本当に刺さった痛い話(承)
会場中は大混乱になった――というほどでもない。というのも、被害者は舞台の台の上に横たわっているため観客席からはその有り様が確認できないし、わかりやすく傷を負っているわけでも、血飛沫が飛び散っているわけでもなかったからだ。なんかアクシデントがあったらしいから帰ろうぜ、くらいの感覚で、観客たちの多くはぞろぞろとホールから出て行った。もちろん、ホールを出てエントランスのソファーに腰かけたり横たわったりして気持ちの整理をつけていた、神経の細い女性客も何人かいたが。
要するに、人が刺されたという感じがあまりしないのだ。白昼堂々、大通りで通り魔が人を刺して、そのナイフを持ったままうろついている、とかならわかりやすいのだが、正直なところ僕も織羽くんも、そして関係者たちも、いつの間にこんなことになったのか、という疑問の方が、恐怖心よりも頭の中を支配していた。
さて、警察への通報者である織羽くんは「仕事だよ、名探偵」などと言って僕の腕を掴み、あろうことか舞台の上へと上がってきてしまったのだ。観客席の後方で音や光の操作をしていた他のスタッフさんを差し置いて、である。さすがにこの行いには、例の気難しそうな演出家が注意しようとしたのだが、彼はそれが織羽くんであることに気づくとたじろいだ。同じ授業を受けたことがあると織羽くんが言っていたところから想像するに、おそらくはこの演出家さんも文学部なのだろう。そして文学部――特に、僕たちの学年の文学部の学生にとって、織羽くんはかなりの有名人なのだ。そのルックスや人のよさ的な意味で。
「織羽くん!」
女性の声がして、僕と織羽くんはほぼ同時に声の方向を振り返った。肩に届かないくらいのショートカットの黒髪を揺らして、ひとりの女性が駆け寄ってくる。僕たちを劇に招待してくれた、襟平さんだ。……いや、僕は招待されてないんだけれど。
「ごめん、なんか……こんなことになっちゃって」
こんなことというのは……こんなこと、だろうな。
もちろん、謝ることではない。これは、襟平さんに責任があるわけじゃないだろう。彼女が、今日のこの公演で男性が倒れるのを知ってた上で、僕たちを招待したのでない限りは……。
とまで考えて、僕はほんのりと嫌な予感がした。劇が始まる前、冗談交じりに織羽くんと話していたことを思い出したのだ。
――まあ、それだけ嫌な練習続きだったのに、襟平は俺に来るよう言ってきたんだ。この劇には、よほどの何かがあるに違いないよ。
違いなく、ない。そう思いたい。僕たちと同い年――20歳か21歳かそこらでありながら、少女のような雰囲気を残している襟平さんが、この一件に関わっているはずがないのだ。こういうのはもっと、美しいけれど欲深い、女王様のような……。
思わず僕は、もうひとりの女性の出演者の方を見てしまっていた。運悪く目が合ってしまい、何よ? と言いたげな冷たい視線が向けられる。僕は急いで視線を逸らし、織羽くんにもバレないほど小さく息を吐き出す。
まずい。演じていた役によるバイアスがかかってしまっている。あんな純粋無垢な役を演じていたのだから本人も純粋に違いないなんて、子どもの発想ではないか。いや、子どもの方が本質を見極めることができそうな気がする。落ち着くんだ、
「いや、君のせいじゃないよ。劇自体はとても面白かった。――そうだろう、河童場くん?」
さわやかなフォローを決めた織羽くんがそのままパスしてくれたので、僕はこくりと頷いた。襟平さんはぺこりとお辞儀をしてくれたが、内心では「誰だ、こいつ?」と思っているに違いない。
自己紹介するなら、今しかないんじゃないか。
僕はこの機会にあいさつしようと思ったが、普段人とあまり話さないせいでどう切り出したらいいかわからなくなった。そこに、痺れを切らした演出家がつっこんでくる。
「織羽はともかく、隣にいる君はいったい誰なんだ?」
