本当に刺さった痛い話(結)

 事件発生時舞台上にいた5人に対しての聞き込みを終えた僕たちが次にするべきは、2回目の現場検証だった。事件当日に、加瀬月さんを交えた3人で簡単に舞台を見ていたものの、話を聞いてからの方が断然、目のつけどころが増えてくる。彼らの証言に嘘がないかどうか、実際に僕たち自身の体で再現してみることが重要だ。

「加瀬月さんから連絡があったけど、平台の上の血液は、間違いなく被害者である福士くんのものだったそうだよ」

 僕は前回と同じ観客席に座り、照明が全て点灯している、雰囲気のない会場を見ながら織羽くんに言った。彼も隣に座り、背もたれに寄りかかっている。

 施設の人によれば、事件以降ここには職員ですら立ち入っていないそうで、それはつまり、凶器もどこかに残っているだろうことを意味していた。もちろん、事件当日に犯人が凶器を回収していたら話は別だが、しつこいくらいの手荷物検査が行われていたので、会場から持ち出そうとするよりも残しておいた方が見つかる可能性は低くなるだろうことは犯人もわかっていたんじゃないだろうか。

「平台の指紋を調べてもらうことはできないのかい?」

 織羽くんが尋ねる。僕は首を振った。

「調べることはできるだろうけど、準備や練習の段階から関係者がベタベタと触っているから、これもやっぱり混乱を招くだけになると思う。それに、道具の持ち運びでの事故や怪我を防ぐために、ものを動かしたりするときは軍手を使うことになっているから、指紋には正直期待できないと思う」

 織羽くんは頭を掻く。

「その軍手に指紋がついているんじゃ?」

「軍手は人数分あるけど、専用のものではなく、その時々で使う人はバラバラだから、やっぱり同じ軍手から複数人の指紋が出ることになる。指紋に頼らず、証拠を掴むしかないみたいだ」

 ため息をつく織羽くんとほぼ同じタイミングで、僕は席から立ち上がる。肩を回し、首を鳴らす。なかなかの広さがある舞台裏を、僕たちはこれからくまなく探さなければならない。凶器が、出てくるまで。

「今日中に見つかるといいなぁ」

 織羽くんが笑って言ったが、あまり期待をしていない様子だった。


「これが、庭畑さんの言っていた蓄光テープだね」

 カーテンコールの時、役者が立っていたあたり――舞台前方の床には、たしかに四角く切られたテープのようなものが貼られていた。両手で覆って光を遮る。指の隙間から覗くと、たしかに黄緑色に発光していた。これが、暗転中の目印になる、というわけだ。

「観客席からじゃわからないけど、結構色々なところに貼ってあるもんだね。ほら、幕のところにもついてるよ。高いところに貼ってある分は、まるで蛍が飛んでいるみたいになるんだろうね」

 織羽くんが蓄光テープを探しながら舞台裏を探検し始めた。あくまでも見つけるべきは凶器なのであって、蓄光テープじゃないと忠告する。彼は笑って、上手側の舞台裏を調べ始めた。僕は反対側の――荷物を搬入するために、駐車場と繋がっている下手側を調べることにする。

 外に繋がるドアの前に立つ。ふと、ここから凶器を外に出してしまえば、先日の手荷物検査をクリアできるのではないかと考えつく。解放されてから回りこみ、凶器をこっそり回収すればいいのではないか、と。

 しかしここで、荷物の回収にも加瀬月さんたちが付き添っていたことを思い出す。怪しい物を隠したり外に出すことのないように、彼が監視の目を光らせていたはずだ。ということはやはり、凶器はそのままどこかに残っているはずなのだ。もしかすると、福士くんの血をつけたままで。

 ゴミ袋がいくつか転がっているのが見えた。僕たちの住んでいる市のゴミ袋で、何の変哲もない。中身はガムテープだったり、養生テープだったり。しかし2袋ほど、色鮮やかな布が丸めて押し込まれている袋があった。僕は慎重に結び目を解こうとするが、固くてなかなか解けそうにない。あたりを見回す。ハサミか何かがないものか。

 視界の端に、仰々しいケースが見える。黒いケースで、重い内容物に負けないための、しっかりとした留め具。クーラーボックスのように見えるが――工具箱だ。僕は留め具を外して、中身を探る。あった。大きいハサミだ。段ボールでも簡単に断ち切れそうな、少し重みのあるハサミ。

 結び目を切る気にはなれず、僕は中身を傷つけないようゆっくりと、ゴミ袋の表面に刃で傷をつける。裂け目に指を入れて、乱暴にゴミ袋を引き裂いていく。

「衣装、かな」

 須坂くんが、衣装はこれっきりで破棄する予定だったと言っていたのを思い出す。舞台が終わろうとするとき、雛上さんが裏で詰めていたのだろう。自分が丁寧に作り直した、孤独の産物を。

 中身をひっくり返す。どっしりとした重み。一つひとつはキレイに作られたものだったが、これだけぎゅうぎゅう詰めにされてしまえばただのシワだらけの布の塊だった。僕は何ともいえない気持ちになる。一つひとつどかしていったが、何かが出てくるようなことはなかった。僕は肩を落とす。

「君の前世はカラスだったのかな」

 織羽くんの嫌味が聞こえる。上手側に、怪しい物はなかったのだろう。よく考えたら、大抵のものは下手側に移動されているはずなのだから、それもそうかと納得する。

「犯人が凶器を隠すとしたら、どこになるだろうかって考えていたんだ。衣装は棄てられる予定だった。だからこうして、押しこめられていた。だけど不思議なのは、襟平さんの証言だ。彼女によれば、雛上さんは衣料の消臭スプレーを持っていたらしい。けど、これがおかしいんだ。また使うものであればまだしも、いったいどうして、これから棄てる予定の衣装を、消臭する必要があったのかって」

 織羽くんは腕を組む。

「血液のついた刃物を隠しているから、臭いが出ないように、ということか」

 しばらく、彼が僕を見つめている。何か言いたいことがありそうで、僕も目を合わせて言葉を待つ。

「いいのかい、その推理で?」

「どういうこと?」

「それはつまり、雛上さんが犯人ってことだろう? 君の好みの女の子が――」

「好みは事件の真相には関係ないし、それに雛上さんが犯人だと思っているわけでもないよ。凶器ではないけれど、何か犯行に関わるものが隠されていたのかもしれない。雛上さんはその臭いに気づいただけ、とかね」

 僕たちはしばらく、ゴミ袋を破って中身を確認する作業に徹することになった。幸い生ゴミはなかったため、ひどい臭いがするようなことはない。しかしそれは、臭いの元――血のついたものがそこにはないということも意味していた。10分ほどそんな作業をしていたのだが、全くの徒労に終わる。

「ごめん、何もなかったね」

 僕は織羽くんに謝った。彼は首を振る。

「謝ることはないさ。こういう地道な作業が、きっと必要なんだと思うよ」

 織羽くんが額の汗を拭う。表情は楽しげだったが、その瞳は少し暗い。

「それに、俺は前回、何もできないで病院のベッドに寝ているだけだったからね。南の関与は何となくわかっていても、自分で動くことができなかった。こうして何か探偵っぽいことができるのが、正直楽しいんだよ。

 それに、君は南の――俺の親友の恩人だ。君が南の犯行を突き止めなければ、あいつはずっと罪の意識に苛まれ続けるだけだっただろう。俺じゃどうにもできないことだったんだ。

 もちろん、悪意のみを原動力とした犯行というのもありえるだろう。けれど南がそうだったように、犯人にも何か護らなければならないものがあったために、誰かの命を奪ってしまうことだってある。そしてそれが、正しくないことだという自覚もある。罪の意識は永遠に胸の内に残り続けるが、それは裁判で下された刑罰によっていくらか軽くなる。しかし、罪が暴かれなかったらどうだろうか? 犯人は、罪の意識だけでなく、いつどこで誰に知られるかわからないという恐怖にも苦しめられることになるんだ。そしてそれは、刑罰よりも重苦しいものだろう。

 だからね、河童場くん。これは救いなんだよ、きっと。権力をもった警察などが罪を暴くのではなく、君がするってところに意味がある。だから南も、君の恋人も、君の前で告白をしたんだ。これは、フランクな性格の加瀬月さんにもできることじゃない。君のもつ頼りなさと、妙な安心感が、犯人の償いのためには必要なんだ。

 そしてそのために、事件の真相を突き止めなければならない。追いつめるのではなく、犯人を一度包んであげなければならないんだ。そのためになら、俺はできる範囲のことは何でもする。ゴミ漁りだろうと、ハズレだろうと、君の助けになることなら何だってね」

