空に走る

ゆあん

 夏が嫌いだった。


 陽炎かげろうがタータンのコートから立ち昇り、肌を焼いていく。目前一◯◯メートルの目標が、幻想のように遠くで揺れている。額から滴る汗は一瞬のシミを作ったあと、すぐに姿を消し、不快感だけを残していった。


「On your mark」


 誰かが言った。一列に並ぶ者達が一斉に腰を上げる。何度も繰り返された儀式によって、鋭敏化された感覚が呼び起こされていく。それが深まるにつれて、音が遠ざかっていく。静寂の中で聞こえるのは、己の鼓動と、血液の流れ。外界に向けられた聴覚は、ただ一つの合図を待った。


 刹那、空砲が鼓膜をつんざいた。その瞬間、血液が沸騰するかのように、体は弾けた。ストッパーを蹴り飛ばし、目標へ向かって駆け出していく。


 何度繰り返されたことだろう。風を体で切りながら、そんな事を思った。この儀式めいた全力疾走に、いったいなんの意味があるのか。あの白線の向こう側に何もないことはもう知っている。それでもこの体はそこへ向かい生命力を削っている。


 歪む視界の外側に、後輩の姿が見えた。そしてその体は、俺より先に白線の上を通過していった。


 膝に手をついて、呼吸を正した。心臓が苦痛を訴え、いくつもの汗が水滴となって日陰にシミを作っている。暑い。苦しい。なぜこんな苦行を猛暑の中やらねばならないのか。


 苦悶くもんに歪んだ顔を上げれば、後輩が手を天空に向けて喜びをあらわにしていた。俺よりも早く白線を踏めたことが嬉しいらしい。


 一方の俺は、なんの感情も湧いてこない。それよりも早く、この地獄のような環境から開放されたかった。体は自然と更衣室に向かっていった。真夏の沸騰する熱気の中、俺の気持ちだけが冷めきっていた。


「もっとやる気だして下さいよ、あおい先輩」


 マネージャーのすばるが、タオルを投げつけながら言った。俺は返事をする代わりに、顔を拭った。


「タイム、全然伸びてないじゃないですか」

「そうだったか?」

「前回よりも。もっと言えば昨年からも。明らかにタイムは悪くなっています」


 眼前に記録表とストップウォッチが突き出される。その数字の羅列を見ても、なんの感情も湧いてこなかった。末尾二桁の数字が以前よりも大きいことだけを認識した。


「スランプなんだよ」


 吐き捨てながら靴紐を結び直した。タイムが伸びないのは道具のせいではない。着用感が悪い訳でもない。何かがある度に靴紐を結び直すのは、緩みきった感情を閉め直したかったからかも知れない。


「スランプ? 何いってんですか。言いましたよね、やる気だして下さいって」

「あ?」

「最後。手を抜いたでしょ。もっと粘ろうと思えばできた。でもそうしなかった」

「そんなことは、ない」

「私の目が誤魔化せると思ってるんですか? そういうところ言ってるんですよ。やる気だせって」


 昴が見下ろしている。影になったその表情は見えないが、それに侮蔑が含まれていることはわかった。


「うるせぇよ。俺は俺なりにやってる。それで結果がでないなら、それまでだ」

「それ、つかさの前でも同じこと言えるんですか」


 その言葉を聞いた瞬間、俺はその胸元に掴みかかっていた。凄みを込めて睨みつけても、昴はただただ俺を見つめるだけだった。


「あいつの名前を出すんじゃねぇ」


 破裂するようにせり上がってきた怒りの感情は、その瞳によって一瞬にして氷のように冷めていった。俺は昴を乱雑に、だがその華奢な体を突き飛ばさない程度に振り払った。


「先輩、これだけは言わせて下さい」


 その目が俺を追求する。


「苦しんでるのが自分だけだと思ったら、大間違いですよ」


 こういう目は苦手だ。たいてい次には、致命的なことを口にする。それがわかっている俺は、背を向けた。


「少なくとも、詞はそんなこと望んでない」


 俺は無言で歩き出した。それが俺の応えだった。しばらくして振り返れば、地面に落ちたタオルを拾い上げ、立ち去る昴の後ろ姿が見えた。

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