本当に刺さった痛い話(転)

「まあ、犯行の様子が納まってたりするわけがなかったよね」

 頬杖をつきながら僕は言った。

 織羽くんの家に来てパソコンを借り、ビデオカメラのSDカードからデータを取り出して再生している。僕の家にはカードリーダーがなかったため、急遽お邪魔することにしたのだ。カメラ自体は舞台から遠くに設置されていたが、なかなか高性能なため、かなりズームしても舞台全体がクリアに見えた。

「何も映ってないのかい?」

 織羽くんが僕のスマホで、連絡先を交換した5人とメッセージのやりとりをしながら聞いてくる。僕はこくりと頷くと、彼はふうっと息を吐いた。

 調査の日程調整とビデオのチェック。本来であれば僕がメッセージを送信するべきだったのだが、人との交流が少ない僕はどんな文章を打ち込めばいいのかとフリーズしてしまい、見かねた彼が替わってくれたのだ。

 何時間か前までは、福士くんも生きていたんだな。僕は映像の中で生きている彼を、不思議な気分で見つめていた。

「自害のシーンのあと、照明が消えて、次についたときにはもう死んでた。つまり犯行は、暗闇の中で行われた」

「照明が落ちる前、舞台にいたのは誰だった?」

 僕は映像を巻き戻して確認する。

「本当に最後の最後は、福士くんと須坂くんだけだね。あとの人たちは、みんな舞台裏だ」

 やりとりが落ち着いたのか、織羽くんはスマホを置いた。

「そうなると、須坂くんが犯人である可能性は低いかもしれないね。舞台は簡素だから、舞台上に凶器を隠しておく場所はないと思うんだ。それに、もし隠せたとしても、須坂くんは暗闇の中で隠してあった武器を回収し、暗闇の中で福士くんを刺さなければならないからね。

 それに対して他の人たちは、最後のシーンで舞台裏にひっこんでいる。つまり彼らは、照明がついているうちに舞台裏に隠していた武器を回収して、暗闇の中で福士くんを仕留めればいい。須坂くんがするよりもいくらか簡単だ」

 織羽くんの推理を聞いて、僕は想像しながら彼に続ける。

「照明がついたときには、役者たちはあいさつをするために、全員舞台の前の方に並んでいた。つまり彼らは、電気が消えているうちに舞台前方へ移動したんだ。そうなるとたしかに、最初から舞台上にいる須坂くんは、暗闇の中武器を探しにいって移動中の他のメンバーたちとぶつかったりする可能性も高まるもんね。他の人たちだったら、武器を確保して、照明が消えたら彼に近づいて、ブスリとやって、武器を隠して――」

 ここまで話して、僕は違和感を覚えた。言葉が途切れたのに気づいて、織羽くんが僕の方を見る。

「いくらなんでも、暗転してる時間が長すぎないかな。今しゃべってて疑問に思ったのは、そんなに多くの段取りを暗闇の中で踏めるだろうかってことなんだ。でもたしかに、最後のエンディング曲は長くて――それはもちろん、ヴォロネークの短くも波乱に満ちた生涯を表したものだからなんだろうけど、そのせいで真っ暗な時間も長くなっているんだ。まるで、福士くんを殺すために、長い尺の曲を用意したかのような……」

 数分ほど、僕と織羽くんは黙り込んでしまった。その間に織羽くんが、紅茶のおかわりを注いでくれたり、何やらメモをつくったりしていたが、僕にはそこから先に進めなくなって、映像を巻き戻したり早送りにしたりを繰り返してみる。しかし、何か新しいことに気づくことはなく、ため息をつきながら動画を最初の位置まで戻した。

 織羽くんは書き終えたメモを僕に渡す。

「とりあえず、これ以上は彼らに色々聞いてみないとわからないんじゃないかな。君の時間割と彼らの予定とを刷り合わせて、なんとなくだけど聞き取り調査のスケジュールを組んでみたよ。もし都合の悪い時間があったら、あとは個別に交渉してみてね。あと、誰がどんな名前なのか、あらかじめ確認しておくように。

 それと、今までの話を踏まえて、必ず一人ひとりに聞いておきたいことも書いておいたから、話がぐちゃぐちゃしてきたらメモを見てね。

 まず重要なのは、その人が暗転中にどこで何をしていたかということ。これは調べてる本人だけじゃなくて、他の人が何をしてたかも聞いておく必要がある。もし証言が食い違っていたら、不都合があって何かを誤魔化した可能性があるからね。

 そしてさっきの、暗転中の曲についても。これはそこまで深掘りする必要はないけど、犯人が犯行の時間を確保するために演出家に打診した可能性もある。いつ、誰が提案した曲なのか。もしかするとこの情報が、そのまま犯人と結びつくかもしれない。もちろん、提案者と犯人は無関係という可能性もあるけどね。

 続いて、犯行動機および人間関係。これが一番重要かもしれない。単独犯によるものではなく共犯者がいた場合、調査の内容それ自体が狂うことだってある。示し合わせて嘘の証言をしているかもしれないからね。だからこれについても、協力しそうな関係性を、当事者と第三者から引き出した方がいい。当人たちが君に関係性を隠そうとしても、外からの証言までは歪めることはできないからね。

 ざっと、こんなもんかな。あとは君が、その時々で閃いたことや怪しいと思ったことを突っ込んでいけばいいよ」

 話を聞きながらメモに目を通し、僕は鼻から息を吐く。ふと画面を見る。

 カメラは、劇の開始20分前から録画をはじめていた。おそらく、お客さんを客席に入れる直前に回し始めたのだろう。時間的に、そろそろ僕たちが入場してくる頃じゃないだろうか。もちろん、舞台を映しているこの映像に僕たちが映ることはないのだけれど。

 画面の中で、ひとりの女性が舞台上を横切るのが見えた。メガネをかけている。例の、スタッフの女性だ。そうだ、名前を覚えておかなければならないんだった。

「なんだか、随分と慌しそうだね」

「そりゃ、裏で動いてるスタッフは彼女ひとりだったわけだからね。あれだけの数、着替えなり何なりがあるのに、それをサポートできるのは彼女だけ。もちろん役者の苦労は相当だが、彼女の仕事もそれに負けず劣らずだと思うよ。そして残念なのは、その努力をこのカメラが映していないことだ」

 少しだけ、沈黙が流れる。

「気になるんでしょ、この娘のことが」

 突然織羽くんが言ったので、僕はむせてしまった。織羽くんが笑う。

「何となく、君の好みは彼女じゃないかなって思ってたんだ」

「いや、そうじゃなくて」

 そうじゃないわけでもなかったのだが、ここで彼女が僕の好みかどうかの話を掘り下げても仕方がないので、僕は話題を変える。

「どうしてそんなに、裏方のスタッフが少ないんだろう。そりゃ、照明や音響の人はいるけど、彼らは観客席側にいたりするから、本当の意味で裏にいるのって、彼女だけでしょう? こんなにもハードワークなのに」

 織羽くんは少し考えて、メモに何やら書き足した。

「そのあたりについても、聞いた方がいいかもしれないね」




「わざわざこうして僕に調査をしているということは、僕を殺人犯と疑っているということかな」

 演出家の郡田くんは、不服そうな顔で腕を組みながら言う。最初の調査対象が彼というのは心臓に悪いな。いや、スケジュール的にどうしようもないのだけれど。せめて、メガネの女性や襟平さん、あるいは須坂くんなら、幾分か心が軽くなったものの。