 僕の胸に、彼に対する感謝と――申し訳なさが込み上げてきた。彼は、暴くことは救いだと言ったが、実際彼はどう思っているのだろうか。

 犯人だと暴かれた側は、もしかするとある程度罪の意識が軽くなることはあるかもしれないが、人はひとりで生きていることなどほとんどありえない。その人の友達、恋人、家族。そういった人たちは、身近な人が犯罪者だと知ったとき、いったいどのような想いを抱くのだろう。知らなければよかったと、思うかもしれない。罪を暴いた探偵を、恨むのではないだろうか。

 今回の事件を解決することで、僕はいったい誰を救い、誰に恨まれるのだろう。


 凶器が見つかっていないということは、凶器がまだどこかに隠されているということだ。ゴミ袋の中にはなかったが、例えば――ハサミの入っていた工具箱などは隠すのにうってつけの場所だろう。僕と織羽くんは、箱の形をしているものを片っ端から探ることにした。

 工具箱の中身はハサミだけでなく、大きめのカッターにノコギリ。凶器として使えそうなものはいくつかあったが、どれにも血痕は残っていない。暗闇の中で人を刺した犯人に、血を拭うだけの余裕があっただろうか。……おそらく不可能だろう。それに、無理に証拠を隠滅しようとすれば血が飛び散り、証拠をそこら中に残すことになる。万が一服に付着したら、言い逃れもできない。

 仮に血を拭くことができたとして、それに使った布などはどこにある? 加瀬月さんたちの荷物検査では何も引っかかっていない。そんな物騒なものがひらひらとそこらへんに落ちているとも思えない。そうなるとやはり凶器は、血をべったりとつけたまま、どこかにあるのではなかろうか。

 他のケースには、テープだけを収納したものもあった。透明なケースにガムテープなどが詰め込まれていて、凶器を隠すにはふさわしくない。念のためケースをひっくり返したものの、話にあった蓄光テープなどが見つかっただけで、凶器となりえるものは何ひとつなかった。

 他には、黒い布の入ったケース。この布は両手で抱えなければならないほど重く、ただの布ではない様子だった。布の端には、幕という文字の書かれたガムテープが貼られている。音響や照明を操作する機材が発光して客席の暗闇を損ねないように使うなど、パッと見ただけでは気づかないような場所に用いるものだ。丁寧に畳まれた幕を全て広げても、中からは何も出てこなかった。僕たちは泣く泣く、幕を綺麗に畳み直して、元通りにケースへ戻す。乾いた布を長い時間触ったため、手の水分がなくなってしまった。カサついた手を叩いて、僕たちはため息を吐く。

「そもそも、凶器はどのように持ち込まれたのだろうか」

 織羽くんが唇を触りながら言う。そんな手で触ったら唇が荒れてしまうのではないかと、余計な心配をする。

「ひとつは、元々会場に搬入される予定だったものをそのまま凶器として使う可能性。さっき見たハサミやカッターを、そのまま犯行に使うというものだ。これの場合、いくつかのメリットがある。既に複数人が使用しているものだから、指紋での犯人特定をほぼ無力化することができるし、元々持ち込まれる予定のものだから怪しまれることもない。

 けれど既にあるものだから、犯行計画に合わせて変形・工夫することが難しい。工夫しなければ暗闇で回収するのは難しく、今回でいえば照明が消える前には凶器を手に持っていなければならないことになる。そんな無用心なこともないだろう。自分が犯人だと言っているようなものだからね。それを避けるべく、暗闇で見えるよう蓄光テープを貼っておくにしても、何でそんなものにテープが貼っているのかと不審に思われる。

 もうひとつの可能性は、犯行計画に合わせて細工をしてある道具を、まさか凶器だとは思われないような形で持ち込んでおくというものだ。例えば口紅に細工をして、回すとリップではなく太い針が出てくるようなものにする、とかだね。この場合、できるだけ自分専用のものの形をしていた方がいい。もしガムテープ型の刃物をつくったとしたら、これは共有のものとして誤解され、誰かの手に渡るかもしれないからね。

 そしてこれの厄介な点は、見た目の上では凶器とわからないことだ。今回の犯行に――先ほどの例を流用するけど――口紅型ナイフが使われたとすれば、加瀬月さんたちの検査を突破してしまっているかもしれない。まさか口紅がナイフになっているとは思わないだろうからね。そうなると、僕たちのこの努力は全く意味がないことになる。もう凶器は、外に持ち出されてしまっているんだから」

 僕は首を振った。

「けどそれは逆に、もし加瀬月さんたちにバレてしまえば、ほとんど言い逃れができないということでもあるよ。そして指紋が検出されなければ、普段から使っているであろうものなのに、どうして接触した痕跡がないのかと疑われる。

 もちろん、犯行に使用した凶器を、何かのタイミングで違う誰かの荷物に忍ばせれば、罪をなすりつけることができるかもしれない。しかしそれについては加瀬月さんたちが手を打ってある。荷物検査の際、見覚えのない荷物が入っていないかどうかをチェックさせていたんだ。そして、そういった不審物は出てこなかった。犯人があえて、凶器を見知らぬものとして報告したようなことはなかったということでもある。つまりは……」

 僕の言葉を、織羽くんが引き継ぐ。

「一か八かで凶器を持ったまま荷物検査をクリアしたか、見つかっても指紋が検出されない自信があるために、血のついた凶器をそのままどこかに残してあるか。河童場くんとしては、後者の可能性が高いと思っているわけだ」

 僕は頷く。

「織羽くんの提案してくれた口紅ナイフのようなものだと、福士くんを仕留めるのは困難だと思うんだ。もちろんピンポイントで急所を突き立てればどうにかなるのかもしれないけど、今回のような暗闇の中では難しいだろうし、頚動脈などではなく胴体を刺して死に至らしめているわけだから、そこそこの刃渡りがなければ、骨を越えて内蔵に傷をつけることは不可能だと思う」

 たとえカモフラージュしていたって、それだけのサイズの凶器を持ち出そうとするのはリスクが高すぎる。

 織羽くんが、気合を入れるように首を鳴らす。

「とにかく、片っぱしから色んなものをひっくり返すしかないわけだ」


 舞台裏にあった箱という箱は全て調べたが、血のついた刃物は見つからなかった。ふたりがかりで平台を持ち上げるなどもやってみたが、やはり何もない。

「さて、あと探してない場所といえば……」

 織羽くんの視線の先。舞台後方の、壁に沿って下りている大きな幕。その裏には木材や、使用途中のペンキなどが置かれている。あとから聞いた話によれば、施設の備品だけでなく、利用団体が忘れていったものもあるらしい。

 幕はカーテンのようになっていて――引割幕ひきわりまくと呼ぶのだが――左右に開くことができる。僕たちは中央で重なり合った生地を掴んで、反対方向へ歩いて行く。幕は大きいため、かなりの重さがあった。

 裏のスペースはかなり狭い。大小様々な木材が、壁にもたれたり、木でできたケースのようなものから頭を出したりしている。何かを隠すのにはうってつけだろうし、乱雑に置かれた備品の中からそれを見つけ出すのは骨が折れそうだ。

 ため息をつく織羽くん。その隣で、僕はあることに気づく。

「上手側の方が、荷物が整理されているように見えるね」

 幕の裏のスペース上手側。若干であるが、下手側に比べて資材が整えられているように見えた。狭いことには変わらないのだが、これなら幕が閉まっていても、上手側なら幕の裏を通ることができそうだ。

 はっとして、僕は平台を見る。今までは、観客席側からしか平台を見ていなかった。平台が舞台の一番奥にあって、平台の奥側を見るには平台を動かすか、幕を開けて裏側から見るしかない。先ほど平台を動かしたのは「下に凶器が隠されていないか」を確認するためで、平台そのものに注目はしていなかった。

 観客席や役者からは見えなかった、平台の奥の面。その中心に、小さい蓄光テープが貼られている。

「暗闇の中でカーテンの裏を通っていけば、舞台奥の中心あたりに出られる。そしてそこは、福士くんが死体の演技をしている場所の近くでもある。犯人は暗転中、上手側の引割幕の裏を通り、幕の境目から顔を出すと、平台に貼ってあった蓄光テープから福士くんのだいたいの位置を把握して、凶器を振り下ろしたんだと思う。少しでも動けばカーテンの音が出てしまうから、ものすごく慎重にね。幕に体が当たることも避けたかったからか、犯人はあらかじめ、上手側の荷物を整理していたんだと思う。勝手に撤去するとさすがにバレるけど、通り道をつくるくらいなら見つからないだろうし」

 織羽くんが顎に手を当てる。

「そうなると、引割幕に近い場所、そして上手側にいた人物が、一番疑わしいってわけだけど――」

 言いかけて、織羽くんは目を見開く。彼は苦々しく言った。

「上手側の第二袖幕の裏にいたのは――襟平じゃないか」


 思わぬ情報が得られたが、それは僕たちにとって――特に、織羽くんにとってはあまり嬉しくない情報だ。彼を劇に招待した友人の襟平さんが犯人だとは考えたくないだろう。もちろん、聞き込みを経てみんな悪い人ではないとわかっている僕からすれば、他の誰が犯人だってショックではあるけれど。

