判断がつかない砂緒の笑顔は、私が何よりも憎いとおもっているものだった。

「フローライトって、どんな味がするの?」

 それを悟られないように問う。この質問をするのは何度目だろう。聞き飽きたと言われることを覚悟していると、砂緒は少し考える素振りをし、きゅうっと目を細めた。

「ばかになる味」

 今までにない答えだった。

「何それ」

「ほら、早く次ちょうだいよ」

挑発するような眼差しに、私は折れて瓶の蓋を開けた。中でも一番きれいに形を整えることが出来たイエローのフローライトを砂緒に与える。砂緒の口の中から、石が歯に当たる音がした。舌の上で転がる石を想像し、私は歯がゆい気持ちになる。砂緒は、私がいくらきれいに八面体を作ったとしても、気づきもしないのだろう。味に形は関係ないらしいし、完全な自己満足に過ぎないから当たり前だが、やはり寂しい気もする。私の視線に気がつかないのか、砂緒は、熟しかけたイチゴのような色の唇を開くと、ため息混じりの声で呟き、微笑んだ。

「呪われていてよかった、私。もう、フローライトと花緒さえあればいい」

 それは気が遠くなるような、罪深い微笑だった。

 燕家の家系は代々、一つの世代に一人、鉱石を食す人間が産まれる。鉱石を摂取しなければ、子孫を残せない体質となることが、呪いと称される理由だ。摂取するには、生涯の番となる人間の手から直接受け取る必要がある。つまり、血を絶やさないためには、ただ一人、何かによって決められた番を見つけ出す必要があり、呪いを受けた者のほとんどは、その人の番と結ばれるという。というのも、一度鉱石を食べると、初めの頃はやめられなくなる。その感覚が、相手を愛しいとおもう感情に酷似しているらしい。石を求めているのか、人を求めているのか、境界線がわからなくなり、離れられなくなる。

 呪われたのは、姉の私ではなく、妹の砂緒だった。そして私は選ばれたのだ。私は、砂緒が異性や性的なことに興味を持っていないことに、どこか安堵していた。砂緒という人間の欲が世に解き放たれてしまったら、何かよくないことが起こる。ただでさえ、砂緒は特別な女の子だ。だからこそ、私は惨めで仕方がない。

 砂緒は今のままで十分幸せなのだろう。将来のことよりも、フローライトを食べるという快楽のみが今の彼女を動かしている。しかし、砂緒の考えに、私の意思は含まれていない。私はこれから、砂緒にフローライトを与えるためだけに生きるのだろうか。生涯を砂緒に振り回されて生きていくことに、私は耐えられるだろうか。本当は私は、砂緒のようになりたい。砂緒のように、何にも捉われずに本能のまま生き、他人を見下ろしながら、フローライトを食べてみたい。


 休日は決まってフローライトの加工に時間を割いていた。原石をハンマーで一口大に砕き、欠片の劈開を見定める。それをペンチで大まかな八面体になるように割り、鏨で不要な部分を削ぎ落としていく。ある程度整えたら、水やすりで研磨する。一番体力と時間を使うのがここで、番号の違う水やすりを私は五枚ほど使う。観賞用の鉱石標本を作るのであれば、研磨後にコンパウンドで艶を出すといいらしいが、砂緒の口の中に入るものにそんなものを使えない。

 こうして一日に作れる石は三つが限度だが、最近の砂緒の暴食のせいで、作り置きをしなければならなくなった。確かに父の言う通り、抑制させなければ、どんどん砂緒はおかしくなっていくだろう。しかし私は心のどこかで、砂緒に我慢をさせたくないとおもっていた。彼女が望むのであれば、出来る限り叶えてあげたい。それは、私の義務であるような気さえしていた。

