君が生きたこの世界で、僕は笑う。
氷堂 凛
ありがとう
楽しそうに空で桜が舞う
今年で僕も24になる。三月に大学を卒業し、今月からは研修医として大学の付属病院へと通っている。いつまでも学問に捕らわれ続ける、永遠の囚人それが医者という生物である。
「先生……私の容態はどうでしょうか?あとどのくらい持ちますか……」
「そうですね……脳の方が、もう手遅れですので……あと二日というところでしょうか」
「ひっど~い!依緒の頭はまだまだ大丈夫です!」
「商学部のくせに卒業単位数ギリギリだった君がかい?」
「こうやって一流企業で二年も勤務出来ている時点で、頭は正常に働いているのです!」
世の中の基準で言えば、陰キャラに入る僕とは正反対の生き物。私こそがお姫様タイプの彼女こと、駿河 依緒。
同じ大学に同じ年に入学したいわば同級生ではあるが、彼女は商学部のため四年生。僕は医学部だったので六年間。つまり社会人経験では二年の差があるわけだ。
「そうかいそうかい。で、仕事はうまくいってるのか?」
「まぁね~私の美貌にかかればちょちょいのちょいよ」
「美貌かはさておき、君はそんな水商売チックな職業をしているわけではないだろう?」
「さておきってなによ!そんなことガールフレンドちゃんに言っちゃっていいのかなぁ?」
弁明の言葉を求める彼女。主観的に観ればかなり可愛いとは思うが、客観的にみれば一般水準のOLだろう。
「で、わざわざ仕事の休憩時間に会いに来てなんのつもりだい?」
「え?いや~、ほら。研修医になってから、和くんと全然会えてなかったし……その、まぁ私はうさぎさんのようなものだから……ん~伝われ、このガリベン!」
「うさぎさんか……伝わらないガリベンでどうもすみませんね。でも、そんなガリベンに惚れたのはどこの誰だい?」
「いじわる!もうしらない!じゃあね」
「あぁ、またね」
あからさま、大きな足音を立てて、彼女は大学病院の裏にある桜の木の下のベンチから姿を消した。
研修医が始まってから、座学とは違い様々なことを学んだ。それをはやく習得したくて、通勤の時間すら惜しいくらいに参考書とノートを読み込んでいた。
その副作用だか、彼女へ構ってやる時間が無かったのは確かだ。
「はぁ……女心だけは苦手部門だ……」
大学の必修科目にでもしてくれればよかったのになぁ。
「……脳死前の臓器移植?」
現在時刻は23時を少し回ったところ。PCでいつものように医学論文を読み漁っている所。非常に興味深い論文を発見した。
「…………」
その内容はあまりに衝撃的なモノであった。ただ非現実的で、非効率である。現代の医学界では、幸いなことに臓器提供を進んでしてくれるドナーさんだっている。この方法を使うことはまずないだろう。
明日は、重要な医学研修がある。
電気を消し、いつもより早めに眠りについた。
「片山君……わかるかい。これが、臓器移植だよ」
たまたま、この病院で手術を行っていた有名医師の技を現在見学している。
研修医にはもったいないくらいの貴重な体験だ。
「滞りの無い切除術。そして、そこから閉じるまでの時間……まさに医学の魔術師……」
「医学の魔術師か。でも君はそんな魔術師に認められた若手のホープなんだよ。期待しているよ……私が病気になったら君に主治医になってもらうよ」
控えめな笑いを浮かべて病院長が手術監査室から出て行った。
病院長は、かつては名をあげた外科医だったが、今は年齢を重ね、患者になってもおかしくないくらいの年だった。
もう一度、手術監査室の扉が開く。
「あ、そうそう。昨日興味深い論文を読んでね。君にも是非とも読んでおいてほしいのだが」
「と、いいますと?」
「脳死前の臓器移植についての論文でね。タイトルこそいたって普通だが、内容があまりに残酷でね。法に触れる可能性だってあるくらいさ。あんな方法を使う機会はコンマもないだろけどね」
昨晩読んだ論文だ。
「はい、実は……昨晩既に読みまして、僕自身もかなり衝撃をうけました」
「ほぉ。すでに読んでおったか……それなら良い」
ただそれだけを告げ。彼はその後この部屋には戻ってこなかった。
今日の医学実習と手術観察の様子を思い浮かべながら家路を急ぐ。
「ただいま」
誰もいない部屋。ただ、ぬくもりを求めているのか、昔のなごりなのかは分からないが、無意識に口から言葉が溢れる。