 あくまでも、凶器を見つけることが優先。誰が犯人なのかについてはいったん考えないことにして、僕たちはあらためて、舞台裏の資材を探すことにした。

「よし、ここは上手側と下手側に分かれて探そう――と言いたいところだけど。困ったことがひとつあってね」

 織羽くんが、ペンキの缶を指差す。

「ペンキの中に凶器を沈めたという可能性を考えて、中身をひっくり返す必要があるわけだが、もちろんこの作業は服や手が汚れてしまう。四の五の言ってる場合でもないけど、ふたりでペンキまみれになるのもバカバカしい。ここはジャンケンで、負けた方がペンキを、勝った方がそれ以外のものを調べるというのはどうだろうか?」

 僕が頷いて、体を織羽くんの方に向けると、彼からピリリとした雰囲気を感じた。さすがに、僕に負けないくらい好奇心の強い彼でも、ペンキに汚れるのは避けたいらしい。

 そして、僕だってそれは嫌だ。ただでさえ少ない私服が、使い物にならなくなってしまうかもしれないのだから。


「全く、どうしてこんな色のペンキを忘れたりしたんだろう。置いていった団体様の責任者の顔が見たいよ」

 狭いスペースで作業するのもなんなので、僕たちは幕裏の資材を、ステージの中央に運んでから凶器を探すことにした。

 ぶつくさと言いつつ、だんだんと楽しくなってきたらしい織羽くんが、バケットにペンキを流しながら言う。勝負は一瞬だった。僕の出したグーが、彼のチョキを粉々に砕いたのだ。

 ペンキは普通、バケットと呼ばれる容器――要するにバケツに流して、そこにハケやローラーを浸して染み込ませる。公演中に何かしらの事情で大道具などのペンキが剥がれても塗り直せるよう、襟平さんたちの劇団はペンキ塗りセット一式を持ち込んでいた。僕たちはそれを勝手に借りて、ペンキの中を全てひっくり返している。凶器が隠されているかもしれないペンキ缶の中に手を突っ込むのはあまりにも間抜けだし、少しでもペンキで汚れる可能性を減らしたいと織羽くんが考えたからだ。

 僕はといえば、角材を一つひとつどかして見たり、角材自体が凶器を隠すケースになっているのではないかと触ってみたりしている。かれこれ10分ほどこんなことをしているが、それらしいものは出てきていない。

「あーあ、見てくれよ河童場くん! 袖についたペンキの色! これはいったい、何色と呼べばいいんだ? 青とも緑とも言い難い、この微妙な感じ。汎用性が低すぎたんだ。きっとこれを置いていった団体は忘れ物をしたんじゃなくて、こんな色持ってても二度と使わないだろうからと、わざと置き去りにしたに違いないね」

 小さく笑いながら彼を振り返ると、たしかに何とも言えない色であった。100人に聞いたら、青と呼ぶか緑と呼ぶかで数が半分に分かれそうだ。しかし青緑と呼ぶには暗すぎるので、もしかすると黒と答える人もいるかもしれない。

 ここで、僕は最近この色を見かけたような気がした。どこだ? こんな何とも言えない色は、何かを注意深く見ていたときに映りでもしない限り、覚えているはずがないのだけれど。

 織羽くんの声が聞こえる。

「乾いたペンキでも、くっつくもんだね。フタについた乾いたペンキなら大丈夫だと思ってたんだけど、何かの拍子に削れたのが、ズボンの裾についてしまった。まあ、これは叩けば落ちるんだけどさ」

 ズボンの裾?

「……織羽くん。そのペンキは、上手側と下手側、どっちに置いてあったもの?」

 織羽くんは自分の位置と幕を確認して、冷静に答えた。

「上手側のものは上手側に、下手側のものは下手側に置くようにしたから、このペンキは……」




「突然、呼び出してすみません。既に聞き込みを終えているのに、また時間をつくってもらうことになってしまいました」

 僕は観客席の間の階段を降りながら、できるだけ動揺の色を見せないよう朗らかに言う。後ろから、コツコツと足音がする。靴の音だ。

「あなただけをここにお呼びしている理由は、わかっていると思います。他の人から不当に責められぬよう――僕だけに、しっかり話をしてもらえるようにです。そう、犯人であるあなたから」

 急に足音が乱れ、小さな悲鳴が聞こえたので、僕は急いで振り返る。階段を少し戻り、バランスを崩したらしい体を受け止めた。足を踏ん張る。ほんのりと、いい匂いがした。抱き止める形になってしまったが、これは決して僕の下心によるものではなく、不可抗力というやつだ。

「あまり慣れてないんですよね、そういう格好?」

 僕はやんわりと彼女を離して、背を向けながら言った。目を合わせると、恥ずかしくなってしまいそうだったからだ。

 すんなりと僕の呼び出しに応じてくれたということは――織羽くんの言葉を借りれば、彼女は救いを求めているのかもしれない。罪悪感からの解放を望み、僕に全てを打ち明けようとしているのだろう。

「そういった服装もお似合いですけど、個人的には最初にお会いしたときの格好の方が好きですよ。まああれは、裏方用の格好なんでしょうけど」

 足を進める。雛上さんは悲しそうな顔をして、僕の後をついてきた。


「どうして、私が犯人だとわかったんですか?」

 先日の聞き込みと同じ、色気のある深緑のワンピース。ヒールのあるパンプス。見たところ新しいもので、つい最近購入したことが想像された。そういえば、前回の靴はなんだっけ。服にしか目が行かず、足元のオシャレまで気にかけることができなかった。

 ふたりで平台に――ヴォロネークの処刑台に腰かける。福士くんの血は渇いているはずだったが、何となくそれを避けた。

 今座っている場所で人が死んだことが嘘のように、穏やかな気持ちで――語り合うカップルのような気持ちでいる。もちろん僕たちは、カップルではないのだけれど。

 僕は足をぱたぱたと動かして、緊張を紛らせながら話し始める。

「僕たちは、引割幕の裏を調べたんです。上手側だけ資材が整えられていて、最初僕たちはそれを、犯人が上手側から幕の裏を通り、福士くんのところまで行ったのだと考えました。つまり、犯人は上手側にいた人物の誰かだと考えたのです。

 しかし、下手側に置いてあった、何とも言えない色のペンキに気づいてから、僕はあなたを疑ってみました。僕は千秋楽の映像を繰り返し観ていたので、雛上さんのズボンの裾に、固まったペンキが付着していたことを思い出したんです。

 千秋楽の公演が始まる前に、キャストやスタッフ全員で写真を撮ったのを覚えていますか? 須坂くんのスマートフォンで撮影したものです。彼は、公演が終わってからグループのメンバーに送ろうとしたのですが、事件で暗い雰囲気になってしまったので、共有を控えていたんです。そして僕は、それを彼から送ってもらいました。そこに映っていた雛上さんのズボンには、特に汚れなどは付着していませんでした。そしてそれは、千秋楽の映像を撮るべく回していたビデオカメラの映像でも確認できます。観客を会場に入れる前、ステージを通過して舞台裏へ移動するあなたが映っていたからです。

 劇が進み、問題のラストシーンが終わって照明がつきました。舞台前方に立っていた役者たちが福士くんの異変に気づき、悲鳴を聞いて舞台袖から郡田くんと雛上さんも出てくる。そしてそのときのあなたのズボンには、青緑色の点のようなものが付着していた。映像の乱れなどではなく、あなたが動く度に動いていたものです。

 事件の日、連絡先を交換したときにももちろん、固まったペンキは付着していたはずです。でも僕はそれに気づかなかったし、気づいていても気にも留めなかったと思います。裏方さんの服が汚れているのは、何も不思議じゃありませんから。

 このことからわかるのは、そのペンキが劇の最中に付着したということです。劇の前にはなかったものが、最後のシーンでついていたんですから。そしてペンキの色が特殊なもの――会場の中には、引割幕の下手側の裏にしか置いていないものであったことから、あなたが劇中にそこを通ったことがわかる。あの色は、そこでしか付着しえないわけですから。あなたは暗転中、平台の前を通って上手と下手を行き来することになっていたので、わざわざ狭い引割幕の裏を通る必要はない。なのにそこを歩いたということは、何か舞台とは別の目的があったからということ。

 そして僕は、今回の劇で使用した衣装が破棄される予定だったという話を聞いていました。けれど、あなたが衣料消臭のスプレーを持っていたという話も聞いていたんです。これは矛盾しています。まだ使う予定の衣装ならまだしも、棄てる予定の衣装を、どうして千秋楽のステージの最中に消臭する必要があるのでしょうか。実際、役目を終えた衣装たちがゴミ袋に詰められているのを、僕は先日ここを調べたときに確認しています。

