走る。人間として基本的な動作。それを極めるのが、短距離走。


 いつからそれに夢中になっていたのかなんて、もはや思い出せない。物心ついた頃から、俺は走っていた。走ることは人生の一部であり、根源的な欲求であり、そして生きる糧でもあった。


 そしてその世界には、つかさがいた。詞といつ出会ったかなんてのも、思い出せない。ただ確かなのは、詞はいつの間にか俺のそばにいて、そして俺たちは共に走っていたということだった。気がつけば同じ舞台を目指し、そこで決着をつけることが俺たちの約束だった。


 だが、約束は必ず守られる訳じゃない。それは時として本人の意思とは無関係に実現不可能に追い込まれる。走るには足が必要。そしてその足を奪われたなら、それは達成できなくなる。骨癌という病が詞の足を奪ったのが、一年前の夏。そして命を奪ったのが、三ヶ月前だった。


 俺はそれ以来、走る意味を見いだせなくなっていた。なんの為に走っているのか、走り続けているのか。物心着いた頃からの習慣に、意味を求めることがどれほど難しいことか。呼吸に意味を見いだせるか、寝ることに向上心を持てるか。俺にとって走るとはそういうことだ。後天的に何か意味を持ち出して取り組むことのほうが、よほど偉大なことに思う。実際、俺はそれを見つけられずに、ただ呼吸をするように、走り続けている。



 夜のランニングから帰ると、敷居の塀に昴が寄りかかっていた。薄いTシャツ越しに主張する女としての体が、薄暗い中でも嫌に目立った。それくらい時間が経っている。俺にも、こいつにも。


「どうした、まだなにか用か」


 昴は俺を認めた後も、俯いている。その視線の先にあるのは、ひび割れたアスファルトだけで、なにかがあるようには思えない。よく見れば、後ろ手にしているのは、一冊のノートだった。


「連絡をくれれば、取りに行くよ」


 彼女が姉を追うようにして入部してから、毎日つけられているそれには、俺たち陸上部の詳細な情報が記されている。それに助けられた部員達も多いだろう。物事の上達には客観的な目線も必要になる。そうしてスランプから救い出された奴もいる。だがそこに、今の俺を立ち直させるものは書かれていない。


「説教なら、読んでから聞く」


 俺は手を差し出した。できることなら早く話を切り上げたい。しかし、それが俺の手に渡されない。渋る彼女の真意が、まるでわからない。


「なんだよ」

「小説を書いてたって、私、知らなかった」


 彼女はその視線の先にこぼすように言った。主語がなくてもわかる。それは詞のことだ。


「一応、聞いてる。読んだことはないが」


 手術で足を無くしてからの詞は、まるで何かに取り憑かれたかのように創作活動に没頭した。俺にはそれが、この世に何かを残していこうと必死に足掻いているように思えて、それに触れることはしなかった。


 ――切除したんだ。これでもう心配ない。


 詞のその行動は、俺にはその言葉を否定するかのように思えた。そしてその予感は的中した。最悪の形で。


「私も、読んだことなかった。読もうとしなかったんだよ。いや、嘘。本当は、読めなかった」

「無理しない方がいい」


 肉親を亡くした悲痛は計り知れない。死した後に知らない一面を知らされるというのは、尋常ではないだろう。悲しみを受け止めるのが体なのだとしたら、その小さな器では、たちまち溢れてしまうだろう。お前まで、壊れる必要はない。


「でも、それじゃダメだと思った」


 意を決したように、俺の前に差し出されたノートは昴のものではなかった。


「読んだのか」


 表紙に書き殴られた筆跡は、詞のものだった。おそらくその中身は、詞の残した、作品達だろう。


「部屋に戻ってから読んで。多分、葵の」


 昴の言葉はそこで切れた。雫が二つ落ちるのを見て、俺の体は動かなくなった。半端に伸ばした手は、立ち去る彼女の何かを掴むことはなかった。もう片方の手には、詞のノートが残された。

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