 同じ大学に通ってはいるが学部が別、という学生と話をしようとなると、どうしても学食になってしまう。同じ学部であれば、学部棟に設けられたコミュニケーションスペースを使おうと思えるのだが、他学部の学生を招くとなると、何となく心理的なハードルが生じてくる。そうなると、何か食べるわけでなくとも、イスやテーブル、水やお茶を確保できる学食が便利なのだ。もちろん、気難しそうな彼と一緒に食事を取りながら談笑なんて、想像もできないが。

「疑っているなんて、そんな。むしろ、僕はあなたを頼っているのです。僕は舞台に詳しくない。今回の事件は舞台上で起こった。あなたは演出家で、先日の舞台については誰よりも詳しいのです。あなたの気づいた違和感が、事件を解く鍵になりうる。そして同時に、あなたの語った真実が、他の誰かのつくり出した虚偽を暴くんです。あなたが正確な報告をしてくれたなら、それは犯人を追いつめる武器となる。郡田くんなしでは、事件が解決しないといってもいい」

 だいぶ、大袈裟に言っている。全くの嘘、というわけでもないが。

 下手くそな機嫌取りには気づいていただろうが、郡田くんは立ち上がってどこかに消えるということもなく、不機嫌な顔のままこちらに向き直ってくれた。神経質そうという印象に間違いはないだろうが、思っていたよりも話は通じるのかもしれない。

「まず今回の事件について、あなたはどのように感じていますか?」

 最初から核心を突いていくのではなく、ぼんやりとした問いからぶつけていくことにした。

 郡田くんは目を瞑り、ため息まじりに言う。

「正直言って、迷惑という感じだ。長い期間準備をしてきて、ようやく形になったというのに、よりによって劇中の事故で死んだかのような死に方をしてくれた。千秋楽で起きたのは、不幸中の幸いといえるかもしれないけどね。これが最初の回だったなら、もっと僕の機嫌は悪くなっていたと思うよ」

 既に不機嫌は限界に達しているような気がしたが、それについて触れることはしない。その代わり、ややとぼけたように質問をぶつけてみる。

「普通であればもっと、福士くんの死を残念がったり悔しがったりすると思うんですけど、郡田くんは劇のことを優先しているんですね」

 郡田くんは頷く。気難しそうという印象を抱かせる原因である切れ長でまつ毛のない鋭い目が、一瞬ギラリと光ったような気がした。

「僕には、劇しかないからね。中学からずっとやってきたんだ。大学でも続けると決めていたし、やめるつもりはない。学部での研究だって劇に関するものだ。公私共に――というと妙だが、演劇は僕の生活に常に寄り添っている。それが汚されたんだ。こんなに悔しいことはない」

 彼の瞳に、嘘をついているような揺るぎはない。僕は織羽くんのつくったメモを思い出し、咳払いをひとつしてから別の質問をする。

「ラストシーンが終わって、カーテンコールまで流れていた曲について質問させてください。あの曲の長さは――もちろん演出家の郡田くんにとっては意味のあるものだったのでしょうが、劇よりも事件の印象の方が強い僕にとっては、あの長さは福士くんを刺すのに都合のいい長さだったように思えるのです。つまり、犯人が意図的に、あなたへ提案したものなのではないか、と」

 もちろん、郡田くんが福士くんを殺すために、あの曲を選んだということもありえるけれど。郡田くんは演出家でありながら舞台裏にいたのだから、殺人犯として疑うことも十分可能だ。

「あの曲を僕に提案したのが誰なのか、あるいは僕自身なのか。それが知りたいというわけかな?」

 物分かりのいい郡田くんの言葉に、僕は頷きで返事をする。彼はやれやれとでも言いたそうに背もたれに寄りかかって、やや気の抜けた声で語った。

「あの曲を使うよう僕に提案したのは――君の推理には何の役にも立たないだろうが、他でもない福士本人だよ。いい曲がないかと聞いたのは僕だが、尺については何の指定もしなかった。

 すると福士が、僕にあの曲を教えてくれたんだ。ミュージカルやオペラに精通していた彼は、クラシック音楽にも詳しかった。ヴォロネークの人生を描いたような曲でありながら、長さの調節がしやすい曲だ、と。元々はもっと長い曲だったが、福士が絶妙にトリミング編集をしたおかげで、暗転中のエンディング曲として相応しい長さになった。まさかそれが、彼自身のレクイエムになってしまうとは思わなかったけどね」

 前半部はまだしも、あれだけ激しい曲で鎮魂されるとは思えないが。

「あれだけ激しい音だと、犯行時のドタバタも消せそうですが」

 僕はあえて彼を煽るように言った。郡田くんはふふっと鼻で笑う。

「なるほど、たしかにそうかもしれない。さすが名探偵だね。その見方はあながち間違っていないのかもしれない。

 というのも、福士があの曲を提案したのも、僕がそれを許可したのも、結局はそれが一番の理由だからなんだ。もちろん、福士が刺されることを想定して、という意味ではないよ。暗転中に舞台上を移動するのは、かなり神経をすり減らす。少しでも何かにぶつかれば、妙な音が出て観客を現実の世界に引き戻してしまうかもしれないからね。それは、舞台をやる上で一番まずいことのひとつだと僕は思ってる。それは福士も同じだ。彼と僕は、大学入学から長いこと一緒に舞台を作ってきたからね。こだわりが似てしまうんだろうな。もちろん、衝突することはたびたびあったけれど。つまり、暗転中に移動をする必要がある場合、何か劇の雰囲気にあった音楽を流しておくことで、多少の足音を誤魔化すことができるというわけだ。それでも少しは足音が聞こえるかもしれないが、それは客席の最前線でも聞こえるかどうかの小さな音で、舞台上にいる僕たちにもほとんど聞こえないものなのさ。

 劇が終わって、最後には役者たちがステージの最前に並ぶ。そのためには、移動する間の時間稼ぎのため、そして足音を打ち消すための音楽が必要だった。それを福士が、提案してくれたんだ。

 そして曲を使うことのもうひとつのメリットは、照明と音響のタイミングにある。例えば、照明が消えてから20秒後に再度点灯するという話をしたところで、役者やスタッフによって体感20秒というのには大きなバラつきがある。つまり何も手を打たないでいると、照明操作のスタッフが20秒経ったと思って照明をつけたら、体感17秒経過で暗闇を移動している役者が舞台に残っていた、なんてことが起こりうる。舞台からハケていなければならない人物が、よりによって退場の途中で映し出されていたら、どうだろうか? 舞台に立つ以上は、誰もが役者としての意識をもっていなければならないが、暗闇ではどうしても気が緩むため、役者の素が出てしまうことが多い。これほど観客を現実に引き戻すような要因はないだろう。さっきまでヴォロネークだった男が、ただの福士になっていたら、客としてこんなにガッカリすることはない。しかし音楽であれば流れがある。曲の長さがある。今流れているのがあのあたりだから急がなければ、というように調整することができるというわけだ。あとは、暗闇の中で位置について、音楽が終わるのを待てばいい」

 郡田くんが息をつく。初心者相手に丁寧な説明をしたからか、やや疲れているようだった。あまり、わかりやすく説明するというようなことは得意ではないのだろう。織羽くんから聞いていた、少し前の授業中の様子を考えるに、彼はあまり人に合わせるということが好きじゃない。演出家として妥協しないというところにも繋がるだろうが、一般市民としては生きにくい性質のように思える。

 しかしそれでも、わかりやすいように僕に話をしてくれた。郡田くんはもしかしたら、織羽くんが語ってくれた頃よりも、幾分か丸くなったのかもしれない。不良少年がついに就職したような気分になるが、僕は次の話題に進む。