 天窓から見上げた空は群青に染まっていた。時計を見ると九時で、夕飯を食べ損ねていたことに気づく。息を吐いて椅子の背もたれに寄りかかる。肩が凝っていた。タオルで手を拭いてから、凝り固まった筋肉を自分で揉みほぐし、ぐるりと肩を回すと、関節がごりごりと鳴った。昔は、砂緒が肩を揉んでくれたこともあったなとおもいながら、そのまま机の上を眺める。

 一箇所に溜めておいた、削り出されて不要となった欠片を一つ手に取る。クラックだらけの、歪なそれを、そっと口の中に入れた。初めこそ冷たかったが、私の舌の温度と馴染み、次第に温くなっていく。甘くも苦くもなく、ざらついた石は、なんとなく、味のない食塩のような風味がすると一瞬感じ、それも違うとおもい直す。これはおそらく無味の違和感だ。嚙み砕くことも出来ず、手のひらに吐き出す。唾液に塗れ、てらてらと光る石をゴミ箱に捨てた。

 何か波のようなものが胸の辺りから額へ押し寄せて来る。それに飲み込まれないよう机に突っ伏した。口腔内は、フローライトの無味という味がいつまでも残っていた。それを掻き消すように、舌と上顎を擦り合わせる。

 耳をすまし、辺りに誰もいないことを確認する。私は諦めたように軽く息を吐き、ショートパンツの中へ手を滑らせた。身体の力を抜き、下着の上からそっと触れる。指先の熱が、柔らかい肉にじわりと広がっていく。軽く前後させると、へその下から、ぐずぐずと崩壊していくような感覚に陥る。

 この情けない行為が、最近になってやめられなくなってきた。いつから始めたのか、もう忘れてしまったが、一つ変わらないことがある。身体が痙攣し始める頃、私の瞼の裏に映るのは、決まって砂緒の、フローライトを食べている時の表情であるということだ。



「花緒、もう昼だけど」

 軽く肩を揺すられ目覚めると、部屋はぼんやりとした白い光に包まれていた。額に埋まった小さな欠片を取り、わずかに出来たへこみを撫でる。

「あれ? 今日……」

「月曜日」

「学校!」

 慌てて母屋に戻ろうとしたが、砂緒に腕を取られて阻まれた。

「ちょっと、なに? 私急がないと」

「父さんから荷物が届いた」

「またフローライト送ってくれただけでしょ。離して砂緒!」

「落ち着けばか」

 ばちんと頬を叩かれる。何が起きたのかわからず呆気に取られて、身体の動きが停止した。砂緒に暴力を振るわれたのは初めてで、頭が混乱する。そもそも何故叩かれたのだろう。痛みよりも、驚きで涙が零れた。

「これ見たら学校なんて行けなくなるよ」

 私の涙を優しく掬う砂緒は、先ほどまでわからなかったが、興奮しているようだった。荒い息を整えるためか、砂緒は数回深呼吸し、私を簡易キッチンの方へ誘う。カウチの前に置かれたローテーブルには、見たことがないほど厳重に梱包された包みがあった。一度開けた形跡があるが、砂緒の仕業だろう。

「これ、見て。きれい」

 慎重な手つきで取り出されたのは、六面体結晶がいくつも組み合わさったブルーフローライトの標本だった。両手で受け止められるほどの大きさのそれは、清らかな泉の深くを切り出したような、濁りのない清廉な青色をしており、見た者の魂をそっと引き寄せる。周りには所々、霜のような水晶がついており、凛として近寄り難い。手が届かない。そうおもわせるほどに、この石は遠いところに存在していた。

 しばらく言葉を失いながら、標本に見入っていると、ふいに名前を呼ばれた。

「ねえ、学校なんて行ってる場合じゃないでしょ」

「……これ、どうしてお父さんが?」

「さあ。譲ってもらったんじゃない?」

 ただでさえ高騰しているフローライトのトップクオリティ標本だ。手に入れる手段はそれくらいしか考えられない。世界中を飛び回っている父の目的は未だわからないが、旅の鱗片を垣間見た気がする。

