春夏秋冬
羽衣石ゐお
夏
一
「日本は素敵な国だよう。おおかた一年に四回も姿を変えるんだから」
それは年配の教授の口癖だった。私は「夏」という季節が嫌いであった。なくしてしまいたいといつも思っていた。
「先生、余談が過ぎますよ。授業に戻ってくれませんか」
私はいつも通りそう言うと、彼もいつも通り手をひらひらと躍らせながら、はいはい、と黒板の方へ向いてチョークでひとしきり数式を書き連ねると、途端――こちらをちらと顧みて「ええと、デバイ―ヒュッケル式はログ……ログ……」と溢した。「γですよ」私がそうつっけんどんに返してやると、ああ、と詰まらないといったふうに頷いて板書に戻った。
私は前から三番目の席だというのに声を掛けられるのは、いつも通り皆が昼下がりの猛暑に包まれて、あまりの気怠さに机に崩落してしまったからである。エアコンは学生課によって設定温度を管理されていた。やれやれと一息。書き終えた数式と、教授の連ねてゆくのを見比べながら、私も熱気の中に引きずり込まれそうになっていた。
「はい、みんな正解していたかなあ」
彼は右手を挙げながらそう言うと、すぐにやるせない表情に歪んだ。きっと碌に挙手した学生が居なかったのだろうと考えられる。やがてデジタルベルが授業の終了を告げた。
――ああ、夏もこのように機械の一声で移ろってしまえばいいのだ。
〇
図書室はいつも貸し切りのようであった。借りてゆく人は多かったが、図書館に留まる人はかえって物珍しい。殆どの学生が下の階のリラクゼーションスペースでがやがやとお菓子を摘まみながらテキストを肘置きにスマホを弄っているのであった。
私は一人掛けの学習スペースで、分析化学のテキストを開いて予習をしていた。実に静かである。遮光カーテンから時折日光が漏れ出して、手の甲を真っ白に覆っていた。エアコンの効きは良かった。……図書館とは森である。独特の本の香りが立ち込めていて、そこに頁をめくる音ばかりが良く響く。
……否、そればかりではかった。
ぐいっと日向に引きずり込んでしまいそうなほどに溌剌としていて、そしてその日向よりも明るく、身体の中まで揺らすような旺盛な鼻歌であった。迷惑なやつだ。――それが近づいてきていた。どこまでか? ――耳元までである ――。
「何か用かね」
私は不機嫌そうに顔を向けてやると、柑橘が香った。白のワンピースをちらちらと泳ぐ日光に目が眩んだ。
「あたしとさ、ちょっと付き合ってよ。――散歩に」
そう言って彼女はこちらに微笑みかけてきた。まさに、「夏」という季節にふさわしいものであった。
春夏秋冬 羽衣石ゐお @tomoyo1567
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