 最初僕は、その消臭スプレーが証拠を隠すために使われたものなのではないかと考えました。例えば、血の臭いがついたものに吹きかけるため、とかです。しかしよく考えてみると、この推理はおかしかったんです。あなたがスプレーを持っているのを目撃されたのは、最後のシーンの直前。そして福士くんが刺されたのは暗転の後。スプレーを持っていた時点で事件は起きていないのですから、消すべき証拠もないはずなのです。

 僕たちは必死に、凶器を探していました。いかにもな刃物です。血のついたノコギリだとかナイフだとか、そういうものをイメージしていた。けれど消臭スプレーの謎に気づいて、そのスプレーを探してみたんです。とはいっても、探すまでもありませんでしたけどね。隠されているはずだと何かを探していると、あまりにも堂々と置いてあるものは見落としやすいんです。僕たちが最初に見つけたのは、普通のスプレーでした。緑茶の香りのするミストが噴射されるものです。読みが外れたかと落ち込んでいると、僕の助手が――織羽くんがもうひとつのスプレーに気づきました。トリガーを引いても、何も噴射されない。中の液体が切れているのかと思い、ノズルを外したらびっくり仰天。本来であればチューブがついているはずのところに、刃がついているではありませんか。まさかスプレー自体が凶器だとは思わなかったのですが、衣装や小道具など様々なアイテムを自力でつくれるあなたならば可能だろうと考え直しました。むしろ、あなたにしかつくれないものだと、確信したのです。

 あなたは元々、上手側から引割幕の裏に入り、中央に出て福士くんを刺そうとしていた。上手側の資材を整理して、道を確保していたことがその証拠です。しかし何らかの事情により、あなたは下手側から行かざるを得なくなった。時間の都合からか下手側の整理はできていなかったものの、あなたは計画を決行した。そしてそのせいで、犯行の証拠となる【下手側のペンキ】をズボンにつけてしまった」

 僕は言い終えてから、幕の裏に置いておいた例の凶器を持ってきた。どこからどう見ても、ただの消臭剤。しかしこれは、人を殺したナイフ――血塗られたナイフがそのまま収納されている、鞘のようなものだ。

「がんばって、つくったんです。棄てる衣装も、そのナイフも」

 ぽつりと、雛上さんが呟いた。

「本物の消臭剤のチューブ部分をナイフに変える手もあったんですが、既に規格が決まってしまっているものなので加工しにくかった。だから本物の部分は実はボトルの部分だけ。ボトルの口に収納できそうなナイフを見つけて、そのナイフの柄をスプレーのノズルに見えるよう改造したんです」

 ノズル部分を爪で弾く。なるほどたしかに、本来のプラスチック製ではなさそうだ。おそらく、木材か何かを加工したのだろう。

「河童場さんの言う通り、私は上手側から福士くんを刺しに行こうと考えていました。千秋楽で片づけを進めていくと、本来ならラストシーンの直前で、私は上手側にいるはずだったからです。

 本番の2日前から会場で舞台の準備をしていましたから、舞台とは関係のない幕の裏を整理するのは大変でした。人目を避けなければならないし、そこに使える時間も少なかったからです。だから上手側にしか道をつくれなかった。まさか下手側から行くことになるなんて、考えもしなかったからです。

 シーンごとの練習になると、私は衣装の手直しと偽って舞台裏にいました。そのシーンで出ていない役者たちや他のスタッフたちも観客席に散らばって舞台を確認していたので、舞台裏にいたのは私ひとりだけ。私は秒数を数えながら、何度もノズルを外して幕の裏を通る練習をしていました。もちろんこれは、凶器の方ではなく、本物のスプレーの方で、ですけど。……スムーズに刺すための練習です。おかしいですよね。みんなが舞台の最終確認をしている中で、私は人を傷つけるシミュレーションをしていたんですから。

 そして、千秋楽。私は出番のなくなった衣装や小道具を上手の舞台裏から回収して、暗転中に下手へ運ぶことを繰り返していました。これから人を刺して、舞台の片づけどころではなくなるはずなのに、何故か私は、いつも通り撤退の準備を進めていた。どうかしていたのかもしれません。

 しかし、想定外のことが起こりました。出番を終えた襟平さんが片づけを手伝ってくれたために、最後のシーンで私は下手側にいざるをえなくなってしまったんです。消臭スプレーは下手側に置く決まりになっていたので回収はできましたが、運ぶものがなくなってしまったので、上手へ行く口実がなくなってしまった。上手側で襟平さんが、もう荷物は全部運んだ、というようなことをジェスチャーで伝えてくれましたが、私はかなり動揺していました。

 彼女の飾らない優しさが、犯行を思い留まらせようとしているのかもしれないと考えましたが、私はこれまでの怒りや悲しみを思い出し、自らを奮い立たせて彼を刺しました。凶器が見つかっても、作業用の軍手のせいで指紋は検出されないはず。首を刎ねるわけではなく、寝転んでいる人間にナイフを突き立てるだけだったので、返り血の心配もしていませんでした。

 それがまさか、ペンキで発覚するだなんて。河童場さんの観察眼には驚かされます。先ほども、こういった服装に慣れていないことを、見抜いたわけですし……」


 話が前後してしまうが、消臭スプレー型のナイフを発見し、僕が雛上さんが犯人かもしれないと伝えたとき、織羽くんは少し苦しそうに、こんなことを言った。

「君が庭畑さんへの聞き込みをしているとき、俺はそれを盗み聞きしていたと言っただろう? 実はあのときの俺の観察対象は、もうひとりいたんだ。向こうからは俺のことは見えてなかったんだろうけど、ちょうど俺の反対側に、雛上さんがいたんだよ。先日のワンピースに比べれば地味だけど、彼女の雰囲気にぴったりの服装でね。

 たまたま通りかかっただけかもしれないと思っていたんだけど、どうもしっかりと君たちの会話を見ていたようで、俺は疑問に思っていた。そして君と合流して、襟平から話を聞き始めたあとも、まだ彼女は君のことを見ていたんだ。さすがに俺が振り返ると、向こうも俺のことに気づかざるをえないから、どこかへ立ち去って行ったんだけどね。

 そしてこれは邪推かもしれないけど、彼女が見ていたのは君の反応だったと思うんだ。というのはつまり、庭畑さんと襟平、タイプの違うふたりの女性に対して、河童場くんがどのような反応を見せるかということを知りたかったんだね。はっきり言うと、君の好みが知りたかったんだ。彼女はありのままの自分が河童場くんの好みだなんてことは知りもしないわけだから、どうにかして君の理想に近づこうとした。しかし君と親しいわけでもないので、好みを聞き出すことは難しい。さて、そうなると彼女はふたりの女性を検査薬として君を観察するしか手がなく、庭畑さんの色気にやられている君を見た彼女は、安易に彼女のマネをして見せた。おそらく俺と目が合ったあと、庭畑さんの着ていたものに近い服を探しに行ったんじゃないかな。

 実際、次に彼女が俺たちの前に現れたときは、まるで君を悩殺するかのような格好をしていた。君の反応はわかりやすいからね。彼女はすごく喜んでいたんだと思うよ。好きになった人が、自分に興味を持っている。それが目に見えてね」


 自分で言うのも変な感じがするけど、彼女は僕のために新しく――普段着ないような服を買ったのだから、慣れていないのは当たり前だ。おそらく袖を通したのは2回目だろう。ワンピースやスカートよりもシンプルなズボンの方が性に合っているだろう彼女が、ヒールのある靴で階段を降りたら転倒するに決まっている。

 ここで、僕のこと好きなんですか? なんてことを聞いたって何の意味もない。僕は話を進める。

「どうして、こんなことをしたんですか? 僕はあなたが、やさしい人だと確信しています。先ほどは怒りや悲しみという言葉を使っていましたが、それを詳しく教えてください。彼の態度のせいで辞めていった、かつての仲間たちを想ってのことですか? 彼らの無念を晴らすべく――」

「いいえ」

 はっきりとした拒否。彼女の横顔を見る。瞼を閉じて、昔へ思いを馳せている様子だ。僕は言葉を待つ。

 1分ほど沈黙があって、彼女が語り始めた。

「前回お会いしたときのお話を、覚えているでしょうか。私と福士くんは同じ高校の演劇部に所属していたというものです。

 演劇部を引退してからの文化祭のクラス劇。福士くんのクラスは優勝できなかったとお話しましたが、そのときに優勝したのが私のクラスだったんです。私はあまり、優勝だのなんだのにこだわっていませんでした。楽しくやれるならそれでいい、賞が獲れたらラッキーだ、くらいに思っていたんです。私も役者として参加していました。話こそしませんでしたが、観客席に福士くんがいたのを覚えています。ライバルを偵察する目にしては、やや鋭すぎるあの目を。