よりによって神経質そうな彼から催促を受けたので若干ムッとしたが、同時に僕は話題を振ってくれたことに感謝しつつ、息を吸い込んだ。
「彼は河童場くん。名探偵だよ」
織羽くんの紹介に、周囲の人たちはぽかんとしていた。もちろん、僕が一番驚いている。何ですか、その高校生探偵みたいな紹介は。
この気まずい沈黙を引き起こした犯人である織羽くんは、何故かしてやったぜというような顔つきをしていた。親友である南くんがいなくなってからの彼は、何だかよくも悪くも思い切りがよくなったような気がする。
予想していなかったであろう答えに、いったいどう反応すればいいのかわからないでいると、女性の声がそれを打ち破ってくれた。
「えっと、名探偵というのは、いったいどういう意味ですか?」
声の主は、知らない女性。
メガネをかけていて、ツヤのある髪を、やや乱暴に後ろで1本結びにしている。演出家の男性と同じように、上下黒の服を身につけていることから、スタッフのひとりであることが予測できた。
「少し前の事件で、暮井がどうやって殺されたのかを彼が暴いた。これで十分だろう?」
「ちょっと!」
あまりにもな発言に、僕は織羽くんの方へ手を突き出したが、時既に遅し。舞台上の人たちは、聞くことになるとは思わなかった話題を突きつけられ、怯んでしまっていた。
「おまちどおさん!」
しかし急にどこからか大きな声が聞こえてきて、舞台上の僕たちは全員、観客席の方を振り返る。それは客席の方にいたスタッフさんも同様で、ほぼ全員の視線が声の主である、ドアから入ってきたのであろう見知らぬ男性に向けられていた。
背が高く、顔が小さい。少し伸びた癖のある茶髪をひょこひょこ上下させながら、観客席の間を降りてくる。ステージに上ってくると、僕たちをきょろきょろと見回してから頭を掻いた。
「おやまぁ。もっと凶悪そうな学生がいるかと思ったんだけどねぇ。人殺しなんかできなさそうなお子様しかいないじゃないか」
薄いブルーのシャツに白いズボンという夏真っ盛りみたいな格好をした、20代後半に見える男性が、ずけずけと僕たちの顔を一人ひとり観察する。
「なんですか、あなたは?」
演出家の彼があからさまに嫌な反応をすると、男性は両手を上げてうなだれるようなポーズを見せた。ふうっと、ため息が漏れる。
「なんですかも何も、俺たちを呼んだのは君らじゃないか」
「呼んでませんけど」
ツッコミを入れたのは、女王様だ。そんなことは気にせず、男性は台の上で横たわる体に気づき、近くで観察し始める。
「まだここに死体があるってことは、119番よりも110番が早く来ちまった感じかな」
ぼそっと男性がそう呟くのを聞いていた役者の好青年が、驚きの声を上げる。
「まさかあなた――刑事さんですか!?」
処刑台だったものに寄りかかって、男性はわざとらしく悲しい表情をつくった。
「この顔は、誰がどう見たって警察関係者でしょうよ」
ものすごい、ドヤ顔。しかし誰も同意しなかった。
どちらかというと、地元のやんちゃな先輩みたいな雰囲気ですよ。僕はその言葉を飲み込んだ。
「
なるべくよろしくしたくないものだなと、僕は思った。
チャラついた雰囲気のわりに仕事はできるのか、加瀬月さんは部下に命じて、警察到着時に、エントランスを含めた施設内にいた人たちの名前と連絡先を控えさせていたようだ。凶悪犯がホールにいると踏んでひとり突入したものの、実際にいたのは事件に驚く学生だけで拍子抜けしたのか、しばらく彼は外で堂々とタバコを吸っていた。その間に僕たちも名前と連絡先を聞かれ、嘘をついていないかどうか確かめるためにケータイを鳴らしてみるなど、簡素ながら徹底した身元調査が行われる。
「劇を観に来たお客様はみんな帰っていいですよ~! それと、発生時にホールにいなかった一般の施設利用者の方や従業員の方も、どうぞ自由になさってください!」