「最後のシーン、郡田くんは舞台上にいました。役者ならまだしも、演出家が舞台上にいるというのは、僕には理解できないのです。こういう言い方をしてはなんですが、今回の事件への関与を疑われても仕方がないのです。無実の証明のためにも、特にラストシーンのときには舞台のどこで何をしていたのか、詳しく教えてもらえないでしょうか。それとわかる限りで、他の人がどこで何をしていたのかも」

 僕が言い終えて、しばらく沈黙が続いた。郡田くんが、話しすぎで渇いた喉を冷水で潤していたからである。

「僕は、下手しもて側の第1袖幕そでまくの裏にいたよ。第1袖幕からなら、今回の舞台全体を見渡すことができるからね。上手かみて側の第1袖幕の裏には、庭畑にわばたが腕を組んでいたのが見えた。庭畑というのは――そうだな。ヴォロネークの妻役を演じていた女、といえばわかるだろうか」

 シモテ。ソデマク。

 未だ覚えられない人名についてはさておき、聞いたこともないような言葉によほど間抜けな顔をしていたのか、郡田くんはため息をつきながらスマートフォンを操作した。

「どこにいるのか聞くぐらいなら、もう少し舞台について調べておいた方がいいと思うよ。名探偵とはいえ、直感だけではやっていけないのだから。……観客席から見て、右側が上手、左側が下手だ。袖幕については、今舞台図を送ったから、次の聞き取り調査までに見ておくといい」

 僕のスマホが震え、郡田くんから画像が送信されたことを知らせる。舞台の図面だ。画像の右下に施設の名前が書いてあることから、施設が公式に公表しているものだとわかる。施設利用検討のための、判断材料なのだろう。どれくらいの広さで、客席の数がどれくらいで、ということまで書かれている。

「次の授業があるから、そろそろ話を終わりにしてほしいんだけれど、何かまだ聞き残したことはあるかな?」

 時計を見ると、たしかに授業が始まる時間だった。年間取得単位数に制限がない僕たち教育学部に比べて、文学部は授業を詰め込むことが難しく、3年生になっても出席すべき授業が多い。

 授業が始まるからというよりは喋り疲れたから帰りたいとでも言いたげな郡田くんの表情を見ない振りして、僕はもうひとつだけ質問する。

「事件発生時、舞台上にいた5人の中で、福士くんに恨みをもっていそうな人といえば、誰でしょうか?」

 本来であればスタッフの人数についても聞きたかったが、時間の都合でこのことだけに絞る必要があった。

 郡田くんは空になったコップを片づけるべく立ち上がり、学食の洗い場へ流れていくコンベアにそれを乗せる。戻ってくる頃には考えをまとめたらしく、リュックを背負いながら質問に対する回答をくれた。

「庭畑のことだが、彼女と福士は少し前まで交際していたようだ。ただ、酷いフラれ方をしたみたいでね。ケンカ別れというやつか。練習中も、ふとした瞬間に彼女が福士を睨んでいるのが見えたよ。練習それ自体には影響がなかったから気にもしなかったし、殺人に至るほどの恨みなのかは、僕にはわからないけどね」




 完全なる偶然だが、郡田くんへの調査の1時間後に、僕はその庭畑さんから話を聞くことになっていたのだ。

 彼女に聞くべきことがひとつ増えたわけだが、その前に僕は舞台そのものについて調べておく必要があった。僕は千切ったルーズリーフに長方形を書き、郡田くんの送ってくれた図面を拡大して幕の位置などを書き写す。天井に吊るしてあるライトなどは、今回の事件には関係がなさそうなので写さない。死角になりそうなのは、やはり幕だった。

 まず、ステージの一番前に暗転幕がある。これは今回の舞台では上げっ放しで使用されなかったので、問題にはならないだろう。

 その暗転幕から少し後ろにいったところ。左右――舞台らしい言い方をすれば、上手と下手に第1袖幕があった。他のものよりもいくらか短い。さらに後ろには、第2袖幕。全体として舞台の中央あたりに位置している。これは第1袖幕よりも長く、役者の動くスペースをやや狭くしていた。舞台の奥に行けば行くほど、舞台が狭まっていくような感じだ。第2袖幕よりも後ろに、事件が起きた平台が置かれていて、これはほとんど舞台奥の壁につきそうな場所に設置してあった。

 僕はルーズリーフの第1袖幕の上手側に庭畑、下手側に郡田と書く。事件当時、誰がどこにいたのかをメモしていくのだ。

「呼び出しておいて、お茶も出さず暢気にお絵描き?」

 女性の冷たい声が聞こえて、僕は顔を上げる。思わず立ち上がってしまうが、急だったのでうまく立てない。腹部をテーブルにぶつけ、その勢いでストンと跳ね返るようにまた座ってしまった。庭畑さんは僕の向かいの椅子に腰かける。

 姿勢がよく、顔も整っているために、私服であるはずの青いワンピースは、舞台で着ていたものほど豪華ではないにしても、ドレスのように見えた。彼女の気高さというかプライドのようなものが、ただのひとつなぎの布に高級感をもたせているのだろう。実際、生地はなかなかに高そうで、触り心地がよさそうだった。さすがに触るわけにはいかなかったが。

 首元の自然な露出が眩しすぎたので、僕は目線をルーズリーフに落としてから説明をした。緊張を誤魔化すためにシャーペンをくるくる回す。

「お絵描きではなく、舞台図ですよ。事件の直前、誰がどこにいたのかを示すものです」

 僕は平台の上に、福士くんの名前を書き足した。

「改めて、ご協力いただきましてありがとうございます。今日は庭畑さんに、事件当時のことや、それまでの練習のことなどについて――」

 などと話していると、ふんわりといい香りが僕の鼻に飛び込んでくる。顔を上げると、庭畑さんが体を前のめりにしてルーズリーフを覗いていた。距離が近い。首のあたりからいい香り。おそらく、香水だろう。そしてその匂いの奥に、自然な、おそらくは女性特有の香りのようなものを感じた。あからさまなのは失礼だと思い、僕は少しだけ背もたれに寄りかかって色気から逃れると、鼻の奥から残り香を追い出すように息をする。

「ちょっと、借りるわね」

 そういって彼女は、僕の右手からシャープペンシルを取ると、ルーズリーフの向きをくるりと変えて図面に名前や矢印を書き足す。

「私はこの位置から、舞台前方下手側に、移動した。須坂は上手の第2袖幕前で演技をしていたから、そこから斜めに進んで中央上手寄りに。襟平は演技を終えて、上手の第2袖幕の裏から出たら4人の中で一番上手側に並ぶ。福士は、平台からほとんど直進して、中央下手寄りに来るはずだった」

 話し終えると、彼女はころんとシャーペンを転がして、ひと息ついてしまった。

「……ええと、こちらから聞く前に色々と教えていただきまして、ありがとうございます。今の情報は、暗転直前から照明が点くまでの役者たちのルートについて、ですよね」

「そう。そして、今伝えた順に動くことになっていた」

「はい?」

 伝えた順に動くとは、いったい。

 庭畑さんはゆるりとしたロングの黒髪の毛先を指で弄ぶ。

「暗闇の中で移動するわけだから、役者たちが好き勝手に動いたらぶつかるでしょう? だから、動く順番を決めていたの。基本的には、舞台前方にいる人からね。だから、私が一番最初に動いた。そしてそのタイミングは、エンディング曲の再生箇所でなんとなく割り振られている」

