幸せを味わえ

 ガタン、と。ドアの閉まる音が静寂しきった室内に響く。

 その音に黒髪の少女は反応した。


「はぁ……君が来るということはミカエラかセシリアのどちらかが一緒にいると思ったのだが……想像とは所詮予想の範疇を超えないのだな」


 広々とした部屋で紅茶を啜る少女。

 聖女服を身にまとい、気品溢れる所作で嗜んでいた紅茶をテーブルに置いた。


「残念ながら、今セシリアとミカエラは取り込み中なんだ。悪いな、来客が俺だけで」


「全くだ。これでは多めに作っておいた紅茶が無駄になってしまった」


「それは悪いと思ってるよ。せっかくだし、一杯いただこうか」


 少女───ミーシャは嘆息つきながらも立ち上がり、側に置いてあったカップに紅茶を注ぐ。

 その姿を見て、現れた少年はそのまま対面のソファーへと腰を下ろした。


「私は紅茶を淹れるのが好きでね。姉妹揃っていた時はこうして私が淹れていた」


「そりゃまた、随分なご趣味をお持ちで」


「初めて飲んだ紅茶が印象的だった。あのような紅茶を自分も───何て思っていたら、今では皆に淹れるのが私の楽しみになってしまっている」


 そう言うと、白髪の少年───ユリスの目の前に紅茶が置かれる。

 ユリスは「いただきます」と小さく口にすると、ゆっくりと啜った。


「美味いな……」


「それは何より」


 穏やかな空気が流れる。

 ミーシャはユリスから言われた言葉に笑みを浮かべ、ユリスは紅茶の味に満足している。

 入るまでの光景が嘘のようだ。今頃、友人達は拳を握りしめているというのに、この部屋だけは先程までのやり取りを忘れているかのように思えた。


「生きていれば、こうした味を味わえることもできるだろう」


 ミーシャがゆっくりと紡ぐ。


「こうした味を、皆で分かち合うこともできる。横に誰かが座り、共に味を噛み締め、味を絶賛し、笑い合う。君の隣にセシリアがいるかもしれない。他の誰かかもしれない。それでも、幸せだと思った瞬間を味わえることができる」


 ミーシャは啜っていた紅茶を地面に置く。


「君に限った話じゃない。セシリアが、ミカエラが、君を慕う人間全てが、君と過ごすという幸せを味わうことができる。それは、君という存在が隣にいるからに他ならない」


 ミーシャは真っ直ぐにユリスの瞳を覗き込む。


「食事に限った話ではないだろう。どんな些細な、大小問わずの幸せは生きているからこそ誰もが味わえる。味わえることを当たり前だと思っているのなら、それは考えを改めた方がいい───世の中、味わえない人間もいるんだ」


 己はそれを見てきた。

 聖女だから、聖人として世に降り立ったから。

 世界を練り歩いてきたから、その言葉の重みはミーシャにしか分からない。


「だからこそ、味わえるのであれば味わっておけ。幸せを享受しろ。誰かの幸せを奪うな。君が否定している幸せは尊いものだ────君は十分救ってきただろう? ならば、幸せを味わう権利は存在する。存在するのであれば、手に取って味わえばいい────」


 それが、君の人生の救いになるのだからと。

 ミーシャは同情や哀れみを誘わない透き通った瞳でそう語った。


 ミーシャの言うことはこの場に来るまでに出会ってきた者の代弁とも言える言葉だ。

 救ってきたからこそ、ユリスには救われてほしい。

 生きている方が色々な幸せを味わえる。誰も責めたりしない。ユリスがいなくなってしまえば、誰かが不幸になってしまう。悲しむ人間がたくさんいる。


 そのことを────ユリスはしっかりと理解している。

 だけど、それでもこの場にいるのは────


「俺はさ……強欲なんだよ」


 大罪を極めた人間だ。

 愚かで矮小で、救いようがない……少年なのだ。


「どれも手に入れたい。全てを味わいたい。お前が思っているような幸せも、これから起こるであろう救われない人間も、全てを己の手に収めたい。一個でも拾い落としてしまえば、きっと俺はどこかで後悔する」


 例えば、食事をしている最中に親しい人間が傷ついたとする。

 そうなれば、幸せを享受している自分は「助けられなかった」と後悔をしながら食事を続けてしまうことになるだろう。

 食事という幸せを選んだからこそ、救いたいと思う心が潰されてしまう。


 一個でも逃してしまえば、後悔というものは必然的に訪れてしまうのだ。

 全てを拾うというのは無茶だというのは分かっている。人一人の手で拾えるものは限られていて、百手観音のような手があったとしてもあまねく世の中に広げることはできない。


 でも、それでもだ。

 可能性があるのであれば拾う。

 拾いたいと、思い続ける。


 それが────強欲。


「後悔するなら、俺はその選択は選ばない。俺が俺でなくなるのなら、不幸を受け入れる。この信念で誰かが不幸になったとしても、俺は土下座してでも俺であり続ける」


 ユリス・アンダーブルクという少年なのだ。


「……その考えは、否定しようがないだ」


「それも俺だ。決して強欲だけじゃない」


「君は、幸せになろうとはしないのか?」


「生憎と、俺は怠惰でもあるんだ────幸せになろうとは考えないよ」


「そうか……」


 ミーシャはゆっくりと目を伏せる。


「セシリアが可哀想に思えてくる……このような聞き分けの悪い少年を好きになったのだから」


 すると、徐に腰を上げた。


「このような押し問答はお終いにする」


「……そうだな」


 ユリスも、同じように立ち上がる。

 そして────


「……こんなにも複雑な救恤は初めてだ」


 ミーシャが、テーブルを蹴りあげた。

 その瞬間、ユリスは拳を構えて突貫する。

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