 さて、そういうわけですから、福士くんは私に対して敵意のようなものを抱いたまま高校を卒業しました。私はまだ、彼が変わってしまったことには気づいていませんでしたから、演技のうまい、頼りがいのある仲間とまた劇ができると思っていたのです。

 彼の私に対する態度は、ひどいものでした。私にだけ、というわけではありませんが、彼の気に入らない演技をする役者希望者を、徹底的に非難するのです。直したところがいい点などを指摘して改善に向かわせる、なんてものではなく、完全にやる気を叩き潰すような物言いです。私の心は折れてしまいました。演技をすることに、彼からの非難に堪えるほどの価値があるとは思えなくなってしまったのです。

 演技をする側への意欲は削がれたものの、私には大学の演劇仲間がいました。劇団を辞めず、スタッフとして参加し続けていたのもそのためです。演技を楽しむことではなく、仲間との時間を大切にしようという想いによって、私は劇団員として所属し続けることができました。

 けれど月日が経つにつれて、仲間たちも減っていきました。福士くんの態度に、堪えられなくなってしまったのです。役者として残ったのは、今回の役者たち4人だけ。後輩たちの多くは、もはや好き勝手振る舞う暴君・福士が引退するまで劇団には関わらないようにしようと決めたようです。そういうわけですから、事実上今回の公演が、私たちが中心となって行える最後の公演でした。もちろん暴君が引退した後は、後輩たちががんばってくれるかもしれませんから、劇団自体は存続していくとは思うんですけど。

 さて、役者を希望する人も当初は多かったものの、福士くんや郡田くんからの非難に堪え切れず辞めていったため、劇の継続のためには役者を補充する必要があるのではないかという話が出てきました。近隣の大学や短大の演劇経験者や劇団員の知り合いに声をかけ、スタッフからも希望者を募ろうとしたのです。

 ここで私はふと、長らく役者を離れていたけど、最後くらいまた演じてみてもいいんじゃないかと考えたのです。私はどんな端役でもいいから協力させてほしいと名乗り出ました。郡田くんとふたりで話をして、彼から役者参加の了承が得られそうになった瞬間、福士くんが現れて言ったのです。そいつと演技をするくらいなら、俺はヴォロネーク役を降りる、と。

 この発言には相当、郡田くんもたじろいでいました。けれど、彼も福士くんで痛い目に遭ってきたために、そういうわけだからと、すぐに私を切り捨てるようなことはしませんでした。郡田くんも説得しようと試みてくれましたが、あまりにも福士くんが譲らないので、私は自らの提案を取り下げて、スタッフとしてやり遂げることを約束しました。……基本的に不機嫌な顔なのでわかりにくいですけど、郡田くんはそのとき、本当に申し訳なさそうに小さく謝ってくれました。けれど……そのときの福士くんの、情けの欠片もない冷たい眼差しと微笑が、私の中の何かを爆発させたのです。私は、彼に一度でも仕返しをしなければどうにかなってしまいそうだと、考えるようになりました。

 私が何を言っても彼の心には響かず、ヒビひとつ入れることはできない。痛い目に遭ってもらうとすれば、それは心ではなく体に刻み込まなければならないのだと気づきました。……実のところ私は、彼を殺そうとまでは考えていなかったのです。暗転中にブスリと刺せれば満足だったのです。他人の尊厳を傷つけてまで大切にしてきた劇の中で、彼に恐怖を与えることができたなら、どれだけ私の気持ちはスッキリするだろう。実際は、そこまでスッキリしていません。けれどその時の私はそう信じて、恨んでいる福士くんのいる練習に欠かさず参加し、ドス黒い感情をぶくぶくと膨れあがらせていたのです。

 そして、襟平さんの手助けによるトラブルに一度は揺らぎながらも、私はついに、暗転中の福士くんの体にナイフを突き立てることに成功しました。大きな叫び声をあげるだろうという予想に反して、彼は小さな呻き声すらも漏らしませんでした。うまく刺さらなかったのかとも思いましたが、今までに感じたことのない不快な手応えがあったことから、彼の体に命中していることは間違いないと考え直しました。

 そこで急に、彼の声が聞こえたような気がしたのです。……俺は今死人を演じている。暗転中だろうが音楽が流れていようが、演技の途中で声をあげることはない。それが役者というものだ。お前にこれができるか? できるわけがない。だから言ったじゃないか。お前に役者は向いてないってな。

 今となって考えてみれば、あれは幻聴だったのでしょう。暗闇の中で、私の犯行だと彼が気づくはずもありませんし、いかなる音も立てないよう努めていたであろう彼が、そんな煽るような言葉を発するわけがありませんから。

 ともかく、役者としての格の違いを見せつけられたような気になってしまった私は、カッとなってナイフを抜き、彼を何度か刺してしまったのです。音楽のおかげで、暗闇での活動限界はわかっていましたから――そういうところでは、冷静だったんです――頃合いを見て撤退し、ナイフをボトルに戻しました。

 照明がついて最初に確認したのは、それだけ派手なことをしてしまったので、返り血のようなものが付着していないかどうか、ということでした。血がついていないことに安心すると、スプレーは堂々と地面に置き、念のため軍手は外してポケットに入れました。そして悲鳴が聞こえ――庭畑さんの悲鳴です。私はさも事件のことなど知らないかのように、ステージの上に出て、変わり果てた福士くんの姿に驚いた顔をしたんです」

 どんな言葉をかければよいのかわからず、しばらく静かな時間が流れる。

 BGMというのは便利だなと、つくづく思う。言葉では表現できない想いや風景を、音で代替できるのだから。僕や雛上さんの気持ちを代弁してくれる曲は見つからない。もしそれが見つかったとしても、今の僕たちの雰囲気を演出するように、スピーカーから音を流してくれる誰かなんてここにはいなかった。

「――台本が、裏にありました」

 思いついた言葉が、これだ。

「誰のものかはわかりませんが、舞台裏に台本を置いていた誰かのものでしょう。ここにはあなたの演技についてどうこう言う、気の強すぎる役者も演出家もいません。ひとり何役になってしまうかはわかりませんが、最後に雛上さんの演技を見せてください。ちゃんとした衣装もないし、台本を持ったままだから実際の舞台よりも見栄えはしないかもしれませんが……。僕がスマートフォンで、撮影してますよ。客席からじゃきっと、小さくてわからないから、あなたのすぐそばで撮ります。たくさん撮ります。そしてその写真は、あなたに送ります。いつになるか僕にはわからないけど――罪を償い終えるその日まで、一番輝いてるあなたの写真を励みにしてください」


 舞台裏にあった台本は、雛上さん自身のものだった。

 僕は舞台の一番前――ステージから落ちそうなギリギリのところに立ち、スマートフォンを構える。ビデオじゃ容量がもたない。1枚1枚、最高の瞬間を写真に治める必要がある。うまく撮れなかったものは、送る必要はないだろう。しかし同時に、消去する必要もない。その写真1枚1枚は、どれだけピントが合っていなくても、目を瞑っていたとしても、今日この時間を生きた、彼女の時間になるのだから。

 主演は彼女だけ。劇の最初から最後まで、照明効果も音響もない、彼女しかいない劇が始まった。全ての役を、彼女ひとりで演じるのだ。時折セリフを噛んだり、感情がうまく切り替えられなくて、はにかむ場面もあったが、彼女の楽しそうな様子は、時間が経つにつれてどんどん強くなっていった。

 写真を撮る。シャッターの音が煩わしい。彼女の明るい声が、悲しい声が、怒った声が、遮られてしまうのはもったいないからだ。ああ、カメラの技術を身につけておくべきだった。せっかくの晴れ舞台なのに、観客は僕しかいないのに! その僕が無能ゆえに、彼女を最高の形で撮影することができていないかもしれないのだ。推理小説を読むだけで、技術的なものは何も身につけていないこの僕が、僕のために着飾った彼女の想い出を、綺麗に残してあげることができない!