 庭畑さんは持っていたポーチからスマートフォンとイヤフォンを取り出す。イヤフォンをつなぎ、スマホを少し操作すると、左耳にイヤフォンを装着して、右耳用を僕に差し出した。

「つけてくれる?」

 これは、相合傘ならぬ、相合イヤフォンではないか。

 たじろいでいると、彼女は僕の目の前まで突き出してきたので、僕は近づく細い指にドキドキしながらイヤフォンをつける。

 流れてきたのは、例のエンディング曲だった。右耳で曲を聴き、ささやくような庭畑さんの声を左耳でどうにか拾うことになる。

「はい、今。今、私は袖幕の裏から移動した。……はい、ここで須坂が動く。次はちょっと長いの。……ここ。襟平ががんばって移動してるところ。まだ静かなパートが続くわ。……寝ないでちゃんと聞いてね。……ほら、激しくなった。ここで本来なら福士が起き上がって平台から下りて来る。飛び降りると音が大きくなるから慎重にね。……で、照明が点く。全員揃っている。あいさつをする」

 ここまで言って、彼女は僕の耳からイヤフォンを抜き取った。その時、彼女の指が耳に少し触れたので、僕はびくりとする。彼女は触れたことに気づいていないようだった。涼しい顔でイヤフォンを引き抜き、ポーチにしまう。

「――わかったかしら?」

 正直、ハラハラしてちゃんと聞くどころじゃなかった。

「ええと、どういうことでしょう?」

 柔らかな感触が残っている気がして、僕は何となく耳を触る。残念ながら、そこにあるのはただの触り慣れた耳たぶだった。……いや、触り慣れてもいないけど。

 庭畑さんは腕時計の位置を直す。

「暗転中に福士が刺されたのだとしたら、犯行可能時間は移動が最後の人ほど長くなる、ということ。暗転して音楽が流れてから私が動き始めるまで、およそ15秒。これが私の自由時間。どう? 私は犯人になりえそうかしら?」

 なるほど、そういうことか。彼女は、自分が犯人になりえないことを証明しようとしているのだ。彼女が動き始める再生箇所を、僕に教えることで。

「たしかに、その順番とタイミングで動いたなら、庭畑さんが平台に近づいて福士くんを刺すことは難しいでしょう。けれど、それはあくまでも舞台前方に行き着くまでの時間です。あなたは一番左に並んでいたわけですし……」

 僕はシャーペンの芯を出して、庭畑さんが書いた動線をさらに延長してみる。

「そこに着いてから、ぐるりと舞台の下手側を回っていけば、誰にもぶつかることなく、福士くんのいる平台に近づけます。中央にいる福士くんを除いて、役者さんはみんな上手側にいるんですから」

蓄光ちっこうテープでバミリを貼ってある。確認のために、並んだ役者は自分のところのテープを足で踏んで隠すことにしてあるから、他のふたりにも聞いてみるといいわ。彼らが並んでから照明が点くまで、私の位置のテープは隠れていたはずだから」

 またも聞き慣れない言葉にきょとんとしていると、彼女は「蓄光」という字をルーズリーフの端に書く。光を、蓄える。

「テープは光を蓄えるから、暗転中でも役者は足元の目印が見える。もちろん、観客席からは見えないけど。もし私が途中で福士を刺すために待機位置から離れていたら、私の立ち位置のテープは光っていたはず」

 なるほど、つまりは……。

「あなたは、福士くんを殺せるはずがないと?」

 彼女はこくりと頷いた。僕は息を吐く。

「一応、暗転直前何をしていたのかを、教えてもらえませんか。それと、他の人が何をしていたのか、見えた限りでかまいませんので」

「私はもう出番を終えていたから、正直舞台には興味がなかったの。最後にはカーテンコールがあるから、念のため汗やメイクの崩れの確認をしていた、くらいかしら。反対側に――そう、まさにその図面の通りだけど、郡田は台本を持って福士と須坂を睨んでいた。……睨むっていっても、これは要するに最後まで演技をチェックしていた、という感じかしら。襟平と雛上ひなかみは、私のところからは見えなかった」

 消去法で、雛上さんというのはメガネのスタッフさんだろう。

「庭畑さんは、以前福士くんと交際していたということですが――」

「それが、犯行動機になりえると?」

 僕は考える振りをしてから、小さく頷く。庭畑さんは悲しんでいるのか怒っているのかよくわからない笑いを浮かべる。

「たしかに彼とは付き合っていたし、しばらくはギスギスするほど酷いケンカ別れをしたけれど、私はそこまでもう気にしてないわ。練習中とか、変に周りが私たちに気を遣うものだから、むしろそっちの方が彼を苛立たせてたような気もするわね。事件についてをいえば――フラれた側が相手を殺すなんて、女の価値が下がるようなことはしたくない」

 女の価値、か。

 僕は質問を変える。

「福士くんに恨みを持っていそうな人は、誰かいますか? ええと、福士くんや庭畑さんを除いた、舞台上の4人の中で」

 庭畑さんは、手首を掴むように緩く腕を組んだ。覗く二の腕が白い。つい見惚れてしまうが、ふと僕は色仕掛けを喰らっているのではないかと疑う。

 彼女は指をとんとんと動かし、記憶を辿るような動きをした。僕の視線に気づいているのかどうか、表情からは窺えない。

「元々、ヴォロネークは須坂が演じる予定だったのよね」

「え?」

 力強さはあるものの、高圧的というよりは正義感の強いイメージのある須坂くんに、はたしてヴォロネークが務まるのだろうか。いや、彼の演技のバリエーションを知らない僕がいうことではないのだけれど。

「役の交替が、福士から郡田に提案されたの。そして次の日、ヴォロネークは福士が演じることになった。もう、何ヶ月も前の話だけどね。須坂は文句も言わず、デュキンやその他の役を熱演したけど、役を奪われたように感じてるんじゃないかしら」

 それが、福士くんを劇中で抹殺しようと計画させるほどの強い恨みであるかはさておいて、とにかく須坂くんにも動機自体はある、ということか。

「スタッフさんが、妙に少ないような気がしましたが、それについては?」

 彼女は少し驚いたような表情をした。しかし、すぐに冷たい表情に戻る。

「福士も郡田も、こだわりが強いから。最初はもっと多かったんだけどね。彼らに嫌気が差して辞めてったり、あるいは彼らに辞めるよう言われたり。なんなら、私たちが役を数多く兼ねてたのは、元々はもっと役者がいたからなの。脇役、だけどね。でも彼らは辞めてしまったから、行き場のない脇役が、舞台に出っぱなしの福士以外の役者に降りかかることになった。特に福士は、役者に対して厳しいから」

「福士くんが、そういった激しさをもっていたんですか?」

 庭畑さんは頷く。

「正直なところ、彼はヴォロネークの悪いところを凝縮したような人だった。観客を引き込む力は強力だけど、役者そのものはかなり乱暴で見れたもんじゃないわ。自分勝手というのに相応しい男だった。郡田はまだ、みんなのために言ってるんだ、みたいな雰囲気があるんだけど。

 こういう言い方をしてはなんだけど、私は舞台上の彼に騙されたのかもしれないわね。実際に親密な関係になってみたら、全然ダメだった」

 織羽くんからの話もあり、僕は最初、郡田くんが怪しいと考えていた。

 しかしそれは、彼の表面や伝聞しか知らなかったからで、実際にさっき話を聞いてみて、印象は少し変わった。もちろん、100パーセントいい人だとは言いきれないし、あまり友達に紹介したいタイプの人ではないけれど。まあ、僕にはそもそも友達があまりいないけどね。