その言葉に、よかった、安心したなどのどよめきが起こり、建物入口のドアを押さえていた加瀬月さんの脇をお客さんたちが通り抜けていく。
「学生さんたちは、もうちょっと付き合ってもらうよ」
施設のエントランスには、スタッフを含めた劇団のみなさん10名と、どう考えても場違いな僕と織羽くん、そして何人かの警察官が残された。どの警官さんも大人しく待機しているところを見ると、一応加瀬月さんがこの中で一番偉いらしい。
用のない人が全員何とか会館から出ていったのを確認すると、加瀬月さんは僕たちに近づいてから一度咳き込んで、明るい声で言った。
「ええと、いないと思うけど聞いておこうかな。ボク、あるいはワタシが、あの男の子を殺しましたよって人はいる?」
はーいと、加瀬月さんが手をあげる。もちろん、誰も手をあげることはない。
「――ちょっと待ってください」
声をあげたのは、デュキンを演じていた好青年だった。
「殺したも何も、まだ救急車は来てません。福士くんが死んでしまったとは言い切れないじゃな――」
「いや、死んでたよ」
割り込んで、加瀬月さんの声が低く響いた。妙に真面目な声色だったので、その場にいた学生たちは全員ビクリとした。警官さんたちは顔色ひとつ変えていない。
加瀬月さんは僕たちの間を縫うように動いて――それこそ、犯人探しをしているかのように――僕たち一人ひとりの顔色を観察し始める。
「間違いないね。もちろんこれから救急隊員が駆けつけてくれるだろうが、ありゃもう助からんよ。横たわっていた台は木製だからね。そいつが血液を吸っちまってるからわかりにくいが、かなり傷は深かったようだ。出血がひどい。これでも刑事なんでね。経験則からある程度判断できるのよ」
言い終わって、急に加瀬月さんが手をパンパンと叩く。神経が過敏になっていた僕たちのほとんどは、その音にひどく驚いてしまった。まさに、鳥にも心を驚かすという状況だ。普段であればそこまでビビることはないはずなのに。
隣に座っている織羽くんは、平気な顔をしているけれど。それどころか、なぜか建物の外に目を向け始めた。
「お待ちかねの、救急車だ。君たちに話を聞くのは、死体の移動が済んでからにしようか」
加瀬月さんが親指で外を指す。しばらくして、救急車のサイレンが聞こえ始めた。加瀬月さんと織羽くんは、僕たちよりも何秒か早く、その音に気づいていたらしい。
運び出される福士氏は、加瀬月さんの言う通りもう手遅れにしか見えなかった。とはいえ、優秀な役者であろうから、奇跡的に生き延びてほしいなとも思う。だいぶ望み薄ではあるけれど。
「さて、ここにいるのは劇団関係者と見ていいのかな?」
加瀬月さんが質問すると、劇団員のみなさんの視線が僕と織羽くんに集中する。警官の方々もそれに気づき、僕たちは四方八方からじっと見つめられることになった。はい、部外者です。
「なんか君たちふたりは他とは違うみたいだけど、どうしてここに残っているんだい?」
帰りたい。
「彼が、探偵だからですよ」
織羽くんが、僕を手で示して言った。この空気で、脚を組んでさえいる。すごいよ、織羽くん。堂々としすぎているよ。やめてよ巻き込まないで。
加瀬月さんが鼻で笑う。
「大学生探偵ってわけかい。あまり大人をからかわないで欲しいな。いやはや、
僕は思わず、勢いよく立ち上がってしまった。織羽くんでさえ驚いている。
今更、すみません何でもありませんとは言えない雰囲気になってしまった。僕は拳を握り締めて緊張を抑え、眉をひそめている加瀬月さんに尋ねる。
「氷堂さんって――私立探偵の、氷堂さんですか?」
その名を、忘れることはないだろう。僕が初めて関わった事件の、被害者だ。そして、僕の愛する人に凶器を握らせた、加害者でもある。
「――そうか、氷堂さんは殺されたのか……」
特に悲しむ様子はなく、加瀬月さんはただ驚いた声を小さく吐き出す。