「花緒、持って」

「え? やだ砂緒、素手で持ってたの? 信じられない!」

「いいから」

 手袋を探す暇もなく、無理矢理手渡される。ずっしりとした標本の重みと、罪悪感で潰れてしまいそうだ。私のせいで石が汚れていく気がする。それなのに、似つかわしくない胸の清々しさに高揚していた。

「花緒、嬉しそう。私も嬉しいよ」

 ふふ、と微笑んだ砂緒は、髪を耳にかけると、倒れるように前屈みになった。

 ぴんと伸びたまつ毛。ゆっくりと開いていく唇。唾液が縦に糸を引き、舌に触れて途切れる。白く、ぴっちりと揃った歯がフローライトに突き立てられる。唇の形が変わる。口角が広がり、閉じていく。上目遣いの眼光が炯炯と私を見ている。

 砂緒はまるで、スニッカーズでも頰張るかのように、フローライトに噛りついたのだった。身体がぶるりと震える。目の前に立つ、頬を染めて快感に打ち震える、黒い瞳の女が恐ろしくてたまらなかった。

 私はどうしたらよいのかわからず、砂緒の歯型の形に欠けた標本を机の上に置いた。途端に強い力で引かれ、カウチに倒れこむ。ふわりと甘い匂いがした。見ると、砂緒の顔がすぐ側にあった。乱れた前髪を直しながら、砂緒は私に見せつけるように口を開いた。艶やかに舌の上で青く光るそれは溶け、今にも溢れてしまいそうで、器を増やさなければ、と私は、ただ単純に、そうおもったのだった。

 とろとろと唇が解けていく。記憶が全て吹き飛ぶような陶酔に、息を吐き、吸い込む。そうする度に、水中から地上へ出た時のような、身体の怠さを感じる。私はまた潜る。泳ぐように探り当てた温かく柔らかなものを、自分のものにしようともがく。全て飲み込む。

 私は波。風に吹かれて立つ淡い波だ。青い水面で、分裂を繰り返しながら小さくなり消えていくだけの泡を残す。ただ、それだけの単純な存在だ。単純な存在はとても楽で、心地好い。辺りが白けていく。

 がこん、と木材が落ちる音にはっとなり、顔を上げた。一瞬で身体の中に意識が返って来る。ざあっと血の気が引いていくのがわかった。

 私は砂緒に馬乗りになっていた。身体が熱いのに、やけに頭が冴えてくる。唇の湿り気で、空気の流れがわかる。それら全てが、怖かった。私は自分の肩を抱き、鼓動を鎮めようと浅い呼吸を繰り返した。倒れたままの砂緒は、息を整えながら、薄く微笑んでいる。

 この空間に耐えられなくなり、逃げ出そうとした手を掴まれた。見ると、砂緒の手は震えていた。

「怖いよ、私も」

 伸びてきた砂緒の両手が、私の首の後ろに回される。ぐっと引き寄せられたかとおもえば、耳に砂緒の唇が触れた。

「気持ちいいことは怖いんだよ。だからばかにならなきゃ」

 吐息と共に紡がれた、掠れた言葉に頭がくらくらする。私の髪が、砂緒の髪に折り重なり、混じり合っているのが視界の端に映った。私はどこか諦めた気持ちで、砂緒の首元に顔を埋める。

「ずっと感じてたよ、変な視線」

 指を絡め取り、緩く握ると、小さな力が返ってきた。意識が沈み込んでいく。

「だって私、あんたを惹きつけていようと必死だもん」

 柔らかい首筋を食みながら、私はこれまでで一番嫌だったことをおもい出す。とても寒くて、静かな夜。寂しいのか、切ないのかわからないけれど、身体の末端がとても熱くて、でもやはり頭は冴えていた、初めて絶頂に達した後のことを。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

とろける石 朝霧 @asgrso-ko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