暗闇の中いつものようにソファーへと腰を掛ける。
「えっと、パソコンは……」
いつも置いているソファーの端の方へと手を向ける。
「冷たいよぉ~」
「ひえ?!」
僕は焦って電気をつける。その声は決してパソコンが発したものでも、僕が発したものでもない。
「依緒……何してるんだよ……」
ストッキングを乱雑に脱ぎ捨て、生足をさらけ出したスーツ姿のOLがそこには寝転がっていた。
机の上にはストロング缶が四本。内三本が開いている。
「何って……寝転んでるの。ソファーさんに膝枕してもらってるの~」
「何いってるんだ、この酔っ払いが」
ストロング缶を三本も飲めば酔っぱらうのは当たり前だ。アルコールに強い人間なら、なんてことはないのだろうが。彼女はいかんせんアルコールに弱い。
そして、彼女はまた寝息を立て始めた。
「まったくもう……」
普段の定位置を奪われ少し不機嫌ではあるが、ベッドへと移動し、いつものように論文を読み始めた。
昨日しっかりとパソコンは閉じていたはずだが、何故か昨日の非現実的な論文が、画面には表示されていた。
気づけば日付を越えて既に一時間が経とうとしていた。
今日読んでいたものは実に内容が濃く、まるで大好きな作品に出合った中学生のように何度も読み返してしまった。
リビングへ行くと、まだOLは眠っていた。
「はぁ……なんてやつだ」
文句を言いながらも、彼女が散らかしたお菓子のゴミや空っぽになったストロング缶を始末する。別に潔癖症というわけではないが、ゴミが散らかっているのだけは落ち着かない。
最後にどう始末すればよいのかよくわからないストッキングを取り敢えずたたむ。
「ん?破れてる……」
その瞬間僕の腰に左右から温かい彼女の手がまとわりつく。
「私をもっと愛してよ……」
顔を見る。
どうやら寝言のようだ。
ただその一言が僕の心に突き刺さった。
「愛してる、人類の誰よりも。医学よりも愛してる」
寝息を立てながら涙を零す彼女へ、そっと言葉を投げた。
僕はそのままベッドにはいかず、彼女の隣で眠りについた。
「ん~頭が痛い……えっと、私は……何を?……で、ここは?」
「起きたか眠り姫。もう朝だぞ」
「もう朝~?…………っと、和君?!」
何に驚いているのか、ソファーの上で女性特有の正座を崩したような座り方をする。
「え……えっと、これは……私はどうしてこんなところに?」
「こっちが聞きたいですな。僕が帰ってきたら、ストロング缶を飲み散らかして君がいたんだから。その様子じゃ、大方飲んだ勢いで、この家へ転がってきて、さらに飲み続けたというわけだろう」
昨日の様子から察することはできた。これもすべて、構ってやらなかった俺の責任……というわけか。
「さぁ、朝ごはんだ。朝は栄養に気を使わないといけないんだからな。毎日菓子パンの依緒には丁度いいだろう?」
日本人の典型的な朝ごはんを用意する。二日酔い対策のしじみ汁を添えて。
それでも尚彼女はソファーの上で固まっている。
「早く食べないと遅刻だぞ?今日は金曜日、明日から休みだろ?」
「休みだけど、することないし」
「そういえば、僕も日曜日は空いてたんだっけな」
目が変わった。
「日曜日絶対空けといてよね!久しぶりに和君のおごりでデートしてもらうんだから!」
「はいはい……」
とにかく、奢りという点だけが引っかかるが、彼女の機嫌が直ったなら、それが最善策だったというわけだ。
「じゃ、いってくるよ。鍵はしめるんだぞ」
「ほ~い!あ、日曜日は絶対デートだからね!約束だよ!」
僕が先に家を出た。当然かのように彼女は、スーツへと着替え、ダラダラと過ごしていた。
「出勤時間が遅いっていいなぁ……」
医者を志すことにおいての一番の難点だ。
僕は如何せん早起きが苦手だ……
陽はどんどんと地平線に近づき、空が朱く染まり始めた夕方。
『緊急入電!荷作商店街で大規模な爆発事故発生!多数の受け入れ要請』
病院内は大パニックを起こす。緊急時には研修医だって、一人の立派な医者として扱われる。患者の命がかかっている時には医者も研修医も関係がない。
とめどなく救急車が到着する。
その中にはもう既に心肺停止している方や、脳死状態にある方もいらっしゃった。
「片山!骨髄バンクに緊急連絡を、一名心臓移植の急請」
「わかりました!」