「聞きたいことは聞けた?」

 考え事をしていると、庭畑さんの吐息を感じた。彼女は少し体を前に乗り出して、僕の瞳を覗き込むようにしている。邪な気持ちが膨れあがりそうで、僕は視線を逸らす。

「ええ、おかげさまで。ありがとうございました」

「期待してるわ、名探偵さん」

 彼女は少しだけ笑った。

 性格のきつそうな、女王様のような印象だったのだが、それはやはり、劇中での役柄がそのままこべりついたものだったのかもしれない。冷たさはあるけれど、目立つのはそこではなく、不自然なくらいの妖艶さだ。

 ハニートラップ、という言葉が脳裏に浮かぶ。色仕掛けで、自分を対象から外そうとしているのではないだろうか。そうでなければ、織羽くんのような美青年ならまだしも、僕のような冴えない男に、彼女のような美女が距離をつめてくるはずがない。

 などと考えていたからか、つい僕は言葉を漏らしてしまう。

「――誰にでもそんな感じなんですか」

 ハッとして口元を押さえるが、彼女はその反応を見て笑った。立ちながら、座っていたためについてしまったワンピースのシワを伸ばす。

「恐ろしい事件が起きて、それを解決してくれそうな人いたら、かよわい女性はその人を信頼してしまうと思うわ。自分を置いて果敢に立ち向かってしまうような人ではなく、死の瞬間まで寄り添ってくれそうなやさしい人なら尚のこと、ね」




 君は罪人から愛される体質なんだと思うよ。

 前の事件の終わりに、織羽くんから言われた言葉を思い出す。もしこれが事実だとしたら、先ほどの庭畑さんの僕への態度は、どのように受け取るべきだろうか。

 彼女が、福士くんを殺した罪人だから、僕に思わせぶりな態度を……。

 頭を振る。そもそも、あれは僕への好意なのだろうか。それすらもわからない。彼女は普段、異性に対してどのように振る舞っているのだろう。事件そのものとは関係のないことだが、少し聞いてみるのもいいかもしれない。事件当日に連絡先を交換したときは、あまり好印象ではなかったような気がしたのだが。

 しかし――織羽くんの予想とは違う見解が出てきてしまった。彼の予測では、暗転の直前まで須坂くんは舞台にいたのだから、彼が一番犯人としては疑いにくい、ということだった。暗闇の中で凶器を調達するという点に注目すれば、たしかに舞台裏にいた他の4名の方が犯行はスムーズに進められるだろう。演技が終わったら、舞台裏に隠しておいたものを回収すればよいのだから。

 対して庭畑さんの主張によれば――これは、彼女の無実を照明することを目的とした主張だったが――暗転中に最後に動き出すのは、福士くんを除けば襟平さんだ。暗闇の中で自由に動ける時間が一番長いのは、彼女だった。そして彼女は第2袖幕の裏にいて、郡田くんや庭畑さん、そして須坂くんからはそこが死角になっている。もうひとりの――スタッフさんであるために立ち位置が固定されていない雛上さんが、襟平さんを見ていたかどうかが鍵になるだろう。もちろん、襟平さんを疑っているというわけではない。あくまでも、彼女が犯人だという可能性を潰すために。

「随分と、悩んでいるようだね」

 先生と卒論についての相談を終えて合流した織羽くんが、コップを持って僕の隣に座る。器用なことに、右手にコップをふたつ持っていた。それらふたつは僕らの目の前に、そして左手で持ってきたひとつは、このあとやってくる襟平さんのために、誰もいないイスの前に置かれる。

「1日に3人から事件の話を聞くなんてのは、おそらく相当疲れるんだろうね。俺は名探偵じゃないから、その辛さは想像もできないんだけどさ」

 時刻は午後の4時を回った。事件が起きたのは昨日だから、まだ1日しか経過していないんだなと不思議に思う。事件が起きてからずっと、事件のことしか考えていない。そのせいか、お腹が空いている。おそらく人生の中でも一番頭を使ったであろう受験の時だって、こんなにお腹が空いたことはない。

 今日襟平さんから話を聞いて、他のふたりはまた明日。僕は織羽くんの持ってきてくれたお茶を飲んで、ひと息つく。冷たさが喉を潤し、気持ちを引き締める。

「そういえば、実は俺の相談が終わったのはついさっきじゃなくてね。途中で参加するのもなんだからと、実はちょっと庭畑さんへの聞き込みを盗み聞きしていたんだ」

 織羽くんの言葉に、僕はむせた。彼は笑う。

「随分と、困惑していたね。君はどちらかというと、陰から好きな娘を見てるタイプだろうから、あまりグイグイと来られるのは慣れていないんだろう。そろそろ、女慣れをしておいた方がいいかもしれないね。それこそ今後の事件では、君の方から女性に色仕掛けをする必要があるかもしれないんだから」

 今後の事件とは、随分と物騒なことをいうもんだ。まるで、僕の大学生生活は殺人事件でいっぱいになるかのようではないか。

 ふと、加瀬月さんの言葉を思い出す。僕が、氷堂さんの魂を受け継いでいるというものだ。受け継いだつもりはないが、あれが僕にとって最初の事件で、このあたりで探偵をしていた彼が死んだのもその事件なのだから、不親切で面倒くさがりなお天当様が、途中退場した氷堂さんの役割を僕に押しつけているようにも思えた。

 喉につかえた何かを流すように、僕はお茶を飲み込む。

「どうせ探偵仕事をするんなら、人の死が関わっていない事件に関わりたいものだ。ホームズだって、いつも殺人事件を扱っているわけじゃないんだから」

「君の研究は乱歩だろう? いいのかい、コナン・ドイルの話なんかして」

「僕が今話をしているのは、ゼミ生でも指導教官でもなく、ただのディケンズ好きの男の子だからいいんだよ」

 などと話をしてから、郡田くんと庭畑さんへの聞き取りから得られた情報を、織羽くんと共有した。彼は図面を見ると、しばらく考え込む。


 数分して、学食のドアを開ける襟平さんの姿が見えた。咳払いをして座り直すと、隣で織羽くんが「彼女は色仕掛けをしてくるだろうか」などとニヤつきながら呟いたので、僕は肘で彼の脇を小突く。

「お待たせしました。今日はよろしくお願いします」

 白いブラウスを着た襟平さんが、ぺこりと頭を下げながら僕たちの向かいの席に腰かける。昨日初めて見た彼女よりも、幾分か大人らしく見えた。服装のせいかもしれない。ただ、先の庭畑さんに比べれば胃にやさしいというか、緊張せずに済んだ。役のイメージおよび第一印象との乖離が大きくないからかもしれない。

「昨日の今日で、すみません。お聞きしたいことがいくつかあるのですが、まずは簡単なところから聞ければと思います。事件は――福士くんが何者かに刺されたのは、ラストシーンを終えての、最後の暗転中に起きたのだと思われます。ですので、その時に襟平さんがどこで何をしていたのか、そして他の人は何をしていたのか、わかる限りで教えて欲しいんです」

 僕の言葉に合わせて、優秀な――もしかすると僕よりも優秀な助手が、舞台の図面を襟平さんの方へ差し出した。

「これまでの聞き取りから、各人がどこにいたのかをまとめたものだ。襟平は上手側の第2袖幕裏にいたはずだということだけど、これは間違いないかな」

 襟平さんは図面を眺め、しばらくしてからこくりと頷く。

「たしかに、私がいたのはここでした。どうしても前のシーンの関係で、この場所に退場するしかなかったんです。何をしていたかといえば、雛上さんの手伝いです。まあ、片づけの手伝い、といった方がいいのかもしれません。全ての役を終えるまで、私には手伝う余裕なんてありませんでしたから。