早く帰らせてくれよという学生たちの視線を受けながら、僕はみんなから少し離れた場所で、加瀬月さんに氷堂さんが殺されたときの話をした。身体的特徴や性格、職業などから考えるに、僕の知っている氷堂さんと、加瀬月さんの知っている氷堂さんは同一人物だということになる。
「で、君はその氷堂さんを殺した犯人を突き止めたわけだ。本当に名探偵だったんだな。彼の魂は、後継者である君に受け継がれたというわけかな」
別に、受け継いだつもりはないですよ。
そう言い返そうと思った矢先、加瀬月さんは首を振る。
「彼はあまりにもビジネスを重視し過ぎた探偵だったがね。君にはその空気がない。欲のなさと、人のよさがにじみ出ている。氷堂さんは金のためには手段を選ばないから、犯人だけでなく、依頼人からも恨まれるようなことがあった。何食わぬ顔で関係者を騙すし、実際俺も騙されたこともある。言い方は悪いが、死んで当然だったのかもしれないね。天罰、というやつさ」
肯定も、否定もできない。僕は加瀬月さんに尋ねた。
「氷堂さんとは、いったいどういうご関係ですか?」
加瀬月さんは頭を掻く。
「大学の先輩というか、なんというか。学生時代に話をしたことはなかったんだが、彼が有名人だったんだよ。俺が入学したとき、彼はたしか大学院生で、心理学を専攻していたんだ。それと平行して――正確には、俺が入学するもう少し前から、彼は探偵のような仕事も引き受けていた。だから俺らの頃の世代は、氷堂さんが何かを解決する度に騒いだもんだよ。その頃はまだ、欲深いとかの話は聞いたことがなかったな。
俺は大学出てから警官になるための学校にしばらくいて――自分で言うのもなんだが、若いのに大出世をしているんだよ。エリートコースってやつかな。でもまあ、現場での経験がうんたらってことで、面倒ごとの最前線に立たされて――しかし中途半端に偉いから、部下もたくさんいるというわけ。
何年前だったか、今回みたいな面倒な事件に関わって、警察がお手上げ状態になったのに痺れを切らした被害者の遺族が、勝手に探偵を雇ったんだ。で、それが氷堂さん。向こうは俺のことなんか知らないけど、感動の! というか、驚きの再会だったね。
学生時代の彼は、いかんせん心理学の研究をしていたもんだから、実際の人間よりもデータ上の概念的な人間の方に興味があったような感じだった。けど、大学院を出て探偵業を続けてきたであろう、数年ぶりに見た彼は、以前の冷たさに拍車がかかり、人を傷つけることに遠慮のない、氷でできた刀みたいな雰囲気だった。
外野がしゃしゃるなよと思ったが、彼は俺たちでは気づかなかった証拠や人間関係をどんどん暴いていって、すんなり真犯人を突き止めちまった。否定しようもないくらいに決定的な証拠を突きつけられたもんだから、犯人もあっさり認めて、俺はかしゃんとやつの手首に錠をかけた。
そんときにな、氷堂さんが言ったんだよ。推理は警察ではなく探偵の仕事だ。事件現場を踏み荒らすくらいなら、最初からボクを呼ぶように、ってね。
君は彼が犯人を問いただす瞬間を見ていないからわからないだろうが、彼は聞き込み調査の際にはものすごく人当たりがいいんだ。もちろんそんな顔は作り物だから、話しているうちに違和感のようなものには気づくんだけどね。そして証拠が揃うと、それまでの態度とは打って変わって、徹底的に犯人や関係者を断罪する。歪んではいれど、人一倍の正義感を持っていたんだと思うよ。そうじゃなきゃ、罪を暴くなんてことを仕事にできないからね。
話を戻そうか。そんな強い調子でボクを呼べなんて言われたもんだから、かなり腹が立って、しばらくは彼を呼ぶことはしなかった。だが、稀に舞いこんでくる妙な事件は俺たちじゃどうしようもできなくて、1年前くらいから俺が直接彼を雇うことにしたんだよ」
その言葉に、僕は声を上げてしまう。
「警察が探偵を雇うんですか!?」