爆風で飛ばされたガラス片が心臓を貫通する形で突き刺さっている患者の姿がそこにはあった。まだ若い高校生くらいの少女の姿だった。
「骨髄バンクから連絡……データに適合する個体なし……」
「なんだって?!親族は!」
「消防庁からのデータによると……従姉が一人、それ以外は既に亡くなられているようです」
「看護師!すぐに従姉を呼び出せ。片山は次の患者を!」
「わかりました」
商店街の付近にある大きな病院はここだけ。僕たちが受け入れを拒否すれば命を落とす患者がきっと出てくる。
「我慢してください~。一気に抜きますからねぇ。せーの」
目の前の患者の腕からガラス片を引き抜く。出血がひどい。看護師へと受け継ぎ、止血処理をしてもらう。
「片山!緊急手術だ!医者の手が足りん!これもひとつの研修だ!お前ならできる!早く来い!」
手が震える。人生初めての執刀。その責任と、プレッシャーはかなりのものだ。『失敗』という二文字が大きく立ちはだかる。
「はやく手術室へ!急を要する!」
命を救うため、自分を鬼にしてこの世界へと進み、いままで努力を重ねてきた!ここで怖気づいてどうする。男だろ片山和希……さぁ立ち上がれ!
自問自答するように、自らを奮い立たせ、手術室へと、足早に駆けた。
仲の良いベテラン医師と手術室の前で鉢合わせた。
今回の緊急オペは先ほどの少女のモノで、移植手術が故、二人の医師を必要とする。ドナーの担当が僕で、移植先の少女をベテラン医師が担当する。
「ドナー見つかったんですね」
「片山……今回の手術なんだがな」
僕の言葉はそっちのけで、彼は話はじめた。
「ドナーがまだ生きているんだ」
「……といいますと?」
「簡単に言おう。お前が、ドナーの息の根を止めるんだ。ドナーの彼女も事故に巻き込まれた被害者なんだがな、はっきりいってもう先はない。全身の細胞が壊死を始めている。で、それがたまたま少女の従姉でな、どっちも助からないならば、どちらかだけでも助けよう。そういう苦渋の手術だ」
「そんなのって……」
「お前は二つの命を落としたいのか?」
「それでも、まだ生きているなら可能性はあります」
生きていれば未来はある。
「コンマゼロに近い可能性を信じるのが医者の役目か?救える命があるならそちらを優先するのが医師の役目だ。辛いかもしれない。けど、心を鬼にしろ。医学が難しいのは自分にストイックになれるかどうか、そんな適合審査の意味も含んでいるんだよ。それを通過してきた、お前なら出来る」
納得がいかない……でも、彼のいう事は正しい。
こんな悲しい決断を下す運命ならば医師なんてめざすんじゃなかった。
でも、この夢を応援してくれた人がいた。それに、僕は一人でも多くの命を救うためにこの世界へ飛び込んだ。それならば、こうなることだって想定できたはずだ。
医師への大きな関門に自分は立っている。この壁を乗り越えなければ、医師には到底なれない。依緒の顔が脳裏にうかんだ。彼女はきっとこんなことで悩んでいる俺を殴るだろう。他人の意見じゃない。自分の信じたことをやれって……
「……わかりました。僕が担当します」
手術着を着て、手術室に入る。
そこには血まみれとなったスーツ姿の女性がいた。
「バイタル安定してます」
麻酔科医が声をあげる。
その瞬間ドナーの顔が視界に入り、僕は思わずメスを落とした。
「嘘だろ……」
「……先生?」
麻酔科医が僕に声をかける。
「そうか……この患者は…………」
助手の医師が何かに気づいた。
そこに血だらけで寝そべっている彼女は、今朝笑顔で会話を交わした依緒そのものだった。
「君の彼女さんだったな……」
『君が息の根をとめるんだ』
その言葉が嫌という程、脳内を反響する。
「片山君。時間がない。辛いのは分かる、でももう彼女は死んだも同然だ。あの少女を救うためには君が切るしかないんだ」
「僕には切れません……」
手の震えが止まらない。心なしか、自分の体温がどんどん下がっている気がする。
「片山君!君はそれでも医者か!男か!」
五月蠅い……五月蠅い……
「まだ、患者は生きているんですよね。だったら、延命措置をしないと……」
「片山君!いい加減にしろ!現実をみろ!脳死・心肺停止こそしていないものの、これだけ全身の細胞が壊死してはもう生きられない!腐っても医者ならそれくらいわかるだろう!!!」