 役者に対して着替えの必要な役が多く、着替えの回数に対してスタッフの数が少なかったので、舞台裏では衣装が脱ぎ散らかされているような状況でした。もちろん、観客席からは見えなかったでしょうけど。雛上さんは最後のシーンで、たしか下手側の第2袖幕裏――つまり、私と正反対の位置で仕事をしていました。私が最後に見たときは、衣料消臭のスプレーを持っていたはずです。

 私はラストシーンでの出番がなかったので、実は演技を終えてからの暗転は、舞台の上手と下手を行き来していたんです。上手に置き去りにされたままの小道具や衣装を持って、下手にいる雛上さんに渡すために。なぜ下手なのかというと、舞台裏の下手側には外に繋がるドアがあって、大学と施設を行き来するトラックをそこの駐車場に停めるから。舞台が終わったあとの片づけをスムーズに行うために、できるだけ荷物を下手側にまとめたかったんです」

 僕は遮って質問する。

「暗闇の中で、そんな簡単に行き来できるのでしょうか? 舞台上には平台があったり、役者が交替していたりで、なかなか難しいと思うのですが」

 襟平さんは、庭畑さんの残した「蓄光」というメモ書きに目を落としてから答えた。

「平台には、観客からは見えない大きさの蓄光テープが貼られていました。その光が平台の位置を示していますから、暗転中でも平台の位置がわかるんです。そして役者たちの移動は、最後のカーテンコールを除けば、第2袖幕よりも前側で行うように決めていた。つまり暗転中は、第2袖幕の前で役者、後ろでスタッフが行き来することになります。こうすれば、真っ暗な舞台上で役者とスタッフ……より正確にいえば、私たちと雛上さんがぶつかることはほとんど起こり得ないわけです。ふたりは見えなかったと思いますが、ほぼ全ての暗転で雛上さんは舞台上を行ったり来たりしていました。終盤で私もそれの手伝いをして、ラストシーンではたまたま上手側にいた、ということになります」

 僕はここで考え込む。暗闇の中で処刑台の平台が光っていたのなら、凶器さえ回収できれば容易に福士くんを仕留めることができるのではないか、と。

 僕が口を挟むより先に、考えていることを読み取ったかのように織羽くんが聞いた。君を疑っているわけではないけど、という前置きと共に。

「つまりそれは、暗闇でも福士くんの位置がわかる、ということでもあるのかな」

 襟平さんは首を振った。

「平台の位置はわかっても、福士くんがどこに寝ているのかまでは、わからないと思う。蓄光テープは平台の両端に貼っていたから。平台そのものの位置はわかっても、その上にいる役者の詳細な場所まではわからない」

 僕は口を挟む。

「でも、蓄光テープは暗転中の目印にも使いますよね。ということは、平台の上の側、つまり役者が脚を置く面には、蓄光テープが貼ってあったんじゃないでしょうか? それを見れば――」

「いや、仮にそれが貼ってあったとしても、役者は寝転んでいるからテープの光は遮られているはずだ。目印にするのは、無理じゃないかな」

 織羽くんが割り込んできたので、僕はさらに考え込んだ。彼は補足する。

「もちろん妙な態勢で死んだフリをしていたから、ちょうど腰が浮き上がっているところから光が漏れて、ということもありうるけど」

 そんな運任せの目印で、凶器がすぐに見つからない、計画された犯行が行われるだろうか。肝心な場面で、ターゲットの場所がわからなかったらどうするのだ。

 犯人はどのように福士くんの位置を特定し、何で刺し殺し、それはどこへ隠されたのだろうか。

 その謎は改めて会場を調べないと解けないだろうと思い、僕は別の質問を襟平さんに投げかける。

「福士くんは、どんな人でしたか? 最近誰かとトラブルがあったとか、そういう話があればお聞きしたいのですが」

 襟平さんは周囲を確認してから、椅子に座り直して声をひそめた。

「彼と郡田くんは、相性がいいんだか悪いんだかというような感じで、反発するときはものすごく言い合いになるんですけど、誰かへの非難で意気投合することもあって。ふたりの仲が悪いときは、当然稽古場の雰囲気も悪くなりますから、その場にいた人たちは居心地が悪くなって、劇団を去っていきました。かといってふたりの仲がいいときは、共通の敵を見つけたときですから、その敵――槍玉に上がった公演メンバーの誰かは、当然やってられなくなって辞めていきました」

 織羽くんが呟く。

「仲が悪いとダメ、仲が良くてもダメ、というわけだ。それでも残った襟平たちは相当の我慢をしたんだろうね」

 襟平さんは否定せず、少しだけ視線を落とした。僕は質問を続ける。

「ずっと、ふたりはそんな感じだったんですか? 1年生の頃から劇団に入ったのだとしたら、だいぶ長い付き合いになると思うんですが」

 2年以上不仲が続いていたら、さすがにどちらかが辞めてもおかしくないと思うのだけれど。

 襟平さんは首を振る。

「福士くんは昔からそんな感じでしたが、郡田くんが彼に強く言えるようになったのは、今回の公演が初めてです。というのも、福士くんはこれまで主役になることが多かったのに対して、福士くんはただの演出家で、脚本を手がけることはなかったんです。

 郡田くんは1年の頃から脚本を書いて持ってきていましたが、福士くんは彼の台本を認めることがなかった。福士くんは、自分が一番輝けるような脚本を推薦し続けてきたので――そして、福士くんの言葉には実際説得力もありましたから、郡田くんが書いてきた脚本はことごとく上演の機会を逃してきたんです。

 けれど、今回の郡田くんの作品を福士くんは気に入ったようで、初めて価値観を共有できた、という感じだったのでしょうか。もちろん、全面的にわかりあうようなことはありませんでしたが」

 僕は横目で織羽くんを見ると、彼も同じように僕を見ていた。同じことを考えたのだろう。

「つまり郡田くんは福士くんに、力作たちを却下され続けてきたことへの恨みを抱いていた、と考えられるのかな」

 織羽くんがそう言うと、襟平さんはハッとしてしばらく考え込み、「そこまでは、わかりません」と小さな声を漏らした。

 僕は別の質問をぶつけてみる。

「本来ヴォロネークは須坂くんが演じる予定だったのに、福士くんがそれを奪ったというような話を聞いていますが、そのことについては、何か知ってますか」

 口にしてから、彼に好意を抱いている彼女に聞くべきことではなかったかもしれないと後悔する。しかし、嫌な顔をされるだろうという予想に反して、彼女は少し恥ずかしそうに答えた。

「それは誤解です。たしかに福士くんは、自分はヴォロネーク役以外やらないつもりで郡田くんの脚本を推薦していましたし、郡田くんが須坂くんを主演に置こうとしていたことには反対していましたが、須坂くんは自分からヴォロネーク役を降りたんです」

 僕は首を傾げる。

「自分から主役を降りた? それはいったい、どうして?」

 彼女は少し目を伏せて、何かを誤魔化すように言った。その顔には、小さな微笑が浮かんでいる。

「役が気に入らなかったとか、そういうことじゃないですかね」




「福士くんは本当に、すばらしい役者でした。僕が劇団に入ったのは、先輩たちの演技に惹かれたからですが、その衝撃も霞み、目標が先輩から彼に変わるくらい、福士くんは力強く、説得力のある演技をするんです」