あまりにも大きな声だったのか、待たされている劇団関係者の方々や警官さんたちが一斉に僕の方を見た。織羽くんも僕を見ていたが、彼はにこやかに親指を立てて、まぶたを閉じて眠るようにソファーへもたれかかる。
「大がかりな調査をしたときなんか、平気で俺の月給分の報酬を請求してくるんだぜ。困ったもんだよ、本当に。
で、問題はここからだ。見たところ、今回の事件も厄介な感じでね。俺は氷堂さんを呼ぼうとさっきまで考えていたんだよ。だが君が言うには、氷堂さんはもういないみたいじゃないか。そして君と話している間、こっそり俺は氷堂さんに電話をかけるように部下にメールで命じたんだが、なるほどやっぱり電話に出んわ――ってことで、君の話は本当らしい。
だからどうだろう、名探偵くん。今回の事件の捜査は、全面的に君に任せるってのは」
「――はい?」
予想してなかった展開に、僕は自分の耳を疑った。
加瀬月さんのプライベートな連絡先を聞いて、僕たちはふたり揃って仲良く肩を組みながら学生や警官の待つ広間に向かう。肩は、無理矢理加瀬月さんに組まされた。自分の仕事を引き受けてくれる相手が見つかって、上機嫌な様子である。
「ただ今より本件の捜査は、この河童場くんが引き継ぐこととなった!」
みんなの前に立つや否や彼がそんなことを堂々というものだから、その場にいたほぼ全員が口を開けたまま動かなくなってしまった。織羽くんだけは、くすくすと笑っている。
「ご覧の通り俺たちはソウルメイト! 俺の半身である彼の調査に協力しないのであれば、学生だろうが問答無用! 公務執行妨害で逮捕する! お前たちも! 彼に何か頼まれたら喜んで鑑定でも何でも引き受けるように! 応じない場合は上司にチクッて減給処分だ!」
この言葉には、劇団の方よりも警官さんたちの方が怯んでいた。……わかっていたが、強引な人だ。後半はただのパワハラじゃないか。
「それじゃあ河童場くん! これから何を調べたい? 何をすればいいかな?」
両手を丸くして、指示を待つ犬のようなポーズをする。なるほど、こんなテンションの人であれば、さぞ氷堂さんとはウマが合わなかっただろう。莫大な報酬を要求された時というのは、単に調査が大がかりだったというだけでなく、その事件の調査中、加瀬月さんが相当ウザかったからなのではなかろうか。
僕は頭を掻く。
「ええと……。今日はみなさん、色々あってお疲れでしょうから、いったんお帰りください。ただ、上演中に舞台上にいた方たちは、僕と連絡先を交換してもらえないでしょうか。色々と聞きたいことがあるので、明日以降大学のどこかでお話ができればと思います」
「どうして連絡先なんか……」
演出家の男性がボソリと呟いた。僕だって、あなたみたいな人と関わり合いになりたくないよ。
「いいのかい、青年? 公務執行妨害で逮捕しちゃうぞ?」
「あの、ちょっといいですか?」
女性の声がして、僕は振り返る。メガネをかけた、スタッフの女性だ。
「今、ホールの中には舞台装置や照明器具、音響機材、その他色々なものがそのままにしてあります。本来であればそれらの片づけをして大学へ搬入、という予定だったんですけど、私たちはどうすればいいですか? そのままにしていると、施設の方にも迷惑がかかってしまうと思うんですが……」
僕は少し考えて、ひとつお願いをしようと加瀬月さんの方を見た。目が合って、まさに言葉を発しようとした瞬間、彼は僕の考えを悟ったのか、公民館の受付へと歩いて行く。
しばらく待つと、加瀬月さんがスキップで戻ってくる。改めて、ガラは悪いが高齢者に人気な田舎の若者みたいだなと思う。農作業とか喜んで手伝ってくれそうな感じだ。
加瀬月さんは、僕ではなく劇団の人に対して体を向ける。
「タイミングよく、しばらくホールの利用はないようだ。こういう事態だから、解決するまで道具等は置きっぱなしにしてていいそうだよ。その間の施設料金はいただかない、とも」