「わからないわからない……だって、彼女は……依緒はまだ生きているじゃないか……」
生きている。心臓だって、脳だって動いている……
だって、今僕たちがしようとしていることは、まさに論文でよんだ非現実的で非人道的な『脳死前の臓器移植』そのものじゃないか。
どうして……どうして……
「片山ぁああああああああああああ」
頬に衝撃がはしる。
「これをみてもまだ、お前は執刀しないというのか!!!!」
『臓器提供意思表示カード 駿河依糸』
「彼女が運ばれてきてすぐ、ギリギリ手足が生きていた時に彼女が書いたものだよ。最後の命を振り絞ってね、従姉の少女にって……そして、君を執刀医に指名してね……」
そのカードに書かれた『駿河依糸』という名前に涙が止まらなくなった。自分の名前もロクに書けないくらいボロボロになってまで、自分のことより他人を心配する。彼女らしいそのカードに僕の心は揺れた。
「だから、片山君。君が切るんだ。彼女の最後の望みを叶えてやったらどうだ!!」
涙は頬を伝って、まだ地面へと零れ落ちる。
「依緒、依緒、依緒依緒いおぉおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
普段は控えめでおとなしい僕の姿からは想像もできない程、野獣のように吠える。熱い涙が頬を伝う。彼女だけは守るそう誓った僕の心が何かを突き動かした。
「さぁ、片山君……はじめよう」
涙を流したまま、僕はメスを握った。視界は良好とはいいがたい。でも拭いても拭いても涙は止まらない。こんな運命……受け入れる以外に処理する方法はない。僕の心がどうなったっていい。ただ、最後に彼女の願いを叶えたい。その一心が僕を動かし続けた。
メスを入れ、腹を割る。
心臓はまだ元気に鼓動を波打っていた。全身の細胞が壊死しはじめているとは到底思えない程綺麗で元気な心臓だ。彼女の綺麗な心が宿っていたその場所なのだから綺麗なのは当然のことなのかもしれない。
その心と体を繋げているモノを、一つずつ丁寧に離していく。
その様子は、まるで彼女とお別れの会話をしているようで、寂しかった。切除するたびに心臓は弱まる。
そして、完全に胴体と、心臓を切り離し、彼女の息の根を止めた。
腹を閉じ、無事手術を終えた、心を失った彼女にはまだぬくもりがあった。顔を覆っていた布をとり、彼女の顔を見た。もう心臓はなく、空っぽになったはずの彼女の腹部から鼓動が聞こえた。
涙が滲む。震える声で言った。
「君らしい綺麗な心臓だったよ。でも、どうしてあっさりといっちゃうかな。日曜日デートするんじゃなかったのかい?もっと、君といろんな所に行きたかったよ。そして、ベロベロになるまで飲んで、もっと愛し合いたかった。君のぬくもりに触れたかった」
それに返事するかのように、彼女は僕に向けて微笑みかけ、口を動かした。
「和君と過ごした日々は、幸せでした」
僕の目からはついに涙が溢れだす。
最後の最後まで依緒にかまってやることが出来なかった。自分は医学をとってしまった。彼女に幸せなんて与えることが出来なかった。それでも、僕の最愛の人だった。僕の脳は医学に染まっても、心は彼女に染められていたままだった。なくしてから気づくことがある。そんな名言を今初めて実感した。この想いは永遠に忘れない事だろう。
それを最後に彼女からぬくもりは失われ、もう二度動くことはなかった。
「和兄ちゃん~!」
また春がやってきた。
「おやおや、元気だねぇ~」
僕は一人の少女を連れ、桜が綺麗に映える墓地へと来ていた。
今日はあの日から一年。墓参りには度々来ていたが、今日はあの日の返事をしにきた。
「依緒。君の命はまだこの少女のなかで生きている。そして、君の想いは僕が引き継いだよ。最後まで僕の事気にしてくれてありがとう。僕だって、依緒といた日々は幸せだったよ」
手術後のぬくもりは僕の勝手な妄想だったのかもしれない。でも、それでも嬉しかった。君が僕といて幸せだったといってくれたそのことが。ありがとう依緒。
そこにある、彼女のような堂々とした石にむかって笑う。
返事をするかのように、風が吹き、僕の鼓動は一段と大きく脈を打った。
君が生きたこの世界で、僕は笑う。 氷堂 凛 @HyodoLin
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