 襟平さんたちへの聞き取りを終えた、翌日のことだ。須坂くんと待ち合わせをした僕らは、学食で食事をしながら事件の話をすることにした。食事がおいしくなるような話題ではないのだが、彼の時間の都合で、どうしても昼食時になってしまったのだ。

 福士くんに対する肯定的な意見は誰からも出てこなかったのだが、ここに来て須坂くんから彼を評価する声が上がり、僕と織羽くんは顔を見合わせてしまう。善人ぶって僕たちを欺いているようにも見えず、彼の性格のよさを改めて実感する。彼にヴォロネーク役を任せようとした郡田くんの気持ちがわからない。

「今回の舞台でも――特に、最期の場面はすごかったんです。迫力はもちろんのこと、まるで本当に死んでしまったかのように、脱力した演技ができるんです。ヴォロネークが死んだときの体勢を覚えていますか? 膝を折って、腰を曲げ、背中がほとんど平台にくっついていた。正座したまま寝る感じに近いでしょうか。

 元より体が柔らかいというのもありますが、その体勢を、負の感情を全て混ぜ合わせた顔のまま続けるというのは、相当の努力が必要です。昔の有名な俳優が、まばたきをせずに長時間の撮影を行ったという伝説があります。そこまでではないにしても、ともかく福士くんの演技は、人間の限界に挑むようなものだったんです。

 そして彼のこだわりは、死んでいる演技のときは本当に死に徹すること。その間は本当に無音ですから、死んでいる演技の途中は呼吸音も抑えられていて、呼吸による胸の上下もありません。苦しい体勢でも呻き声など一切漏らさない。そういう姿勢が、本当にすばらしかったのに……」

 ここで、須坂くんは黙り込んでしまった。手を止め、箸を握り締める。織羽くんも彼に合わせるように、視線を切り干し大根に落としていた。

 僕はオクラのおひたしを箸で混ぜる。ねばりのせいで箸が重い。

「もし福士くんが、絶対に音を出してはいけない状況で何者かに腹部を刺されたら、彼は声をあげたと思いますか?」

 隣に座っていた織羽くんが、ちらりと僕を見た。それとほぼ同時に、正面で須坂くんが顔をあげる。

「いいえ。彼のことだから、たとえどこをどれだけ刺されようが、舞台を最後まで続けようと考えたるんじゃないでしょうか。実際僕たちは、彼の叫び声を聞かなかった。自分の命を優先することで、自分が輝ける時間が止まってしまうのを彼は許せなかったんだと思います。彼は他人に厳しかった。けれど、自分にも厳しくしていました。私生活や練習での態度はさておいて、役者として彼を尊敬している僕には、それがよくわかります。おそらく、他の劇団員たちよりも。

 彼は自分の命よりも自分の劇を優先していた。自分のためなら他人のことも――自分のこともどうだってよかったのでしょう。矛盾しているように聞こえるかもしれませんけどね。劇を中断するくらいなら、文字通り死んだ方がマシだと彼は考えた。そしてその結果、劇自体は無事に終わり、カーテンコールになっても彼は起き上がらなかった」

 ふと、僕は昨日の郡田くんの言葉を思い出す。事件について「正直迷惑だ」と彼は言った。それは劇が嫌な終わり方をしたからだ。そう考えると、やはり郡田くんと福士くんには通ずるものがあったのかもしれない。劇の前では、役者そのものの意見や価値など大したものではないという信念。そしてその信念を貫き、福士くんは息絶えたのだろう。

 僕はなんともいえない気持ちになる。協働すべき他者を、ないがしろにするということ。例えばこれが、会社の社長と社員の関係であれば、問題になるだろう。従業員の給与を限界ギリギリまで下げて、その分を会社の発展および社長の財布の厚みに変えていくとしたならば、それは他者の生命を脅かすことになる。

 しかしこれはアマチュア劇だ。観劇前に織羽くんから話を聞いたこととも関連するが、結局彼らは素人で、生活がかかっているわけではない。どこまでだって妥協できるし、どこまでだってこだわることができる。相手をひどく責めようが苦しめようが、法的な制裁が下ることはほとんどない。

 だから法の代わりに、その横暴な態度に対して犯人が罰を与えてしまったのだ。

 須坂くんが福士くんを尊敬していることがわかったので、これ以上は「彼が恨まれていること」を前提とした質問をする気にはなれなかった。

 彼はラストシーンで舞台上にいたので、他の関係者の立ち位置や、彼らが何をしていたかについての情報は聞き出せない。各役者の待機予定場所については彼も肯定していたので、ここまで誰も嘘をついていないことがわかる。少なくとも、どこにいたのかについては。

 事件のことで頭がいっぱいの僕とは対照的に、織羽くんは気を利かせて「劇そのもの」の話をしたので、少しずつ須坂くんの表情は明るくなっていった。

「僕はデュキンとして舞台に立ってからは、もう着替えることはほとんどなかったんですが、女性ふたりは結構な苦労をしていました。特に襟平さんは、着替えの回数も多かったですから。もちろん、その数々の衣装を作成した雛上さんの努力もすばらしいものですけどね。あれだけの衣装を作り直す苦労は、僕には想像もできません」

 懐かしそうに語る須坂くんの言葉を、つい僕は遮ってしまう。

「作り直す、というのは?」

 せっかく楽しい気分にさせているのに余計な口出しをするなと言いたかったのか、ちらりと織羽くんから視線が投げかけられるが、須坂くんは気分を害する様子もなく、食事よりも想い出を噛み締めるように言った。

「元々はもっと役者もいましたし、今回降りていった彼らに合わせて、既に衣装は作られていたんです。その時はまだたくさんいた、数多くのスタッフさんによって。だけど練習が進んで役者がどんどん減ってくると、その多くの役を少人数に配分し直すことになるわけですから、当然衣装を作り直す必要が出てくる。新しく材料を買ってゼロから作るのでは、資金も時間も足りない。幸い、衣装を着る回数が一番多い襟平さんは体が小さい方だったので、既に作ったものの丈を短くするなどでどうにかできたようですが。ただ、スタッフさんも減って、裁縫ができるのは雛上さんだけになってしまったので、彼女は寝る間も惜しんで衣装作りをしていました。それだけ時間をかけて作ったものも、今回の公演が終わったら破棄するんですけどね」

 織羽くんが首を傾げる。

「棄ててしまうのかい?」

 須坂くんが頷いた。

「サイズ変更でだいぶ生地や装飾に負荷をかけてしまったようで、次回以降も使うのは無理だろうということでした。元々劇団で持っていた衣装を作り直したものもありましたからね。最後に盛大なリユースをした、ということになります」

 1回限りの衣装をたったひとりで完成させた雛上さんは、いったいどんな気持ちでミシンを動かしていたのだろうか。いなくなった仲間たちに見てもらえることを期待して、黙々と手を動かしていたのかもしれない。




 スマートフォンを眺める。映されているのは、千秋楽前に撮影された集合写真。須坂くんが襟平さんにだけ送ったものだが、何かの手がかりがあるかもしれないからとお願いをして、僕の方にも送ってもらったのだ。