 水分の補給もせず、劇はずっと続いた。彼女はもう、ヘロヘロになっている。ひとりで何役もやっていれば、頭の中もぐちゃぐちゃになるに違いない。しかし彼女は休まなかった。一度始めたからには、最後まで演じるつもりなのだろう。

 場面は、最後のシーンだ。福士くんが――本当の暴君が、人生で最期に演じることとなったシーン。民を一喝し、ヴォロネークがデュキンから奪ったナイフでその胸を貫き、地獄で待つ、葬り去った宿敵たちの名前を一人ひとり叫びながら生き絶えるシーンだ。

 ナイフはない。そう、ここまでも小道具なしでやってきた。道具があるフリ。ナイフがあるフリ……。

 いや、待て。

「だめだ、雛上さん!」

 僕が夢中になっている間に、彼女はいつの間にか例の消臭剤のノズルを外し、血のついたナイフを手に掴んでいる。

 彼女が僕に笑いかけた。照明などないはずなのに、その微笑みはやけに美しい。だが、それは同時に切なすぎるものだ。まるで人生を終える直前の――。

「河童場さん、ありがとう……」

 自らに罰を下すように、彼女の胸に刃先が向けられ、振り下ろされる。


 手を叩くような音がして、金属が跳ね返る音が続く。

 雛上さんの手からナイフが落ちて、その切先は欠けている。僕の足元に、その折れた先っぽが転がっていた。僕は急いでそれを拾う。自分の手やズボンがズタズタにならないよう、慎重にポケットへしまいこんだ。

「いつまで待たせるんだよ、名探偵さん?」

 拳銃を突き出した加瀬月さんが、引割幕の間から現れる。何かあった時のため、あらかじめ隠れてもらっていたのだ。

「我ながらなかなかの射撃の腕前じゃないか? 動いているターゲットのナイフだけを撃ち落とすなんて。……ああ、会場内は火気厳禁だったかもしれないな。あとで一緒に謝ってくれよ。俺は謝らせるのは得意だが、自分が謝るのは好きじゃないんだ。もしかすると、銃弾がどっかの壁に傷をつけてるかもしれんな……」

 などと小言を言っている加瀬月さんを尻目に、僕は膝から崩れ落ちて脱力している雛上さんのいる平台の上に駆け上った。勢いよく手元のナイフを弾かれたためか、彼女はまだぼうっとしている。肩をやさしく掴んで揺らす。はっとして、僕の顔を見上げた。

 静かに、はらはらと涙を流す雛上さん。おそらくは、生きていたことへの安心感から来る涙だろう。とはいえ、彼女は自分が泣いていることに気づいていないようであるが。

「これで解決ってわけだな、河童場くん」

 ノズルを拾った加瀬月さんが、僕に手を差し出してくる。折れた切先を渡せ、ということだろう。僕はゆっくりと指だけで、ポケットに入れた刃をつまみあげる。そっとそれを、加瀬月さんの手の平に乗せた。

 ぼんやりとした雛上さんを腕に抱え直す。すると加瀬月さんが、ため息混じりに言った。

「まさか劇をほぼ丸々見せつけられるとは思わなかった。意外と暑いんだぜ、あの幕の裏。もうちょいでぶっ倒れるところだったよ」

「すみません。ありがとうございました」

 お礼を言うと、加瀬月さんは肩をすくめて首を振る。

「いいってことよ。しかし君は、取り調べ人の方が向いてるような気がするね。体は強くなさそうだし、より安全なところで犯人たちに寄り添った方がいい気がするんだ。いや、取り調べ専門の警察なんかいないんだけどさ……。カウンセラーあたりが適職じゃないかな」

 本気で言っているわけではないのだろうが、僕は自分に言い聞かせるように、真面目に答えてみた。

「あいにくですが、僕は教員志望なんです。それに、僕の研究対象は江戸川乱歩――推理小説家です。推理なんかするなと言われても、じっとしていられません。たとえそれが、どれだけ危険だとしても」

「まあ、どこかの誰かさんみたいに、金のために動き過ぎて殺されるなんてことがなければ、どうだっていいんだがね」

 加瀬月さんがどっかりと平台に腰かける。

「さて、犯人が特定できたところで、報酬の話をしようか。あまりに膨大な額でなければ、君の望む金額をそのままお支払いできる。さあ、いくらがいい?」

 少しだけトーンを下げた、真面目な声。僕はいきなりの話に怯んでしまうが、少し考えてから答えた。

「報酬の代わりに、色々とセッティングしていただきたいのですが……」




「これはいったい、何かな?」

 学食に呼び出された郡田くんは、不機嫌さを隠そうともせず、テーブルの上の封筒を見下ろす。僕はそれの説明をした。

「公演日に、お渡しすることができなかったカンパです。少々、臨時収入がありまして」

 郡田くんが封筒の中身を確認する。お金を数えるために、目玉が上下に動く。

「ちょうど、ぴったりか。だから先日、公演にかかった費用を聞いてきたんだね」

 僕がこくりと頷くと、郡田くんは鼻から大きく息を吐き出して椅子にもたれかかる。

 今回の公演は、劇団員の方々にとって嫌なものになってしまうだろう。学生の公演は基本的に赤字になると織羽くんから聞いていた僕は、せめて彼らの金銭的な負担を減らすことができないかと考え、加瀬月さんにカンパ代を請求してみた。そういう偽善が、いつか君の首を絞めることがないことを祈るよと、彼から嫌味を言われたけれども。

「同情するなら金をくれ、という感じかな。より正確に言えば、同情も金も両方、君は僕にくれたわけだけど」

 冗談のつもりで言ったのだろう郡田くんの言葉に、僕は思わず小さな笑い声が出てしまう。俯き気味ではあったが、郡田くんも笑っていた。

「同情しているわけではありません。たまたまあの日は持ち合わせがなかったのと、渡せる空気じゃなかったというだけで、気持ちとしてはこれくらいは払いたい想いでした。中学か高校の時に、近所の市民センターで古典的な劇の観賞をするみたいな時間がありましたけど、そういうのを除けば、僕にとって今回の公演は、初めて鑑賞した劇だったんです。お世辞でも何でもなく、本当に感動しました。いくら払えばいいのかはわからなかったから、いっそのこと費用を全額負担するような形で払えればと思ったのです。僕以外の方からもらったカンパは、ぜひ打ち上げや飲み会にでも使ってください」

「僕たちはそんなことをするほど、仲のいい団体じゃないよ」

 そういえばそうだったと、考え直す。

 気まずい空気が流れ、どう話題を切り出したものかと数分悩んでいると、郡田くんがぼそぼそと口を開いた。

「今回の公演の対価は、いったいどれほどのものだったのだろうか」

 僕は顔をあげて、彼の少し優しく、重々しい瞳の色を静かに眺める。

「僕の脚本のせいで、福士の命は奪われたようなものだ。もう少しあのとき――雛上から出演の希望を受けたとき、僕が福士を説得していれば、こんなことにはならなかったのかもしれない。あとひとりでも、役者やスタッフが残っていたのなら、雛上は福士を刺そうだなんて考えなかったのかもしれない。思えば僕も、福士に同調して、劇団から追い出してしまうほど、かつての公演メンバーを不必要に責めていたのだろう。

 我ながら愚かしいが、僕はこれまでそんなことは考えたことがなかった。ああすればよかった、こうすればよかったというように、後悔することはなかったんだ。罰が下ったんだろうな。

 最初の聞き込みで僕は君に、事件について迷惑だと言ったが、もしかすると僕の方が劇にとって迷惑だったのかもしれないな。作品の価値を、僕自身が貶めたようなものだ。産みの親でありながら、僕自身にカリスマ性や、福士の態度を治していこうという強い意志がなかったために、作品を傷つけてしまった」

 まるで受け取る資格がないとでも思っているかのように、彼はカンパの入った封筒をテーブルの上に放り投げる。

「サークルとしては引退みたいな形になるんでしょうけど、これからも劇を続けるんですか?」

 僕が尋ねると、彼は首を振った。

「僕はたしかに、青春時代の大半を演劇に費やしてきたが、どれだけ本気だったとしても、それは遊びや趣味に過ぎない。それで食って行こうとするほど、僕は向こう見ずじゃないし、おそらくはそれほどの勇気もない。僕はたしかに、ほとんどのもの――円滑な人間関係や社会経験よりも演劇を優先させて来たが、自分の命と天秤にかけたら、演劇の重みなんて大したことないのだと思う」

 郡田くんは目を瞑る。

 福士くんはその点、彼とは対照的だったのかもしれない。彼も劇を優先させていたが、命の灯火が消えかかっているその時にも、最後の叫びをあげることはなかった。暗闇の中で痛覚も過敏になっていたであろうに、彼は最期まで声を出すまいと抗っていたのである。聞き込みの中で、福士くんが尊敬すべき人間ではないことはわかったものの、その信念――執念とも呼べるこだわりについては、拍手を送らざるをえない。

 僕は何と声をかけたものか、わからなくなる。しかし、何かを伝えなければならないような気がして、虚空を見つめながら、まるで郡田くんに話しているのではないかのように、自らの胸の内を探りながら話す。

「僕は教育学部の学生なので、そこの附属小学校で実習をすることがしばしばあるんですけど、そのときに毎回思うのは、子どもたちは休み時間、全力で遊んでいるんだなってことです。暑い中で熱中症になりかけても、雨で滑って転んでも、寒くて震えていようとも、とにかく全力で遊んでいる。