その言葉にほぼ被せて、僕は補足した。
「犯行に使われた凶器が舞台上に残されている可能性があります。下手に片づけをしてしまえば――これは、みなさんの中に犯人がいると考えてのことですが――証拠隠滅を招いてしまう。色々と思い入れのあるものも多いでしょうけど、今日はこのままお帰りください」
「犯行って――誰かが福士くんを殺そうとしたってことですか?」
割り込んできたのは、デュキン役の好青年だ。
「そうよ、何かの事故って可能性も――」
襟平さんも続いたが、加瀬月さんがそれを手で制する。ふたりともビクリとしてから、ソファーに座り直す。
「僕はみなさんの劇を観ていました。こういう状況で言うことじゃないですが、本当に面白かった。でも残念ですが――観ていたからこそ、僕はあれを、事故などではなく誰かの手による犯行だと確信しています。
彼の傷は刃物によるものです。彼は自害のシーンを演じました。そのとき、彼の体から出血するようなことはなかった。しかし照明がついてみると、彼は出血していて、起き上がらなかった。暗闇の中で転倒して頭をぶつけた、というようなものではありません。まるであのシーンを再現するかのように、彼は体の胸のあたりから出血していました。殺意を持った誰かが前々から計画を練っていて、ストーリーの進行に合わせて刺したとしか考えられないのです。
当然ですが、観客の中に犯人はいません。観客はヴォロネークがどのように死ぬのかを知りませんし、まさか客席からナイフを彼の胸に目がけて投げるわけにもいきませんから。距離的にも、客席で機材の操作をしていたスタッフさんである可能性は低いでしょう。実行するなら、舞台上にいなければならない。
そして凶器も、舞台上に残ったままの可能性がある。だからホールを、封鎖するんです。取り調べ以外で、誰も入ってこれないように。加瀬月さん、施設の方にホールを立ち入り禁止に――」
「それについても話は通してある。これ以降、探偵さんしかあのホールには入れない。彼以外の学生さんで、荷物が中にあるって場合は、俺が同行するという条件でひとりずつ入ることを許可しよう。それ以外で動こうものなら、俺は真っ先にそいつを疑うぜ。証拠を隠そうとしてるんじゃないか、ってね」
脅しの成果もあって、劇団の方々は非常に協力的で、荷物以外のものには一切触れずに撤退してくれた。
客席側で仕事をしていた、容疑の薄いスタッフさんたちはそそくさと帰り、演出家と女王様は嫌そうな顔をしながら僕と連絡先を交換して帰っていく。メガネをかけた女性は、僕のスマホの画面に表示されたQRコードを不慣れな様子で読み取って、恥ずかしそうに帰って行った。僕もこの操作は苦手なので、「わかる、わかるよ!」と謎の親近感が湧いてしまう。デュキンを演じていた好青年は、僕と連絡先を交換する際に、「ご迷惑おかけしてすみません」と謝ってくれたので――いや、そんな謝罪など求めちゃいないのだが――いい人なんだなと勝手に判断した。彼は施設のドアから出て行ったかと思えば、何度かこちらを振り返ってはワタワタしてを繰り返す。しばらくしてようやく、スマホを操作してからどこかへ消えていった。
その頃には加瀬月さんの部下の方たちもいなくなっていて、エントランスのソファーには、僕と織羽くん、そして襟平さんだけが座っている。加瀬月さんはというと、僕たちの話が終わるまでの時間潰しのため、施設の職員さんに話しかけていた。
「今日は本当に、観に来てくれてありがとう。それと、ごめんなさい。こんなことになってしまって……」
襟平さんは頭を下げる。劇中で数多くの衣装を着こなした彼女だったが、私服はTシャツにズボンというラフな格好だった。細身のジーンズは、彼女の女性らしい体格に沿って伸びている。下半身がタイトであるのに対してシャツがゆるりと見えるのは、おそらく肩幅が狭いせいだろう。