「小学校とか中学校のとき、好きな女の子が映ってる写真を注文するタイプじゃなかった?」

 からかうような織羽くんの言葉。僕はスマホを伏せる。

「まあ、今回は好みの娘が3人も映ってるんだけどね。どうかな。聞き込みを通じて、彼女たちの順位は変わった?」

「君が以前よりも下品な話をするようになって、僕は悲しいよ」

 僕が言うと、織羽くんは笑った。

「まだひとり残っているからね、順位を決め直すにはまだ早かったか」

「そういうことじゃなくてね」

 僕はこっそりとスマホを再度見る。丁寧に作り込まれた衣装に身を包む役者たち。彼らを囲う、上下を黒でまとめた数人のスタッフさんと郡田くん。その中のひとりで、これからお話を聞かせてもらう雛上さんに目が行く。どうしても役者である襟平さんや庭畑さんに注目してしまいがちだが、雛上さんも結構美人だ。かけているメガネのせいか、大人しさと知性を勝手に見出してしまう。本をたくさん読んでいそうな雰囲気だ。彼女は、乱歩を読むだろうか。彼女のような女性と、卒業論文を一緒に頑張ったり、お酒を飲んだり、そんなキャンパスライフが送りたかったものだ。

 僕は首を振る。雑念を払い落とすように。僕には心に決めた女性がいて、彼女は今、自分の犯した罪と向き合っている最中なのだ。浮気しているわけにいかない。今回の事件についても、解決したら彼女に手紙で報告する予定なのだ。こんな調子では、余計なことを書いて失望させてしまうかもしれない。

「遅れてごめんなさい、河童場くん」

 女性の声がして、僕と織羽くんは顔をあげた。そこにいたのは、深緑のワンピースを着た女性。肩が白く輝いて、はたしてこんな知り合いがいたものかと戸惑う。僕じゃなくて、織羽くんの知り合いなんじゃないかと疑うが、たしかに河童場くんと呼ばれたので、僕に用があるのは間違いないらしい。

 黒い髪がさらりと背中に伸びている。知的な雰囲気のある顔立ち。その目元に見覚えがあった。いつだ。ついさっきじゃないのか。ということはつまり……。

「雛上さん、ですか?」

 女性は、恥ずかしそうに頷いた。

 なんだか、イメージと違って、私服はセクシーめというか、派手というか。それに、メガネはどこに行ったのだ。あれは伊達だったのか。

 僕の動揺を察したのか、織羽くんが彼女に声をかけて座らせてくれる。舞台図を見せて何やら確認を取っているが、周囲の声と混ざって聞き分けることができない。気分を落ち着けるため、水のコップを手に取って傾ける。喉を動かしても、緊張のせいか口の中は潤わない。なんなら、冷たさすら感じない。しっかりしろ。

「――言いにくいんだけどね、河童場くん」

「なんだい?」

「水、届いてないよ」

 織羽くんに言われて、ハッと足元を見る。コップは唇に届いておらず、床と僕のズボンが濡れていた。ぽかんとした雛上さんの表情。横から、織羽くんのため息。


 ほとんど使いものにならなくなっていた僕の代わりに、しばらく織羽くんが雛上さんに質問をしてくれていた。暗転中の曲は福士くんから郡田くんに提案されたもので、主に福士くんの態度のせいでメンバーは激減し、観客席側からは見えない舞台裏で彼女は片づけのために活躍していたという、これまでの聞き込みから得られた情報に嘘はないようである。

「福士くんのことは、高校時代から知っていました。彼も私も、同じ演劇部に所属していましたから」

 ドレスのようなワンピースと学食というのは、いささか雰囲気がミスマッチだなと改めて思う。庭畑さんと雛上さんへの聞き込みは、夜景の見えるレストランで行った方がよかったかもしれない。

「その頃も、雛上さんはスタッフとして活動していたのかな?」

 織羽くんの言葉に、彼女は一瞬ためらってから首を振る。

「高校のときは、役を演じていたこともあります。今ではもう、考えられないですけど」

「考えられないというのは、どういうこと? どこかケガをしたとか?」

「いいえ、単に向いてないことに気づいたからです。福士くんの演技を観ていると、自分に実力がないことを自覚せざるをえないので……」

 相席になっちゃった人ぐらいの存在感になっている僕は、リアルタイムで推理することを放棄して、雛上さんが役者をしていたらどんな感じだろうと想像した。控えめな役はもちろんのこと、今みたいに女性らしい格好も似合うのだから、結構幅の広い演技ができるんじゃないだろうか。

「向いてるかどうかは、自分が決めることじゃないかもしれないよ。かといって、他人が決めることじゃないけどさ。……河童場くんも見たいよね、雛上さんの演技をさ」

 急に話を振られたので、僕は強く頷くことしかできなかった。そんな僕の正直すぎる反応をどう思ったのか、雛上さんは少し肩を小さくして恥ずかしがる。そんなことで恥ずかしがってしまうのに、よく普段そんな格好をしているなと思う。いや、悪いことではないし、むしろありがたいことではあるけれど。僕の気分的に。

「福士くんは、高校の頃からずっとそんな感じだったの? 他人と衝突するのを気にしないというか、劇以外のことはどうでもいい考えっていうか」

「高校の頃は、そこまでではありませんでした。主張の強い方ではありましたが、ちゃんと人の話を聞いて、仲よく劇をやろうという想いを持っていましたし……」

 変わったのはいつからかと、織羽くんが尋ねる。

「高校の頃、私たちの演劇部は、劇の県大会に出場しました。そこから先に進むことはできませんでしたが、福士くんは役者として優秀賞を獲ったんです。このことは彼にとって強い励みになったのですが、進学校でしたから、3年生になると受験勉強への線念のため、部活動はできなくなりました。

 だから、3年生の秋の文化祭でのクラス劇を、彼はとても楽しみにしていたのです。彼は演技力に自信がありましたから、当然学年での最優秀賞を獲れるに違いないと、確信していました。ですがクラス劇となると、部活動とは違って嫌々参加している人もいますから、たとえ優秀な役者がひとりいたとしても、全体のクオリティが高くなるというわけではありません。お客さんからの投票の結果、彼のクラスは最優秀には選ばれませんでした。おそらく、このあたりから彼の意識は変わってしまったんじゃないでしょうか。

 大学に入学して、演劇のサークル――要するにうちの団体ですが――ここで再会した彼は、何だか雰囲気が違っていました。迫力が増し、以前よりも体の使い方がうまくなっていましたが、他人と自分に厳しすぎて、先輩たちもかなりプレッシャーを感じていたと思います。自分だけが優れていても、周囲が追いついていなければ意味がないと考えたのでしょう。そしてそれを、他の仲間を成長させるのではなく、相応しくない人を追い出すことで達成しようとしたんです」

 実力の観点で自分と釣り合っていない仲間を、はたして仲間と思えるだろうか。仲間も友達もいない僕には想像することもできないが、おそらくはそういうことなのだろう。

 ようやく雛上さんの女らしさに慣れてきた僕は、彼女にひとつ質問する。さっきまでのだらしなさを払拭するべく、なるべく堂々と。

「最近、福士くんが誰かとトラブルになっていたことはありませんか? もちろん練習のこともあるとは思いますが、それ以外での、人間関係なども含めて」

 雛上さんは少し考える。

「少し前まで、彼は庭畑さんと交際していたんですが、彼女と別れて、今は襟平さんに言い寄っているように見えました。そして彼女の方は、あまりいい反応をしていない。その……周りの人からすると、あまり気分のいいものではなかったかもしれません」


 福士くんが、襟平さんにアプローチしていた。

 予想していなかった答え。雛上さんが誤魔化した「周りの人」とは、誰のことか容易に想像がつく。襟平さんを想う人からすれば、彼女に言い寄る福士くんは邪魔者のように映ったのではないだろうか。


 たとえ、役者としての彼を尊敬していたとしても。


(結に続く)

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