 子どもたちと、僕たち大学生、そして大人を比べるのは間違っているような気もしますし、僕自身趣味と呼べるようなものはあまりないので、わからないんですけどね。演劇でも音楽でもマンガでも、素人のやることはどうせ遊びだって、周りの人はきっと思うんですけど、その人たちの遊びだって、すごい全力だと思うんです。だからその――滅茶苦茶に聞こえると思いますけど、遊びは遊びじゃないんですよ。お遊びで遊んでるわけじゃねぇ、って感じです。

 僕は気が利かないタイプなので、お世辞でもこれからも劇を続けてください、なんて言えません。ただ、郡田くんにはできないようなことを、福士くんがやってのけたということは、どうか忘れないでください。これまでに数々の台本を否定されたとしても、今回のあなたの脚本は福士くんが認めたものです。刃物で刺されたって、中断してなるものかと苦痛を耐え、舞台上で命を落とすほどに」

 昼間の学食で、随分と物騒な話をしているなと、改めて思う。

 福士くんの死はあまり大学内で話題にはならず、なんなら、舞台中の「事故」で亡くなったと思っている人の方が大半のようだ。そのせいか、こういった話をしていても、誰も僕たちに興味を持つことはない。

 郡田くんがカンパの封筒を手に取る。

「打ち上げも飲み会もしないが、このカンパで浮いた分は、墓参りの線香にでも回すかな」

 彼は小さく笑った。

 僕は最後に、些細な質問をしてみる。

「どうして、最初ヴォロネーク役を須坂くんに任せようと思ったんですか? 僕は彼の演技の幅を知りませんが、話してみての印象では、ヴォロネークを演ずるには優しすぎるような気がしたのですが……」

 郡田くんは驚いたような顔をしてから、少し恥ずかしそうに答えた。

「福士に話したことはなかったんだが、僕は福士の演技を、たまたま覗いた高校の文化祭で見たことがあったんだ。向こうは僕のことなど、覚えていなかったがね。雛上の言葉を借りるなら、時期的に福士が変わってしまう前だ。そのとき彼は、それこそデュキンのような、正義感の強い好青年を演じていた。そこで僕は、福士の演技力に震えた。

 福士とはこれまで何回も一緒に劇をつくってきたが、あのときほど感動したことはない。だから僕は自分の作品で、自分にとって最高の福士を再現したかったんだ。そんな僕の想いを彼は無視して、福士は須坂から奪うように主役のヴォロネークを演じ、ヴォロネークと共に旅立ってしまったがね。

 福士と最高の形で劇がしたいと思っていたのに、僕はいつの間にか自分の作品だということに固執していたようだ。しかし今になって、福士を失ったことへの重苦しい気持ちが湧きあがってきた。僕は福士のように、演劇に命までは賭けられない。これからは劇のことを忘れて、卒業論文や就職活動に専念するよ。しかし、福士のことは忘れない。僕たちはよき友にはなれなかったが、毎年墓参りに行くことくらいは、彼も許してくれるはずさ」




「それで、カメラを習いたいんだ?」

 大学の図書館。ディケンズの本を抱える織羽くんの横で、僕はカメラ入門の本を探していた。大学図書館のホームページで検索をかけてみたら、意外にも多くの本がヒットしたのだ。

 新しい建物の、新しい白いラック。その中にある、カメラの本。数年前の本で、あまり借りられた痕跡はない。文字だらけの学術書が多い図書館の中で、図やイラスト、写真の多いカラフルな本はやたらと目立つ。

 織羽くんが、先ほどまでカメラの本が収納されていた、空いたスペースを見つめながら言った。

「罪を暴いた女性の演技を綺麗にカメラに収めたかったから、カメラを習おうとする。それじゃあ君は、次にまた誰かの犯行を明らかにして、その犯人が最後に君と踊りたいと言い出したのなら、それに応じつつ、ダンスを習っておけばよかったと後悔し、ダンスを習い始めるのかい? 最後においしい料理が食べたいと言われ、うまく作れなかったら、事件解決後に料理教室に通うのかな? そんなにバカらしいこともないよ、河童場くん」

 まくし立てるように彼が言うので、僕はうっかり本を落としそうになってしまう。そこまで言われるとは思わなかった。

 本を棚に返した方がいいのだろうか。そんなことを思いながら手元の本を見つめていると、織羽くんは僕の手からそれを取って――棚に戻すのではなく、そのまま1階の貸し出しカウンターに繋がる下り階段へと足を進めた。

「けど、そのバカみたいな真っ直ぐさは尊敬に値するもので、むしろそういう優しいところが、君の恋人や南、そして今回の雛上さんを惹きつけたんだと思うよ。それに、俺はあまり推理小説は読まないから詳しくないんだけど、探偵っていうのは何でもできたり、多趣味だったりするものだろう? なら、ちょうどいいんじゃないかな。カメラもうまく使えて、ダンスもできて、料理もできる。今後カメラを使った殺人事件なんてのに出くわすかもしれないし、料理ができれば食中毒にも詳しくなるだろう。事件解決のための推理に、犯人へのアフターケア。そのどちらかで、身につけたスキルが役に立つかもしれないよ。それに――」

 階段を降り切った織羽くんが、言葉と共に足を止める。

「俺たち学生には、それだけの時間がある。いたずらに時間を潰したり、振り返ったときに現状のつらさを思い知らされるだけの想い出をぶくぶくと増やしたりするよりは、たとえ披露する機会がなくとも、より多くのスキルを身につけている方がよほど意義があるんじゃないかな。楽観的な楽しみではなく、自分の過去を悔やみ、罪を償うかのようなスキル習得だよ。お気楽な遊びなんかじゃない、本気の遊びだ。もう二度と後悔したくないという強い想いから来る、本当の向上心。君が目指すのはプロフェッショナルじゃない。それで飯を食おうというのではなく、犯人に最高の救いを与えるための技術。多趣味の極みで、キリのないことではあるけれど、それがどうにも君らしいじゃないか。それに、学校の先生というのは、器用貧乏なイメージがあるしね。色々なことができたり、色々な知識を持っていることは、回りまわって将来のためになるのかもしれないよ」




 夜景の見える、素敵なレストラン。窓側の席に腰かけるカップル。……いや、彼らはまだ、厳密にはカップルではないのだけれど、そうなるのは時間の問題だろう。今日が終わる頃にはお互いの想いは通じ合っているだろうし、もしかすると現在進行形で、お互いの気持ちを確認し合っているところなのかもしれない。

「随分と不服そうな顔をしているじゃないの、お嬢さん?」

 僕の右斜め前に座っている加瀬月さんが、スパークリングの日本酒の小さなビンを傾けて、グラスに中身を注ぎながら言った。今日の彼は店の雰囲気に合わせて、少しフォーマルな格好をしている。薄い灰色の襟付きシャツに、ボタンを留めていない紺色のジャケット。

 不服そうな顔をしているお嬢さんとは、僕の右隣に座っている庭畑さんのことだ。聞き込みのときの彼女は、あくまでもドレス風のワンピースを着ていたのだが、今日は完全にドレスらしい。透け感とボリュームのあるスカートが、彼女の椅子から溢れている。

「私は河童場くんから食事に誘われて、張り切っておめかしをしてきたの。それなのに、今日の本題は私たちの距離を近づけることじゃなくて――」

 庭畑さんは、僕たちの視線の先――ガラス張りの席に腰かけて何やら話をしている、先の男女を指差した。

「あの両片想いたちをくっつけることだったなんて」

 須坂くんと襟平さんの、飾らない、普段通りの服装。しかしその横顔は、普段よりも何十倍も幸せそうだった。

「君は河童場くんの思いやりのダシにされたというわけだよ。俺と彼が出会ってからあまり長い時間は経っていないが、彼がたまにこういう、突拍子もないお節介をしたがる性格だということはわかってきたよ。君も河童場くんが好きなら、そういうところを理解し始めた方がいい」

 余計なことを言わないで欲しいよ、織羽くん。おかげで庭畑さんが、自分の椅子を少しだけ僕の方に寄せてきたじゃないか。

 織羽くんが言ったように、この食事の場は、僕の完全なるお節介から始まったものだった。どうにかして、両片想いの襟平さんと須坂くんをくっつけたかったのである。

 計画していたシナリオは、6人で店の予約をしたものの、手違いから4人席をひとつしか確保できず、無理矢理座るのも難しいから、誰かふたりは窓側で夜景でも楽しんできなよ、というものだ。もちろんそんなすっとぼけたことを僕は言えないので、彼らをふたりきりにする係は、お財布係も兼ねて加瀬月さんにお願いした。