「こちらこそ、招待してくれてありがとう。勝手に彼も呼んでしまって申し訳ないね。まさか名探偵が必要になるとは思ってなかったから、結果的には万々歳ってところだろうけど」
あまり名探偵、名探偵と呼ばれたくないものだ。くすぐったいというよりは、舌を盛大に噛んでしまったような感覚になる。
僕が話に混ざれないでいると、またもや襟平さんが続けた。
「お客さんはひとりでも多い方がいいから。むしろお礼を言いたいくらい。――舞台の上からも、見えましたよ。河童場くんが、劇に夢中になってくれてるのが」
織羽くんが笑う。僕は恥ずかしくなって頬を掻いた。
「みんな帰っちゃいましたけど、いいんですか? 一緒に帰るとかしなくて……」
僕が聞くと、襟平さんはクスクスと笑う。女の子の笑顔というのは気持ちがいいものだな。
……我ながら、女性に対しての免疫がなさ過ぎると思う。笑顔ひとつで喜んでいたら、いつか騙されるに違いない。僕は襟平さんをかわいらしく感じて、女王様を美人だと思い、メガネの女性にさえ魅力を感じていた。理性的な判断および推理を邪魔するかもしれない。気をつけなければ。
「こんな状況で一緒に帰るのは気が引けるし、それに私たちは元々、あまり仲が良くないですから。……ハッキリいえば、険悪です。劇が終わったからもう顔も見たくないと、思ってた人もいるでしょう」
そこまで、か。上演中は、そうは見えなかったけれど。もしかすると、プライベートでの不仲をきちんと隠せるところまでが、役者として求められていることなのかもしれない。
襟平さんのスマートフォンが通知を受け取る。僕たち3人の視線がそこに集まり、彼女は片手ですいっとトーク画面を開いた。何かの、写真。そしてそれを見ると、襟平さんが微笑んだ。
「それは、何の写真?」
織羽くんが尋ねる。
「公演の前に、集合写真を撮ったの。昨日は準備とかで忙しかったから」
彼女が画面を見せてくれたので、僕たちは遠慮なくそれを確認する。衣装を着て、スタッフさんも交えての、写真。
「やっぱり、仲良しに見えますけどね、僕には」
「1枚くらい仲良しっぽい写真がないと、来年度以降のサークル入団者数が悪くなっちゃうでしょ?」
冗談なのか本音なのか判断しかねる調子で、襟平さんが言った。
たしかに、それもそうだ。よほど何か別の魅力がなければ、仲の悪そうなサークルに入ろうとは思わないだろう。
「その写真は、誰から?」
スマホを指差しながら、織羽くんが聞いた。襟平さんは少しよそ見をしてから、恥ずかしそうに答える。
「
彼女のハニカミ具合から何かを察したのか、織羽くんは「ちょっと待ってて」と言ってから施設を出て行こうとした。受付を通りかかるとき、彼は加瀬月さんに何か話しかける。すると加瀬月さんはこちらを向いて、何やらニヤニヤし始めた。
ふたりきりの気まずさを、劇の感想を断片的に話しながら繋いでみる。襟平さんは頷きながら聞いてくれて、なぜか感想を述べている側の僕の方が「話してよかった」と思った。
しばらくして、織羽くんが戻ってくる。彼は出口の方を指差した。
「近くの公園で、須坂くんを見かけたよ。たぶん、襟平を待ってるんだ。今日はもう帰って、ゆっくり体を休めつつ、頭の中を整理したほうがいい。明日から、色々と聞くこともあるだろうからさ」
「青春だねぇ」
もぬけの殻となったホールを見下ろして、加瀬月さんが言う。
「加瀬月さんにとっての青春は、舞台中に殺人事件が起こることなんですね」
席の間を調べながら織羽くんが言った。加瀬月さんは席のひとつに手を置いて、うなだれるようなポーズをする。
「あのふたりの話だよ。流行りの言葉でいうなら、両片想いってやつじゃないか」
「両片想い?」
聞き慣れない言葉を、僕は間抜けな声で繰り返す。そんな僕を、加瀬月さんは悲しそうな目で見てきた。
「実際は両想いなのに、片想いだとどっちも思い込んでいる状態だよ。若いのに、そんなことも知らんのか」
「加瀬月さんが変に若々しいだけだと思いますよ」
僕の言葉を受けて、加瀬月さんは舌を出す。
客席には何もないことを確認した織羽くんが、大きく伸びをした。ストレッチをしながら、次はどこを調べようかとあたりを見回す。
「やめてくださいよ、加瀬月さん。河童場くんにプチ失恋をさせないでください」
あくびまじりに、織羽くんが言った。
「あら、名探偵はああいう娘が好みだったのね! そりゃ悪いことしたな」
「勝手に話を進めないでもらえますか……」
ふたりがケラケラと笑う。僕はため息をついた。
電話の音がした。加瀬月さんが自身のポケットの中を探り、スマホを取り出して電話に応じる。内容は聞き取れない。しばらく会話が続く。
じゃあなと言ってから電話を切ると、加瀬月さんは少し考えるような顔をしてから言った。
「さて、いい知らせだ。いや、悪い知らせなんだけどな。やっぱり死んだよ、あの男。傷が深かったみたいだな。まったく、誰がどんな風に刺したんだか」
舞台に上がっていた僕は、処刑台の上に残されているナイフを手に取って観察しようとする。しかし指紋がつくとまずいと思い、手袋をつけている加瀬月さんを呼んで代わりに持ち上げてもらった。
「やっぱり、血はついていませんね。これが本物だったかもしれない、なんて考えたんですけど」
「一応、指紋チェックに出しておくか。油断した犯人が、うっかり触ってるかもしれないからねぇ」
「いえ、その必要はないでしょう。普段から使ってたものでしょうから、色んな人の指紋が検出されて、余計にややこしくなる可能性があります」
加瀬月さんは鼻から息を吐くと、切っ先をつまんでナイフをぷらぷらさせる。刃はしっかりと潰してあるから、どこを当てても切れることはないだろう。
「舞台裏ってのは、結構広いんだねぇ。隅々まで探そうとしたら骨が折れるぞ。明日からおじさんはいないから、あとはふたりで仲良く調べてね」
幕をめくりながら、加瀬月さんが言った。
「殺人事件は重大だが、警察の仕事は山ほどある。それに、こういう言い方をしてはなんだが――死んじまったもんはどうしようもない。いくら騒いだって、事件をなかったことにすることはできないからね。
そして……悔しいが、面倒な事件を解決するだけの知恵は俺たちにない。君たちが犯人を暴いて、それを捕まえるのが俺の仕事だ。歳上の氷堂さんならまだしも、自分より歳下の男を頼るのは情けないが、よろしく頼むよ。危険だと感じたらすぐに呼んでくれ。探偵が命を張る必要はないんだから」
妙に真剣な口調だったので、僕と織羽くんは思わず顔を見合わせる。お互いに、こくりと頷き合う。
「ところで、名探偵は河童場くんだとしたら、君の立ち位置はいったい何なんだい?」
それが、織羽くんのことを差しているのは明らかだった。彼は舞台上を歩きながら答える。
「探偵の隣にいるんだから、助手に決まっているじゃないですか」
それもそうだなと言って、加瀬月さんは笑った。
「今日はもうこれくらいにしようぜ。閉館時間だけは守らないとな」
加瀬月さんが舞台から飛び降りたのに続いて、僕たちも帰ろうとドアを見上げる。何かが、見えた。
「ビデオカメラだ」
僕は加瀬月さんを追い越して、今まで気がつかなかった、客席のひとつに設置されているビデオカメラに近づく。画面を覗くと、真っ暗だった。スイッチを押すと、電池切れのマークが表示される。
「千秋楽だしね。自分たちの演技がどうだったのか、録画しておいたんだろう」
いつの間にか僕の後ろに回りこんでいた織羽くんが言った。カメラを叩いてみても反応はない。
「もしかしたら、犯行の様子がバッチリ映っているかもしれないぞ?」
加瀬月さんがドアを押しながら言った。
いやいや、そんなまさか。僕と織羽くんは声を合わせて笑う。
(転に続く)
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