 名目上は、事件の解決に協力してくれた5人に対してのお礼。一応郡田くんにも声をかけてはみたが、当たり前のように不参加。織羽くんは喜んで参加してくれたが、「教員志望を辞めて、恋愛アドバイザーにでもなるつもりかい?」という嫌味も一緒に返ってきた。加瀬月さんには「報酬」のひとつとして参加してもらっているが、たぶん彼は普通に、若者の恋愛を面白がっている。彼も十分若者のような気がするが。

「お嬢さん、探偵なんか好きになっちゃいかんよ。厄介ごとに足を突っ込むわけだから、いつどこでおっぬかわからんからね。二階級特進もないし」

 4人分の使用済みの皿を集めながら、庭畑さんがそっけなく答える。

「いつどこで死ぬかわからないのは、私だって同じよ。職業による死亡率の違いなんて、私からすれば誤差よ。それに私が欲しいのは、死んだ後の収入の担保ではなく、河童場くんそのものだし」

 あまりにも堂々と言われるので、僕は苦笑いを浮かべることしかできない。

 艶のある黒い箸を置いて、織羽くんが咳払いをする。おそらくは、僕の言いたいことを代弁してくれるつもりだろう。

「それに、河童場くんには今恋人がいるんだ。超絶的な遠距離恋愛だけどね」

「おいおい、乙女の純情を弄んじゃいかんぜ、河童場くん」

 加瀬月さんがからかい、庭畑さんはじっと僕の瞳を覗き込んで来る。加瀬月さんが執拗に話を振ってくるのもあって、僕は罪を償っている乾さん――氷堂さんを殺した女性との馴れ初め、および最初の事件について語ることにした。


 上演中の事件を共有していたからだろうか。氷堂さんの死について話をしても、不思議と空気が重くなるようなことはなかった。とても、離れたところで語り合っているだろう襟平さんたちに聞かせられる話ではないが。

「――だ、そうだよ。素直に彼のことは諦めたまえ、お嬢さん?」

 話を聞き終えて、加瀬月さんが少し嬉しそうに――しかし、きちんと慰めるように、庭畑さんに言った。

 庭畑さんはといえば、まるで僕の話など聞いていなかったかのように、また少し座り直すついでに接近してくる。前回の聞き込みよりも、どう考えても距離感が近い。

「別に私たちは付き合っているわけじゃないんだから、河童場くんに恋人がいようと何だろうと、私が諦めなきゃいけない理由はないわ。というかそもそも、諦めるとかそういう話じゃないのよ。恋なんて、諦めようと思ってすっぱりと感情が冷めるようなものじゃないんだから」

「将来を見据えず、今が楽しければいい、遊びの恋愛ということかな?」

 加瀬月さんが突っ込むと、庭畑さんは肩をすくめて首を振る。

「恋愛に遊びなんてないわよ。今のあなたの恋愛事情は知らないけど、少し自分の経験を振り返ってみたらわかるんじゃないかしら? 小学生の恋愛を見て、どうせ結婚なんかできるわけないんだからと、そのピュアな感情を真っ向から否定する大人はいないわ。たとえそれが、どれだけ幼いものだったとしてもね。実りがないから遊びだというのなら、そんな主張ほどバカバカしいものはない。遊びっていうのは、気まぐれのことでも、気休めのことでもないの。両想いや両片想いはもちろん、片想いだって遊びじゃない。そのときに持ちうる感情のほとんどが、そのときの恋愛に注がれているんだから。たとえそれが、振り返ったときに自分を愚かしく感じるようなことであっても、後悔するような時間であっても、そのときの自分にとっては幸せだったもの。逆を言えば、その時点でさえ幸せだと言えないようなら、それは恋じゃないということよ」

 彼女が言葉を切ってから、しばらくの間があって、加瀬月さんは参りましたと言わんばかりに両手をあげた。その顔には笑みが浮かんでいる。織羽くんは鼻から息を吐くと、ちらりと僕を見た。

 彼女が嘘をついているようには思えないが、どうにも辻褄が合わないようなことがひとつあるのだ。

 僕は庭畑さんの名前を呼ぶ。彼女が横を向く。相変わらず少し冷めた印象はあるが、本当に美人だなと改めて思う。

「事件の日、僕たちが連絡先を交換したとき、あなたは僕に好意的な目を向けていませんでした。けれど、次に会ったときや今日のあなたは、最初と違って僕に対してかなり好意的です。なぜ、僕に対する評価が改められたのでしょうか? あるいは逆に、どうして最初は、僕を睨むような目をしていたのでしょう?」

 彼女が初めて、少し居心地が悪そうな顔をした。

「私の知り合いが、南くんに恋をしていたのよ。あなたは彼の罪を暴いた。そして南くんは大学から――この一般社会から姿を消した。彼女の立場になれば、河童場くんは片想いの相手を奪った人ということになる。そう思うと、私は最初、あなたに好感を抱けなかったの。聞き込みのときもそっけなく対応しようと思っていたし、何ならデマでも吹き込んで混乱させようとさえ考えていた。

 でも、たまたま学食の前を通りかかったから、郡田への聞き込みの様子を観察しようと思って覗いたんだけど……心の色が反転したかのような感覚になったわ。歪んだ正義感や悪意から真実を追求しようとしてるのではなく、気難しい郡田にもきちんと寄り添って話を聞こうとしている姿勢を見て、考えを改めたの。ああ、なんて素敵な人なんだろうってね」

 なんとまあ、おかしいというか、不思議というか。僕が郡田くんに聞き込みをしている様子を見て、庭畑さんは僕への見方を改め、僕が庭畑さんに聞き込みをしている様子をみて、雛上さんは自分の服装を改めたのだ。

 ふと、僕は最初、郡田くんと庭畑さんを疑っていたことを思い出す。郡田くんは気難しそうな印象で、庭畑さんはヴォロネークの妻という冷ややかな役を演じていたために、悪意を胸の内に秘めているだろうという推測をしてしまっていたのだ。それと同時に、好青年役を演じた須坂くんは絶対に違うだろうとか、感じのいい襟平さんが人を刺すわけがないという――まあ実際、彼らは一切犯行に関与していなかったけれど――安易な想像の元、聞き込みを始めてしまった。だから、須坂くんが福士くんを恨んでいたかもしれないという話を聞いたとき、僕は困惑したのだ。あまりにも安易に信じすぎていたために、ちょっとの衝撃でひどくグラついてしまったのだ。

「ええと、どのみち僕は、庭畑さんとお付き合いすることはできません。もちろん、庭畑さんはとてもお綺麗だと思いますし、正直に言えばタイプではありますけど……」

 その言葉に、庭畑さんは満足そうに頷いた。交際を念頭に入れていなかったからだろうか、ショックを受けている様子はない。

 続きの言葉が思い浮かばず、織羽くんに目配せをしてみる。微笑みながら目を逸らされた。自分で考えろ、ということらしい。

「……とても色っぽいので、僕には刺激が強すぎるかもしれません」

 俯きながらそう呟くと、加瀬月さんが大笑いした。織羽くんは笑いを堪えており、庭畑さんは安心したように微笑んでから、また少し椅子を僕に近づけてきた。

 こっそりとスマートフォンで時間を確認する。ホーム画面には、楽しそうに演技をする雛上さんが映っていた。下手くそな写真ばかりの画像アルバムの中で、一番見栄えがいいものだ。恋人の写真が収められていないスマートフォン。その中で一番、綺麗な女性。ボタンを押して画面を消し、ポケットに詰め直す。シャッターを切りながら感じた小さなトキメキは、このまましまって誰にも言わずにしておこう。そのとき加瀬月さんも近くにいたけど、彼は幕の裏にいたから、写真を撮っていた僕の顔は見ていないだろう。どれだけ僕が雛上さんに見惚れていたかなんて、誰も知らなくていい。

 乾さんに南くん、そして雛上さん。友達や知り合いの少ない僕にとって、絶対に忘れたくない人たちが増えていく。探偵ごっこでお金を稼ぐ気はないけれど、誰にもこの時間が「お遊び」だとは言わせない。

 楽しそうに話をしている須坂くんたちに向けて、僕はワイングラスを持ち上げた。飲み切れないでいる白ワインの波の奥で、彼らの姿が見え隠れする。


 どうかふたりの愛情が、誰にも「遊び」と言わせないほどに素敵な形で、100年続きますように。


























 ところで、須坂くんがヴォロネーク役を辞退したのは、「優しい須坂くんがヴォロネークを演じているところなんて演技でも見たくない」と襟平さんがこぼしたことがきっかけらしい。郡田くんにそれを伝えると、彼は「あのふたりはまだ付き合わないのか」と舌打ち混じりに言った。

 ふたりがキャンパス周辺で、手をつないで歩いているのを見かけたことがある。おそらくは想いが実ったのだろう。そのことも伝えると「それはそれで腹が立つな」と言ったので、僕は大きな声で笑ってしまった。


(おわり)

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本当に刺さった痛い話 柿尊慈 @kaki_sonji

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